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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

「どさ?」「江戸さ」下

「どさ?」「江戸さ」下

その頃、幕府は外交問題で頭を抱えていた。
寛政4(1792)年の9月3日(太陰暦)、蝦夷地の根室に3名の漂流民を送り届けに来たロシア船・エカテリーナ2世号が入港したのだ。3名の漂流民とは伊勢の船頭・大黒屋光太夫、水夫の小市、磯吉である。
当時の根室は数十軒のアイヌ小屋と運上屋(松前藩の許可を受けた商人)の施設、そして松前藩の役人の番所と住居が2、3軒あるだけで、役人は公使のアダム・ラックスマンを招いて渡航目的などを確認し、松前へ使者を送って報告した。
ちなみに一行の中には日本人の漂流民を父に持つ若者が通訳として同行しており、日本文で書かれた書簡も使者に持たせている。
その書簡には「漂流民3名を江戸で引き渡したい」と書いてあったが、老中・松平定信はその前年に海防の必要性を訴える「海国兵談」を著した林子平を「虚言を弄して不安をあおった」として発禁の上、版木を没収、焼却していただけに面子は丸潰れであり、また前例踏襲に馴れ切っている幕閣としてはこの事態に対応できず、「長崎へ行かせろ」などと間抜けな指示を出す始末であった、
根室から松前まで2週間、そこで藩主や重役が内容を確認してから江戸へ報告するため交渉の長期化は避けられずラックスマンたちは越冬のための住居を建てる許可をもらい、ロシアの水夫たちが自力で建設した。
一方、幕府はこの外交交渉を辺境の一藩に任せる訳にいかず、代表者を派遣する準備にか
かった。ましてや松前藩は蝦夷地で米が収穫できないため経済力と領地の大きさから「1万石並み」と最下級の格式で認められた特例の大名なのである。
このような外交問題を庶民が知るべきもないが、代表団を編成するため密かに人材の召集が行われた。先ずは警護や下働きの足軽同心、連絡のための飛脚、さらに小舟を操る船頭まで、それはトモ造の周りの人たちにまで及んだ。

ある日の夕餉の席で修作が母に告げた。
「母上、拙者は蝦夷地へ参ることになり申した」「蝦夷地へ?」母は給仕の手を止めた。母には町奉行所の同心である修作が蝦夷地へ行く理由が判らない。
「蝦夷地に公儀の使者が使わされることになり、それに従えとの命でござる」「蝦夷地と申せば津軽から海を隔てた北の果てでございます。そんなところへ行かれるのですか」「うむ・・・」母が差し出した茶碗を受け取りながら修作はうなづいた。
「これは他言無用でござるが、おロシアの船が来ておるらしくての、その話し合いに公儀から使者が向かうようじゃ」「おロシア?」この時代の庶民にとって他国とは自分が暮らす国元以外の土地を言い、海外などは存在することすら思いもよらないことなのだ。
「うむ、父が大番頭を勤めておった頃、阿波や土佐の海岸に弁五郎なる異人が来たことがあるらしいが、赤毛の背が高い、天狗のような異形(いぎょう)の者だったそうじゃ」「何だか恐ろしゅうございます」母は怯えたように身体を固くした。それはベニョヴスキーと言うロシアのシベリア流刑囚が反乱を起し、聖ピョートル号を奪って逃走した事件で、ヨーロッパへ向う途中で日本に寄港したのである。この時、べニョヴスキーは「ロシアが日本を攻撃する」と言う怪文書を残していったため大番頭であったテンジンも知っていたのであろう。
「それでじゃ、母上、北へ行くには何を仕度すれば好いのか教えていただきたいのだ」「はい、それは何時のことでございますか?」「すでに内偵が2名、出立されたがワシらは春になってからでござろう」「それでも蝦夷地の春は江戸とは違いましょう」母は修作が今来ている綿入れの半纏をもう1枚作ろうと思った。

飛脚の猪走(いばしり)ではカツが親方に呼ばれていた。
「カツ、オメェ、蝦夷地へ行っちくれい」「蝦夷地?そりゃあ津軽の向うの蝦夷地ですけェ?」親方は奉行所から公儀の使者に同行する飛脚を差し出すように命ぜられている。
幕府としては外交交渉に松前藩を関与させることを嫌い、そのため飛脚に至るまで江戸から同行させることにしたのだ。
「うん、御公儀が蝦夷地で何やら大仕事をされるらしくってな、その書状を運ぶらしいんでェ」「そりゃあ、オイラは津軽までは何度も行ってやすからお安い御用でござんすが・・・海峡を渡るのは初めてなんで」快諾しないのは仕事上の駆け引きだが、カツは内心「この仕事ができるのは自分しかいない」と腹を決めていた。
元来、人に命じられることが嫌いなカツは、寛政の改革で庶民の日常生活の裏側にまで公儀が指図してくる江戸での暮らしに辟易としており、蝦夷地の居心地がよければそのまま住みついても好いと思った。
カツが飛脚になったのは書状を運ぶのは単独行動であり、他の商売のように客の御機嫌をとってお世辞を言ったりする必要がないからなのだ。
「蝦夷地かァ・・・江戸地じゃあねェだろうな」カツは珍しく駄洒落を言うと自分の背中が寒くなって身震いをした。

公儀(幕府)の蝦夷地派遣は思いつきで手配するためとてつもなく大所帯になってきた。
「ゲン希、オメェは津軽から帰ったんだよな」「へい」日暮れで渡しが終った後、舟を岸に立てた柱に縛りつけながらケイ次がゲン希に声をかけた。
「蝦夷地へは行ったことあるんか?」「ありやせんが、北前船は函館まで行ってやしたから話は聞きました」「そうか・・・」そこで櫓と竹竿を舟に納め、2隻目にかかった。
「俺に蝦夷地へ行けって話が来たたい」「蝦夷地へ?」「うん、親方が奉行所に呼ばれて申しつけられたらしか」ゲン希は「ならば自分が」と思ったが、ケイ次は意外な話を始めた。
「オイの女房は秋田の生れたい」「秋田って陸奥(みちのく)のですかい?」「あそこは出羽だけどな」東北でも現在の秋田県と山形県は出羽の国である。それは平安時代から朝廷に対して租税を納めていたため国として認められていたのだが、その時、矢羽にする鷲の羽が特産品として珍重されていたから「出羽」と呼ばれるようになったのだ。
「それにしても何処で秋田美人を見つけたんですかい?」秋田が美人の産地であることは津軽にいた頃から聞いてはいたが、ケイ次の妻には会ったことはない。
「そげなこつ知らんでもよかばい」ケイ次はそう言うと拳を軽く頭に当てる。ケイ次が江戸へ出てきた頃、妻も秋田杉を江戸に下している材木屋に奉公に来たことは後で聞いた。
「ならばそのまま秋田へ帰れると好いじゃんね」「蝦夷地に家族を呼んで住みつくかも知れんたい」ケイ次はそう言うと真顔でゲン希を見た。
「だから後をしっかり頼むたい」ケイ次は遠回しに今回の蝦夷地行きに命をかける覚悟をしていることを言いたかったようだった。

トモ造は渡し場へ荷車修理の仕事を探しに出掛けるとケイ次が客待ちをしていた。
渡し船はケイ次が抜けた後は次が決まるまでゲン希が頑張り、手が足らなければ親方が出ることになっているが高齢でもあり不安は隠せないようだった。
「ケイ次さん、オイラに船漕ぎを教えてくれねェか?」突然、トモ造が言い出した。
「大将には車作りの仕事があるばい。そげんこつせんでもよかでしょ」ケイ次はトモ造の真意を測りかねてうなづけなかった。
「ケイ次さんが抜けちまうとゲン希だけになっちまう。オイラも仕事を探してるくれェで
暇なんでェ。手伝えればこっちも助かるんだい」ケイ次は「船頭の仕事を舐めているんじゃないか」と少し不快そうな顔をしたが、トモ造の生真面目で善良な人間性を思いうなづいて立ち上がった。

ケイ次は留めている渡し船で構造の説明を始めた。
「大将」「オイラが習うんだからトモ造と呼んでくり」トモ造の返事を聞いてケイ次は微笑んでうなずいた。その辺りの筋の通し方がトモ造なのだ。
「でトモさん、これが櫓ベソだ」「確かにヘソみてェだ」櫓ベソとは船尾に突き出ている杭のことで櫓杭(ろくい)と呼ぶこともある。
「この紐が早緒(はやお)で舟と櫓をつなぐんだ」ケイ次は船床(船底)にある紐を摘み上げて説明した。続いて今は外して船の上に寝かせてある櫓の説明になったが、櫓は3間(約5・4メートル)ほどもある。
「意外に長げェな。重そうだ」その長く太い櫓を見て、トモ造は少し心配になった。
「この上の方が腕(うで)」「うえ?」「うで!」「下の方が脚(あし)」「あし」子供のように返事をするトモ造にケイ次も楽しそうな顔になった。正式には櫓をつけて「櫓腕」「櫓脚」と言うのだが、ケイ次は言いなれた略称を教えた。
「それで腕と脚をついであるところがタガイばい」「かたい?」「たがい!」「たがい」これは櫓腕と櫓脚を互い違いに接続するためつけられた名称だ。ここまで説明するとケイ次はトモ造を手招きした。
「ここが入れ子(いれこ)で、櫓ベソをはめるたい」ケイ次が指差した櫓の腕の部分にある金具を見ると2つの円をつなげたような穴が開いている。ここに櫓ベソの上端のくびれた部分をはめるようだ。
「そいでここが櫓杆(ろづく)、ここを握って漕ぐんたい。そいでさっきの早緒はここにつなぐんだ」ケイ次は櫓腕の端の方にある垂直に突き出た杭を握りながら説明した。
しかし、大した数の名称ではないが修行を終えて久しいトモ造には初めて聞くモノばかりで自信がない。この時代には学科試験がなくって助かった。

次は実技だった。先ずは櫓の入れ子を船尾の櫓ベソにはめることからだ。
櫓脚を水に入れて浮力を利用すれば楽なのだが、素人のトモ造が知るはずがなく腕力で櫓を持ち上げようとしてバランスを崩し、船が揺れて船床に尻餅をついてしまった。
「トモさん、力任せにやろうとしても無理たい。海の子ならこんなことは習わんでも見て覚えるんだがな」ケイ次はトモ造の前で櫓脚を水に入れ、浮力で軽々とはめて見せた。
「どうやったんでェ?ケイ次さんは凄ェ力持ちだね」トモ造が素直に感心するとケイ次は笑いながら櫓の浮力を利用する方法を説明した。
ケイ次はトモ造が入れ子と櫓ベソはめて早緒を掛けると外してはめ直すことを繰り返したが、これは操船になれていないと漕いでいる途中で外れることがあり、その対処訓練の意味もあった。
この日は客が来たためここまでで終わった。

車の仕事がないため翌日もトモ造は渡し場へ行ったが、今度はゲン希もいた。
「トモさんも熱心だね」「どうして船頭になんて・・・大将の腕なら箪笥でも作ればいいじゃん」2人が次々に話し掛けるのでトモ造は返事に困った。
「職人は腕を別の仕事に使うことを『脇仕事』って嫌うんでェ。だったら船頭ならいいだろう」確かに寺社大工は普通の家を建てることを「汚れ仕事」と言って許されないのが不文律だ。しかし、実際には喰うに困って請け負ってしまう者が多いのだが、そうすると寺社の仕事の方を止めるのが今も変わらぬ流儀である。
マサ弥は本来、船大工だが「故郷で役に立ちたい」と言う志があるので別だろう。そのマ
サ弥は渋屋など車を納めた店を回っての点検に行かせている。その謝礼を給金として渡す
つもりだ。
「それで大将は船を漕いだことはあるんで?」「それが全くねえんだよ」「だったらマサ弥にやらせれば良いじゃん。あれは船大工だから船ぐれェ漕げるでっしょ」ゲン希に指摘されてトモ造は忘れていた事実に気がついた。確かにズブの素人の自分よりは海辺育ちのマサ弥の方が経験もあり得意だろう。何よりマサ弥の方が体力はありそうだ。
「まあ、マサ弥は俺ッちが雇っているんでェ、俺が別の仕事をやらせちゃ面子が立たねェ」「それが大将なんだろうね」トモ造の言い訳めいた強がりにも2人はうなずいた。

