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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

「どさ?」「江戸さ」中

「どさ?」「江戸さ」中

(物語はトモ造一家が江戸に戻る少し前から始まる)
藩主・信明の喪も明かぬある日、松木直之進は側用人・河合正衛門に呼ばれていた。
松木は江戸から戻って以来、城中お庭番として藩主と直接話す機会を得ており、その内密の命を受けて藩内の実情を探る任についていた。
この密命の部分が脚色されて御庭番=忍者と言うことになっている時代小説もあるが、実は河合が江戸勤めで松木の才を知り、この役職に推挙したのだった。
「松木、ソチを今回の件の説明役として江戸へ赴かせることになった」「はは」松木は両手を畳につけたまま頭を下げる。
ここで河合は視線を動かして辺りの気配を確認した後、松木に声を掛けた。
「近こう寄れ」松木が顔を上げると河合は顎で招いている。その視線は半間(約九十センチ)向こうを示しており、松木は拳で畳を押しながら居ざるように前進した。
「ソチも知っておるように江戸表では今回の黒石殿の末期養子に反対して公方様(将軍)の御子を養子に迎えようと公儀(幕府)に働きかける動きがあった」その話は藩主・信明が病に倒れた直後、子のないことに不安を感じた河合ら重臣が黒石支藩の津軽寧親を養子に迎えるように動いているのをよそに江戸表では、寧親が信明よりも6歳年上であることなどを持ち出して反対し、15歳から子作りに励む将軍・家斉の子を養子に迎えようと画策していたのだ。
「しかし、江戸表は何ゆえに?」若い松木にも血統を重んじるこの時代、当主に後継ぎがいなければ親族からという常識は判っている。
「表向きは我が津軽家の家格を上げることとしているが、それはあくまでも建て前で自分たちの御膳立てで藩主を迎えれば実権を握られると言うのが本音であろう」河合の答えは松木も考えていたことであった。しかし、前藩主が病に倒れて以降、文字通りお庭番として警護の任に当るしかなく、確認する手立てがなかったのだ。
「藩主が決まった以上、異論を唱える者が藩内にあってはお家騒動の種になる。その根を断つのがソチの任じゃ」「はは」頭を下げた松木の背中には重責が圧し掛かった。
「仕度ができ次第、江戸へ出立せよ」「しかし、河合様は?」側用人は藩主が替わればお役御免になり隠居するのが身の処し方である。しかし、英君・信明の下、天明の飢饉以降の藩政改革を陣頭指揮してきた河合は新たな藩主にも必要な人材であろう。
「ワシは半農藩士として土にまみれる。本来なら追い腹つかまつるべきところだが遺言で禁じられてはそれもならず。せめて侍としてのワシを殺すしかあるまいて」河合はそう言うと腰を浮かし膝で前に出て肩を叩いた。松木にはそれが意志を引き継ぐ所作のように感じられた。

トモ造一家は江戸に戻ってキヨ助親方の家に移り住んだのだが作業場の土間の奥は上がり端(はな)の板の間で、その奥に2部屋があり片方にトモ造とケイ、マイが寝て、もう片方に母が寝ている。仕切りは襖1枚だ。
「お前さん・・・」マイが眠ってケイが待ちきれないようにトモ造にすり寄ってきた。
「おケイ・・・」トモ造も「待ってました」と抱き寄せる。和服と褌はパジャマにパンツではないので片手で裸になれ、その準備は完了した。
「最近、御無沙汰だよ・・・」「うん、俺っちもソロソロ鼻血が出そうだぜ・・・」そう言うとトモ造はケイを抱き締めた。
口吸いを交わしながらケイの着物の前を開くと白く豊かな乳房が現れる。
「ゴクッ」それを月明かりに見てトモ造は生唾を飲んだ。
津軽から江戸への長旅の疲れも徐々に癒え、そろそろ体調も整ってきている。そうなればトモ造とケイは若い夫婦なのだ。
ケイは隣りで寝ているマイの様子を確かめた後、下から両手をトモ造の肩にかけて迎え入れようとする。母の部屋も先ほどから静かになっていて眠ったようだ。トモ造の頭の中でゴング代わりの鐘が鳴った。
「ゴホンッ」その時、隣りの部屋で母が咳払いをした。障子1枚では音は筒抜けである。トモ造はケイの上に「ガクリ」と頭を落とした。

夕食時、ケイと母が料理を運び終わり、飯を盛ると愚痴にも似た相談を持ち出した。
「オトウの墓は津軽に置いて来てしまったからお参りは困るんだよォ」ケイと母は朝、夕に井戸端で太陽を横顔に浴びながら津軽の方向を見て手を合わせているが、やはり祈りが届かないことを心配しているのだ。
この時代、地方では山奥や川辺にあるサンマイ所に土葬を行い、村はずれに墓石を建てて参るのが普通であった。一方、江戸では火葬はまだ割高で寺や墓所に土葬を行うようになっていたが、こちらも墓参が一般的である。
幕府が切支丹禁制の施策として進める寺請(てらうけ)制度で佛壇も徐々に普及していたが津軽にまでは普及していなかった。
「そうだなァ。よし、1つ文台寺へ行ってテンジンさんに相談してこよう」トモ造はテンジンを思い出して母子の顔を見回した。
「テンジンさんかァ」「テンジン様かァ」母子は揃って返事をしたが微妙に違っている。
「様と呼ぶな」と言うテンジンの声が聞えたような気がしてトモ造とケイは顔を見合せて笑い、母は2人の顔を見回して首を傾げた。
「御飯まだだべかァ」手を合わせくたびれたマイが声をかけてきたが、その合掌した姿に両親はまた笑い、祖母は黙って頭を撫でた。

翌日、トモ造は文台寺にテンジンを訪ねてみた。
山門の周りを掃除している寺男に訊いてみると、思いがけない返事が返ってきた。
「テンジンさん?ああ、ダイクウテンジン和尚かい。墓参りなら裏手だよ」「ヘッ?」愕然としているトモ造の顔を見て、寺男は他の者に声をかけた後、「案内する」と言ってくれた。寺男は本堂裏の広い墓地の中を先に立って歩きながら話し始めた。
「そうかァ、アンタは和尚が遷化(せんげ)されたのを知らなかったのか」「センゲ?」「亡くなったのさ」「いつ?」「もう、1周忌はすんだよ」つまり平賀でトモ造の父の供養をやってくれた1年後に亡くなったと言うことだ。
「御病気で?」「いいや」「では怪我か何かで?」「いいや」トモ造の問いに寺男はハッキリ答えなかった。
やがて一般の墓地を過ぎて、裏手の森の中の卵塔(らんとう=僧侶の墓)が並ぶ場所に着いた。文台寺は江戸では古い寺なので歴代住職以外の僧侶の墓も数多かった。
「この丸い石がテンジン和尚の墓だよ」寺男は卵塔の端にある丸く大きな自然石を指した。
「これが?」「うん、テンジン和尚が川で見つけてきたんだ」トモ造はこの石が自然体のようで異彩を放つテンジンに似合っていると思った。
「テンジン和尚は曹洞宗で得度=出家しながらあらゆる宗派で修行してこられたんだが、そのことを寺社奉行に咎められたらしい。この寺も曹洞宗ではないだろう。ただ、マトモに反論しても通じる相手ではないから『侍なら腹を切るところだ』と言って食を断って遷化されたんだ」石の前で手を合わせているトモ造の後ろで寺男は説明した。
「では飢え死にですか」「そんな感じではなかったけどな」「どんな?」「毎朝、様子を見にくる若い坊さんに『腹を切るのと腹が空くのではどちらが辛いか?』って訊いて困らせていた後、『死ねば一緒じゃ』と笑って亡くなったんだよ」トモ造はダイクウテンジンの笑いながら話す説法を思い出した。
そう言えば津軽を離れたので父の弔いも遠慮する必要がなくなり、トモ造の家でも津軽のイタコからもらってきたお札が飾られて朝夕にケイとマイが手を合わせている。
本当は一度、法要を頼みたかったのだがテンジンの弔いになってしまった。

「お前さん、どうしたんだい?」文台寺から帰ったトモ造の顔を見てケイが心配そうに訊いてきた。出掛ける時にはどこかウキウキしたような顔をしていたトモ造が帰って上がり端に腰を下しても無言だった。
「何かあっただか?」ケイは足を注ぐ水をタライに汲んで足元に置いたが、トモ造は草鞋の紐も解かず何かを考えるような顔をしたままだ。
「どうしただよ・・・」「テンジンさんが亡くなったそうだ」「えッ?」トモ造に代わり草鞋の紐を解こうと前にしゃがんだケイは驚いて顔を上げた。
「いつ?」「1年めェに・・・」「病いで?」「・・・」ケイの問いかけにトモ造は正直に答えられない。寺男から聞いたテンジンの死に様はどこかケイの父親の死に重なるところがあり、それを伝えるのが躊躇われたのだ。
「それじゃあオトウの弔いをやってもらってすぐにだね」「うん、江戸へ戻ってすぐだってよ」ケイはうなづくとトモ造の草鞋の紐をほどき足を洗い始めた。
「オトウの弔いじゃあなくてテンジンさんのお参りに行かないと・・・」「うん、そうしたいな」トモ造はそう答えるとケイの手をよけて自分の足を洗おうとした。
「いいよ、オラが洗う・・・洗いたいんだァ」ケイは両手でトモ造の足を洗い始める。冷たいはずの水がトモ造には温かい湯のように感じた。
「お前さんはワの前からいなくなったりしないでけろ・・・ズッと一緒に・・・オトウはオカアを遺して逝ってしまっただ」そう言ってケイはトモゾウの足を両手で掴んだ。
トモ造はそんなケイの首筋を見下ろして両肩に手を置いた。ケイは顔を上げて目を閉じ、トモ造は身をかがめて顔を近づける、
「帰ったよ」「おカア、大根が採れたよ」そこへ母がマイを連れて帰ってきた。

「オラはどこか住み込みの仕事を探すべ」ある日の夕方、母が言い出した言葉にトモ造とケイは顔を見合わせた。
「ここで裏の畑をやっても大して仕事でねェ、こんなのはケイがやればいいだ」母はキヨ助親方の頃にはマサ吉がやっていた畑を耕し直して野菜の種を蒔いている。しかし、それは津軽でやっていた田畑に比べれば猫の額、箱庭ほどのものだった。
「江戸でなら仕事は幾らでもあるべ」江戸での無宿人検めは心配だが母は津軽でも藩作事奉行所の手形を受けており身元保証は十分であろう。
しかし、キヨ助親方が店を譲ってまで逃れようとしたように、わずか数年で街にも役人が隅々まで監視の目を張り巡らしているような緊張感が漂っている。
これはトモ造が生まれる前にあった犬公方・綱吉の「生類憐みの令」でも、始めは「むやみに生き物を殺すな」と言う教訓がいつしか動物を殺すことが罪になり、やがては頬に止まった蚊を叩いただけで島流しになるまで暴走した。
無宿人検めも同様にそれ自体が独り歩きして本来の「治安維持」「防犯」と「労働力確保」の目的を見失っているようだった。
「でも江戸の言葉さ判るだかァ?」「トモさんと話せるくらいだから大丈夫だべ」ケイの心配も母は笑って否定したが、トモ造は1人「そうかなァ」と首を傾げていた。

ケイとマイを連れてトモ造は文台寺に墓参りに行った。
墓苑を抜けて亡僧の墓に行くと若い武家が1人、テンジンの墓に手を合わせており、トモ造たちはそれを遠くから眺めていた。
武家は墓石の前に十手を置いている。しかし、袴をはかず1本差しであるところを見ると町同心であろうか。同心の身分は侍でなく足軽のため刀は護身用の1本差しのみであり、さらに袴をはくことが許されていない。ついでに言えば与力、同心は各役職にいる構成員の呼称で、いわゆる奉行所勤めの十手持ち=不浄役人と呼ばれる者には「町」をつける。
やがて同心は長い祈りを終えて立ち上がり十手を取ると、トモ造たちに気づいて怪訝そうな顔をした。その顔はテンジンに似ている。トモ造は深く頭を下げると質問をした。同心は足軽なので侍に対してよりは肩の力を抜いて話せるのだ。
「お役人様に誠に失礼でございますが、テンジン和尚と御縁のある方でございましょうか?」「うむ、そちは父を知っておるのか?」その同心はうなづいた。
町同心は南北奉行所に勤め、町与力に仕えるが、収入は2百石取りの町与力よりも「付け届け」などの副収入がある町同心の方が多いと言うのが常識である。
また町同心は1年更新で、大晦日に上役の町与力から「来年も頼む」と言われなければお役御免になる。このため公私共に必死に働き実力で世襲していた。
しかし、弘前でテンジンは元幕臣、旗本であったと聞いている。

「アッシは車職人のトモ造と申しやす。テンジン様には津軽でお世話になりまして、この度、一家で江戸へ出て参りましたので御挨拶に伺いましたら亡くなられたとか・・・」トモ造の自己紹介と説明に町同心は黙ってうなづいた。
「ワシは守野修作と申す。北町に勤めておる」北町奉行所は現在の東京駅の北側、南町奉行所は有楽町駅の南側にあり、南北が毎月交代で行政、治安維持、犯罪捜査、消防などの任に当り、非番の月は前月に担当した業務の調査、報告、記録などに追われることになる。
「それでは父上様の後を継がれて・・・?」これはトモ造が木村屋の広三郎に習ったカマカケであった。
「いや、父は大番二番組の番頭(ばんがしら)であったがワシが元服するのを待って隠居し、そのまま出家してしまったのじゃ。それを新たな上役に咎められてワシは士籍を失い、父の友人だった北町の与力に拾われたと言う訳じゃ。ハハハ・・・」修作はテンジンによく似た笑い声を上げた。
大番とは平時は江戸城の警備、戦時には備(そなえ)や騎馬隊になる戦闘員で、番頭と言えば6つある組の長で5百石取りであり、旗本の花形である。
「それはご苦労なさって」「いいや、ワシには父上のような仕事はできぬ。禄盗人(ろくぬすっと=給料泥棒)になるくらいならこの方が気楽でよい」トモ造とケイは修作と話してテンジンに会えたような気分になり顔を見合わせた。
それよりも修作は山の手(江戸城の北西側、現在の千代田区)の旗本育ちらしく、楓川と八丁堀に挟まれた下町にある与力・同心組屋敷辺りとは言葉遣いが違うように感じた。

キヨ助親方は弘前に着くと荷を解く前に作事奉行所にマサ吉を伴って挨拶に行った。
勿論、マサ吉には道すがら礼儀作法を教えたが少し心配ではある。マサ吉は妙に捻くれたところがあり武家の言葉に反論する無礼を働き、手討ちにされることもあり得るのだ。
「マサ吉、オメェに返事はねェ。黙って下を向いておけ」「何故です」「それがいけねェんだ」そこで親方は頭を拳でこずいた。
「だったら俺は店で片づけしていれば好いじゃねェですかい」「仕事でお世話になることもあるから顔見せはしておかねェと何ねェのよ」そう返事をして親方は溜め息をついた。
トモ造の素直さで売っていたであろう「車清」の看板を親方としてさらに大きくするためにもマサ吉の腕は頼りになるが、商売には心配の種だ。
何よりもこうして先に奉行所へ挨拶に行く意味を説明しても分からないマサ吉をどう1人前にするか、技を仕込むよりも難しそうであった。

作事奉行所は車清弘前支店あらため本店からすぐ近くなので、マサ吉に作法を十分に教える前に着いてしまった。
奉行所の裏口で案内(あない)を乞うと2人を中間(ちゅうげん)が庭に連れて行き土下座させ、奥から役人を連れてきた。しかし、2人は地面を見ていてその顔は見えない。
「うむ、車清の棟梁か?」棟梁とは通常、建物を建てる職人のことだがそこは気にせず親方は「はい」と返事をして深く頭を下げた。
「ソチの弟子のトモ造はよい仕事をしておった。先の殿もお気に入っておられたぞ」トモ造のことを誉められてマサ吉が頭を下げたまま唇を噛んだのが判ったが、親方はこれも気にせず「有り難うございます」と礼を言った。
「ところで隣りにおるのは誰じゃ?」役人がトモ造に聞くとマサ吉が返事をした。
「マサ吉でさァ」この役人はそれほど高い身分ではないのでキヨ助親方とは直接話をするがマサ吉がそうすることは許されない。親方はあわててマサ吉の頭を押さえつけ、自分は地面に額を擦りつけた。
「御無礼しました。こいつはトモ造の後にとった弟子でして、まだ礼儀も仕込んでおりません。何とぞお許しを」「うむ、許す」親方の詫びと弁明に役人はうなづいた。
それから役人はトモ造がやっていた仕事と津軽藩が取り組んでいる事業について説明したが、藩主が代わり今後の計画は判らないようだった。
「それではトモ造以上の仕事を頼むぞ」役人はそう言うと立ち上がって奥へ戻っていった。

「マサ吉、テメェには返事はねェって言っただろうが」トモ造親方は中間に挨拶をすますとマサ吉を殴りつけた。
「だって俺のことを訊いたんだべ」「それは俺に訊いたんでェ、オメェがいることだけ判ってもらえば好いんでェ」親方はそう答えてもう1発、マサ吉を殴った。車清本店の船出は波が高いようだ。

トモ造が江戸に戻って非常に落胆したことがあった。それは江戸に限り市中銭湯(公衆浴場)での混浴が禁じられていたことだ。
当時、普段はタライに湯をはっての行水で、銭湯は現在の大型入浴施設同様に社交と娯楽(囲碁、将棋なども楽しめた)の場であり入浴そのものがイベントだった。
特に若い男には女性の裸を直かに見られる性教育の場であったかも知れない。しかし、浴場内での性的なトラブルは公式記録に残っておらず、その意味では当時の性モラルは現在よりも良好だったようだ(かえってオープンな方が好い場合もある)。
「まったく家族風呂が楽しみだったのに津軽の温泉が懐かしいぜ」トモ造はタライに座りケイに背中を流してもらいながら不満そうに呟いた。
「ほんとだァ、あちらこちらへ行っただな・・・お山(岩木山)を1周しただよ」ケイも懐かしそうに相槌を打ったがトモ造は「手が止まってるぜ」と注意した。
「でも、お前さんはあまり長湯しないべ?」「うん・・・」トモ造もまさか「ほかの女性の裸が見たい」とは言えなかった。
松平定信の治世も4年目に入り、老中が殊更に好む厳格な規律を徹底しようと上役の顔色を伺う家臣たちが事細かなことにまで粗探しをし、日に日に窮屈になっている。
特に田沼意次の庶民を自由にさせていた放任主義を堕落と見なす定信の態度が「田沼のやったことは全て悪事」と言うことになり、最近では田沼が埋め立てた両国橋・手前薬研堀の歓楽街を取り壊し、川に戻すような愚挙まで行われていた。
ケイも前回、江戸藩邸で奉公していた時に比べ随分堅苦しくなっていることをこぼした。
「お前さん、江戸に帰ったことを悔いているのかい」「何を言ってやんでィ、俺っちは江戸っ子でェ」ケイの真意を計りながらの問いかけに答えながらもトモ造は溜め息をついた。

松木の内偵により藩主交代に関する裏工作の状況が次第に明らかになってきている。
津軽藩では飛脚・尾野のタツが弘前と江戸を往復していたが、タツを使うには江戸藩邸の上役の許可を得なければならず内密の報告には不向きだった。
そこで弘前を発つ前に河合は江戸藩邸勤めの間に使っていた猪走(いばしり)のカツと言う飛脚を紹介した。河合は内密の情報を送る役割を与えていたようだが、流石にカツは腕っ節が強く不敵な面構えで山賊や追い剥ぎなどにはビクともしない男だった。
藩主・信明が病に伏した時、黒石支藩の寧親を養子にしようと言う国元に対して、江戸表では15歳から子作りを始め、正室以外13人の側室に生涯55人の子をもうけた将軍・家斉の子をもらい受けて養子とする工作が進められていた。
そうすれば江戸藩邸重役は国元にまさる権勢を手に入れることができると言うのが実際であり、それは河合が推察した通りであった。
そしてその実行役として動いたのが勘定奉行とつながりがあった下屋敷納戸役の高野忠兵衛である。高野もまた江戸藩邸重役の顔色を伺い、その意を体するために秋沢篤之丞を使い工作活動を行っていたが、外様の小藩である津軽家では将軍の子を養子にするには家格が違い実現できなかったようだ。
「新藩主・寧親様は自分が江戸詰をしている間に陰で家臣たちがそのような動きををしていたことを知って激怒している」との河合からの書状を読み、松木は自分の報告が及ぼす結果を想い筆を止めて唇を噛んだ。
江戸表の重臣たちは情勢の変化を敏感に読み、ただ独り「藩のために」と言う頑なな意識で事実を公言している高野忠兵衛に全責任を負わせようとしている。
しかし、相手への同情で真実に口をつぐむことは武士として何よりも大切にしなければならない大義(たいぎ)に反すると思い直し、松木は実名入りで報告を記した。

翌日、松木は中屋敷での仕事を終えてから飛脚・猪走へカツを訪ねた。
夕刻なので店主は売上の確認に奥へ引っ込み、店子(たなこ)たちは店仕舞いを始めており、カツだけが松木の相手をした。
「おう、松木の旦那けェ」カツは若い松木に身分を気にせずに声をかける。これは武家に対して無礼討ちにされても文句のない態度であるがカツには相手を呑むような独特の迫力があり、松木も苦笑いをしてうなづいた。
「うむ、これを河合様に届けてもらいたい」「へい、百も承知、二百も合点、三百も判っておりやす」カツの江戸符丁での返事に松木は再び苦笑いをした。
河合は前藩主に殉ずる形で隠居を願い出ていたが、江戸屋敷勤めの間に新藩主・寧親から有能さと人望を評価され重臣に留まったのだ。
「それでは証文を書きやす」カツは松木から厳重に梱包した書状を受け取ると店主の文机から受け証文を持ってきた。
「すいやせん、いつものように河合様と旦那のお名前を書いてくんなさい」カツは読み書きは苦手らしいが、これは飛脚としては途中で読む心配がないと言う信用を得るための演技かも知れない。松木はそんなことを考えながらカツに差し出された筆で宛先の河合正衛門と差出人に自分の名前を書いた。
「へい、有り難うさんです」カツはそう言うとまた文机に行き、「猪走」と店の印を押し、日付を自分で入れて証文を手渡した。その日付も正確に月と漢数字が書いてある。
「やはり演技であろうか」松木は腹で考えていることは顔に出さず証文を懐に入れた。

「おう、トモ造親方ではないか」「あッ、これは松木様」江戸市内では往来が激しいため、武士と庶民であっても膝をついたりはしない。うっかりそんな事をやっていれば通行人に蹴飛ばされてしまうだろう。ただ立ち話も邪魔になるので2人は往来の真ん中から外れた。
「どうだね、商売は?」「へい、そろそろ本腰を入れて始めたいのですが車清の名を車智(くるまとも)に改めましたんで中々客がつきません」そう答えてトモ造は溜め息をついた。
「ワシは下屋敷じゃから使っている車の修理の仕事くらいはあるだろう。用があればまた話をしよう」「と言うことは高野様の御配下で?」トモ造の返事に松木は顔を強張らせた。
「高野様とは違うが・・・つながりはある」松木はむしろ高野の動向を監視する立場であったが、そんなことは億尾にも見せず話を替えた。
「それにしても車智かァ。法被はまだ車清のままだがのう」「へい、そこまでは手がまわりやせん」言われてみればトモ造が着ている法被はキヨ助親方からもらった「車清」の物だった。法被を注文するにも先立つモノがないのだ。
トモ造も江戸に着いてキヨ助親方の贔屓だった客へ挨拶に回ったが物流そのものが減っていて、以前作った車の修理の仕事くらいしか見つからなかった。
これが商売上手の木村屋・広三郎なら修理をしながら「そろそろ買い替えを」と抜け目なく売り込むのだろうがトモ造にはその手の才が乏しいのだ。
「親方は手先は器用でも商売は不器用だからのう」「へい、まったくでやんす」松木はトモ造のそんな職人気質が好きで密かに兄のように思っていた。
「では近いうちに下屋敷へうかがいやす」「いや、しばらくは立ち入らぬ方がよい」「へッ?」「いや、殿が代わられて藩内もゴタゴタしておるからの」松木はこれから藩邸内で起るであろう事態に関わらぬのように気を使ったのだが、トモ造の方は「遠ざけられた」と思い少し落ち込んだ。

「トモさん、ナカってどんなところだァ?」ある日の夕食中、ケイの母がトモ造に訊いてきた。
トモ造は驚いて箸を落とし、ケイとマイはそんな様子に驚いて顔を見た。
「一体、どうしたんでェ?」「ナカってところで飯炊きを探してるって口利き屋が言ってただよ」口利き屋とは現代で言えば派遣業者であり、職業安定所のような機能も果たしている民間業者で、母はそこで仕事を探してきたようだ。
「吉原ですかい・・・」「吉原じゃなくてナカだよ」「ナカってのは吉原のことで・・・」黙ってしまったトモ造に母とケイは顔を見合わせた。
「奉公に上がりてェと思うだども江戸の言葉が判んねェと駄目だって言われて・・・だどもナカなら訛りがあっても大丈夫だって」確かに吉原は田舎から売られてきた娘も多く、独自の方言矯正法もあるらしい。
始めに「イロハニホヘト」の発声練習をさせられ、あとは文末の作法を習えばいわゆる花魁の「さと言葉」になる。固有名詞については実地指導であるが花魁が接客で扱うモノは限られているからそれも大して時間はかからないらしい。
しかし、言葉は兎も角として庄屋の妻だった生真面目な母が女郎たちの中で上手くやっていけるか不安だった。
「トモさんは行ったことあるんけ?」今度はケイが訊いた。トモ造はさらにギクリとして茶碗を落とした。
ケイたちに見詰められていることに気がつかぬままトモ造の心は十年前に跳んでいった。

トモ造は車清の給金を貯め「筆下ろし」に吉原でも外れの安女郎屋に行ったことがある。
若い頃はその道に励んでいたらしいキヨ助親方も、おカミさんの不在を見計らってアレコレ耳学問を教授してくれるがスケベ話はやはり異様に盛り上がった。
「先ずはなァ、酒を飲み過ぎねェこった」花魁に勧められる酒を飲み過ぎるとイザ布団に入った時、ナニが使い物にならなくなったり、酔って寝てしまうこともあるらしい。
「センズリかいてから行った方が好いって言う奴もいるな。溜まってると早く終わっちまうってな」と言われても女と右手がどう違うかが判らないトモ造には難しい教えだった。
「これから」と言う本番前に勿体ない気もする。そんなことを考えるとワクワクして胸が高鳴って鼻血が出そうだった。
と言う訳で親方は暮れの給金のほかに幾らかの小遣いをくれた。

その日、トモ造は浅草から隅田川沿いに吉原に向かったが、同じように給金をもらったらしい若い連中がウキウキした足取りで同じ方向に歩いている。
時々、大店(おおだな)の若旦那らしい着飾った若造が駕籠で通って行くが、トモ造たちは顔を向けることもなく懐の金を握って今夜の自分の相手を思い浮かべて脚を早めた。
やがて吉原の見返り柳と黒い大門が見えてくる。この「見返り柳」と言うのは娘を吉原に売った親が大門を出て振り返るから名づけられたのだが、トモ造は胸の高鳴りと緊張を押さえながら大門をくぐった。ただ、遊びなれた通(つう)はこんな早い時間に大門をくぐるような野暮なことはしない。
日が暮れて灯りに火がともり、三味線の音色が聞こえ始めるまで門前のお茶屋で時間をつぶしながら、素見(ひやかし)の連中から花魁の様子を探るのも楽しみのうちなのだ。
この素見にも通と野暮があり、「傍惚れ(おかぼれ)も3年すれば情人(いろ)のうち。格子なじみも4年越し」と言って熟練した素見は吉原の賑わいとして欠かせぬ存在だった。