その日は舫(もやい)で桟橋につないだ船で漕ぎ方を習ってからゲン希と一緒に対岸に渡った。
ケイ次とゲン希は対岸の桟橋に船をつないで待ち、岸辺の茶店に客が集まると乗せて渡すのだ(対岸の「船が出るぞォ」の声で客が少なくても出すことがある)。
「大将、どうです。足で漕ぐんですよ」ゲン希は客を乗せた船を軽快に漕いで行く。ゲン希が言うように櫓を腕で引き押しするのではなく、押す時は後ろ足を突っ張って押し、引く時は仰向けに倒れるように引く、腕は櫓杆(ろづく)使って反転させているだけだ。
「ここらが川の真ん中だから少しカミ(上流)に向かって漕がねェといけねェ」ゲン希は説明しながら川の流れにも注意し、客の様子にも気を配っている。
櫓は漕ぐ力の入れ具合で方向も変えることができるので、熟練すれば船を自由自在に操ることができるのだ。ボートのオールも左右の漕ぐ力を変えることで向きを変えることができるが進行方向に背中を向けていることが欠点だ。カヌーのパドルも同様だが腕力で漕ぐため櫓のように長時間の操船には向かない。
「ゲン希さんは誰に習ったんでェ?」「オイラは漁師の息子だから親父が生きていた頃には親父に、親父が死んでからは兄貴に仕込まれましたんで」
ゲン希の実家は横浜の網元のはずだが、やはり漁師の技は伝授されたようだ。その辺りは地主の馬鹿息子が農家であることを知らないで育つのとは違う。
トモ造は暖かい日差しの中、ゲン希が櫓を漕ぐ度に響く「ギー、ギー」と言う軋みや「カタン、カタン」と言う櫓ベソと入れ子の音、そして水面をかく声が心地よく、ウトウトしてきた。するとゲン希が「ウラーッ」と声を上げた。
トモ造が顔を上げるとケイ次が漕ぐ渡船がすれ違って行った。

それから何日か過ぎてトモ造の船頭修業は本格化していった。ただ櫓の扱いには以外な才能があったようでケイ次とゲン希も驚いている。
「うーん、トモさんは中々筋が良いたい」「大将、やるじゃん」客がいない時、川の真ん中まで漕がしてもらうのだが、素人では直進することが難しい操船をトモ造はすぐにマスターしたのだ。
「やはり職人だから、腕力(うでぢから)が強いんだろう」トモ造の前で後ろ向きに座って監督しているケイ次は櫓杆(ろづく)を操る手元を見ながら分析した。誉められてトモ造は更に力を入れて漕ぎだした。
「そろそろ真ん中たい。向きを変えて戻るばい」ケイ次の指示を受け、トモ造は船首を川下に向けてこぎ出した。すると船は川の流れに押されて大きく下り始めてしまった。焦っているトモ造にケイ次が声を掛けた。
「トモさんは理屈で考えて船を操っとるばい。それじゃあ思うように動かんけん」確かにトモ造は向きを変えるには下流に向けた方が流れの力を利用できると考えた。しかし、それはあくまでも理屈であったようだ。
「右へ行くか、左へ進むか、船に任せて、流れに乗せて、あとは川となれ海となればい」ケイ次の話の落ちは「野となれ山となれ」のはずだが、船頭にはこちらの方が好いのだろう。トモ造はかなり大回りしてしまったが何とか向きを変え、桟橋に近づいた。
そこで交代したケイ次は櫓を細かく漕ぎながら方向だけを調整する。
「ここらで櫓を水から上げるたい。後は行き足(惰性)で着くのを待つ・・・・」そう言うとケイ次はテコの要領で櫓を上げて早緒で固定し、舳先に歩いて行くと竹竿を取って川底を突きながら速度を落とし桟橋に横付けした。
「これができなきゃあ、渡し場の船頭はできねェな」確かに砂浜へ戻る船であれば乗り上げればすむが、渡し場の船は客を下ろすために桟橋に接岸しなければならない。それも乱暴では客から苦情が出るだろう。
トモ造は「やはりこれも職人の仕事だ」と思った。

根室にロシア人が建てた越冬住居にはエカテリーナ2世号の乗員30人余りと日本人漂流民3名が暮らしていたが、そこでは松前藩の役人たちとの交流が始まっていた。
食糧や燃料などは松前藩が提供していたので当然ではあったが、珍客の来訪を受けて無視できるほど日本人は閉鎖的ではないだ。
中でも鈴木熊蔵と言う若い役人は好奇心旺盛で、ラックスマン以下のロシア人に質問を繰り返し、時にはエカテリーナ号の船内まで見学させてもらい、それを詳細に記録していった。一方、ラックスマンも鈴木熊蔵の家を訪問し、思いがけない文化交流が始まっていたのだが、そこへ公儀(幕府)が送り込んだ密偵の2人の役人、田辺安蔵と草川伝次郎が到着した。
彼らは先ず鈴木熊蔵を始めとする松前藩士がロシア人と接触することを禁止して情報保全を図ったつもりだったが、通訳が日本人流民とロシア人女性との間に生まれた1人だけだと思い込み、もう1人いた通訳の前で相談を繰り返したため、こちらの意図が筒抜けになり用をなさなかった。
やがて2人は情報保全が無意味であることを覚ったのだが、すると急に好奇心を発揮し始めて、鈴木熊蔵と一緒にエカテリーナ号の模型を作ったとロシア側の記録に残っている。
しかし、北の海がとけ始めた頃、漂流民の中で最年長だった小市が細菌による感染症で死んだ。神昌丸で伊勢を出て遭難し、アリューシャン列島のアムチカ島に漂着したのが天明2(1782)年、それからカムチャッカ半島のコジネカムチャッカへ渡り、光大夫はシベリアを横断してエカテラーナ女帝に謁見し、寛政4(1792)年にこうして戻ってきても17人の乗組員のうち13名が死んでしまった(2名はロシアに残った)。
そして6月、ついに公儀はエカテリーナ2世号を函館に回航する許可を与え、会談を松前で持つことを達した。

それに先立つ4月、修作は八丁堀の与力・同心組屋敷から出立した。
今回、(ケイの)母は下肥え(しもごえ)を買いに来る(この時代の便所の汲み取りは肥料として農家が野菜と引き換えにしていた)農民に頼んで手に入れた稲ワラで草鞋を作った。その草鞋を履く修作を心配そうに見ている。母も草鞋を作るのは久しぶりなのだ。
草鞋を作るには稲ワラを何度も打って繊維状態にして、継ぎ目には同じようにしたワラを重ねて編み合わせながら通常よりも細く長い縄をない、先ず長い縄を足の親指にかけて伸ばし、それに別の長い縄を巻き込んで作るのだが、十分に打って繊維状態にしていないと縄が固く歩きにくく簡単に摩耗して切れてしまう。修作は2本の縄の紐を足首に巻いて立ち上がった。
足軽扱いの同心には袴が許されず、旅をする町人のように着物を膝の高さまで引き上げて脚絆を巻いている。これは着物の襟を頭にかけて腰紐を巻き、頭から外して余った着物を下帯の上に垂らし、形を整えてから腰紐と帯を重ね巻きするのだ。
母はホッと胸を撫で下ろしたが、同時に修作は表情を引き締めて顔を覗き込んだ。
「それでは母上、行って参ります」「お留守はお任せ下さいませ。道中お気をつけて」母が頭を上げると修作は荷物を背中に負った。中には防寒の衣類を入れた風呂敷包みがあり、道中でも目立つほどの大荷物だ。
本来であれば鎧兜一式を具足櫃(ぐそくびつ)に収めて背負っていかなければならないのだが、今回は津軽・南部藩に借りることになっているらしい。
それは修作には二重の意味で助かった。守野家の鎧具足は三河以来の家柄だけに立派な年代物のため足軽・同心には許されないのだ。その鎧兜は目立たないように端午の節句の武者飾りにしているだけだが、売ってワザワザ足軽用の胴具足を買うのも馬鹿らしいだろう。
今回の往路は品川から船で函館に向かうのだが、初の船旅に若い修作は胸躍らせていた。

猪走のカツはすでに蝦夷地で公儀御用の飛脚として根室と松前の間を往復している。
日本海側の南端の松前と根室では北海道を横断することであり、さらに襟裳岬から先には道がなく海岸線を走るしかない。カツは干潮の時間帯を選んで走っているが、野宿のための荷物を背負っているため足取りは重く、流石のカツも疲れていた。
「どこまで行っても村がねェな、会うのは鹿とキツネと熊だけだ」松前藩の運上小屋(=出張所)は当分ないらしい。ところどころにアイヌの村はあるのだが、松前藩からは単独で近づくことを禁じられているのだ。
田沼意次の時代には土山宗次郎を長とする(土山自身は江戸で指揮を執った)本格的な調査隊が派遣され、海岸線の測量、産物の確認などの学術調査と同時に松前藩のアイヌへの不当な取扱いも報告されたのだが、田沼の失脚と同時に公儀(幕府)は手を引き、抑え込まれていた反動を加えた弾圧・搾取が再開し、それは過酷の度を極めていた。
松前藩としては実態を公儀御用の飛脚に知られることを懼れると同時にシャモ(アイヌ語で隣人を意味し、日本人を指す言葉)であることに代わりないタツの安全を守るためでもあったのであろう。
松前藩の歴史はアメリカ大陸のおける白人とネイティブ・アメリカンとの関係に似ており、後から入り込んだ侵入者が優勢な武力を使って先住民を未開の地へと追いやり、やがて交易が始まると狡猾な商法で暴利をむさぼり、搾取と弾圧に堪えかねた先住民が反乱を起こすが、それも鎮圧されることの繰り返しなのだ。
そもそも松前家は応仁の乱の十年前に函館付近で起きた大酋長・コシャマインの反乱を鎮圧したことで支配権を確立した根っからの圧政者であり、徳川四代将軍・家綱の時代にも大酋長・シャクシャインが最大の反乱を引き起こしている(幕府には「一揆」と報告した)。
松前藩は鎮圧によって圧倒的な武力を見せつけることで、各集落の酋長を中心としたアイヌの自治権を奪い、しかも彼らの生殺与奪権を海産物や獣の皮などの特産品の買い付け(取引は物々交換)に入っていた商人に渡したことで徹底的な搾取を招いていた。
「今夜も野宿だな、熊が来ねェところを探さねェとな」そう呟いてカツは砂浜に残る動物の足跡を見てみたが、この辺りは狐だけのようだ。

公儀(幕府)が仕立てた船の中で修作たち足軽・同心は甲板に寝ることになった。
4月とは言え海上の風は冷たく、狭い船内ではやることも限られていて北・南町の同心仲間や幕府の足軽たちと一緒にムシロを体に巻きつけて横になるしかない。
出港して数日後、修作はいつもの癖で謡曲を口ずさんでいた。
「そもそも、こたび平家一ノ谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上16人の組足のその中に、もののあわれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無冠の太夫敦盛にて、もののあわれを留めたり・・・」これは幸若が平家物語を元にした「敦盛」だった。謡曲「敦盛」と言えば織田信長が好んだ「人間五十年 下天のうちをくらぶれば まこと夢幻の如くなり 一たび生をえて 滅せぬ者のあるべきか」の一節ばかりが有名だが、これは後半の年若い敦盛を討った熊谷次郎直実が世の無常を嘆いた台詞である。
修作は父が好んで歌っていたため習わぬのに覚えたのだが、武士を捨てて法然上人の弟子になった直実と父の生き様が重なっているように思っていた。
「その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也、梅の匂いの肌寄せの優なるに、唐紅を召され、練貫に色々の糸をもって・・・」ここからは若武者・敦盛の姿の説明が延々と続くため修作は飛ばして合戦の場面を謡おうと思った時、背後から声を掛けられた。
「お主の謡(うたい)は中々のものじゃのう」振り向くと声の主は高い位の武士らしい身なりをしており、修作は座りなおして両手を床についた。
「苦しゅうない面(おもて)を上げよ。こちらから声を掛けたのだ」中年の侍は気軽にしゃがむと半分だけ顔を上げた修作を覗き込んだ。
「潮風に乗って聞こえてきただけだが、お主はかなり謡い込んでおるようだ」「はは・・・」誉められて修作は再び頭を下げる。足軽・同心が直接話せる相手ではないことが判ったのだ。
「面を上げて答えよ。お主の名は何と言う?」「はッ、北町同心、守野修作と申します」「はて、守野?・・・その謡、誰に習った?」「は・・・」「苦しゅうない、答よ」「父でございます」侍の口調が厳しくなったため修作は答えながら肘の角度で顔の高さを調整した。
「幸若の敦盛とは中々に古きもの、並みの武士で謡う者はおらぬ・・・強いて言えば大番頭の・・・守野××殿」修作は久しぶりに父の俗名を聞いたが、それは思い出すことを禁じられたものだった。
「するとそちは・・・?」修作はそれに答えず板目に食い込むほど頭を床に圧しつけた。
「良い謡を聞かせてもらった。昔、大変世話になった方に再会した心もちじゃ、礼を申す
ぞ」侍は修作の態度に複雑な事情があることを察して、それ以上は問わなかった。そして続きを謡うように促して立ち上がった。