そんなことを知らぬトモ造は見世始め(みせはじめ=開店)の吉原を歩いた。
辺りはまだ薄暗く、店先には波の花(=塩)がまかれ箒波(ほうきなみ)が打たしてある。張見世(はりみせ)には湯上りに化粧を終えた花魁たちが入ってきて位に応じた席に着き、店の中からは若い衆(わかいし)の柏手と縁起棚の鈴の音が聞えてくる。トモ造は別世界に入ってきたようで、それだけで興奮してきた。
しかし、大門から正面通りに並ぶ大棚では職人の給金では相手にしてもらえず、格子越しに花魁たちを覗いても声をかけてくる牛太郎(客引きの責任者=女郎を客を乗せる「馬」と呼んだその対語)もいない。
そもそも花魁たちもこの時間に通の上客がいないことは知っており、仲間内で雑談をしているだけで視線も合わせないのだ。
それでも店から店を覗いていくと、やがて街外れの「場末(ばすえ)」と言う表現が当てはまるような寂びれた通りになった。
この辺りの店にはお職(ナンバーワン)を張るような花魁はおらず、盛りを過ぎた流れ花魁や厚化粧でも誤魔化せないないような不美人と相場が決まっていた。それでも懐が寂しい者はここらで女を買うしかない。トモ造もそうだった。
「ニイさん、寄っていきなんす。安くしとくざんす」薄暗い明かりの格子越しにトモ造よりもだいぶ年上の女郎が声をかけてきた。
トモ造は立ち止まってその女郎の顔を見たが、自分よりも母に近い年のように思える。
「ニイさん、アチキの方でどうどすえ。こっちにしなんす」隣りからもう少し若い女郎が声をかけてきたが、これは遊郭の作法から言えば違反である。どこの遊郭でも女郎同士の客の奪い合いは戒められていて、それを統制するのは外で客を呼び込む牛太郎と中で客と花魁をコントロールするヤリテ婆ァの役割なのだ。
その時、トモ造は後ろから声をかけられた。
「ニイさん、どんな娘(こ)がお好みだい」振り返るとそこには牛太郎の配下である若い衆が立っている。
「そんなマジな顔で素見じゃあねェだろう。ニイさんがハッキリしねェから花魁もツイツイ声をかけちまうんでェ」若い衆は少し脅しをかけて引き込もうとしていた。
「若いのがいいか、床あしらい(ベッドテクニック)が上手いのがいいのか言っちくり。まだ馴れていなけりゃ床あしらいだな」若い衆はトモ造が筆下ろしであることを見抜いており、トモ造は思わずうなづいてしまい、最初に声をかけてきた年増の女郎を買うことになってしまった。

「ナカは色街、女郎屋だ」「女郎って客に身を売るのけ?」「そうだ、そんな店が一杯ェ並んでるんでェ」トモ造の説明に母とケイは顔を見合わせた。
「女郎になる訳じゃあねェけんど飯炊きでもそんなところで・・・」母娘は口ごもって食事を再開し、トモ造は溜め息をつき、マイは不思議そうに大人たちの顔を見回していた。

その夜、トモ造は衝撃の初体験のことを思い出して眠られなかった。
「あの時、花魁は・・・」年増の花魁は緊張しているトモ造を優しく楽しませてくれた。
「主(ぬし)さん、初めてありんすね。アチキも嬉しなんす」花魁はそう言うと始めは型通り三味線と引きながら小唄を口ずさみ、酒を勧めたが「飲み過ぎてはいかんす」とたしなめてくれた。それを聞いてトモ造もキヨ助親方の教えを思い出してうなづいた。
花魁にとっては客が酔った方が性技は楽なはずなのだが、この優しさは生真面目そうなトモ造の筆下ろしをすることに母性本能を感じていたのかも知れない。
そして、その後は・・・翌朝、トモ造の枕は鼻血で汚れていた。

猪走(いばしり)のカツは小坂の宿から碇ヶ関に向かっていた。すると前を客を乗せた駕籠が歩いている。しかし、その駕籠かきは前と後ろでは背丈が大きく違い、妙に足元もふらついていた。
「兄貴、シッカリして下さいよ」「オメェ、こそシッカリしろい」2人は客を挟んで言い合いを始めた。
この辺りは道が細い上、草が生い茂っていて仕方ないのでカツは後ろをついていった。
「駕籠はなァ、背が低い方に重みが回ってくるんでェ。オラばかりエライ目にあって大損だ」「だったらマッサキの兄貴を戻せばいいじゃないですか」「アイツは馬と一緒に気楽に稼いでるよ。元は馬持ちの大百姓だからな」そう言うと前の「兄貴」と呼ばれた男は唾を吐いて棒を担ぎ直した。
「オラだって川下りの船大工をやるはずだったんでェ、駕籠かき何ぞになる気はなかったんだ」そう言うと後ろの若い者はカツに気がついて軽く頭を下げた。
「マッナブ、前から馬だぞ・・・マッサキの奴だ」カツが籠越しに前を見ると馬子に引かれた馬が背中に荷物を載せてやってくる。駕籠の方が道をゆずる気がないので馬がやや広くなった道端によけた。
「確かオグリキャップ(送り客)って名前でしたよ」「その割に載せているのは荷ばかりだな」前の男は腹に一物あるようで皮肉な言葉を返した。
「こりゃあ、マッサミの兄貴、後ろはマッナブかァ。背丈もお似合いだぜ」通り過ぎる時、マッサキと呼ばれた馬子が声をかけてきたが、マッサミは言い返さず黙ってやり過ごした。
ここから先は少し道が広くなり、カツはマッナブに手を上げると追い抜いて駆け出した。

カツが河合正衛門に書状を届けると折り返しに尾野のタツが関係者への召還命令を届けた。こちらは公文書と言うことだ。
その召還にはその手先として動いたとされた秋沢篤之丞も同行を命じられていた。
数日後、カツが松木の長屋に河合からの書状を届けたが、そこには「重役方はおそらく高野1人に責任を負わせる気であろう。藩の内紛が長引くのは好ましくないからそれでよい。ただし、実際をつぶさに知らせよ」とあった。河合の判断は新藩主の意向とは違うところにあるようだ。
「拙者の行動は一重に藩の安寧を願う忠心からの挙であり、叱責を受ける謂れは一切ない」高野忠兵衛は国元へ弁明書を送ろうとしたが、養子縁組を進めるように指示していた重臣たちが掌を返すように関与を否定し、全てが自分の独断であったかのように証言していることを知り、「国元へ行っても結果は同じなのだ」と覚悟を決めた。
重臣たちは国元の審問で高野が何を言い出すかを心配し、江戸で腹を切らせることにしている。高野と秋沢は津軽の出身ではなく江戸で仕官した新参者・他所者であり、たとえ腹を切らせても国元で重臣たちが恨みを買うことはない。トカゲの尻尾切りに好都合なのだ。
高野は出立準備も許されず藩邸内の溜の間(たまりのま)で蟄居させられた。溜の間とは何にも使われていない空き室で、蟄居とは事実上の監禁を意味した。
この時代の蟄居は、あてがわれた1室の中央で用便以外は正座して過ごすのだが、常に壁に耳あり障子に目ありの状態で一瞬も気を緩めることができない厳しいモノだった。
座っていると襖越しに隣室で話す重臣たちの声が聞えてくる。
「高野も武士ならば召し抱えて下さった殿の御心に背いた不忠を恥ねばならぬはずじゃ」「アヤツの忠心は忠兵衛と言う名ばかりか?名前負けよのう」「確かに口と筆だけで召し抱えられた軟弱者だからな」重臣としては召喚に応じての出立期限までに腹を切らせなければならず、これは高野が誹謗に耐えるような男ではないことを計算した精神的な圧迫だった。
「介錯は秋沢がよかろう」「しかし、高野に腹が切れますか」「そうじゃのう・・・」重臣たちは立ち話で判決を下していた。
昼餉に3枚の沢庵漬けが出た。これは3切れ=身切れ=切腹を意味する作法である。
「今夜か・・・」高野は唇を固く結ぶと監視役を兼ねて控えている下士に筆と紙を持って来させた。

トモ造が仕事を探して街を歩いていると向こうから若い同心が歩いてきた。
本来、足軽である同心の刀は安物で拵え(こしらえ)も粗末であることが多いが、その同心の刀は一見して武家用の本格的な拵えで、柄(つか)や鍔(つば)、鞘(さや)も立派だった(マジマジ見るのは失礼に当る)。
「これは守野様」「車屋のトモ造さんかァ。先だっては父の墓参痛み入りました」同心・守野修作は驚くほど腰が低い。これも若くして武家の番頭(ばんがしら)から足軽の同心に降格された苦労がそうさせたのかも知れない。
「お役目でございますか?」「いいや、今日は夜番明けで長屋に帰るのだが、食材を求めて行こうと思ってな」トモ造の挨拶に修作はそう答えてはにかんだように笑った。
「守野様はまだお1人で?」「うむ、お三度さんをやっておる」お三度さんとは朝昼夕の3食を自炊していると言うことだ。
トモ造は修作の正直な告白に思わず立ち入った答えを返してしまった。
「早く嫁様をもらわれないといけやせんね」「いいや、没落した家に娘を嫁に出す親もあるまいて」そう答えた修作は別段、そのことを気にしていない様子に見える。その時、トモ造の頭に義母のことが浮かんだ。
「それでは女中はいりやせんか?」「いや、給金が払えん」「それは住み込んで3食一緒にいただければ十分でござんす」トモ造が示した条件に修作は1歩踏み出した。
「そんな者がおるのか?」「へい、アッシの女房の母親でがす」「ソチの妻女(さいじょ)は東北の出であろう」「へい、津軽でやんす」あの時、ケイの紹介はしなかったが修作はトモ造夫婦の会話を聴いて察したらしい。
「ワシの母も出羽の出であった。東北の料理を出してもらえればワシも懐かしい」「母上様とおっしゃいますとテンジン様の奥方様で」「うむ、とうに亡くなったがの」その日、車の仕事は見つけられなかったが義母の仕事は決まった。

翌日、守野修作がトモ造の家へ訪ねてきた。
「頼もーう」玄関で掛けた声を聴いてトモ造はそれが誰か判ったが、台所にいたケイは突然の侍の訪問に驚いてマイを抱いた。
「これは守野様」「うむ、昨日の話を聞いて早速、お願いに参った」修作の返事を聞いてトモ造はケイに義母を呼びに行かせた。
「どうぞ」「お邪魔する」修作は腰の刀を下すと草鞋の紐を解き板の間に上がり、トモ造も仕事を中断して隣りに座った。そこへ裏の畑から義母とケイ、マイが帰ってきた。
「これはお武家様」「いや、刀は差しておるが足軽同心じゃ。気楽にせよ」と修作は言うが、その言葉遣いと態度はどう見ても侍で義母とケイは顔を見合わせた。
ケイは滅多に出さないお茶を入れ(普段はさ湯)、緊張しながら湯呑みに注いだ。
修作はそんな様子に苦笑いしながらトモ造の膝のマイの頭を撫でた後、義母の顔を見た。
「こちらが妻女の御母堂様か?」「へい、母でござんす」義母は初対面の同心に緊張しケイの向うでかしこまっている。今でいえば採用面接に当るのだからある程度緊張するのも当然ではあったが。
修作の話ではテンジンの妻=修作の母・キヨは凶作に苦しむ出羽から吉原へ売られてきた。しかし、足抜けして城門に隠れているところを見つかり、番頭(ばんがしら)のテンジンに引き渡されたのだが、テンジンはそれを隠して屋敷で働かせることにした。どうやらテンジンの一目惚れだったらしい。
一方、テンジンの親=修作の祖父母は上役の娘との縁談を進めており、身分違いの結婚など許すはずがなく、「他家の養女にして正妻に(当時、武士が庶民の娘を妻にする時、必要だった手続き)」と言うテンジンに「妾として囲うなら許す」と命じた。
この時代、婚礼とは家と家が結びつくことであり、親の意向に背くことはできない。しかし、テンジンは上役の娘との見合いの席で「心に決めた相手がある」と言い切り、先方の上役、仲人、何よりも両親を激怒させたが、そのまま家を飛び出して城番の長屋の一室でキヨと暮らし始めた。

この頃、テンジンは棒術と柔術の達人として名を馳せており、組の者を鍛え上げて幕閣のおぼえもめでたく多少のワガママは許されたようだ。
結局、修作はこの長屋で生まれたのだが、両親はキヨを追い出そうと手を回していたため正妻とするための手続きは一向に進まなかった。
それでも修作は仲睦まじい両親の元、長屋の子供たちとも友達になって無事育っていったが、そんな折、母のキヨが早馬に巻き込まれ急死した。
ここまで話して修作は湯呑みを両手で持って茶道の作法で静かに飲んだ。そんな仕草からも修作の育ちが判るようだった。
「それはお辛かったですね」「いいや、ワシは父が母の分まで大切に育ててくれたが、父の方が辛かったのであろう。毎日墓参りにばかり行っておったわ」ケイの遺骨を守野家の墓に入れることは両親が許さず、テンジンが若い頃から坐禅に励んでいた寺に葬ったと言う。
そして修作はテンジンの養子と言う形で守野家に加えられたが、祖父母からは「武家の作法=立ち振る舞い」を厳しく仕込まれ、「毎日が窮屈で長屋が恋しかった」と笑った。トモ造とケイはテンジンが見せた底抜けの優しさの理由が判ったような気がした。
その後、テンジンは修作の元服を待って出家し守野家との関係を断ったらしい。つまり武家、身分と言うモノに愛想が尽きてのことなのだろう。
「と言う訳でソレガシは北の食べ物が好きなのじゃ。よろしく頼みますぞ。母上」そう言って修作はケイの母に向かって両手をついた。あの親にしてこの子なのだ。

高野忠兵衛は遺書を書き終えると下士に秋沢篤之丞を呼ぶように命じた。その時、「大刀(だいとう)を帯びてくるように」と申し添えた。
通常、殿中では脇差までで大刀は当侍(とうさむらい=当番の侍の詰所)の刀掛に掛けている。しかし、高野が置かれている状況を見聞きしている下士は、その意味を察して緊張した面持ちで深く両手をついた。
高野ほどの身分の侍が主命により腹を切るとすれば、白の死に装束を着て庭先に設けられた場で腹を切るものだろう。
これはあくまでも「自死」の形を取らなければならず、その意味では違法行為なのだが、この時代、責任を負っての自死の罪は忠心を汲んで不問に付せられることが多かった。

下士から高野の命を聞いた秋沢篤之丞は顔面蒼白になって震えだした。秋沢は当然のように人を斬ったことはなく、剣の腕にも全く自信がない。
この時代、すでに武士の猛々しい気風はすたれており、刑罰としての切腹では脇差を構え、「いざッ」と声をかけたところで介錯人が首を落とし、衣服を直す振りをして腹を切り、検視役もそれを承知で確認するようになっていた。
また介錯では緊張で筋肉が強張るため中途半端な斬り方では首が落ちず、苦しませることになる。それで「膝まで斬るつもりで降り下ろせ」と元服の折に武士の嗜みとして教えられるものだが秋沢にはそんな知識すらなかった。
「高野様は腹を召されるのか?」「それは拙者からは申せませぬ」この切腹が自死と言う形を取る以上、それは事が起きるまで誰も知らないことにしなければならない。こんな当然のことを弁えない秋沢であったが、若い下士は敬語を使った。つまり秋沢も自死をたすけた罪人として扱われることを下士も知っているのだ。
秋沢は刀掛けから自分の大刀をとると思い詰めた顔で廊下に出た。
「お役目とは言え、お察し申し上げます」「うむ・・・」下士が背中にかけた慰めと励ましの言葉に振り返らず小さくうなづいた。
その後、秋沢は溜の間には向かわずそのまま逐電したが、使い走り程度の下役にしては過剰反応であり、介錯をする自信がなく失敗を怖れたのであろう。
と松木直之進は記録した。

高野は溜の間で秋沢を待ったが一向に現れない。
死を覚悟した者にとってこの待ち時間は、生への未練をかき立て、過去を思い返し、怨みを燃え立たせる苦しみでしかなかった。下士も秋沢が介錯を終えて戻るまでは当侍で控えており、重臣たちも近づかない。高野は1人で耐えていたが、やがて大声で叫んだ。
「ワシは国元へ参るぞ。行って全てを殿に言上(ごんじょう)仕る(つかまつる)のだァ!」静まりかえっていた邸内が急に慌ただしくなった。
「高野殿、乱心」「高野様、御乱心!」(身分によって言い方が微妙に違う)廊下を叫びながら駆け巡る足音が響き、やがて閉じた襖、障子の向こうに多くの者が集まってきたのが判った。
その時、襖を開けて重臣が姿を見せ、同時に廊下側の障子も開けられた。
「高野、血迷ったか。大人しく腹を切れ」「ならば主命を給わりとうござる」武士は主君に仕えており、上役とは言え独断で処罰を下すことができないのが建前である。腹を切らせるには「上意」としての主命が必要なのだ。
「拙者は・・・」高野が抗弁しようとした時、重臣の目配せを受けて若い侍が後ろから脇差で斬りつけ、高野はのけ反って倒れ、脇差が当って腹這いになった。
「後ろからとは卑怯な・・・」「御免」侍はうつぶせに倒れ肩口から血を吹き上げている高野の左わきを刺してトドメにした。
その様子を確認した重臣は、集まっている者たちを見回し、それを受けて全員が座って手をついた。トドメを刺した侍は血に染まった抜身の脇差を背中に回している。
「高野忠兵衛は乱心の上、殿中で抜刀した故に斬り捨てた。よいな」「はは・・・」重臣の裁定に侍たちは揃って頭を下げたが、松木だけは返事をしなかった。

ケイの母が守野修作の同心長屋にやってきた。
引越しにはトモ造が荷物を積んだ車を引いてきたが、それを近所の住人たちは「嫁入り」と勘違いして長屋の玄関先に集まってきた。
「守野殿、御新造(ごしんぞう=新妻)さんは?」同心仲間が声を掛けると皆が一斉にうなづき、修作は困ってトモ造と顔を見合わせた。
「御免なんしょ、通しておくんなさいまし」そこに母が入ってきて、今度は住人が顔を見合わせた。
「エライ老けた新造さんだなァ」「新造さんと言うよりもおっかさんだろう」「しかし、守野殿の親御さんは・・・」ここで皆が口ごもった。
修作の親の顛末は武家の番頭(ばんがしら)から足軽の同心になった時に知れ渡っていて、今で言うところのタブーになっている。そこで修作が母を紹介した。
「こちらは父の知り合いの母者(ははじゃ)で、住み込みで家のことをやってくれることになり申した」「女中でごぜえます」母は江戸弁で挨拶したつもりだったが少し訛っている。
こうして母のオカシナ女中奉公が始まった。

母の引っ越しを終えて帰る途中、総州街道で立ち往生している車に会った。車には下総から江戸へ運ぶらしい荷が積んであるが車軸が折れてしまったようだ。
「どうしやした?」「おう、軸がいかれちまってよ。まいったぜ」トモ造が車の下にもぐり込んでいる車夫に声をかけると返事だけをした。
「あっしは車屋でして、よかったら見せておくんなさい」「そりゃあ助かった。捨てる神があれば拾う神もありだぜ」車夫が車の下から這い出てくると替わりにトモ造がもぐり込み、確かめるとやはり軸が摩耗したところで折れていた。
「こりゃあ、軸を換えなけりゃ駄目だぜ。ウチへ運べば何とかなるが・・・」「俺っちも今日中に荷を届けなければならねェんだ」這い出てきたトモ造と車夫が顔を見合わせていると通りがかった野次馬が声をかけた。
「こっちの空いた車に積み替えればいいじゃねェか」そう言われて2人はトモ造が引いてきた車を振り返った。確かに母の荷を下して車は空である。
「おう、こいつは気がつかなった。1つ貸してくれェ」「へい、そうしてくんな」車夫が言うのと同時にトモ造もうなづいた。
「帰りに寄るが親方は『車清』けェ?」車夫はトモ造の法被の背中を見て訊いた。
「いえ、今は『車智』で・・・」トモ造の返事に車夫は怪訝そうな顔をしたが、説明をしている暇もなく荷を積み替え始めた。
言われてみると職人の法被は看板を背負って歩いているような物なのだ。
「親方、商売が下手だねェ。直す前に客にするよう話をつけなきゃあ」荷を積み替えて車夫が出発すると、まだそこにいた野次馬が妙な教育をする。確かに修理の見積もりの前に相手を助ける顔をして売り込むべきだった。
トモ造は反省をしたが、その一方で店に仕事を頼んで回るよりも目の前の総州街道で仕事を探す方が見つかりそうだと考えた。要するにモータースがJAFと提携を結ぶようなものだが、トモ造にしては中々の商才だった。

高野の死が「乱心」と言うことで片付いたところで、出奔した秋沢の探索が始まった。
津軽藩としても話が広まって幕閣の耳に入る前に処断しなけらばならず、藩士たちは江戸市中を血眼になって捜し回っている。
江戸藩邸としては秋沢が国元へ向うことを懼れたが、そんな度胸があるはずがない。
「母上、津軽藩で何かあったようですな」「へい・・・」修作は仕事から戻って母が仕度した夕餉を食べながら話し始めた。
母は奉公人の作法として一緒に食べることを遠慮したが、修作が「それでは寂しい」と言って向い合って食べるように命じたのだ。そもそも修作は奉公人であり、農民の妻であるはずの母を「母上」と呼んでいる。
「藩士の方々が血相を変えて何かを探しておるのでな」「はァ・・・」町奉行は藩邸に何の権限もないが武家屋敷、武家長屋には調査権が認められており、町人が関わる事件には立ち入った捜査も行う。修作は武家出身ということもあり、この仕事を任されることが多かった。
ただし大名や高い位の旗本は老中直轄の大目付、旗本・御家人、江戸府中では各藩士も若年寄直轄の目付が取り締まる。
「まあ、武家の話は親方や息女には関わりないでしょうけど」「んだな」そう答えながら母はケイとマイの顔を思い浮かべて小さく笑った。
その時、修作がオカズの干し鰯を摘みながら訊いてきた。
「ところで母はハタハタが食べたいって言っておったが、ハタハタって何です?」「ハタハタは魚だよ。秋田では鰤子(ぶりこ)って言うんだ」「ふーん、鰤子って言うくらいだから、脂身があって美味いんだろうね」「そう言ってたらワも食いたくなったよ」母は干し鰯に伸ばした箸を止めてうなづいた。

突然、マイが不思議な歌を唄うようになった。
「でんでらりゅーば 出てくるばってん 出んでられーけん 出て来んけん」テンポよく歌いながら両手を叩いたり突き出して楽しそうに笑っている。
「来んころれんけん 来られられんけん 来ーんこん」ここまで歌うと可笑しそうに転がってしまう。
「これは何の歌ねェ。ワにも判らねェだよ」ケイはマイが口ずさむ歌詞に首を傾げたが、トモ造にもサッパリ判らない。
「津軽訛りだけでもエライことになっとるのに、こりゃなんでェ」マイの話では荒川の船頭の子供と遊ぶうちに覚えたらしい。
義母が修作の家に行って以来、ケイも家事の合間に相手をしているもののマイは近所へ遊びに出るようになったようだ。
その子は話の最後に「ばい」「たい」、質問は「と?」、話を変える時には「ばってん」と言うらしい。
「そりゃあ西国の訛りだな」トモ造も確信がある訳ではないが九州の大名屋敷などで会う侍がそんな話し方をしていたように思った。
ただ、その子たちがマイの言葉を「変な言い方たい」とからかうと聞いて、ケイが「ワは訛ってねェ」と頬を膨らませたのには笑ってしまった。

ある夜、マイを寝かせつけながらケイが声をかけてきた。
「お前さん、ヤヤ子ができただヨ」「えッ?」トモ造は手酌で飲んでいた湯呑みを落としそうになった。
確かに母がいなくなってからこの若夫婦は、お預けが終った後の犬のように互いを求め合い毎晩のように励んできた。だから当然と言えば当然の結果だろう。
トモ造は総州街道に立ち、行き交う車の様子を眺めながら調子が悪いと声を掛け、修理を請け負うようになった。と言うことで仕事もボチボチある。生活の不安がなくなったところで宿ったこの子は孝行者だと思った。
「ふーん、今度は跡取りの男が好いな」トモ造は湯呑みに酒を注ぎたすと口に運んだ。
「でも、お前さんは男2人兄弟だどもワは女1人だァ。女腹だと困るだよ」トモ造の言葉にケイは行燈の灯りの中で顔を曇らせた。
日本では長く女ができやすい「女腹」と言うモノがあるとされ、嫁を取る時には敬遠されてきたが、現代の遺伝子学に於いては男女の違いは女性の卵子よりも男性の精子に起因するとされている。しかし、当時の迷信に近い医学知識では不妊などと同じく跡取りが産めないことは女が離別される理由の最たるものだった。
「うん、それじゃ男でも女でもいいから元気な子を産んでくれェ」「オラはそんなお前さんの優しさが嬉しいだよ・・・グスン」この返事にケイは目を潤ませる。トモ造はそれを見てムラムラしたが今夜は控えた。
「妊娠中にナニを深く致すと子供の頭が凹む」という言い伝えもあるのだ。

「この箱の奥に並んでいる札は何だべか?」ある日、掃除をしながら母が修作に尋ねた。
同心長屋には6畳、4畳半、3畳の3部屋あるが、その狭い3畳間に黒い漆塗りの立派な箱があり、その中央には佛像、その横に漢字が書かれた札が並んでいる。
修作は毎朝、母が仕度した朝食を小さな器に入れてここに供え、ロウソクに火をつけ、線香を炊いて祈っているのだ。
「それは佛壇でござる。守野家は三河以来の家柄ゆえ先祖の墓はアチラに在って参ることもできぬからここで祈るのですよ」修作の祖父母=テンジンの両親は守野家が没落した事実を受け容れることができず、領地があった三河へ帰って縁者の家に身を寄せている。
元々認めていなかった嫁・キヨが産んだ孫の修作ともそこで縁は切れ、テンジンの死を知らせても何の返事もなかった。ただ、修作は父から受け継いだ嫡男の勤めとして佛壇を守っているのだ。
「佛壇?それで毎朝ここで参ってるのけェ」「うむ、父のもありますよ」そう言うと修作は新しい白木に「ダイクウテンジン道者」と書いた札を見せた。
「ところでテンジン様は御出家される前は何と言うお名前だったんですか?」母は位牌を眺めながら素朴な疑問を口にした。
「父は出家することは家を捨て、身分を捨て、過去を捨てることだから昔の名は呼ぶなと申しておりました」そう言って修作は「ワシも捨てられました」と小声で呟いた。
「こちらが母です」修作は、その隣にあった「テン室慈聖大姉」の札も見せたがこちらの方が立派だった。母はテンジンとセイの札を渡されて恭しく捧げ持って眺めた。
「これは位牌と申すのじゃ」「イカイけ?」「位牌です」元禄の頃から現在のような佛壇や位牌が作られ始めたが、それでも高価なため足軽同心には手が出ず、テンジンが番頭(ばんがしら)時代に作ったセイの方が立派なのだ。
「ふーん、これに祈ればお墓に行くのと同じなのけェ」母は感心しながら位牌を眺めた後、修作に手渡した。
「本当ならもっと先祖代々のモノもあったのじゃが、祖父母が連れて帰ったのです」そう説明しながら修作は位牌を佛壇に納め、手を合わせた。
「その佛壇はお武家様しか作ってはいけねェんですかね」「いいや、ワシは足軽同心じゃが、別に寺社奉行から咎められてはおらぬ」実際、お盆に僧侶が各家々を回って参りながら佛具などを点検する棚経も宗門改めの制度として定着してきているのだが、母は知らなかった。
「だったら、ワの夫の物も作って良いんだべか?」「そりゃあ、よろしいでしょう」修作は母の方に座り直すとユックリとうなづいた。
翌日、母はトモ造の家を訪ねて佛壇と位牌の説明をし、早速余った材料で位牌を2組作らせ、自分の分は持ちかえって女中部屋にもらっている四畳半の箪笥の上に祀った。
こうして母の悩みは1つ解決したのだ。
しかし、トモ造に広三郎のような商才があれば、江戸に来ている地方出身者がこれだけ増えている以上、「墓参の代わりの安い佛壇」として売り出すことを考えただろう。
残念ながらトモ造にとってこれは単なる親孝行と愛妻の道具に過ぎなかった。ただ佛壇は漆を塗る代わりに墨で黒くする、そんな工夫はできるのだが。

キヨ助親方は最近、評判の義民地蔵へ参ってみた。
それは平賀の集落のはずれの森の中にあるとのことで、身を捨てて民衆を守った義民の墓で、ありとあらゆる御利益があると言われ、特に縁結びは抜群と若い娘の信仰を集めているようだ(ケイがトモ造と結ばれたことが広まったとは親方が知る由もない)。
親方は娘を連れて行こうと思ったが弘前から平賀までは娘の脚には少し遠く、今回は1人で行ってみることにした。
平賀の集落に入り義民地蔵への行き方を訊くと畑仕事をしている農婦たちは「庄屋さんのとこだべ」と答え教えてくれ、森の入り口にも最近建ったのであろう看板がある。
そこから人々が踏んで道になっているように森の奥へ向うとそれはあった。
「何だ!こりゃあ、トモ造の仕事じゃあねェか」親方は地蔵の祠を見て一目で言い当てた。長年、トモ造を仕込んできた親方には鋸の引き方、鉋の掛け方、釘の打ち方を見ればその癖はすぐ判るのだ。
「何でェ、アイツは脇仕事で祠も作ってたのかァ。余程、食うに困ったんだなァ」親方の理解はやや外れたが、職人が副業を持つことは「脇仕事」と言って嫌うものだが祠ならと許すことにした。しかし、流石の親方も石地蔵もトモ造の作だとは気付かなかった。それでも「これは素人の仕事だな」と見抜く眼力はさすがだろう。