その頃、松木直之進は単身で田植えの様子を見に上野国勢多郡の津軽藩領を訪れていた。
検見(けんみ)役としては収穫の頃に米の実りを確かめ年貢を決めれば良いのだが、松木は冬場にも訪れ、領民の暮らし振りを見回っている。このきめ細かさは津軽で河合正左衛門から教えを受けた民情視察の原則だった。
河合は日頃から配下の役人たちに「政(まつりごと)は料理のようなもの、手を加えればそれだけ良い味になってくれる」と言って、調理の味見のような確認を指導していた。
松木は今回も検見の時に雨宿りした寺・応分蓮寺(おうぶんれんじ)に宿泊を頼んでいる。当地の代官・藤原誠太夫に知られるとまた夜伽(よとぎ)の女をあてがったりするので煩わしいのだ。
松木は笠を脱いで山門をくぐり、本堂と庫裏をつなぐ位置にある玄関で声を掛けた。
「頼みましょう(『頼もう』は案内役を呼ぶ場合)」「どーれー」奥から住職の声が返ってきたが最初の時の重々しさはなく、足音も軽く聞こえる。そもそも奥で「ユキエ、松木様じゃぞ」と声を掛けたのが聞こえていた。
この時代、飛脚による書状は高額なので江戸へ出てくる商人が伝言を請け負うことが多く、それができなければ前回に予約しておくしかない。どうやら半年前の宿泊依頼を覚えてくれていたようだ。住職は障子を開けると作ったような無愛想な顔で松木を出迎えた。
「これは松木殿、お勤め大儀でございます」「方丈さま、本日もお世話になり申す」松木が腰から刀を外して頭を下げると住職も床に手をついて頭を下げた。しかし、顔を上げると満面の笑顔になっている。
「ささっ、お上がり下さい」「いえ、先ずは御本尊様に挨拶を」初めてこの寺を訪れた時、松木は住職に案内されるまま方丈へ向かってしまい寺を訪れた時の作法を忘れてしまった。そのことに気がついて前回は本堂で本尊に詫びた。作法は正しく守るのが松木直之進だ。
日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)である応分蓮寺の本尊は佛像ではなく、南無妙法蓮華経の題目に法華経に出てくる諸佛、諸菩薩を加えた「十界曼荼羅」の軸である。
実は松木家の宗旨も日蓮正宗で、それもこの寺を利用するようになった理由なのだ(菩提寺への参拜代わりとして)。
松木は腰の風呂敷を外すと巾着に入れた米を渡し、受け取った住職は三方(さんぼう)にのせて供えた。
「南無妙法蓮華経、南無法蓮華経・・・」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」住職が火をつけて手渡してくれた線香をそのまま寝かせてから御題目を始めると住職も唱和してくれる。松木は日蓮大聖人直筆と伝わる独特の書体の軸から力をもらっているような気持ちになった。

本尊への挨拶が終わり、方丈(住職の私室)に向かうと廊下でユキエが待っていて、松木は1間(1・8メートル)手前で立ち止まった。武士の作法として刀の切っ先が届く距離には踏み込まないのだ。これは街でも角を曲がる時は遠回りをする。したがって武士に限って「出会い頭」はあり得ない。
「松木様、お久しゅうございます」ユキエは廊下に手をついて頭を下げ、挨拶をした。松木は立ったまま薄手の着物を着ているユキエの背中を見ていた。いつもは色染め無地の質素な着物だが今日は娘らしい花柄が染めてある。
「うむ、世話になり申す」松木の返事にユキエは顔を上げた。その唇に紅が差してあることに気がついて松木は胸がときめいたことに少し焦った。
昨年の暮れ当地を訪れた時、領内の村々をユキエが案内してくれた。松木としては年貢を納めた後に領民が無事に年を迎えられるかを確かめたかったのだが、代官や庄屋に知られると汚いものに蓋をしかねない、ユキエはそれを察して家々を訪ねては本当の暮らしぶりを見せてくれたのだ。
年貢を例年通りとしたが収穫は例年以上だったため、そこそこに暮らしは立っていた。津軽の年末年始(太陰暦)は冬本番で吹雪の日には家にこもって過ごすことになる。松木も農家の餅つきに加わって気忙しいが心浮き立つ関東の年の瀬を味わえた。
その時、領民たちは親しみと敬意をこめて「ユキエさま」と呼んでいた。ユキエの家は戦国時代の領主が郷士となってからも大地主としてこの地域を治めていたのだが、津軽藩への年貢を考慮した地代しか徴収せず、けっして豊かな生活ではなかった。だからユキエも幼い頃から両親が働く田畑を遊び場として育ったと言う。
今でも領民は心の中では代官よりもユキエの両親に臣従しているようだ。津軽藩士としては捨て置けない事実だが、すでに一族はユキエだけになっていると住職は言っていた。そんなことを考えている松木の顔をユキエは不思議そうに見え上げている
「松木様、本日はユキエが茶を点てます故、同席をお許し下さい」松木が次に何を言おうか迷っていると、先に部屋に入っていた住職が中から声を掛けた。
ユキエが茶道具を運んでいる間に住職は炉(畳の一角を切った釜戸)の炭を整え、茶釜をのせ直した。季節から言えば夏用の風炉(ふろ・火鉢のような移動式の釜戸)にしても良い時期だが、この寺ではまだのようだ。やがて釜が「シューシュー」と鳴り始めた。
「うむ、松風じゃのう」住職はその音をこう表現した。確かに松に吹いた風に聞こえる。これは湯の温度が適温になった合図でもある。
湯が沸く様子は早い順に、先ず「蚯音(きゅうおん)」と言うのはミミズの鳴き声ほどの小さな音、続いて「蟹眼(かいがん)」とは蟹の目のような小さな泡、「連珠(れんじゅ)」は真珠のような泡が続いて立つこと、「魚目(ぎょもく)」は大きな泡が立ち始めてそろそろだ。
「失礼いたします」そこへ障子の外からユキエが声を掛けた。
「どうぞ」この茶席の亭主である住職が返事をすると作法通りにユキエが入ってきた。ユキエの手には梅干しを漬けるのに使う蓋つきの壺がある。松木が不思議に思って首をかしげていると住職が説明した。
「ウチには茶席用の水差しがありませぬゆえ、代わりでございます」住職の説明に何故かユキエが恥ずかしそうに笑った。
そうして道具を運び終わるとユキエのお手前が始まる。先ずは袱紗捌き(ふくささばき)
からだ。ユキエの所作は美しく、松木は武家の常識として習っただけの作法を忘れてしま
いそうだった(この時代の茶道は武家や豪商の社交の作法であった)。
今までは住職が茶を点ててくれたが手慣れている分、省略している点もあり、この美しさはない。見とれている松木の横から住職が話しかけた。
「松木殿は遠州流でございますな」「さよう、藩の御用流儀でござる」遠州流は古田織部の門弟であった小堀遠州を始祖とする流派である。小堀遠州は築城、寺社建築、造園、華道などでも名を馳せた人物だけに表・裏・武者小路の千家三家の「わび茶」「さび茶」を基礎としながら少し趣が異なり、古田織部の武家茶道・織部流の華やかさを加味した「綺麗さび」と呼ばれている。
「拙僧は裏千家でして・・・」そう言われてユキエの手元を見ると茶筅を素早く振って細かく泡立てている。これは裏千家の薄茶の点て方でユキエも同じようだ。裏千家の「必要最小限」とも言われる簡素な作法なので安心して茶を味わうことができる。
松木はユキエが勧めた茶碗を受けて中を覗くと表面は細かい泡で覆われている。よく泡立てることで薄茶と酸素が結びついて甘味が増すらしい。
松木は茶席の作法としての場を和ます会話を忘れてしまいそうだった。
「和尚、日蓮正宗と日蓮宗では何が違うのでござるか?藩邸の傍には日蓮宗の寺はあっても日蓮正宗はありませぬ故」松木の率直な質問に住職はゆっくりうなずいた。
江戸時代に入り、公儀(幕府)は領民を管理・監督する役割を寺院に担わせ、同時に檀家・門徒制度を創設した。領民は子供が生まれると寺院に届け、死んでも寺院に届ける。これを宗門人別帳に記録して管理するのだ(道中手形も発行できた)。
このため民衆は信仰に関係なく集落の寺に登録することになり、引っ越せば宗派替えしてそのまま檀家・門徒となるため、宗教が制度になってしまった側面は否定できない。
またキリシタン禁教の取り締まりもあり、盆の法要では家々を回り、佛教の本尊を祀り、佛具を揃え、先祖代々の位牌が備えてあるかを確認する。これが簡略化され僧侶が草鞋を脱いで上がらないですむように佛具を縁側に並べたのが棚経である。やがて民衆への教育の機能も果たすようになり、それが寺小屋になった。
一方、武士は人別帳の対象外であるが、こちらは先祖代々のつき合いであり、制度になっている点では民衆と大差はない。
「簡単に申せば妙法蓮華経の中におわす御佛が釋迦牟尼佛か、日蓮大聖人かの違いじゃの」住職の意外な答えに松木は首を傾げた。
「妙法蓮華経に日蓮さまが出てきますか?」松木も漢文の勉強として妙法蓮華経を素読したことがあるのだが、釋迦牟尼佛や多宝如来、観世音菩薩はあっても日蓮の名前が出てきた記憶はない。この質問は住職には訊かれなれているものらしく、判り易く説明してくれた。
「経典の文章にお名前は出てこぬが、それを我らに説き示して下さったのは・・・」「日蓮大聖人であると」「そのとおり」住職は我が意を得たりとうなずいた。しかし、松木は胸の中で「だったら日蓮宗の寺でもいいのでは」と考えていた。

翌日は田植えの様子を見て回った。今回も住職はユキエを同行させてくれた。
「方丈様、シキミ(日蓮宗・日蓮正宗は花ではなくこの葉を献ずる)は替えておきました。水と佛飯も供えました」朝の勤経のため松木が住職と本堂に向かうとユキエが台所から声を掛けた。
夏になり夜が明けるのは早くなったがまだ早朝である。寺院の裏庭にはシキミの植えてあるものだが、それでも松木は「何時起きたのか」と驚いた。
朝の勤経を終えると朝食になる。禅宗では粥座(しゅくざ)と言って粥に胡麻塩と漬物だけの極めて質素な食事だが、日蓮正宗でも貧乏寺の応分蓮寺では大差なかった。
「松木様、昨日のお米を下げさせていただきました」飯を茶碗によそいながらユキエが礼を言った。夕方の勤経の後、住職が供えていた米を下げてきたのは見ていたがこれは炊事番としての礼儀だろう。
「今日は歩かれるようなので粥ではなく飯にしました。握り飯にもしなければなりませんゆえ」住職の説明にユキエもうなずいたが、禅宗の寺では食堂(じきどう)は坐禅堂、東司(トイレ)と共に三黙堂と言って会話は禁止されている。その点、多少は気楽なようだ。

その日も松木はユキエの案内で冬とは別の集落を見回ったが、飢饉による餓死や領民の流出により人手不足は明らかだった。その意味では松平定信が行っている「人返し令」は正しいのだが、江戸での仕事が軌道に乗っている者や喰いつめて故郷を捨てた小作人まで一律に対象としていることが間違いなのだ。
「ユキエさま」「ユキエたま」「ユキエちゃま」2人肩を並べて田植えの様子を見ていると子供たちが取り囲んだ。
「松木さま、御無礼をお許し下さい」子供たちの遠慮がない態度をユキエは詫びた。本当は地面に両手を地面につくべきなのだが、幼い子供たちが手足にまとわりついてそれができなかった。松木は笑ってうなずくと危険がないように腰から刀を外して手に提げた。子供とは言え武士の魂である刀に粗相をすれば手討ちにしなければならないのだ。
そんな様子をユキエは安堵したように見詰めていた。