母が奉公に行って4カ月が過ぎた頃、その修作がトモ造を訪ねてきた。
修作は腰の刀を外すと立ったまま土間で車の修理をしているトモ造に声をかけた。
「トモ造さんに仕事の話があるんだ」「へッ、奉行所の仕事を持ってきて下さったんで?」「いや、違います」そう答えた修作にトモ造は上り端(あがりはな)へ座るように勧めた。
ケイは突然の来客に釜戸に木屑を入れて茶を出すための湯を沸かし始めたが、修作は「母上はお元気ですよ」と声をかけた。
トモ造と修作は並んで腰を下すと用談を始める。こんなところも足軽同心だから許される気安さだった(多分に修作の性格にもよるが)。
「御老中が株仲間を解散させたのは存じておりましょう」「へい」田沼の時代、幕府は同業者で株仲間と言う組合を作らせ、市場を独占させる代わりに税を納めさせるようにした。それまでの「租税の増収」と言えば農地開拓と年貢の加算であった農本位制の経済政策を、商工業者への課税と言う経済革命とも言える政策転換であったが、田沼失脚後は「賄賂目当てであった」と歪曲され、株仲間へ解散を命じた。
「そのおかげで最近は大阪から江戸へ支店を出す商人が増えてな、そのうちの1軒が親方を知っておるのだ」「へッ?」そう言われてもトモ造は大阪に知り合いはいない。
トモ造は修作の顔を見ながらアレコレ考えたが分からないので止めた。
「奉行所に親方のことを尋ねてきたからワシが案内(あない)しようと言う訳じゃ」「へい・・・」仕事をもらうことは助かるが、どう言う経緯で自分を知っているのか分からない相手・渋屋(しぶや)との商売にトモ造は少し不安を感じた。
「では後日、案内するから親方も承知しておいて下さい」「へい、よろしう頼みやす」修作は草鞋も解かず、茶も飲まずに帰って行った。
何よりも子供ができたことを母に伝言するのを忘れていた。

しばらくたって修作がトモ造よりもやや年配の手代をつれてきた。
江戸の商人は先ず紹介を受けてから相手の顔色を見て用件を切り出すが、この大阪商人は仕事場に入ってくるなり「毎度ォ。儲かってまっかァ」と声をかけた。
「へッ?」「何ッ?」トモ造と修作は呆気にとられて顔を見合わせる。
「何を驚いてまんねん。これは挨拶でんがなァ」手代は2人の様子に呆れながら説明した。
「うむ、江戸ではもう少し遠慮がちに話すでの。ソチのようにいきなり・・・」「そうでっかァ、そんなんで商売になりまっか?」手代は修作の話の途中で言葉を挟んだ。江戸の武士であれば「無礼者」と怒るところだが、ほかならぬ修作は自分を「足軽同心」と謙遜しているくらいなので気にしていないようだ。
天領地である大阪は城代が頂点で、上に立つ役人もほとんどが一時期の在勤のため、武士の力は江戸ほど強くなく、経済動向に疎いだけに「年貢だけを納めればいい」状態なのだ。
「ところでお前さん、俺のことを知ってるって?」トモ造が声をかけると渋屋の手代は屈託のない笑顔を向ける。
「それでんがなァ。ウチの店は大阪から津軽、松前(北海道)へ北前船を出してますんや」北前船とは大阪から関門海峡を通って日本海側を北上し、港港で交易しながら津軽、松前の物産を仕入れ、また交易しながら帰る貨物船である。大阪の大店(おおだな)にはこれで財をなした者が多い(がトモ造は知らない)。
「それで津軽の港でえらい調子のエエ車を使ってる店があるから訊いたら江戸から来た職人が作ったと言いよりますねん」「ふーん、その店は・・・」「弘前の木村屋さんでっせ」手代の返事にトモ造の胸に広三郎の顔が浮かんだ。
それからしばらく木村屋との取引に関する雑談が続いたが、手代自身は船乗りでないためほとんどが伝聞情報で、トモ造の方が補足説明することが多かった。

そこへケイが茶を入れてきて修作は黙って会釈、手代は「おおきに」と挨拶した。
「おう、こちらさんは木村屋さんの引き合わせでウチを知ったんだってよ」「木村屋さんって広三郎さんのことだべ」「あそこの若旦さんに『ウチが江戸に店を出す』って言ったら、『その職人は江戸へ帰ったから贔屓にしやってくれ』って言いはったんやて」これにも手代は口をはさむ、それは江戸の下町弁とはまた違った独特の軽快な喋りであったが、この大阪商人との商談は口下手のトモ造には大変そうだった。
「そうかァ、有り難いこった」それでも情にもろいトモ造は鼻をすすった。

修作が先に帰ってからトモ造は手代と仕事の打ち合わせをした。
手代の話では大きな荷物用の大八車を3台と配達用の小さな車を数台注文するとのことだが、納期は店構えが完成して開店するまでにと言うことだった。
ここに広三郎がいれば材料をたちどころに手配して、トモ造は腕を揮うだけだろう。トモ造は店を構えることの大変さを噛み締めた。
「頼みまっせ、タイショウ」「タイショウ?」帰り際、手代はトモ造をそう呼んだが、江戸では大工なら棟梁、習いごとの師範や芸人なら師匠、火消しなら頭、商人なら主、それ以外は親方が一般的だ。そこで「タイショウ」と言うのがどんな字を書くのかを訊ねてみた。
「そりゃあ、オンタイショウ(御大将)、ソウダイショウ(総大将)のタイショウでんがなァ。そないことも判りまへんか?」手代は呆れた顔をする。
「大将かァ、そりゃいいな。ヨシッ、これから俺のことは大将と呼んでもらおう」トモ造は講談で聞く合戦物の話が好きで、大将と呼ばれると自分が戦国武将になったような気がして嬉しかった。

ある日、トモ造はマイを連れて荒川の渡し場に行くとマイが船頭に駆け寄った。
「小父ちゃん、どひゃあ」「おう、マイちゃんかァ。今日はガキどもはいねェぞ」船頭はマイのことを知っているようで優しく微笑むと頭を撫でた。そこにトモ造が到着するとマイは後ろに隠れた。
「これは娘が世話になってやす」「いえね、ウチのガキどもの遊び相手になってもらってんでさ」トモ造が船頭に挨拶すると、船頭は意外に丁寧な言葉遣いで挨拶を返した。
その時、マイがいつもの「でんでらりゅーば」を唄い始め、「おう、マイちゃんも覚えたとね」と船頭はもう一度頭を撫でた。
「ひょっとしてお前さんが・・・」トモ造はそう言いかけたが自己紹介がまだ済んでいないことに気がついた。
「アッシはマイの親父でトモ造と言いやす。車職人でござんす」「俺は船頭のケイ次ばい」船頭はそう言うと丁寧に頭を下げた。
「ケイ次さんは西国の出で?」「へい、長崎は島原たい」トモ造がもう一度、見直すとケイ次の身体はたくましく、少し異国的な顔立ちをしている。
「島原ですかい」「て言っても島原の乱で追われた切支丹じゃあなかよ」ケイ次は何も言わぬのに先に説明した。切支丹が禁教されていたこの時代、疑いをかけられる前に言っておくのも処世術なのだろう。
「去年の雲仙普賢岳の噴火の後、眉山の山津波で海もやられちしまって漁師では食っていけねえから出てきたんだが、船頭の方が間違いねェって言われたとよ」寛政四年に島原の雲仙普賢岳が噴火し、その後、眉山と言う普賢岳に連らなる山が崩落して土石流が海まで達して大きな被害が出た。このため農民だけでなく漁師も食うに困って土地を離れたらしい。その意味でも松平定信の「人返し令」は江戸の都合だけの独善的な政策と言えた。
「でんでらりゅーば 出てくるばってん 出んでられーけん 出て来んけん」「来んころれんけん 来られられんけん 来ーんこん」「それにしてもマイちゃん、頭がよか」ケイ次は隣りでまだ唄っているマイの顔を優しい目で見ながらつぶやいた。
「こん歌(この歌)は長崎のワラベ歌ばってん、江戸の子には中々覚えられんたい」ケイ次の誉め言葉を聞いてトモ造は歌詞の意味を訊いてみた。
「オイは江戸言葉がまだよく判らんけん、上手く言えんたい」と言いながらケイジがした説明では、「出て行けるなら 出て行きますが 出ようとしても出られないから 出て行きませんから」「行こうとしても行けないから 行くことができないから 行かない行かない」と言う意味らしい。
「マイは日頃、ケイの津軽弁で鍛えられているから九州弁も何とかなるのだろう」とトモ造は納得した。勿論、ケイには内緒だが。

ケイの産み月が近づいて母が帰ってきた。
ケイとマイは久しぶりに母に会うことでハシャギ気味だったが、風呂敷を抱えて入ってきた母を見て固まった。
母は1年足らず修作の家にいただけだが妙に武家の作法が身について動作にも気品が漂っている。言葉遣いも江戸山の手の武家式でケイよりも垢抜けていた。
母は品よく上がり端に腰を下すと、品よく草鞋の紐を解いている。
「おカア」「・・・」ケイが呼んでも母は返事をしなかった。
「おッカァ」「えッ?」ようやく母は気がついて返事をした
「どうしただよ」「いえね、あちらでは母上って呼ばれてるから」「母上?」「ええ、私もはじめは遠慮したんだけど、修作様がそう呼ばせてくれって言われるから・・・」ケイとトモ造は顔を見合わせて驚きながら呆れた。
おまけに母は「修作の母の形見をもらった」と言ってテンジンが妻に仕立てた武家の着物を着ている。このまま帯に懐剣を差せばどう見ても武家の妻女であろう。
「この格好じゃあ、家のことはできぬから着替えさせてもらうぞよ」母はそう言って家に上がると呆れているトモ造とケイ、マイを土間に残して自分の部屋に入っていった。
「母上かァ、オイらも言ったことがねェな」「だべ、オラもねェだよ」「祖母ちゃん、どうしたとね?」武家言葉の母、下町江戸っ子のトモ造、津軽訛りのケイ、何故か九州弁のマイ、車智の会話は不思議なことになっていた。

ある日、船頭のケイ次が車智にやってきた。トモ造は仕事中だった。
「親方」「大将って呼んでくんねェ」戸を開けて作業土間に入ってきたケイ次を見上げながらトモ造は返事をした。
「大将?」「おう、ウチではそうすることにしたんでェ」2人は顔見知りなので会話にも遠慮がない。その時、ケイは大きな腹を抱えて針仕事でオムツを縫い、母はマイを連れて畑に行っていた。
「それじゃあ大将。実はコイツを使ってもらえないかと思って・・・」そう言ってケイ次は振り返り、外から若者を呼んだ。土間に入ってきた若者は一見して真面目そうな上、男前だった。
「コイツはオイ(俺)と同じ九州の出で、マサ弥と言いますたい」ケイ次に紹介されたマサ弥は礼儀正しく頭を下げた。
「コイツも山津波でやられて江戸へ出てきたばってん、元は船大工だども江戸で車作りば学び直したいって言いよるとです」「それは丁度いい、上方(関西)の店から頼まれた仕事がたまってるんで助かりますワ」「上方?やはり大将ってのは上方の呼び方たいね」「へーッ、ケイ次さんは上方を知っとるんかい」「江戸に来るには上方を通りますばい」ケイ次はそう言うと隣りのマサ弥の顔を見てうなづき合った。
ただ、母がいてケイが出産間近となるとマサ弥の部屋がない。それを悩んでいるとマサ弥の方から「空き家を探します」と言った。どうやら広三郎並みに頭の回転が早そうだ。

母が車智に戻っている間、修作は与力から特命を受けていた。それは津軽藩からの脱藩者の捜索依頼だった。
「秋沢篤之丞。痩せ形。色白。女好き。武芸の心得なし・・・何でございますかこれは?」似顔絵と一緒に書かれている特徴に修作は呆れて訊いた。
津軽藩も小心者の秋沢が知り合いもいない国元に向かうことや公儀(幕府)に訴え出ることはないと判断して、単なる脱藩者として手配することにしたのだ。
「武家のことはその方も詳しかろう。気がつけばワシを通じて津軽藩に知らせよ」与力は武家と言っても下級であり、修作の父・テンジンの方が上位に当る。
そのため武家に関する捜査は修作に命じられることが多いのだが、そこは上司としての面子がありこのようなモノ言いになる。しかし、脱藩者の秋沢が武家屋敷に出入りしているとは思えないが、若き苦労人の修作は上司の顔を立ててそれは言わなかった。
「女好きなら吉原あたりに潜んでいるか・・・しかし、性分(性格)が悪そうだしな」修作はもう一度、手配の似顔絵を見たが、細い目に薄い唇がいかにも陰険そうだ。
そう考えながら「(ケイの)母不在の間に吉原へ行っておこう」と思いつき、修作は口元をほころばせながら手配書を懐に仕舞った。

町同心の給金は安いが取り締まり上の便宜を図るため対象者からの付け届け(賄賂と言うよりも手数料)があり、管理職の町与力よりは裕福だった。尤も「岡っ引き」と言われる手下を雇ったりするため贅沢ができるほどではない。
また、それは商家・町人を相手にする場合で武家屋敷の防犯を担当している修作は岡っ引きを雇う必要はないものの付け届けもなく、吉原へ行くのも若い頃のトモ造と大差はなかった。
かと言って町同心である修作は取り締まりの対象である夜鷹(よだか)などの私娼(非公認売春婦)を買うことはできないのだ。
修作は元服の後、父から「(吉原に)行ってこい」と金子(きんす)を手渡され筆下ろしをした。つまり公私、身心ともに「大人になれ」と言うことのようだった。
その時は大門前の店で花魁を相手にしたが、同心になってからは街外れの安女郎屋になっている。しかし、修作は野暮と言われようと見世始め(開店)の客になるのが好きだ。
吉原では「お直し」と言って客が帰ると花魁は切見世(きりみせ)と言う土間を入れても2畳ほどの狭い場所に駆け込み、そこで秘部の洗浄や化粧直し、着物の着付けなどを慌ただしく行い、張見世に出なければならない(前戯を省略するための潤滑剤もあった)。
町同心になってそれを知ってからは2番手になるのが嫌なのだ。

ケイが男の子を産んで「ショウ大」と名づけた。
それは「大将」を逆さまにして「将大」にしたのだが、ショウタイではオカシイのでショウタと呼ぶことにしたと言う訳だ。
跡取りができてトモ造の実家も大喜びで、両親は荒川を渡って車智までやってきた。
トモ造とマサ弥が大阪の店「渋屋」の車を作っていると外で「マイ」と呼び、「祖父さんだぞ」「祖母ちゃんだよ」と言いながら抱き上げた様子が伝わってくる。
さすがにトモ造もこの時期は金槌を使う仕事は控えていて、作業場の土間の隅で鋸や鉋を使っての材料作りに励んでいた。
やがて母が「車智」と書いた障子を開けてマイを抱いた父が入ってきた。
「おう、トモ、でかしたな」父はマイを抱きながら嬉しそうに声を掛ける。
「へい、おかげさんでケイもショウ大も元気でやんす」「ショウタ?それが子の名前かァ」トモ造の返事に両親は顔を見合わせた。そう言った父の横で母が壁に張った命名の紙を見つけ指差した。
「おう、トモの野郎も字が上手くなったな」「どこかの御隠居に書いてもらったんだろ」母の指摘は正解だった。これは大阪の渋屋の手代に書いてもらったのだ。
「将大・・・太の字の点が抜けてるじゃねェか」「抜けてんのはお前さんに似たんだよ」「てやんでェ、オメェに似たんだよ。このヌケカス女房」「なにさ、この抜けマラ亭主。アンタがあの日、酒さえ飲んでこなきゃ・・・」両親がいつもの調子で言い合っている時、マサ弥がトモ造に声をかけた。
「大将、これはどうしましょう」その声に父と母がマサ弥の顔を見た。
「おりゃ、若い衆を雇ったのか」「こりゃあ、好い男だねェ」母の台詞に父が「馬鹿野郎」と言ったところでトモ造とマサ弥は立ち上がった。
「コイツは今度、ウチで働くことになったマサ弥でェ。マサ弥、これは俺っちの親父とお袋だ」「お初にお目にば掛かります。よろしく頼んますたい」トモ造の紹介にマサ弥は丁寧に挨拶をしたが末尾がやはり九州弁だった。
それを聞いてマイが父の腕で「でんでらりゅーば」を唄い始めた。

そこにケイの母が襖を開けて顔を出した。
「これは御両親様、お久しゅうございます」母はその場に正座すると丁寧に両手ついた。
「へッ?」両親とも今度は呆気にとられて顔を見合わせる。
「トモ、この家はどうなってるんでェ。マイは訳の分からねェ歌を唄うわ、オッカさんはお武家の奥方みてェになってるし・・」「まったくだよ。アタシャア口もきけないよ」「きているじゃねェか」「いつもほど口が回らないんだよ」「変わってねェぜ」両親が口々に言い合っていると、奥でショウ大が泣き始めた。
「おう、赤ん坊だけはマトモだ」「よかった、よかった」「オギャーオギャー」と言う泣き声を聞きながら両親は草鞋を解き、足も洗わずに部屋に上がり、ケイの胸で乳をもらっているショウ大と対面した。父は照れたような顔で少し顔を背けたが、母は逆に覗き込んだ。
「よく飲むのかえ」「んだ、マイよりもたんと飲むんでやっぱり男の子は違うんだべか?」「そうでもないけど、元気な証拠さねェ」そう言うと母は赤子にしては黒々としている将タの髪を撫でた。その会話を聞いてようやく父もショウ大の顔を覗いた。
「赤けェなァ。顔が真っ赤だぜ」「赤いから赤ん坊って言うだろう」「違げェねェ」生れて1週間のショウ大は、まだ周囲の環境にはあまり反応せず懸命に乳を飲んでいる。
「乳の出が悪ければ乳母を探さねばなんないけど、おケイさんは好い乳をしてるから大丈夫だね」「乳母がいなけりゃ、山羊の乳でも好いたァ言うが・・・」確かに山羊の乳は母乳に近いとは言うが、それは新生児には無理な話だろう。
両親は乳を飲みながら眠り始めたショウ大に気を使い、黙って顔を覗き込んだ。

「ショウ大が落ち着くまで」と相変わらず木材の加工をしているとマサ弥が言ってきた。
「大将、どうもオイ(俺)の国と江戸では材が違うようですたい」「そうけェ?」トモ造が鉋の手を止めて振り返るとマサ弥は切った丸太の年輪を眺めている。
トモ造も津軽に行った時、同じことを感じてはいたが、材料の加工は広三郎が請け負っていたので、それほど問題ではなかった。
「津軽ではオンコって言う木があってな、こっちじゃあ神さん(神社)のご神木でェ」「オンコ」とはいわゆる「イチイ」のことで、イチイは朝廷から「一位」と言う位階を賜ったからその名があるようにご神木の定番である。
「木が違うと言うよりも、目の詰まり方が違うとです」九州と関東の低地は植生分布としては同じ常緑広葉樹林帯(ヤブツバキなど)に属するが、関東でも山地になると東北の低地と同じ夏緑広葉樹林帯(ブナなど)になる。
また現在の日本の山林は明治以降、農林省の指導で植生に関係なく全国一律に杉や檜などを植えたが、この時代は各藩ごとの施策なので入手可能な地元の苗が用いられて現在ほど一律ではなかっただろう。
「ふーん、どっちが使いやすいんでェ」「軸や枠にするにゃあ、こっちの堅い方がよかばってん、板にするのはアチラの柔らかい方が楽ですたい」マサ弥は船大工だけに木を反らして成形する技は車職人以上のモノがあり、車輪作りはトモ造の方が学ぶ点も多いのだ。
「そうけェ、それにしてもこの家も喋りだけじゃなくて色々な国のことが判るってのはいいな」トモ造も家の中に全国が入り混じっていることを楽しむようになっている。
「ばってん、オイは国が落ち着いたら帰るつもりですけん、それまでに車造りを仕込んでもらいたかです」マサ弥の意外な告白にトモ造の頭はまた混乱してしまった。

母が修作の家に帰った頃から車智ではマイの時と同じく「トントン・オギャー」「カンカン・オギャー」「トントンカンカン・ウギャー」の職人教育が始まった。
ただ、トモ造としては跡取りのショウ大だけに反応するのが嬉しく、金槌を振るうにもついついテンポを取ってしまう。
そんなことをやっているうちに渋屋(しぶや)の江戸の店が完成し、大阪からの廻船が品川に着くまでに車を納めることになった。
しかし、配達用の5台は大八車に載せるにしてもこの3台を運ぶには人手が足りない。
「困ったなァ。オメェと俺っちじゃあ二度手間でェ」品川の海沿いの通りにある渋屋まで一度行って、残りの1台を取りに戻っては半日仕事になってしまう。納品(仕事)は一度で済ませるのが江戸の職人の見栄でもあった。
「そうだ。ケイ次さんに頼めばよかばい」「て言ってもケイ次さんは船頭だぜ」「島原の漁師は獲れた魚を車に積んで温泉街に売りにでるけん、車を引くのは得意たい」トモ造はマサ弥の説明でケイ次が船頭の前は漁師だったことを思い出した。
「そうかァ。そりゃいい。早速、頼みに行くとしよう」母が帰ってからマイもまたケイ次の子供たちと遊ぶようになっている。今日も行っているのだろう。

トモ造がケイ次の所に出掛けた時、1人の怪しい男が車智に忍び込んだ。先ほど法被を羽織った主人と若い男が出ていったことは軒の影から見ていた。
男は汚れきった着物だが袴をはき、刀を差しているところを見ると侍のようだ。頭にはこれも汚れた手拭いを巻いて顔と伸びた月代(さかやき)を隠している。
「よし、亭主は出かけたな・・・」そう言うと男は障子を少し開けて中の様子を確認した。家の外から赤子の泣き声と母親のあやす声が聞えていたから作業場には出てこないだろう。男の目的は先ずは空腹を満たし、金を奪うこと。赤子を産んだばかりの女では残念だがソチラの目的は諦めるしかない。
男は土間に人気がないことを確認すると刀を抜いて左手で障子を開けた。
「誰でェ!」その時、男の背後から若い男が声をかけた。慌てて振り返ると背が高く逞しい若い男=マサ弥が片手に棒切れを持って立っている。
「お前は亭主と一緒に出掛けたんじゃ・・・」「オイは車を見に行っただけばい」男は焦りながら両手で刀を構え、マサ弥に斬りかかろうとした。
しかし、それよりも早くマサ弥は目にも止まらぬ足さばきで間合いを詰め、棒切れで小手を打ち、男は刀を落とした。
「うりゃーあ」続いてマサ弥は面を打ち、男はその場に尻餅をついた。そして、刀に伸ばす男の手を踏み、棒切れを喉元に突きつけた。
「斬りかかってきたところを見ると押し込みたいね。オイには敵わんけん観念しんしゃい」マサ弥はそう言って男の刀を取り上げると、それを喉元に突きつけて家の中に引き込んだ。

「オイの国では職人と言えども剣術をたしなむけん、そこらの侍には負けやせん」マサ弥は幼い頃から棒切れを振り回す合戦ごっこが好きで、成長してからは町道場に通って剣の腕を磨き、神社の祭礼などの懸賞試合などでは不敗だった。
さらに言えば現在のような防具は幕末の剣豪・千葉周作の北辰一刀流道場が始めで、試合稽古は竹を割って細長い袋に入れた袋竹刀が一般的だった。
「それにしても汚なか侍たい、食い詰めて押し込みとは情けなか・・・」そう言って男が被っている手拭いを取り顔を晒した。
普通、侍であればこの恥辱は耐え難く顔を背けたりするものだが、この男は黙ってうなだれた。そこに外のただならぬ様子を心配してケイが出てきていた。
「マサ弥、何事ねェ」「コイツが押し込みしよったとです」「押し込み(強盗)」と聞いてケイは一歩後ずさったが、男の顔を見て驚きの声を上げた。
「ありゃあ、秋沢様でねェけ」同時に男=秋沢も「ゲッ」と唸った。
「お上さんの知り合いとね」「昔、勤めていた江戸屋敷のお侍さんだァ」ケイは一瞬、懐かしいと思い掛けたが、落ちぶれ果てた秋沢の姿を厳しい目で睨んだ。
「ばってん、今は押し込みたい。お役人に渡すしかなか」「だなァ」結局、秋沢は紐で縛り上げられてトモ造とも再会し、そのままマサ弥の通報でやってきた修作に引き渡された。
その時、ケイから身元は全て伝えられ、修作は取り調べの手間をかけずに済んだ。

秋沢篤之丞・捕縛の報は江戸藩邸の正式の公文書と松木から河合への内密の報告の2便が送られた。猪走(いばしり)のカツは尾野のタツのように走るのが早い訳ではないので、江戸藩邸の飛脚と抜き抜かれを繰り返しながら津軽へ着いた。
その間、秋沢は脱藩者として下屋敷の牢小屋に入れられていたが、報告を受けた国元は「高野の使い走りに過ぎず津軽まで呼ぶ必要はない」と判断し斬首を命じてきた。
この時代、形式上とは言え侍が切腹を許されないことは大変な恥辱であり、それだけ藩主の怒りは深いと言うことだが、度胸のない秋沢には余計な作法がない方が幸いだったかも知れない。

ある日、修作が顔を引きつらせて帰ってきた。
「あれ、御主人様、どうされました?」「・・・」母は足を洗う水をはったタライを抱えているのだが、修作は刀を帯から外そうともしない。
後ろに立つ母からは修作の背が震えているのが分かる。しばらくそのまま時間が過ぎた。
「先ずはお上がりを・・・」「うむ・・・」母に促されて修作はようやく刀を外し、板の間に腰を下して草鞋の紐を解いた。
草鞋を脱いだ足を母が洗い始めると修作は重い口調で話し始めた。
「実は今日、父の仇(かたき)に会うたのじゃ・・・」「仇?」テンジンは食を絶っての自死と聞いている。ならば仇と言うのはおかしな話だった。
「父上が番頭(ばんがしら)だった頃、作法を弁えぬ若い旗本を叱ったところ、それを怨んで親に嘘の報告をして、その親が幕閣にアレコレと誹謗中傷したのじゃ」「誹謗中傷?」「悪口のことです」言葉遣いはマスターした母だったが、単語理解はまだ不十分だった。
「ワシの母が吉原からの足抜けだと言うことも何処からか調べ出して城中で噂を広げ、父上はそれもあって嫌気がさしたのじゃろう」母はうなづきながら足を洗っている。
「今日、佃島の人足寄せ場に行ったところアヤツがおって、相変わらず顎で人を使っているのを見た・・・」母が顔を上げると修作は唇を噛み締めていた。
「斬ろうかとも思ったが私憤に駆られての刃傷沙汰ではお咎めがある。母上にも迷惑がかかろう」その時、母の首筋に熱いモノがかかり、見上げると修作は涙をこぼしていた。
「御主人様・・・」「すまぬがしばらく下を向いていてくれ。武士(もののふ)が涙を人に見せる訳にはいかぬゆえ・・・」母はうなづいて足を洗い続けた。母の手には修作の足が震えていることが判った。
「私の夫が直訴の罪で磔になったことは申したと思います」「うむ・・・」「でもテンジン様は、『死なば佛、罪は生きている間のことじゃ』と仰って弔いをして下さいました」「父が・・・」修作が深く息を呑んだ音が聞えた。
「ですからその仇が犯した罪もテンジン様が生きておられる間のことなのではございませんか。そして何もされずに亡くなられたのなら・・・」ここで修作は「東俊助め、命冥加な」と言って刀を掴むと裸足のまま障子を開けて外へ飛び出し、すぐに外からは空気を斬る鋭い音と修作の無言の気合が聞えだした。その間、母は台所へ行って水瓶から水を汲み、タライの水をかえた。