「松木殿、御相談がございまして」夕食後、住職は松木を方丈に呼んだ。いつもならユキエが呼びに来るのだが、今は台所で片づけと明日の準備にかかっているようだ。松木は袴をはくと素足のまま方丈に向かった。
方丈では住職が急須で入れた茶を勧めた。
「実は拙僧も年老いてこの寺を守ることが辛くなって参りまして・・・」檀家が少ない応分蓮寺(おうぶんれんじ)では住職自ら托鉢に出て米を得て、ユキエが畑仕事で野菜を作っている。若い頃は住職が両方をやっていたのだ。
「幸い高崎城下に甥がおりまして拙僧を死んだ兄の隠居屋に住まわせてくれると申すのです」これが弟子をとる程の寺であれば死ぬまで東堂(隠居した住職)として暮らせるのだがこの応分蓮寺では無理であろう。
「後任は大石寺に頼んでおるのですが、おそらく若い和尚が来ることになるでしょう」江戸時代は宗祖から妻帯していた浄土真宗以外の僧侶の結婚は許されておらず、後継者は寺同士の力関係で紹介されることが多いのだが、小さな貧乏寺ではなり手がないのは現在と同様であった。そうなると本山に頼むしかないのだ。
「そこで問題となるのはユキエのことでございます」住職が膝を正したので松木も倣った。
「拙僧のような老いぼれなら若い娘を住まわせておっても何も言われませぬが・・・」寺院には公儀(幕府)の寺社奉行による破戒(戒律違反)の取り締まりだけでなく、宗門からも修行の度合いを点検する使者が巡回してくる。若い住職とユキエが一緒に暮らしていて良いはずがない。何よりもユキエの操(みさお)が危ないだろう。
「松木殿、ユキエを引き取っていただけませぬか」住職は湯呑を脇に置くと両手をついた。確かに検見の役の時、宿泊先にした庄屋の家では身の回りの世話をする女が寝所にまで入り込み誘惑してきた。それは代官や庄屋たちが自分を篭絡しようとしたこととは判っている。そのような土地でユキエが1人になればそれも危ないだろう。住職が松木の視察にユキエを同行させた理由も理解できた。
「わかりました。されどソレガシも武家ゆえ、嫁をめとるには色々と手続きがいり申す。それまでユキエ殿が身を置くところを探しましょう」松木には津軽藩の上級武士の娘の許婚があった。しかし、今回の江戸赴任が長くなることを知って同行を拒んだため、松木の方から破談を申し入れたのだ。このため先方の親や仲人は怒っており、おそらく結婚を世話する者はないだろう。河合正左衛門も職務のことでは守ってくれているが、立場上、私的なことまでは介入はしないはずだ。
問題は郷士の娘であるユキエを松木家と家格が見合う家の養女にしなければ藩主の許可が下りないことだった。

船頭のケイ次も修作と同じ船で函館に向かい、到着後は公儀(幕府)が手配した舟でエカテリーナ2世号が入港した時に役人を運ぶための準備に励んでいた。
6月8日、エカテリーナ2世号は函館に入港したが、初めて見る西洋式大型帆船を一目見ようと押し掛けた町衆を地元の漁民が舟に乗せて接近し(有料の遊覧舟)、浜も沖も大変な騒ぎになった。
ケイ次は小舟を操りながらも役人を運ぶ本来の任務よりも見物人を追い払うことが仕事になっている。追い払うのは修作たち同心だった。
「異国船に近づいてはならぬ、下がれ!下がれ!」どの舟の上でも同心たちが声をからして捕り杖を振り回し、エカテリーナ2世号と遊覧舟との間に割り込もうとしているが、やはり地元の漁師の方が腕は上で見事にかわされて船頭は客の喝采を浴びている。そんな中でケイ次だけは違っていた。
江戸から来ているのは渡し船の船頭ばかりで、川の流れと海の波では自ずから操船は違う。一方、ケイ次は元が漁師であり船頭としても十分に腕を磨いてきたのだから蝦夷地の漁師に引けを取るはずがなかった。
「あの船に近づくと鬼か天狗のような連中に捕まるぞ」「鬼は血をすすり死肉を喰らうそうだ」修作はケイ次が並走させる舟の上で声を荒立てることなくこのような説明をするだけだが、それでも客は青ざめて退去する。客だけでなく漁師まで青ざめているようだ。
この時代、寺院の生き物の肉を食べない戒律が庶民にも広まっており、獣の「4つ足」の「4」が「死」に通じると忌み嫌われ、山奥の住人を除けば動物性タンパク質は魚と鳥に限られていた。ただし、野ウサギは身近で捕れるため長い耳を鳥の羽と言うことにしていた。これがウサギを「×羽」と数える理由である。
「旦那、やりますね。その噂が広まれば近づく者もいなくなるでしょう」ケイ次の誉め言葉に修作は照れたように笑いながらも、船の中からこの騒ぎを見ているロシア人たちがどう思っているのかが気になっていた。
ロシア人に侮られれば間もなく上陸し、松前へ向かってから始まる公儀(幕府)との外交交渉に悪影響があるのは間違いない。ただ、このような発想は同心としては分不相応ではあった。

一方、カツは根室から函館に移動し、毎日のように出される報告を松前にいる公儀(幕府)の代表団に運び、休む暇もなくくたびれ果てていた。
宿舎にあてがわれている町家で北海の魚をおかずに飯をかき込んで横になるとカツはすぐにイビキをかき始める。寝酒など不要だった。
根室から届けた書状ではロシア側は江戸湾に向かい、直接、公儀と交渉することを希望していたが、カツがその文面を知るはずもない。しかし、公儀(幕府)としては何の防備もしていない公方(将軍)のお膝元の江戸湾に乗り込まれては厄介である。だから半年の期間をかけて幕内の意見を統一し、万全の準備を整えて臨んだのである。
ただ、老中筆頭・松平定信はこの問題からは遠ざけられており、将軍・家斉が直接指揮を執ったされているが、これもカツが知るはずがなかった。
当時の通信手段は船便かカツのような飛脚であり、松前藩からの報告、公儀からの指示・命令についても書状が行き交ったのだが江戸と蝦夷地ではかなりの時間を要する。したがって使節に全権委任するのが常識であるが、そうはならないのが日本人だった。
このためカツは日誌的に送られる報告書を持って松前から函館へ駆け続けるのだが、外交交渉も始まっていない段階でどの程度の内容があるかはカツにも判る疑問である。
そもそも函館にいるロシア船の様子の報告なら公儀の役人が現地に来れば早いであろう。それを函館の下級役人が松前に報告し、それを読んだ上級役人が書式を整えた上で江戸へ送っているのである。
この外交交渉が終わるまでに何人の飛脚が命を失うのか・・・カツは眠りながらうなされていた。

6月17日、ロシアの使節は上陸し、津軽・南部両藩から差し出された大名用の行列で函館から松前に向かった。
道中は3泊4日、沿道は野次馬でごった返し、修作たち同心は居並ぶ松前藩士たちとは別に裏で警戒に当たっていた。それがロシア人を狙う暴徒よりも人ごみに紛れて商売に励むスリの取り締まりになるところは町奉行所の同心であろう。
6月20日、松前藩が用意した宿舎についたラックスマンたちを公儀の役人が訪ねた。それは翌日からの外交交渉における細部調整、特に礼式の打ち合わせだった。
「明日の会見では我が国の作法に則った儀礼をお願いしたい」「日本の?具体的には」思いがけない申し出にラックスマンが訊き返した。
「座礼をするのでござる」「座礼?」ロシア側には日本人の漂流民とロシア人女性の間に生まれたトラベスニコフと言う若者が通訳として同席していたが、水夫の知らない言葉は通訳できないのは当然だった。そこで役人が侍者に土下座をさせるとラックスマンは激怒した。
「例え日本の礼式であっても、ロシア皇帝の外交使節である我々がそのような姿勢をする
ことはできない」「日本が唯一ヨーロッパで国交を持っているオランダの外交使節は、江戸出府の折には行っているのでござる」役人側は言い張ったがラックスマンは断固拒否した。役人は応対使節のところへ駆け戻り、この件は取り下げた。
外交儀礼では相互の様式に基づいて礼を交換するのが当然なのだが、床に頭をつける姿勢はヨーロッパ人には屈服の態度であり、侮辱以外の何物でもないのだ。
ちなみに中国では皇帝に対して三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)と言う礼を行う。これは跪き、3度頭を床に叩きつけ、立ち上がることを3回繰り返すだが、清国は国交を申し入れるため派遣されたイギリスの外交使節にもこれを強要し、逆に中国が「国際儀礼を理解せぬ傲慢な野蛮国」として蔑視される原因になった。ここで公儀(幕府)が引き下がったのは賢明な対応だったのかも知れない(対象が役人であったため無理に強要する必要もなかった)。
「何ならロシア式に抱き締めてキスでもしてやればよかったなァ」「そうですね。どんな顔をするか見てみたいものだ」こんな冗談でロシア人同士は盛り上がったが、日本人は2重の意味で身震るいした。
「とんでもない・・・男同士の口吸い(接吻)だけはワシも御免だよ」「そんなことすれば、たたっ斬られますよ」それにしてもどのような結果になったのか興味はある(記録では握手も交わさなかったらしい)。

翌21日の朝、ロシアの外交使節は会見の場に指定された松前藩家老邸へ向かうと、門から玄関までの通路の両側には松前藩の弓矢・火縄銃の鉄砲隊が立ち並んでいた。
「これは何のつもりだろう?」「骨董品の展示か?」「これが日本の礼式なのかな?」ラックスマンたち4名はその意味が分からず戸惑っていた。実際は松前藩の威圧だったのだが、それらの武具が時代遅れであることが判っていなかったのだ。
会場になった座敷には床几(しょうぎ・折りたたみ式の椅子)が向かい合う形で置いてあり両者は座った。この時も日本側にはロシア語ができる通訳はおらず、ロシア側の通訳が両者の言い分を伝達した。
「公儀(幕府)より応対使節に任ぜられ申した村上大学でござる」「同じく石川将監でござる」今回の対外交渉に当たる公儀の応対使節はこの2人だが、この石川は本来、六右衛門と言う名前であった。ところが幕閣の中から「六右衛門と言う名前では使節としての格式に合わずロシア人にあなどられる」と言う声が出て急遽「将監」と改名したのだ。当時の日本人の国際感覚を物語る逸話であろう。
こうして始まった会見では冒頭、根室に到着した折に松前藩を通じて公儀(幕府)に送られたロシア語と日本語の書状2通が返却された。
「これは国交を樹立するための手続きの進め方の当方の希望を記した私信である。何故、返されるのか?」「我が国には帰国の言葉を解する者がおらぬ故でござる」応対使節の返事にロシア側の通訳は唖然とした。何故なら日本文の1通はこの通訳が書いたからだ。
「1通は貴国の言葉で記したはずだが」「あれは和文だったのでござるか」ロシア側の説明に応対使節はととぼけ、結局、書状は返却された。
確かに通訳が日本語を学んだ日本人は漂流民たちであり、会話はできても(これも出身地で方言が変わり、混乱したらしい)筆記能力は大したことなかったのであろう。
続いて日本側は漂流民を保護し、送り届けた謝礼として米百俵と日本刀3振りを送った。
そして「鎖国法事」と言う日本の国法を記した文章を手渡し、国交はできないことを説明した。これに対してロシア側が「国交を求めるエカテリーナ女帝の国書を漂流民と共に江戸で渡したい」と申し入れ、日本側が難色を示してこの日はこれで終わりだった。

24日、2度目の会見が行われ、応対使節は「長崎でなら入港を許可することができる」と回答した。この期間で江戸の意向を確認することは不可能であるから公儀としてはあらかじめ決めていた落とし所であったのであろう。
そしてロシア側が国書の伝達を依頼するとそれは拒否した。その理由は「長崎以外で外国からの文書の受け取ることは法度に背く」と言うことで、ロシア側は日本人の頑なさに溜め息をついたはずである。結局、ラックスマンは応対使節の前で国書の封を切り、読み上げてこの日は終わった。
その夜、漂流民である船頭・大黒屋光太夫と水夫・磯吉は日本側に引き渡された。
27日に3度目の会見が行われ、日本側から「長崎への入港信牌(しんぱい=許可証)」が公布された。
「これまで我が国は清国(中国)、朝鮮、オランダ以外とは国交を持ってこなかった。これは格別の対応でござる。帰国されれば皇帝陛下にさよう申し伝えられよ」その説明にラックスマンはこれを成果として帰国することを決めた。そこでもう1つ、提案してみた。
「当方のエカテリーナ号には我が国の品々が積んである。それを交易の手始めに取り引きしてみないか?」「滅相もない」日本側はこれも拒否した。
「しかし、交易許可が下りたのだから問題はありますまい」「長崎以外での取り引きは法度
に背くのでござる」「拙者らは腹を切らなければならなくなり申す」ロシア側は日本人の頑なさに改めて呆れると同時に2言目には「腹を切る」「たたっ斬られる」と言う残虐性と目の前で紳士的に対応している日本人の矛盾に首を傾げた。
「ならば最初にお礼の品をいただいたようにプレゼントなら問題なかろう」「うむ、ならば当方も」そこでロシア側は応対使節や同席した公儀役人、松前藩士に大きな鏡やガラス製品、最新式の拳銃など数々の記念品を贈り、日本側は返礼として陶器や漆器、絹織物などの記念品を返し、これで外交交渉は終わった。
この入港信牌が十年後、新たな外交問題を引き起こすことになるのだが、そんなことは登場人物の誰も知るはずがなかった。