やがて修作が肩で息をしながら土間に戻ってきて先ほどと同じように腰を下し、母はもう一度、足を洗い始める。足は先程よりも熱かった。
やがて修作は「面(おもて)を」と言い母は顔を上げた。そして修作は下に手を伸ばすとタライの中から母の手を取った。
「御主人様・・・」「うむ、亡き母上から説教を受けているような心持ちじゃった」「母上様の?」「ワシの幼い頃に亡くなった故、顔も覚えてはおらぬがの」現代なら遺影やアルバムの写真で面影を辿ることもできるが、この時代では似顔絵くらいしかそれをする術はない。テンジンは修作が幼い頃に妻のキヨを失って、しばらくは父子で城番の長屋に住んでいたが、上司の仲介(命令)で実家に帰ることになり、妻との思い出の品は全て処分させられたのだ。母がもらったキヨの着物は番頭の手荷物として城に残しておいた物だった。
その後も縁談の話は何度もあったがテンジンは拒み続け、修作が元服してすぐに隠居、出家して旅に出てしまった。その意味では修作の親との縁も濃いとは言えないだろう。
「母上がもう少し若ければワシの嫁にもらうんじゃがの。ワシも年上は5歳までじゃ」「また、おたわむれを。嫌ですよ」修作の惚けた台詞に母は愉快そうに笑い、先ほどまでの張り詰めた空気が明るく軽くほぐれたようだった。

松平定信の寛政の改革も江戸では着実に徹底されていたが、重箱の隅までほじくり返すような取り締まりや武士への偏狭な理想を押し付けなどに嫌気がさした者による落首騒動が世間を騒がしていた。
ある日、このような落首が貼りだされていた。
「孫の手が 痒い所に 届きかね 足の裏まで かきさがすなり」これは「孫の手で背中をかこうと思っているのに足の裏をかかれているようだ」と改革が的外れであることを揶揄したものだが、この時代、政治批判は御法度であり、場合によっては斬首もある重罪である。
それは大名であっても同様で、尾張藩主・徳川宗春は「暴れん坊将軍」吉宗の享保の改革の質素倹約令に反対して自領の名古屋で遊興三昧の生活を送ったことを咎められ隠居謹慎し、死後は墓石に金網を掛けられ縛られるほどの仕打ちを受けた。
またこのような落首もあった。
「白河の 清き流れに 魚すまず 濁れる田沼 今は恋しき」こちらは松平定信が白河藩主であることに掛けて、その理想主義を息苦しく感じ、ほとんど禁制は出されず自由を満喫できた田沼意次の治世を懐かしむ庶民の声であろう。
そして問題になったのが、この一首であった。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜も寝られず」松平定信は「文武二道の修錬」を幕臣だけでなく各藩にも徹底するよう達していたが、問題はこの歌が、庶民ではなく武士の作だと言うことだった。
この頃には定信失脚後に花開いた化政文化の萌芽を感じさせる庶民の教養の高まりがあり、前の2作なら誰の作とも言えないが、「文武二道」への批判となれば武士以外には考えられない。つまり幕政に対する批判を直参がしたことになる。
その疑惑の目を向けられたのが御家人・大田直次郎であった。
大田直次郎は70俵5人扶持(ぶち)と言う貧乏御家人の家に生まれたが、幼い頃から秀才であったもののそれ以上にギャグの才に秀いで、田沼意次の庶民も自由を謳歌できた時代に平賀源内に出会って、序文まで書いてもらい「毛唐珍奮翰(もうとうちんぷんかん)」のペンネームで「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」を出版するや大ベストセラーになり、たちまち狂歌師の第一人者になったのである。
この落首もあまりに出来が秀逸で素人の作とは思えず、武家の狂歌師として疑われたのも無理からぬ話ではあった。

その捜査に町方からは修作が選ばれ、上役の与力に呼び出された。
奉行所の廊下に手をついて頭を下げていると与力は立ち上がって1枚の紙片を渡した。修作が身を起こさぬようにそれを見ると落首の狂歌が3つ書いてある。
「守野、このような公儀の御政道を誹謗する落首騒ぎは許されぬ。その役目にそちを任じた」「ははッ」修作は紙を脇に置いて再び頭を下げた。
「その3首目の落首は武家の作の疑いがある。武家はお目付様、それ以外はそちが担当して探索に当たるのじゃ」「武家でございますか?」修作が下を向いたまま訊くとそれで気を緩めたのか与力は顔で笑いながら説明を始めた。
「ぶんぶとは武家に対する文武両道に励めとの仰せの皮肉であろう」「それにしても好くできておる」「当にカほどウルサキ者はござらぬ。ククク・・・」同室の世力たちが小声で言い合っているのも聞こえたが、修作は顔を上げなかった。
「お目付様に粗相のなきよう心して勤めよ」「ははッ」「下がれ」こうして修作は不可思議な仕事を担当することになった。
しかし、落首は人目を避けて板塀などに紙を貼ることが一般的で白壁に筆で黒々と書く方が度胸があると持て囃されるが今回は紙である。
そこで修作は噂になっている大田直次郎の狂歌の本を探してみたが、寛政の改革の取り締まりで書店に滑稽本の類は置くことが許されず手に入らなかった。
貸本、古本屋を回っても同様で、落首にあった「白河の 清き流れに 魚すまず」に納得してしまい慌てて首を振った。
考えてみれば修作はガチガチの堅物の祖父の教えを受け、母の出が悪いことを恥じる祖母に細かく躾されてきたのだから、この程度は当り前のことなのだ。
仕方ないので修作は、つき合いがある商家の隠居に尋ねてみた。

隠居座敷に通された修作は茶を勧める隠居に「大田直次郎の狂歌集を見せてもらいたい」と申し入れた。しかし、流石に隠居は流石に困惑している。
親しくしているとは言え相手は役人である。中には油断させて御禁制品所持で縄をかける悪どい役人もいない訳ではないのだ。
しかし、若い割に真っ正直な修作の人柄を知っている隠居は微笑んでうなづいた。
「お役人様と一緒ならお叱りを受けることもありますまい」そう言って店主は押入れの奥から狂歌集の本を取り出してきて見せてくれた。
商家の座敷で修作は隠居と向い合って狂歌集を読み、手ほどきを受けた。
大田直次郎は「安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)」「藤偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)」「四方赤良(よものあから)」などの筆名(ペンネーム)で狂歌や洒落本を書いていた。「世の中に 酒と女は 仇なり どうぞ仇に めぐりあいたい」や「早わらび にぎりこぶしを ふりあげて 山の横面 はる風ぞふく(はるを春と張り倒すにかけている)」などの現代でも落語のマクラに使われている狂歌も直次郎のものであった。
「どうです。面白うござんしょ」「うむ、これのナニが悪いのかのォ」修作は思わず本音を答えてしまい、隠居も我が意を得たりと微笑んでうなづいた。

その足で修作は奉行所の与力から聞いた小人目付(下級武士担当)の元を訪ねた。
目付は若年寄直轄の千石取り格の上級武士であるため江戸城内本丸、西の丸にあるが町同心が訪ねることはできず、幼い頃に住んでいた旗本屋敷の私邸を訪ねた。
修作は小人目付の家の門前で下男に要件を告げ、奉行所から受け取った任務の書状と名詞(手書き)を出して小人目付への取り次ぎを依頼する。
そうして修作は足軽として廊下に通され、そこで床に手をついて待った。
「北町の同心が・・・?」「はっ、落首の件で伺いたき儀があるとか」閉めた障子の向こうで確認をする声が聞こえ、間もなく障子が開けられ修作は額を床板につけた。
「北町の守野修作と申すはそちか?」目付では直接話すことはできないが、その配下の小人目付であれば許される。その辺りの作法は修作もよくわきまえていた。
ただ、考えてみれば小人目付は父の、そして自分が継ぐはずだった番頭とは同格である。
「ははッ、左様でございます」修作が床を見たまま答えると小人目付が偉そうに答えた。
「苦しゅうない、面を上げい」「ははッ」と言われてもすぐに上げてはならない。相手の身分によって回数は異なるが、何度か促されてようやく上げるのが作法だ。
修作は顔を上げたが、それでも相手の顔を見ながら話すことは許されない。
一瞬見た小人与力は町同心の修作が上級武家の作法に馴れていることに意外そうな顔していている。そのまま差し障りがない業務の確認を行った後、小人目付は言った。
「うむ、用件は判った。されど街角への落首は町奉行所の担当であろう」「ははッ」「当方は直参に左様な不心得者がおらぬかを確かめるだけじゃ」「ははッ」「したがって直参が関わっているとの話があれば知らせればよい」「御意ッ」修作は大田直次郎のことを訊きたかったが御家人のことは目付の役どころであり、それに立ち入ることが許されないこともよく判っていた。
要件が終ったのを見計らって部屋の中に控えていた誰かが障子を閉め、修作は屋敷を後にした。

それでも修作は大田直次郎の身の上を当たってみた。と言っても落首は人がいないのを見計らって貼り出すため目撃者はなく、さらに人通りが多い街角であるため足跡などの証拠もなく捜査の仕様がないのだ。
大田直次郎は身分的には御家人であり修作たち町同心よりはやや上だが、今風に言えば就職していない予備自衛官のようなもので、収入は仕事がある町同心にははるかに及ばない。したがって直次郎の父は「起きていれば腹が減るから」と「早寝遅起き」を家訓していたと言う。直次郎の世を茶化した風情はそんな家で養われたのかも知れない。
それでも直次郎は幼い頃から文才を発揮し、平賀源内に見いだされて世に出たのは前述の通りであった。
修作は自分の父も何事にもこだわらない人物だったのに祖父母から型にはめ込まれたのだと思い無性に残念になり、自由に才能を発揮している大田直次郎が羨ましくなった。
それから修作は奉行所で、押収品の滑稽本や洒落本、狂歌集などを「証拠調べ」と称して読みふけるようになった。
結局、この一件はウヤムヤのまま沙汰やみになったが、大田直次郎は要注意人物にされてしまい(証拠がないのであくまでも要注意)、本人は汚名をそそぐべく松平定信が中国の科挙に倣って行った登用試験に挑み、トップ合格して勘定方・100俵取りになったものの数年後には大坂へ左遷されてしまい、そこで「蜀山人」と言う号を名乗るようになる。

津軽藩には関ヶ原参陣の軍功により上野(こうずけ=現・群馬県)国の勢多郡に2千石を与えられ、それを合わせて4万7千石だった。したがって江戸藩邸はこの飛び領地を管理する任も担っている。
その年の秋、下屋敷勤めの松木直之進に検見(けんみ)の役が命じられた。この仕事は河合から津軽で仕込まれていて、それを受けての選任だった。
検見とは領国内の農村を回り、その年の収穫を推定し、年貢を決定する資料を提供する重責である。また年貢を逃れようする接待や賄賂を受け取る役人もあり、人選には生真面目さも重要な要素であった。
一方、今年の検見の役が若い松木に決まったことを聞いた勢多の代官・藤原誠太夫は庄屋たちと、その籠絡の策を相談していた。
「松木殿は随分と若いらしいが、河合様のお声がかりで江戸藩邸に遣わされたやり手らしいぞ」「しかし、お若いなら年寄りの手に掛かれば取り込むのも容易いことだっぺ」「そうそう、器量よしの娘でも夜伽(よとぎ)の相手にお付けすれば、あとは夢枕で思いのままでだべ」この庄屋の言葉に代官も好色そうに笑った。
「それで松木様のお好みは?」「それが藩邸でも浮いた噂もなくてな・・・何でも津軽に許嫁(いいなづけ)がいたのを今回の江戸勤めで破談にしてきたらしい」代官が仕入れている情報に庄屋たちは顔を見合わせた。
「それでは同じ年頃の娘なら、その許嫁を思い出して」「そうそう激しく熱く」ここでまた代官と庄屋たちは好色そうに笑い合った。
「いかに謹厳実直なお方でも男の性(さが)と言う奴は何ともし難いからのォ」「それでどこの娘を?」「年貢が納められそうもない百姓の娘で、器量よしに磨きをかけて」「作法を仕込んで綺麗な着物でも着せれば」「その前に味見を、クックック・・・」話が決まって長老の庄屋が代官に酒を注いで、宴席は好色談議になっていった。

検見のため松木直之進が従者を連れて上野国勢多郡を訪れたのは田の稲が黄金に色づき掛け、頭(こうべ)を垂れ始めた候だった。これは収穫後では米を隠すこともあり、早過ぎれば正確な判断ができないからだ。
先ず代官所に赴いた松木は代官・藤原誠太夫の接遇を受けた。
「松木殿は河合様のお声がかりとだか」「はい、国元では色々と教えを受けました」「では検見の役も?」「はい、飢饉後の収穫には先代様も心を砕いておられましたから」当りさわりのない会話の中で腹を探るのがこの時代の武士の戦である。
「しかし、貴殿はお若いから江戸での1人住まいは色々と御不自由でしょうな」「いいえ、拙者は家事は気にならぬ方なので炊事洗濯は女房いらずでござる」「しかし、ナニの方はそうはいきますまい」こう言って藤原は松木の表情を確かめるように顔を覗き込んだ。
「それはそれとして江戸には吉原と言うところもありますから大丈夫でござる」藤原はそれを聞いて今夜、夜伽をさせる娘を想い浮かべた。
恐妻家の藤原は味身をしなかったが、中々の美人であり自信があった。

松木が検見に回ると天明の飢饉の切っ掛けになった浅間山の噴火の傷からの快復が進み豊かな実りであった。江戸藩邸で消費する米はこの地での収穫であるが、今年は参勤がないので江戸で売り運営費にもされる。
松木は田の面積と稲の密度、穂の実り具合まで細かく確認する配下の仕事を見ながら隣りで地図を広げている従者につぶやいた。
「うむ、これであれば今年は本来の年貢に戻しても大丈夫そうじゃな」この言葉に軽減処置の継続を期待していた庄屋たちは顔を見合わせる。
「天明の飢饉の間、我が藩は極端に年貢を軽くしながら懸命に百姓を助けてまいった。その立て直しをせねば国は成り立たぬのじゃ」松木は庄屋たちの不満そうな顔を見逃さず理を以て説明したが、一度掴んだ利権を手放したくないのは人の常であろう。
松木は休憩に寄る庄屋の屋敷でも贅沢な接待は断り、茶をすするだけで取り入る隙がない。
さらに初日、2日目と送り込んだ娘も追い出されて籠絡に失敗している。こうなると先日の「男の性」に期待する話も再検討せざるを得なかった。
「それで今夜の娘は?」「ウチの村の食い詰め百姓の若女房で歳は18、番茶も出鼻」「ならば、亭主と覚えた夜伽の手練手管でメロメロに・・・それは楽しみだべ」若し、これで駄目なら男色趣味を疑って美少年を送り込みかねない連中である。ナントモハヤ。