7月24日、エカテリーナ2世号は函館を出港した。
この時、ケイ次は公儀の役人を乗せて函館で雇われた数人の船頭と交代で櫓を漕ぎ、エカテリーナ号を追跡することになった。それにしても3本マストの帆船であるエカテリーナ2世号を、いくら交代でとは言え櫓を漕いで追跡するのは無茶である。
「追え、追わんかァ」追跡を命ぜられた役人は舳先で絶叫しているが、船頭たちは早櫓と呼ばれる短距離用の漕ぎ方で速度を上げることしかできることはない。7月とは言え寒流の上を吹く風は冷たい。櫓を漕いで汗をかいた身体で休憩すると急速に体温が奪われた。
願わくは凪で帆船の速度がこのままであることだが、エカテリーナ2世号も向かい風になるためメインセイルを使うことができず、マストとマストの間に張っている三角形のジブセイルで風を後方へ受け流しながらタッキングを繰り返す(ジグザグ航行)クロス航法で進むしかなかったことが幸いした。
「それにしてもどこまで追っかけますんで?外海(そとうみ=外洋)に出るにはこの舟では小さ過ぎますばい」漕ぎ出して3日目になった時、ケイ次が最下級の役人に訊いた。それは船頭の誰もが考えていたことだが、侍を怖れて口にできなかったことだ。
「オノレらはそんなことを考えずに命ぜられるままに漕げばいいのじゃ」案の定、上位の役人が怒鳴りつけた。しかし、ケイ次はひるむことなく言葉を続けた。
「外海に出れば波が高くなり、流れもきつくなります。進んだ分だけ戻らなければならないことが判っているんで?」ケイ次の挑発的な言葉に役人は刀に手を掛けた。
「オイを斬れば漕ぎ手が1人減りますばい。それで帰り着くまでもちますか」疲れ果てて座り込んでいた船頭たちも身を起してケイ次の言葉にうなずいた。それを見て役人は手を下ろし、忌々しげに説明した。
「あの船が根室に寄らず、長崎に向かわぬことが確かめられればよいのじゃ」「ならば色丹あたりで十分だべ」「うむ」ここで函館の船頭が口を挟み、役人もうなずいた。
実際、色丹沖まで追跡し、引き返したのだが、ケイ次の度胸と腕は函館の船頭の間で評判になり、そのまま回船問屋(=海運業者)に雇われて残ることが決まった。

役目を終えた修作は陸路で江戸へ帰らなければならなかった。任務で現地へ連れていかれても、帰還は自力と言うのが日本の常識であり、実際、奈良時代の防人たちは関東から遠く九州や壱岐・対馬などへ送られると任務満了後は旅費も与えられないまま自力で帰らなければならず、多くが途中で命を落とした。今回も公儀の直参・旗本は御用船で帰ったが動員された足軽・同心以下の軽輩たちは自力で戻るしかないのだ。
そんな修作が松前の街を歩いていると整った身なりの町人に声を掛けられた。
「お役人様」「うむ、ワシか?」修作の言葉遣いはどうしても武家風になる。袴をはいていないことで士分ではないことは一目瞭然だが、腰に刀と十手を帯びていることで江戸から来た町同心であることを察したのであろう。
「ミドモは藩御用の研師(とぎし)を務めております高田知介と申します」研師は町人ではあるが武士の魂である刀を整える職人であるため刀匠と同じく別格扱いされており、屋号も姓に準ずる名を与えられていることが多い。
「藩御用の研師が何用だ?」「はい、御無礼ながらお差料(さしりょう=腰に差している刀)が気になりまして」そう言われて修作は腰に帯びた刀に手を伸ばした。
以前から父が施した拵え(こしらえ)は武家でも中々見ないほどの重厚さがあり、身分不相応だと思っていたが、奉行所では上司・同僚も修作の出身を知っているため何も言われたことはない。それを研師が気に留めても不思議はなかった。
「この拵えはな・・・」「いえ、拵えもご立派ですが私が気になっておりますのはその刀が発する『気』でございます」「気?」「はい、かなりの業物(わざもの)。高名な鍛冶の手による物と拝察申し上げます」そう言うと高田知介と名乗った研師はその場に正座して刀に向かって両手をついた。
藩御用の研師にここまでされては仕方なく修作は刀を見せることにした。知介に案内されて城下の老舗料亭の暖簾をくぐった。

贔屓らしい知介は女将の案内で奥の座敷に入ると「しばらく誰も近づけるな」と言った後、窓の障子を開けさせて向かい合って座った。
「御無理をお願い致しまして・・・」そう言ってあらためて手をついた知介に修作は右脇に置いた刀を差し出した(左脇に置いた場合は臨戦態勢)。
足軽・同心に対して藩御用の職人がここまで礼を尽すことはないのだが、それはこの刀に対する職人としての畏敬の念であったのだろう。知介は両手で刀を受け取ると高く掲げ、再度、頭を下げた。
「それでは拝見させていただきます」知介は膝で体の向きを変え、丁寧に刀を置くと胸の袷(あわせ)から懐紙を取り出して口にくわえた。口からの吐息は水分を含むため刀身を曇らせ、錆の原因にもなるのだ。
知介は左手の親指で鯉口を切り右手で柄を握ると左手で鞘を引き、刀を抜いて鞘を脇に置いた後、柄を両手で握り直し、刀身を寝かせて窓からの明かりにかざしながら刀身を眺めた。知介は懐紙を口にくわえているため言葉は発さず、十分に堪能して刀を鞘に納め、修作に返してから講評を口にした。
「この大ぶりで飾りを廃した豪壮な作り、刃肉は厚く鍛えは板目肌流れ、端正な直刃(すぐは=反りが浅く切っ先が伸びている)・・・肥後正国、同田貫(どうだぬき)でございますね」知介は自分の鑑定に絶対の自信を持っているようで、よくありがちな正否を確かめる目はしない。ただ作法として言葉を続けた。
「して御銘は?」「肥後州同田貫とある」「やはり・・・」肥後正国はその抜群の切れ味と絶対に刃こぼれしない強靭な作りを愛した藩主・加藤清正から絶大な庇護を受けていた刀匠で(名前も「正」の一字を与えられている)、人間を田に横たえて一太刀すると胴体だけでなく田まで斬り貫くことから「胴田貫」とも呼ばれた戦場刀であった(子連れ狼・拝一刀の愛刀)。
「しかし、慶安より御武家さまでも戦場刀を帯びることは戒められておりましょう。お役人さまはよろしいので?」「うむ、大番頭だった父の形見なのだ」慶安とは3代将軍・家光の時代で、幕府も安定期に入り、庶民には職業倫理を指導する一方で、武士には猛々しい振舞いを戒めて作法に基づく厳格な日常生活を命じ、茶筅髷(ちゃせんまげ=後頭部に立った髷)を禁じ、細い刀の2本差しを命じた。この時代になると同田貫も反りが深くなり装飾性を帯びて作風は一変している。
「父上さまは大番頭でございましたか・・・」「これは余計なことだった忘れよ」「はい」そこからは知介の謝礼の接待を受けて修作は松前の味を満喫することができた。

翌日、修作は高田知介の仕事場へ招かれた。
「後学のために同田貫を研がせてもらいたい」と申し入れられたのである。刀を研ぐには現在でも大刀であれば冬のボーナス、脇差でも夏のボーナスほどの代金が掛かり、足軽・同心の収入では中々発注することは難しかった。
このため修作も「後学のために」と仕事を見学させてもらうことにした。先ず仕事場の前を流れる小川で身を清めることから始まり、続いて白い木綿の袷と袴に着替えた。これは仕事を誤った時に腹を切る覚悟を示す死に装束とも言われている。
包丁や鎌とは違い刀は、描いている曲線(=反り)を損なってはならず、さらに刃紋なども整えなければならない。このため刀を研ぐには多くの砥石を使い分けるが、その形も丸みを帯び、接点を最小限にすることで微妙な調整を加えるのである。
知介は修作から受け取った同田貫を頭上に掲げて礼をした後、鞘から抜き、目貫を外して柄(つか)をとった。そして銘を確かめると土間の仕事場へ移った。
始めは下地研ぎからである。下地研ぎとは刀身の整形のための工程で、背中に当たる棟(むね・峰=みねとも言う)、側面上方の鎬地(しのぎじ)は比較的単純な作業であるが、それでも刀身は先に行くほど薄くなり、その微妙な変化を乱せば強度に影響する。
側面中央部から刃にかけての平地(ひらじ)と切っ先と刃の接合部に当たる横手(よこて)は細心の注意を払う。力の入れ方一つで刃の形が乱れ、切れ味が失われてしまうのだ。
知介は左の膝は砥石を置いた台の上にのせ、左足は立てて腰を浮かせた姿勢で黙って刀を押し引きしている。修作もピンと張り詰めた空気の中、シュッ、シュッと言う刀身と砥石の擦れ合う音が父の愛刀を甦らせてくれているように感じていた。そうした仕事の間にも知介は砥石を取り換えて微妙な調整をしている。職人として持てる力の全てを注ぎ込んでこの銘刀を磨き上げようとしている気迫が伝わってきた。
次は仕上げ研ぎであるが、ここでは刃艶砥(はづやと)と言う現在のサンドペーパーのような砥石で磨きを掛け、刀身の沸(にえ=おぼろげな刃紋)や匂(におい=くっきりとした刃紋)を引き出すのである。
最後は磨きで、これは磨き棒やヘラを使って仕上げを加えるのだが、この時の刃紋の際立たせ方で前回の研ぎが誰の仕事であるかが判ると言われる工程なのである。
仕事を終えて知介は同田貫を修作に渡し、床に両手をついて頭を下げた。修作もその礼が刀に向けられているものと理解し、両手で高く掲げて受けた。
座敷に通され知介の妻が入れた茶を飲んでいる時、気になることを言われた。
「この刀は人を斬ったことがございますね」戦場刀・同田貫であっても人を斬った後には研ぎに出す、研師の目にはその跡が見て取れたらしい。
「うむ、父は何度か介錯を務めたことがあると申しておった」「さようですか・・・」それを聞いて知介と江戸でも滅多に見ないほど美しい妻は手を合わせて「南無阿弥陀佛」と唱え、修作も倣った。
修作は知介のおかげで何よりもの親孝行ができたような気がしてきた。

仕事をし遂げたカツは公儀(幕府)からもらった手当てで、疲れをいやすため通いなれている津軽へ渡り、温泉で湯治をするつもりだった。ところが出立前、松前藩から呼び出しを受けた。
「猪走のカツ、作事奉行所まで同道(どうどう)いたせ」宿舎になっている町家の玄関で役人はふんぞり返って命令した。しかし、カツには津軽藩の重臣であった河合正衛門もこのような態度で接してはいなかった(多分に河合の人間性もあるが)。そこで少しごねてみせた。
「アッシは公方さまの御用でこちらへ参りやした。こちらの藩に関わりはござんせん。御用がすめばとっとと江戸へ帰りやす」町人が武士の言葉に反論することなどはあり得ないことである。その役人もそう高をくくっていたのだが、カツの不敵な態度に圧倒された。実は松前藩は「公儀(幕府)の隠密ではないか」と疑っていたこの飛脚が、町人とは思えぬ使命感を持ち、人並み外れた体力と精神力を有していることに注目し、藩に召し抱えたいと考えていたのだ。ここでカツに逃げられては役人は腹を切ることになる。
「すまぬ。御用と言っても詮議ではない。重役の中にソチを召し抱えたいと申される方がおられるのだ。頼むから同道いたしてくれ」役人はメンツを捨てて頼み込んだ。こうなればカツも長引かせたりはしない。むしろ蝦夷地で働くことも考えていたのだ。
「へい、分かりやした。御一緒いたしやしょう」カツは身支度のために奥へ戻ったが、一瞬、津軽藩の御用飛脚・尾野のタツの顔を思い出した。河合や松木の命で内密の書簡を江戸から津軽へ運ぶ時、帰路にはその返事を運ぶ尾野のタツに抜かれることがあった。
藩内で審議した後に決定事項を書簡にしたためて送るまでに何日掛かるのか?遅れて出発しながら途中で抜かれる尾野のタツの脚力にはいつも感心していた。
今度は自分もあのように「藩御用」の看板を背負って走ることになるのかと思うと、カツは気分が少し滅入ってきた。

結局、カツは松前藩御用の飛脚になったが、江戸までは船便で送るため主に島内各地の運上所(出張所)までの命令を配ることが仕事になった。

その頃、江戸の車智ではゴタゴタが起きていた。それはマサ弥の申し出から始まった。
朝から船頭の仕事のためケイが作った握り飯が入った弁当を抱え、出掛けようとするトモ造をマサ弥が呼び止めた。
「大将、オイは肥前に帰ろうと思っちょりますばい」「へッ?」トモ造は弁当を落としそうになる。マサ弥はその場に膝をつくと立っているトモ造の顔を見上げながら話を続けた。
「大将がオイに仕事を任せて船頭を始めたのは2人分の仕事がないからでっしょ」「・・・」「だったらオイは車造りの仕事を覚えたんで、そろそろ親がいる肥前へ帰りますたい」確かにマサ弥の腕は単独で仕事を任せられるほどに上達している。だから贔屓の仕事を任せ、その代金の大半を手当てとして渡しているのだ。
「大将は元の車屋に戻って下さい」ここまで言ってマサ弥は両手を膝にのせ頭を下げた。この頭の回転が速い若者は全てを察しており、自分の技量も冷静に分析していた。
マサ弥の家は船大工だった父を火砕流の津波で亡くし、母と弟が小さな畑と田を耕しながら暮らしている。漁師の多くが亡くなって船大工だけでは食べていかれなくなったため、車職人の技を学びに江戸へ出てきたのだ。
それはケイ次がマサ弥を連れてきた時に聞いていたことだった。しかし、実直だが思考もまっしぐらのトモ造には簡単に答えは出そうもない。
何よりもトモ造は職人としての腕は立っても店主としての商才に欠けるところがある。寛政の改革による市場への統制は流通の低迷を招き、江戸の車屋を熾烈な顧客獲得競争に走らせており、車清以来の顧客にも他の車屋が低価格や早い納期を売り込んで奪われていた。
そもそも仕事が減っているのなら雇っているマサ弥をクビにすれば、結果は同じだったはずだ。それができなかったのはトモ造に流れる江戸っ子の血の熱い義理と人情だった。
「その話は帰ってからにしよう。今日の仕事も頼むぜ」トモ造はそれだけ言うと舟着き場に向かった。こちらもケイ次不在の穴埋めを自分から買って出た以上、勝手に辞める訳にはいかない。最近、船頭の腕が上がり、仕事も面白くなっているところだった。

その夜、トモ造はケイに酒をつけさせ、一杯飲みながら考えることにした。普通、酔えば思考が鈍るものだが、そこは「勢いをつける」と言う江戸っ子の論理なのだ。
「ケイ次さんは『そのまま蝦夷地に住みつくかも知れねェ』って言ってったらしいから帰って来ねェかもな・・・」これは今日、ゲン希に聞いた話だった。渡船場の親方にも「お世話になりました」と丁寧な挨拶をしていったため半ば諦めているらしい。親方もケイ次から色々と話を聞いていたのだろう。
「と言ってマサ弥の野郎を引き留める訳にゃあいかねェし・・・」こんなことならマサ弥に船頭の仕事を手伝わせておけば良かったと少し後悔した。
確かに職人である以上、キヨ助親方から引き継いだこの車屋を潰すわけにはいかない。しかし、人々の暮らしを運ぶ船頭と言う仕事にも物を作る職人とは違うやりがいを感じ始めていた。今日も結納の品を抱えた仲人と父親を乗せ、「こんな広い川の向こう岸へ嫁に行くなんて・・・」と嘆く父親を励ます仲人の姿に自分の将来を重ねてしまったのだ。
「月日は百代(はくだい)の過客にして行きかふ年も又旅人なり、舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」これは元禄期に活躍した俳人・松尾芭蕉の代表作「奥の細道」の書き出しだが、トモ造がこの気分になるにはまだ経験不足だった。
「あちら立てばこちら立たずけェ、オイラはどうすりゃあ良いんでェ」トモ造は茶碗に注いだ酒を飲み干した。そこへ台所仕事を終えたケイがやってきた。
「お前さん、マサ弥が国に帰るんだって?」「おう、そのことで考えているんでェ」トモ造は酒臭い溜め息をつきながらうなずいた。
「アタしゃあ、お前さんに車屋に戻ってもらいたいよ」「どうしたんでェ、藪から棒に?」思いがけないケイの言葉にトモ造は半ば驚き、半ば憤った口調で問い返した。
「お前さんは船頭になってから家のことを全く構わなくなっちまって、ショウ大も全然なつきゃしない。最近じゃあマイも膝に乗んないべ」確かに職人は家で仕事に励み、その背中を見ながら子供たちは育つのだ。
「でもなァ、仕事が減っちまってるし、ケイ次さんが抜けて渡船場も困ってんでェ」「仕事が減ってるからって他所へ逃げたんじゃあお前さんらしくないよ。渡船場のことは始めからお前さんに関わりのないことだべ」ケイの言葉は1つ1つ胸に響いた。
「飲めよ」トモ造は茶碗をケイに渡し酒を注いだ。するとケイが小声で呟いた。「あまり酔わせるとイビキがうるさくて寝られないからこの辺でやめるべ」

翌朝、トモ造は渡船場の親方に弟子が辞めることになったため船頭を続けることができないから早く後任を探すように申し入れた。
それで「もうやめた」と責任放棄しないところがトモ造であろう。

蝦夷地からの帰路についた修作は函館の波止場で懐かしい物を見た。津軽藩の荷駄を運ぶ大八車の傍に「車清」と染めた半被を着た若造が2人いたのだ。
かつてトモ造が同じ半被を着ていたのを見たことがある。あの時、トモ造は師匠の店の物だと言っていた。修作はその若造たちに声を掛けてみた。
「お前らは弘前城下の車清の者か?」突然、声を掛けられて振り返った2人は地面に座り両手をついた。修作が武士ではないことが判らなかったのだろう。その様子を見て修作は苦笑しながら話を続けた。
「武家ではないゆえ立ち話でよい。別に御用の筋ではないから安堵いたせ。その半被について訊きたいのじゃ」「へい・・・」今度は幾分貫禄がある方が返事をした。
「ワシは江戸の北町同心・守野修作と言う。それと同じ半被を江戸の街で見たことがあるのじゃ」修作の説明に2人は顔を見合わせた。
「確かトモ造と言う車職人が着ておったが・・・」すると小柄な丸い体系のヒヨコのような若造が「兄さん(兄弟子)では」と言うと、もう1人の口元が歪んだ。
「アッシは車清のマサ吉と言いやす。それは兄弟子のトモ造ですが、まだ車清の半被を着てるんで?」「いや、出会った頃の話じゃ。今では車智と言う半被を作っておる」修作は同心の習い性でマサ吉の言葉が江戸弁の混じった上州訛りであることに気づいた。
「ところでお前たちは津軽藩の御用でまいったのか?」「へい、大八車を納めましたついでに車引きをやれと言われました」かつては無礼な言葉遣いで手討ちになりかけ、客の機嫌を損ねてきたマサ吉だったが、キヨ助親方に「俺は鍛冶屋じゃねェぞ」と言われながら殴られて人間的にも成長したようだ。その意味ではキヨ助親方の拳は人間を鍛える木槌だ。
「こちらはお前の弟子か?」「いいえ、弟分のマサ太でござんす」腕を上げたマサ吉は単独での仕事も任されるようになり、ノレン分けが近づいたことで、城下の車屋の跡取りであるマサ太が見習いに雇われたとのことだ。
マサ吉の返事を聞き修作はトモ造の弟子が「マサ弥」であることを思い出して、車職人は「マサ」が付く名前になるか首をかしげた。
「それでは弘前城下へ戻ったなら、親方にトモ造とお内儀も息災で暮らしておると伝えてくれ」「へい」それで別れたが東北育ちでトモ造を知らないマサ太は「何か悪いことをして役人に捕まった」のかと思っていた。

弘前に帰ってからのキヨ助親方とマサ太の会話。
「親方、トモ造って兄さんは何かやって役人に捕まったんだべか」「馬鹿野郎、トモの野郎は真面目さだけが取り柄なんでェ、おめえらとは違うんだ」「ボコッ」「ボコッ」「バシッ」「・・・父ちゃんに言いつけてやる(小声)」親方の鍛冶屋は止められないようだ。

函館から大間へ渡る船の中で修作は意外な人に会った。
「あれ、お役人さん」「おや、船頭さん」それはエカテリーナ2世号に群がる野次馬を追っ払う時に一緒だったケイ次だった。ケイ次は函館の回船問屋に雇われ、函館と大間や野辺地を結ぶ航路の船頭見習いとして働いていると言う。
函館と津軽海峡を隔てた大間、野辺地には小さな帆を立てた伝馬船が使われていたが、風が複雑に変わる海峡では帆よりも櫓の方が活躍している。ケイ次も渡し船より大きく長い櫓を全身の筋力で漕いでいた。
「この海峡は潮によって西から東へ、東から西へと流れが変わるんで」「ふーん、川とは違うんだね」修作は素直に感心した。ただ、ケイ次が渡船場の船頭ではなく元は有明海の漁師であったことは聞いているので海に慣れていることも知っていた。
「それにしても思い切ったね」「いや、北国は魚も酒も美味いんで気に入ったんですよ」ケイ次はそう言うと急に表情を引き締めた。
「おっと風が出てきた。帆を張るんで喋ってる余裕がないんでさ。おいイチの兵(いちのへい)!」そう言うとケイ次は若い水夫を使って帆を広げ、帆柱に引き上げる。その手慣れた仕事は有明海での経験があるのかも知れない。
帆が風をはらむと速度が上がり、対岸が目に見えて近づいてくる。今日は天気が好いので前方には下北半島の険しい山々、後方には函館のゆったりとした丘陵が見えている。しかし、七月とは言え津軽海峡を吹く風は冷たく、ケイの母親が持たせてくれた綿入れが役に立った。
やがて前方に白い断崖絶壁が見えてきたところで風が弱まったのだろう、ケイ次は水夫と2人で帆を下ろすと「おい、イチの兵、やれ」と若い水夫に櫓を漕がした(逆風を受ける可能性があるため使わない時は帆を下す)。
「それにしてもおロシアの船は向かい風でも進んでたばってんが、どげんなっとるんかいのう?」ケイ次は2人で下した帆を船縁に固定すると、後ろ向きに座りイチの平の操船を監督しながら説明してくれた。
「前に白い壁のような崖が見えるでしょう。あれは佛ヶ浦と言うんでやんす」「ふーん、佛ヶ浦かァ、それで恐山はどこかな?」「恐山?お役人さんはお参りをされるんで?」「うむ」修作はケイの母親から聞いているイタコの口寄せを受けたいと思っていた。
「恐山ならイチの兵の方が詳しいでしょう。後で教えさせます」ケイ次はそう言うと「恐山へ行く道をお教えしろ」と命じ、イチの兵は櫓を漕ぎながらうなずいた。

伝馬船が大間の砂浜に乗り上げると修作は「自分よりも役に立つだろう」と羽織っていた綿入れをケイ次に渡して下船したが、ついでに「函館に来い」と言う家族への伝言を頼まれ、イチの兵からは「オラ、江戸へ行きてェだ」と打ち明けられた。

うっそうと茂った深い森の中の山道を登っていくと急に開けた明るい風景に出る。そこが霊場・恐山だった。恐山は山頂の火口湖の畔に建っているため樹木はあまりなくゴツゴツとした岩肌がむき出しの一種異様な風景だ。岩肌をぬうように作られた参道を町人の参拝者たちについて進んでいくと、やがて古びた山門が見えてきた。
修作は笠を取り、帯から刀を外し、膝まで上げていた着物の裾を下ろして身なりを整えてから山門をくぐった。山門から本堂までの両側には参拝者が宿泊する宿坊が立ち並び、その一角でイタコが口寄せをしているのが見える。このような北の果ての山奥の寺だが参拝者は多く、イタコの前にも列を作っていた。
本堂に参拝し、宿坊へ宿泊の予約をしてからイタコのところへ向かうと刀を下げた修作を侍だと思ったのか前に並んだ町人たちが順番を譲ろうとする。そこで修作は手で制して最後尾に立った。
しばらく待ってから修作の順番がきたが、侍の後に並ぶのは遠慮したのか後ろには誰もいない。これはユックリと口寄せしてもらえると言うことでもある。
「これはお武家様」「いや、町同心じゃ。気楽にせよ」イタコが座っているムシロに両手をついて土下座したので、修作はこれも制してその場に腰を下した。ただイタコには「町同心」が何なのか判っていないようだった。
「それでバチドーシン様が誰を呼ぶんだべか?」下北半島の方言には津軽弁、南部弁とは異なる独特の訛りがあるが、イタコは各地からの参拝者を相手にしているため比較的判り易い言葉遣いだった。
「うむ、父を呼んでもらいたい」「そんではお墓の在る寺と法名が判れば言ってけれ」「江戸御府内(町奉行が管轄した地域)目黒の文代寺、大空テンジン首座じゃ」「それはお坊様だべ」修作の説明を聞いてイタコは首を振った。
「オラたちじゃあ、お坊さまの霊をお呼びすることは畏れ多くてできねェんだ」いきなり断られてしまい修作は途方に暮れたが思い直してもう一度頼んでみた。
「それでは母を頼む。江戸府内葛飾の真諦院(しんたいいん)、典室慈聖大姉じゃ」イタコは町人ではあり得ない高い位の戒名に困った顔をしたが、すぐに色々な飾りがついた不思議な数珠を揉みながら聞いたことがない経文を唱え、覚えたところだけをハッキリと、判らないところはモゴモゴと誤魔化して口寄せを始めた。