「松木様、雨でございます」検見も最終日、それまでの晴天が一転、急な雨に見舞われた。
「うむ、雨宿りするところはないか」松木は自分のことよりも配下のことを心配した。
「はッ、あれに寺が」従者が指差した1町(=約109メートル)ほど前方の林に寺の屋根が見える。松木はうなづくと大声で指示を出した。
「許す、あの寺に雨宿りせよ」この言葉を聞いて配下たちは一斉に駆け出したが松木は笠を右手で押さえながら普段の足取りで寺に向かった。
山門をくぐると広くはない境内は綺麗に掃除されており、配下たちは軒下で手拭いで頭や顔などを拭っている。松木はそのまま本堂と庫裏をつなぐところにある玄関に向った。
「頼もーう」中に向かって声をかけると「どーれー」と低い返事が聞えた。
やがて高齢の僧侶が歩いてきて松木と従者の前に座った。
「拙者は津軽藩江戸屋敷に勤めおる松木直之進と申す。検見の役にて当地に参っておるが、急な雨に降られ難渋致しておる。しばし、雨宿りをお願いしたい」そう言って頭を下げると僧侶は微笑んでうなづいた。
「拙僧は当寺の住持(=住職)でございます。田植えの候には恵みの雨も今となってはお仕置き(業務)の妨げでございましょう。何のお構いも出来ませぬがどうぞごゆるりと」この返事に松木と従者は顔を見合わせてから頭を下げ、従者が配下たちの方に向かうと住持は松木に上がるようにうながした。
松木は刀を帯から抜くと玄関の前の板の間に腰を下し、草鞋の紐を解くとそこに若い娘が水を入れた桶を持って出てきた。
「足をお濯ぎ致します」娘はそう言うと松木の前にしゃがみ、素足になった足を両手で持って桶に浸し、丁寧に洗い始める。
「これはかたじけない」松木が声をかけると娘は下を向いたままうなづいた。
洗い終わって娘が胸から出した手拭いで足を拭うと冷えた足に手拭いに移った娘の体温が伝わり、松木の胸がときめいた。

庫裏の方丈(住職の私室)に通され、茶のお点前を受けながら、松木はさりげなく娘のことを訊いてみた。この時代、浄土真宗を除き僧侶の妻帯は禁じられていたが、女中扱いで女を囲う僧侶は後を絶たず、それを庶民は「お籠りさん」などと呼んでいるのだ。
「このような小寺では弟子を取ることもできず、身の回りの世話をしてもらっておりまする。拙僧のような枯れ木には煩悩はあっても身がもちませぬわ。ハッハッハッハ・・・」松木の真意を察した住職は説明し、娘の身の上も教えくれた。
「あの娘はユキエと申しまして、古くは当地を治めた武家の家柄ながら北条様に組していたため郷士になっていたのでございます。ところが浅間が吹いた後(噴火)、領民を救うため貯えていた米を全て炊き出し、歴代の家宝まで江戸で売り払って御当主夫婦は亡くなられ、それで娘を菩提寺であった当寺で引き取ったと言うことでございます」そのユキエは外で休憩している従者や配下たちに湯茶を供しているようだ。
松木が点てられた薄茶を飲むと「その所作は遠州流ですな」と住職は言い当てた。津軽藩の茶道師範は千家ではなく小堀遠州の流れをくむ遠州流であり、松木も江戸へ赴く前に手習いで身に受けていた。
「松木様、これも何かの御縁、時折訪ねて下され」住職の言葉も松木には「ユキエに会い来い」と言われているような気がした。

松木が江戸藩邸に戻ると門の前に若い男が中の様子を覗っていた。
一見して体格がよく色黒で、着ている物は垢抜けず江戸の町の若い衆には見えない。
「何をしておる」「はッ、これは御武家様」後ろから声をかけられ、若い男は驚いてその場に土下座をした。
「そこでは門前じゃ、こちらへよけよ」「ははッ」松木にうながされて若い男は門の脇に移動し、土下座をし直した。
「手前は横浜で漁師の網元をしております中村屋と申します。実は弟が津軽の国元で働いておりまして・・・」「おう、中間のゲン希じゃな」松木が言い当てて中村屋と言った若者は驚いて顔を上げてしまった。
「これッ、勝手に面を上げるな」「これは失礼しましたァ」松木の横に控えていた下士に叱られて中村屋はひれ伏した。江戸の町人であれば武士と接する機会が多く無礼討ちにならぬ程度の作法は幼い頃から身についているが、この時代の横浜は寂れた漁村に過ぎず武士との関わりは殆どないのだ。
「してゲン希に何用かあるのか?」「実は母親が病に伏せておりまして、うわ言にゲン希の名を呼んでおりまして・・・」松木は江戸から津軽へ帰る参勤で、若いが真面目に働いていたゲン希の顔を思い出した。ゲン希とは海岸の植林作業を視察した河合に同行した時にも会ったが「そろそろ弘前に戻りたい」と言っていた。

ある日、ケイがショウ大に乳をやっているとマイがおかしなことを言っていた。
「ショウ大、可愛いでしょ」「うん、可愛がってるよ」「うん、祖母ちゃんの所へ行くの?」「うん、またね」ケイは心配になって訊いてみた。
「マイ、何を独り言を喋ってんだ?」「ううん、祖父ちゃんと喋ってたんだよ」マイは何事もないように答えたが、その時、ショウ大が乳を飲みながら眠り、そちらに手がかかったためマイと話すことができなくなった。
ケイが添い寝を始めるマイはトモ造の仕事を覗くか家の外で遊んで過ごす。その日はトモ造とマサ弥が車の組み立てをやっていてマイも興味深そうに覗いていた。
「ようし、そっちの枠をはめるんでェ」「やってますたい」「やってねェじゃねェか」トモ造とマサ弥が仕事をやりながら言い合いを始めるとマイが突然、独り言を始めた。
「お父っつぁん、怒ってばかりで駄目だね」「そんなんじゃ、チェンジュ様に手を取り上げられるって?」「そんなことしたら、お父っつぁん、仕事ができなくなるよ。駄目だよ」トモ造をマサ弥は言い争いを止めて顔を見合わせた。
「マイ、誰と喋ってるんでェ」「テンジンさんって言うお坊さんだよ」マイの返事を聞いてトモ造は驚いてマサ弥の顔を見た。しかし、訳が分からないマサ弥はその顔を怪訝そうに見返した。
「マイ、テンジンさんを知ってるのけ?」「うん、だってここにいるよ。ねッ」マイはそう言うと板の間の隣りを見て誰かが返事をしたかのように笑ってうなづいた。
ようやくマサ弥も事態が飲み込めたのか怖いモノを見るような顔になる。2人とも固まったようになっているとマイがまた不思議な台詞を口にした。
「テンジンさんが仕事はいいのかって、早くしないと日が暮れてしまうぞって」トモ造は「はい」と返事をしてマサ弥を促して仕事を再開した。

その夜、夕餉を終えショウ大が眠ってからトモ造とケイはマイと話をした。そこにはマイの祖父=ケイの父が来て座っていたが当然、トモ造とケイには見えない。
「マイ、さっきおジィと喋ってるって言ってたね」「俺にはテンジンさんって言ったぞ」夫婦は自分たちが聞いた話を先に確認しようとして顔を見合わせた。
「おジィじゃないぞ、ジジ上様だって」「えッ?」そこで修作の家から帰った祖父が文句を言うとマイがそれを口にした。祖父は修作の家で妻が「母上様」と呼ばれているのを見て羨ましくなったらしい。
「そう誰かが言ってるのけ?」「だからおカァのおトォだよ」マイは当り前のように説明したが、その言葉にトモ造とケイは勿論、祖父まで驚いた。
「マイ、ワシが誰かも分かるんだな」「だってお爺ちゃんの声だもん」「うん、でもワシが死んだ歳は今のトモ造とそう変わらんぞ」「でも、おカァと同じ喋り方だよ」「そうかァ、顔も見えるのか?」「ううん、影だけ」マイと祖父の親しげな会話(ただしトモ造とケイにはマイの独り言)を聞いてケイはようやく状況を理解した。つまりマイは津軽のイタコの口寄せをする血統を受け継いでいると言うことのようだ。
「マイ、おジィがそう言ったの?」「うん、ジジ上様だって」マイの返事にケイはうなづいたが、トモ造は呆気にとられてケイとマイの顔を見比べた後、その場は「そう言うこともあるのか」で納めることにした。

次の休日、トモ造はマイを連れて修作の家に母を訪ねた。
玄関で案内(あない)を請うと義母が雑巾を持って出てきた。洗濯物が竿に干してあるところを見ると、もう朝から忙しく働いているらしい。
「やっぱりトモ造さんだったかァ」義母はその場に座って畳んだ雑巾を脇に置いた。
「何となく朝からお客が来るって気がしてたんじゃ」義母の何気ない台詞にトモ造はマイのことと結びつけて「ギクッ」とした。
「御主人様が仕事に出ておられるから留守宅に人を上げる訳にはいかぬのじゃ。ここで失礼するぞよ」その時、マイがトモ造の後ろから顔を出した。
「あれ、マイ」「ババ上様、どひゃ」「マイもババ上様何て呼ぶようになったのじゃな」義母はマイの意外な呼び方に戸惑いながらも嬉しそうに顔を見た。
「いえね、マイは祖父さんに習ったって言うんでさァ」「祖父さん?トモ造さんのお父つぁんかね」「いや、ケイのです」「ケイのって言えば、ワの主人のことだべ・・・」トモ造の返事を聞いて義母は困惑した顔で黙ってしまった。
「マイはテンジンさんとも話すみたいで、ケイはイタコだって言ってるんでやす」黙った義母にトモ造が説明するとその横でマイが奥を覗きながら声をかけた。
「お坊さん、どひゃ」「うん、ババ上様に会いに来たんだな」「へーッ、ここがお坊さんの家なんだァ」「お前のジジ上様はおカアの所だぞ」「昨日もジジ上様が帰ったらお坊さんが来たね」「うむ、入れ替わっておる」マイの楽しげな独り言に義母も納得したようにうなづいた。

「マイは津軽の生まれだからイタコの業(わざ)が備わっていても不思議でねェべ」義母の言葉でトモ造は津軽で連れて行かれたイタコのお婆さんを思い出した。
「マイ、テンジン様や祖父さんの声が聞こえるのかい?」「ううん、耳に聞こえるんじゃなくて胸に響いてくるんだ」義母の問いかけにマイは首を振って答え、トモ造は少し不安そうな顔でマイと義母を見た。親の理解を超えた能力を娘が見せ始めたことに父親として不安を隠せないようだ。
しかし、義母は自分もそれを当たり前にしていることもあり別段気にもしていない。そこでテンジンがマイに言葉を通訳させた。
「マイは津軽の血が流れておるから死んだ者と暮らすことが身についておるのじゃ」「そんなの難しいよォ」マイが唇を尖らすとテンジンは「すまぬ、すまぬ」と笑って頭を撫で易しく言い直した。
「マイはイタコと同じじゃ」「アタイはイタコと同じじゃってさ、解った?」「そうかァ、テンジンさんがそう仰るならそうなんだろう」ようやくトモ造も納得したが親としての心配をテンジンに問うた。
「それではこのままにしておけばいいんですかい?」「じゃが、童(わらべ)の間は変な霊が近づかないように気をつけぬとな」「また難しいよォ」「すまぬ、すまぬ」またマイに叱られてテンジンは苦笑いした。
「このことは隠しておいた方がいいな」「内緒なの?」「そうじゃ」「このことは内緒だって」マイの簡単すぎる通訳にトモ造は首を傾げたがこれは仕方ない。トモ造は家に帰るとケイとマサ弥にテンジンの言葉を伝えた。

それからマイは独り言で呪文を唱え始めた。
「おんかかか」「び」「ちゃんまいえい」「そわか」これはテンジンが子供を守る地蔵菩薩の真言を教えているのだった。本来は「唵訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶(おんかかかびさんまーえいそわか)」と言うのだが、まだ練習中なのだ。
その説明をマイから聞いてトモ造が妙な横槍を入れてしまった。
「テンジンさん、千手観音様の呪文は何て言うんで?」それを聞いてマイはキョトンとした顔をしたが、すぐに途切れ途切れに真言を口にした。
「おん」「ばざら」「だるま・・・だるまさん?」「うん、だるま」「きりきりきり」「うん、きりきりだね」正しくは「をん・ばざら・だるま・きりきり」だがトモ造には聞こえないテンジンとの会話なのでよく判らなかった。
「おん・ばざら・だるまさん・きりきり・・・だってマイ、だるまさん好きだもん」もう一度言い直したがトモ造には正解が判らない。仕方ないので車智では「おん・ばざら・だるまさん・きりきり」と唱えて祈ることにした。

ある日、トモ造がマイを船頭のケイ次のところへ遊びに連れていくと若い船頭がいた。
「ありゃ、オメェは?」「ありゃ、親方」それは津軽への道中で一緒になった中間のゲン希だった。
「オメェは木村屋さんに雇われたんじゃあなかったのか?」「へい、あれから深浦で下ろした北前船の荷を弘前まで運ぶ仕事をやってたんですが・・・」ここでゲン希は1つ息をのみ込んだ。
「オッカァが病んだって便りを尾野のタツさんが届けてくれやして、仕方なくお暇をいただいたんでやんす」しかし、キヨ助親方が江戸を出てからは尾野のタツとのつながりはないはずだが、トモ造はそこまで思いが至らなかった。
「それで戻ってみたらオッカァはすっかり治っていて、それで仕事を探したんでござんす」「それじゃあ、ウチにマサ弥を紹介してくれたと思ったら、ケイ次さんも若い衆をやとったんですかい」「オイも親方に雇われているばってん、コイツも雇われたんですばい」ケイ次が説明するとゲン希が横に立って頭を下げた。
「おう、オメェがトモ造の大将を知ってるならよかばい」「大将?」「親方のこったい」横浜の出のゲン希にはやはり上方(関西)の大将は通じないようだ。
「こいつもオイと同じ漁師の出でばい。車引きもできるばってん、大将にも使ってもらえるたい」「どうぞ、お見知りおきを」ゲン希はそう言って頭を下げたが広三郎に仕込まれたのか一段と礼儀正しくなっている。それにしてもマサ弥と言いゲン希と言い、どうも若い奴らは頭の回転も速そうだった。

  1. 2014/12/18(木) 09:54:05|
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