「修作、オッカァだ」イタコは先ほど訊いた名前で呼びかける。修作はかすかに記憶に残る母の口調を思い出してみたが東北訛りが似ているような気もした。
「母上、お久しゅうございます」いきなり両手をついて平伏した修作にイタコは驚いて飛び上ったが、それでも構わず心の中の想いを吐き出し始めた。
「母上、ソレガシには守野の名が重うございます。父上の跡を受け継いで大番頭になることもできず、この名を足軽同心に落としてしまいました」思いがけない同心の告白にイタコは返事ができないでいる。それでも修作は言葉を続けた。
「母上、父上はお怒りでしょう。祖父上、祖母上はお前を決して許さぬ、一族の面汚しと仰って三河へ帰られました」ここで修作の言葉は嗚咽になった。
するとイタコは身体に電流が走ったように硬直し、一転して穏やかな口調で話し始めた。
「修作、父上は決して怒ってはおられぬ。むしろソナタに苦労を押しつけて申し訳ないと仰っておいでじゃ」修作は「泣き顔を人に見せぬ」と言う武家の作法のため顔が上げられないでいたが、涙の滴を垂らし続けている。
「同心がソナタの心に合うのならそれを極めればよかろう。為すべき務めを誠実に果たすことが忠義の道、それでその刀が重くなれば捨ててしまえ。と隣りで父上が言っておられるぞ」ここで修作は懐から手拭いを出し、顔を覆うように拭きながらイタコの顔を見た。その表情は先ほどの田舎の婆さんではなく生前の母・キヨのような気品と慈愛に満ちている。確かにこのような難しい言葉をイタコが語ることは無理だろう。
「母上・・・」「そちには家で待っている母がおろう。だから安心して父上と見守っておられるのじゃ。大切にいたせよ」そう言って微笑んだイタコの顔は母そのものだった。
修作の胸に城番の長屋で暮らした幼い頃、仲睦まじかった両親の姿が浮かび、それがあの世で再現されているように思われ妙に嬉しくなった。父は帰宅すると大番頭と言う立場を忘れたような気軽さで近所の住人たちを呼び集め、酒盛りを楽しんでいた。母も妻たちを呼んで料理を作りながら盛り上がっていた。
武家の身分に執着していたのは無能な癖に世襲でその役職についた祖父であり、それを誇示していた祖母であった。おそらく父には大番頭が心に合っていたのであろう。
「同心が心に合うのなら極めればよい」母が伝えた(実際にはイタコ)父の言葉が重く響いてきた。同心の仕事は自分に合っているように思う。ただ、身分が足軽並みであることを恥じる気持ちが重荷になっていたのだ。しかし、父は「為すべき仕事を誠実に果たせ」と言いながら「刀を捨ててしまえ」とも言った。刀を捨てることは農民、職人、町人になれと言う意味だ。
修作は松前で高田知介に研いでもらった同田貫を見詰めながら意味を考えた。その時、出家した父の「放下著(ほうげじゃく)」と言う口癖を思い出した。放下著とは「投げ捨ててしまえ」と言う意味の禅語で、何もなければ得たもの全てが有り難い、働く仕事があればそれだけで満足しろと言うのが父の教えだろう。
「修作、母が生まれた出羽の戸沢様の御領内、角川郷に寄っておくれ」こう言ってイタコは疲れ果てたように放心した。

結局、マサ弥は肥前へ帰ってしまうことになった。腕が立ち、喧嘩が強く、男前で、機転が利くマサ弥のおかげでどれ程助けられたかは判らないが、市場原理を理解しない老中筆頭・松平定信の硬直した倹約令と経済統制、そして庶民の生活にまで介入する風紀取り締まりにより、物資の流通は滞り、流通が減れば車の需要も減り、使用頻度が落ちれば修理の仕事もなくなる。トモ造の預かり知らぬお上の事情でこの若者を手放さなければならないのだ。
出立の日が近づくと車智では女子供が寂しがり始めた。
「マサ弥、行っちまうんだね」「うん、行っちまう」「寂しくなるね」「うん、寂しくなる」食事の時にケイが嘆いても、トモ造はマサ弥が去った後の仕事をどうするかで頭が一杯のため生返事を繰り返していた。
「引き止めることはできないのかい」「うん、できねェな」「お前さんが代わりに帰りなよ」「うん、帰ろうかな」トモ造の返事にケイはマイと顔を見合せ、肩をすくめて笑った。
「マイ、マサ弥のお嫁さんになる」「うん、お嫁になるかな・・・何を言ってやがるんでェ!」マイの思いがけない言葉に流石のトモ造も我に返った。
トモ造の強い口調に半分べそを書いたマイとケイは対話でトモ造に抗議を始めた。
「マイ、マサ弥が好き」「うん、父ちゃんがウチにいなくなってからはマサ弥に遊んでもらってたもんね」「うん、父ちゃんはお出かけばっかり」「帰ってくるのは寝る時だけだ」車智ではショウ大が眠っている時には静かにしていなければならず、ケイも子育てに掛かり切りでマイの居場所がなくなっている。そこで仕事から戻ったマサ弥が散歩に連れていくようになっていた。先ほどまでマイが遊んでいた木彫りの玩具もマサ弥が作ったものだ。
「うるせェな!そう目のめェ(前)でやいのやいのと騒がれちゃあ考えもまとまりゃしねェ」「静かにしてたってまとまんないよ。マイ、母ちゃんと2人で喰うべ」そう言うとケイとマイはお膳とオヒツを持って台所へ行ってしまった。
トモ造の隣りには食事前、オジヤ(離乳食)をもらって眠っているショウ大だけだった。
「うーん、俺の居場所がなくなっちまってるぜ・・・やっぱり職人に戻るか」そう呟いてトモ造は車智の2代目・ショウ大の寝顔を眺めて溜め息をついた。

出立の朝、マサ弥を見送ろうとする近所の女房や娘たちが集まって車智の表は人だかりになっていた。娘たちは妙に着飾って「自分に目を止めてくれ」と言いたそうな風情だ。
「大将、有り難うございました。教えていただいたことは必ず役に立てます」「おう・・・」感激屋のトモ造は師匠として掛ける言葉が出てこなかった。
初めてケイ次に連れられてマサ弥が店に来て以来、一緒に働いてきた出来事が思い出されて目頭が熱くなる。しかし、「旅立ちに涙は禁物」とグッとこらえるのが男・トモ造だった。
「お上さん、本当にお世話になりました。スクメを国でも作ってみます」マサ弥は昼・夕食は車智で食べていたためケイの津軽料理にも親しんできた。中でもケイが鮫を買ってきたのには驚いたらしく、台所でスクメの作り方を習ったのだ。
「あっちでも鮫が獲れるべか?」「んだ、獲れますけんど邪魔者になっとりますばい」知らない間にマサ弥も津軽弁がうつっている。ただし、両者とも気づいていなかった。
マサ弥はケイの腕のショウ大の頭を撫でた後、しゃがんでマイに声を掛けた。
「マイちゃん、元気で大きくなるんだよ」そう言って頭を撫でるとマイは涙声で訴えた。
「マサ弥、マイをお嫁さんにして」しかし、マサ弥は何も言わずにもう一度頬を撫でて立ち上がった。
その時、集まっていた娘たちの間から「お嫁ならアタイが行きたいよ」「アタイは地の果てだってついてくよ」「アチキはあの世にだって」とささやき合う声が聞こえてきた。男前で生真面目、それでいて心優しいマサ弥に惚れない娘はいないだろう。
特に刀を持った押し込みを木切れで叩き伏せた武勇伝が広まって以降、マイを散歩に連れて歩くと「マイちゃん、いいなァ」「ウチの子じゃあ駄目かね」と羨ましがり、お菓子をくれるなどして妙に可愛がってくれる近所の女房が続出していたのだ。
マサ弥は苦笑しながら深く頭を下げ、「それじゃあ皆様、お達者で」と言って旅立った。同時に悲鳴のような声が起こったがマサ弥は振り返らなかった。

マイはマサ弥の後を追って必死に走った。それは幼い恋心が突き動かしていたのだろう。
車智から西への旅には総州街道を江戸に向かい、品川から東海道に入ることになる。マイは脇目もふらず走ったが普通の男よりも足が早いマサ弥では背中はどんどん小さくなっていく。何かに急いでいるような早さに一途なマイも諦めようとした時、町外れの地蔵堂の前でマサ弥が立ち止ったのが見えた。
「待ってェ!」マイが叫び声を上げようとした時、地蔵堂の裏から旅支度をした若い娘が現れた。マイは慌てて手前の松並木の陰に隠れると2人の様子を黙って見た。
「待ったか?」「うん、待ち遠しくてこっちから迎えに行きそうだったよ」マサ弥と娘は向かい合って楽しげに話し始める。
「ばってん、駆け落ちなんて本当に良いのかな?」「仕方ないよ。父ちゃん、箱根の山の向こうには嫁に出さないって言い張るんだもん」「大将に頼んでもらっても敵いそうもないからな」幼いマイの胸に「駆け落ち」と言う言葉が刻まれた。
「和尚さん、道中手形には夫婦旅(めおとたび)ってことにしてくれたからな」「うん、もう夫婦なんだね」どうやらマサ弥と娘は将来を相談した菩提寺の和尚の配慮で、夫婦としての手形を発行してもらったようだ。道中手形は公的な役所だけでなく人別帳を管理する菩提寺でも発行できた。早い話が通行許可証と言うよりも身分証明書的な意味合いが強いモノなのだ。
仮に経緯を知った娘の親が町奉行所に訴えても寺院は寺社奉行の管轄なので和尚に類が及ぶことはない。また檀家・門徒は強制加入なので娘の親が怒鳴り込んでも喧嘩別れすることはできない。つまり和尚の胸一つなのである。
「それじゃあ、行くか」「あいよ、お前さん」マサ弥は娘の手から風呂敷包みを受け取ると腰に結わえて肩を並ならべて歩きだした。
こうしてマイの幼い初恋が総州街道の向こうへ消えていった。

その夜、マイが「駆け落ちって何?」と訊いたことで、マサ弥の逃避行はケイには知られてしまった。が、意外に心配性なトモ造には内緒にしておいた。

恐山を下った修作は下北半島の海岸沿いを南に下って行った。
真夏の旅には海からの潮風が心地よく猫のような鳴き声の海鳥が気持ちを和ませてくれる。やがて大きな湖に出たが、地元の者たちが胸まで水に漬かりカニや貝を獲っていた。
岸に置いている籠を覗くと江戸では見たことがない貝で、そんなことにも旅情を感じることができた。ただ、そんなノンビリした旅を楽しんでいてはいけなかった。
天明の大飢饉の時、南部藩では江戸で米価が高騰していることを知り、種もみまで奪い取る非情な年貢を行ったため、全員が餓死したり、流民となった廃村が多く、この日のうちに八戸城下に入らなければ宿泊する旅籠がないのだ。
松の森の中に「しもだ」と刻んだ道標はあったものの、夏草が生い茂った畑が広がるばかりで点在する人家にも住んでいる気配はなさそうだ。
この時代、まだ正確な地図はなく(伊能忠敬が奥州での測量に出発したのは9年後の享和元年)、初めての旅では行き当たりバッタリにならざるを得ないのだが、旅籠が軒を連ねる街道とは違い村落の多くが無人となると幽霊と一緒に野宿しなければならなくなる。
森を抜けると急に開けた畑に出た。そこでは1人の農夫が黙々と鍬を下ろしていた。
「すまぬ」修作は声を掛けたが、仕事に熱中しているようで気がつかない。
「あい、すまぬ」もう一度、大きく声を掛けると農夫は振り返った。その顔には農夫と言うよりも古武士の風格があり、修作は思わず姿勢を正した。
「お役人さんかァ、何の用だァ?」農夫の返事に修作は戸惑った。各藩では独自の役職を作ることを避け、努めて公儀の制度を踏襲している。このため各藩にも町奉行所があり、そこに与力、同心も勤めているのだが、江戸の町同心のような袴をはかずに同心羽織、1本差しで十手を持っている風体とは限らない。むしろ他の足軽と同様に刀は脇差まで(短い木剣のことも多い)、捕りもの棒を持っていることが一般的である。だから長い刀を差していれば侍だと思って座って手をつく者が多いのだが、この農夫は一目で言い当てた。
「ソレガシは江戸の北町に勤めておる者、ここより八戸のお城下までは遠いのか?」「お城下け?日が暮れるまでに着くのは難しいなァ」「それまでに旅籠(はたご)は?」「ねえ(無い)」修作の困惑した顔を見て農夫は鍬の土を振り落とすと担いで歩み寄り、置いてあった竹かごの紐を両肩に掛けた。
「しかたね、ウチに泊めてやっからついてきな」思いがけない話の展開に修作は「キツネに化かされていないか」と頬をつねってみた。

家までの道すがら農夫はダイ司と名乗った。この辺り一帯を治めていた豪族・松森家の末裔だが、2男のため冬には出稼ぎに出ていて、江戸の町同心の風体も判っていたのだ。
本家を継いだ兄から小作人の多くが死んだ土地をまかされたため、こうして田畑の耕作に励んでいると言う。ところがダイ司は修作から聞いた名前に首を傾げていた。
「守野さんて言いなさるんで・・・どこかで聞いたことがあるな」そう言われて修作が思い当たるのは旅坊主になっていた父であるが、出家後は俗名を名乗ることはしなかったはずだ。そんなことをしている間に屋敷についた。それは2男に与えられたとは思えない立派な邸宅である。むしろダイ司の松森一族が引き続きこの辺り一帯の庄屋を勤めているのかも知れない。
「けえったぞ」ダイ司が土間で声を掛けると奥から農家の嫁と言うよりも旧家の奥様と言う感じの品が良い妻が出てきた。
「あら、早いと思ったらお客さんかい?」「おう、これからお城下まで行かれると言うから、それじゃあ日が暮れちまうからウチに泊まれって案内したんだ」普通、夫が予定外の来客を連れてくると妻は機嫌を悪くするものだが、この妻は妙に慣れた態度で修作を招き入れた。
「んだば、今晩の泊まりはお1人け?」「今のところはな。だどもメシ時になったらやってくるかも知れねェが」そう言うとダイ司はカゴの中の夏野菜を妻に渡し、鍬を片づけに広い土間の奥の納屋へ行った。
妻は刀を持っている修作の身分を計りかねていたが、先ほどの夫の親しげな口調を思い出して座っただけで話を続けた。
「江戸の方のお口に合うようなもてなしはできねェだども、ゆるりとくつろいでくろ」「はい、突然で申し訳なく存じます。どうぞお気遣いなく」修作が上がり端に腰を下して草鞋の紐を解こうとすると、そこにダイ司が釣り竿を持ってやってきた。
「飯の種に岩魚を釣りに行くベ」「岩魚?」「何だ、岩魚も知らねェのか。美味ェのに」そう言うと大司郎は「刀をお預かりしろ」と妻に指示して先に出て行った。
「結局、釣りがしたかったんだね」妻は独り言を呟きながら刀を受け取ったが、両手で掲げて頭を下げる作法は正しく、修作は十手だけを帯に差して後に続いた。

その夜、畑で採ってきた野菜の煮物を入れた鍋を囲炉裏に掛け、その周りに串に刺した釣果の岩魚や山女を立てて夕食となった。岩魚や山女は本来、山奥の清流に棲む魚とされているが、ダイ司が釣ったのは田圃脇の水路である。それも庭先で捕まえたミミズの餌で入れ食い状態であった。
「まあ、一杯」大司郎は燗をつけさせた徳利から茶碗に酒を注いだ。
「お前さん、酒は飯の後にしては」「酒も飯も元は米、腹に入れば同じことだ」この時代、江戸では「下り物」と呼ばれる関西で作られた銘酒が出回っていたが、天明の大飢饉の深刻な米不足で酒に対する製造制限が敷かれ、とても庶民の口には入っていなかった。その後、飢饉が回復するにつれ自家製の濁酒が作られるようになっていたが、これも食用の米が十分に確保できる豪農の特権であろう(関西では専用の酒米が作られていたが、地方ではまだ余った食用米で自家醸造する程度だった)。
「さあ、魚も焼けた。喰いなせい」「はい、いただきます」修作は目の前の岩魚を灰から抜くと背中から口にした。擦り込んだ塩が岩魚の油と一緒に口の中に広がり、絶妙の味わいで言葉も発せられないまま夢中で食べていた。
その時、修作は食通が鮎の腹を珍味として食べると言う話を思い出し、太った岩魚の腹にかぶりついた。すると腹の中に妙な食感の物が入っている。おそろおそる掌に出してみるとそれは大きな青虫だった。岩魚は「悪食」と言われる通り、あらゆる物を口にする。「鮎の腹が美味い」とされるのは春先に水中の苔を食べ、それが独特の苦味と匂いを感じさせるからで川魚なら全てに適用できる訳ではないのだ。
「しまったァ、虫を食べてしまった」そう言って出されたさ湯で口をすすぐ修作をダイ司と妻は可笑しそうに笑った。
「お晩でがんす」「御免だす」そこへ若者たちが土間へ入ってきた。
「来るのが遅いベ。暗くなってうろついていると狼に喰われちまうぞ」ダイ司は若者たちを囲炉裏の傍に招き入れ、妻は若者から火の点いた松明(たいまつ)を受け取ると茶碗を取りに台所に行った。まだ灯明の油にする菜種などを作る余裕がなく、囲炉裏の火だけの薄明かりではよく見えないが、若者と言うよりも少年に近い年齢のようだ。
近づいた若者たちは武家の髷を結っている修作に戸惑っていたが、ダイ司が「江戸のお役人さんだが遠慮はいらない」と紹介すると安心して腰を下した。
「こいつらは飢饉で逃げ出した百姓のガキどもだが、親とはぐれて泣いていたのを拾って畑をやらせてんだ。そんで時々、飯を喰いに来んだァ」ダイ司の説明に若者たちもうなずいて頭を下げた。
天明の大飢饉が終息して4年、復興に取り組んでいるのはこうした地元に根を下ろした実力者たちで、武士たちはひっ迫する藩の財政を埋め合わせる年貢のソロバン勘定だけに励んでいるのであろう。

「ところでお役人さん、確か守野さんって言ったべ」「うむ、守野修作じゃが」「テンジンさんって坊さんと関係あるんだべか?」突然に父の名前を言われ、修作は飲みかけていた酒でむせてしまった。
「父を知っているのか?」修作の返事を聞いてダイ司は妻と顔を見合わせた。
「あれは変な坊さんだったなァ」「はい」妻も素直に同意する。思いがけない生前の父の秘話に修作は身を乗り出したが、ダイ司は宥めるように酒を注いだ。
「飢饉の後、年貢に種籾まで取り上げられたんで、もう我慢できねェって一揆を起こそうとしてたんだ」その言葉に今度は若者たちが身を乗り出した。実際は彼らの親たちの鬱積した不満を大司郎たちが抑え切れなくなったのだろう。
「そこへ旅の坊さんがやってきて、死人の弔いをして回り出したんだ」「・・・」修作は天明の飢饉の後、父が死んだ者の供養をするため奥州に旅立ったことを思い出した。
「だども布施を渡す者もねェから見かねて細い大根をやったんだ」「それはどうも・・・」修作は思わず父に代わって手を合わせてしまった。
「したら、半分に折って返したんだ」「返した?」「喜捨は拒めねェから受け取るが、先ずは働く者が喰わねェといけないってさ」まさに父の口癖だった。ここで妻が代わって説明した。
「それじゃあ、坊さんも困るでしょうって言ったら」「言ったら?」「武士は喰わねど高楊枝って笑われたんだァ」このとぼけた返事に若者たちは顔を見合わせて笑った。
「だども、坊さんが何で武士なんだべかと思ってたら、すぐに役人に捕まったんだよ」「捕縛された?」「コーギ(公儀)のミッテイだろうって」「密偵?」若者たちは「密偵」が判らないようなので、ダイ司が「探りだ」と説明した。
「役人が取り囲んで奉行所まで来いって言ったんだ」話は一転、捕り物劇になった。
「ところが役人が縄を掛けようとした途端、僧侶は何物にも縛られぬと言って大暴れ」「杖を振り回して滅多打ち、刀にも負けてなかった」これには「それはそうだろう」と修作は納得した。
「おまけに領民の糧(かて)を奪って恥じぬとはそれでも武士かって説教もしてた」夫婦の熱弁に若者たちは講談でも聞くような顔になって膝の上で拳を握っている。
「だども一暴れした後、腹が減った、飯を食わせろって先に奉行所へ歩き出したんだ」「そこから先のことは判んねェけど、後で役人から元は守野某(ナニガシ)って名の旗本だって聞いたんだ」奉行所での取り調べとは言え、あれほど嫌っていた俗名を名乗らなければならなかった父はさぞや無念であったろうと思い修作は唇を噛んだ。
「と言うことで一揆も止めたんだからオラの命の恩人でもあるんだ」とダイ司が落ちをつけてこの話は終わった。
翌朝、旅立った修作は道に父の足跡が残っているような気がした。

江戸ではケイの母が同心長屋で留守を守っている。ただ母は正式な家族でないため給金は奉行所預かりで届かず、情報も全く伝わってこない。それでも修作が「生活費に」と残してくれていった蓄えで暮らしていた。長屋の同心たちも修作が実母のように大切にしていることを知っているので、噂話として情報も耳に入っている。
守野家では祖父の代までは見栄を張った生活をしていたが、根っからの武人だった父親のテンジンは「いざ合戦」の備えとして質素倹約を徹底していた上、母親のキヨは貧しい農家の娘で武家育ちのお嬢様のような贅沢を言わなかったからその息子である修作も贅沢はせず同心の薄給でも蓄えをしていたのだ。
「それにしても暑い・・・これでは津軽の夏が恋しくなるわ」朝からの掃除を終えて、水汲み場ですすいだ雑巾を絞りながら母は夏の空を見上げた。屋根と屋根の間に見える青空は真夏の太陽が高く上り、眩しいほど白い雲が浮かんでいる。
流石に暑いのかいつもは元気に遊んでいる子供たちの姿はない。庶民の子供なら昼食前に寺小屋へ行っているのかも知れないが同心長屋では武家に倣って家で自主学習している家が多いようだ(子弟の教育は隠居の仕事だった)。
長屋の井戸は棟と棟の中央に掘ってあるものだが、江戸の埋め立て地では海抜が低く飲用に向かないため、井戸ではなく多摩川などの上流から水を引いている通水なのだ。このため本草学者・貝原益軒は「養生訓」の中で飲料水としては直接貯めた雨水を最上としている。季節を分かたず涌かした湯を飲用にしていたのは衛生上、適切であった。したがって水汲み場の生水では野菜や食器の洗浄、米を研ぐこと、そして洗濯を行うのだ。
それにしても江戸出てきて何年過ぎてもこの暑さには慣れることはできない。真夏でも日が影れば涼しく、岩木山から吹き下ろす風が心地よかった津軽が懐かしくなる。
「江戸でここまで暑ければ蝦夷地でも寒くはないはず。旦那様に余計な荷物を持たせてしまったかも・・・」絞った雑巾を入れたタライを抱えて家に戻り、汗を拭きながら母は修作に持たせた防寒衣類の大荷物を思い出した。修作から蝦夷地行きのことを聞いたのはまだ寒さに向かう時期で、そこから支度を始めたため、あのようなことになったのだ。
「噂ではお盆明けには帰ってこられるとか。いっそ向こうで売って下されば道中の足しにもなるけれど」並みの若者なら初めての土地に行けば不要な物を売ってでも遊ぼうするはずだが、修作の性分ではそんなことはしそうもない。帰路は徒歩だと聞いているので大荷物を背負っての道中の苦労を思うといたたまれなくなった。
「もう一度、お参りしておこう」母は立ち上がると自分の佛壇に祀ってあるトモ造手製の地蔵菩薩に修作の無事を祈ることにした。

「母上さま」昼過ぎに玄関の障子の向こうで声を掛ける者があった。その声が向かいの同心の妻であることは判っている。ケイの母は農家の妻なのだが、武家出身の修作が「母上」と呼んでいることから近所の同心の妻たちもそれに倣うようになっていた。
「はい、池口さまの奥さまで?」「はい」中から声を掛けながら障子を開けると、顔なじみの同心の妻がざるに瓜を2つ載せて立っていた。
「母上に習いながら作った瓜が見事に生りましたので、報告がてらお裾分けに」「これは見事な瓜ですね。冷やして食せば美味しいでしょう」教官である母に誉められて弟子の妻は嬉しそうにうなずいた。
同心長屋には洗濯物干し場と十坪ほどの庭があり、守野家ではそこを畑にしている。これも父親のテンジンが「三河武士は農耕をして暮らしておった。そこで鍛錬したから天下無双の強さが身についたのだ」と言って城番長屋の庭に畑を作っていたことを踏襲しているのだ。ただテンジンも素人であり、農家の娘だった母親のキヨが亡くなってからは見よう見まねの家庭菜園であり、収穫量や作物の質は大したことがなかった。
そこへ本職の母がやってきて耕し始めたのだから収穫は倍増、売り物になるほどの作物を配られた近所の妻たちも教えを受けて家庭菜園に励みだしたのだ。
「実の下に藁を敷かなければならないとは知りませんでした」「はい、土に触れさせておくと、そこから腐ってくるのです」「おかげで美味しい瓜ができました」そう言って三浦の妻はすでに試食済みであることを自分から白状したことに気づき困った顔をしたので、母は瓜を手にとって点検を始めた。
傷などがなく上手く藁を敷いていたことを確かめると母は瓜を受け取った。
「それにしても水汲み場ではあまり冷えないのが残念です」「井戸なら本当に冷えますが」「畔を流れる川も良いですよ」「アゼですか?」江戸の下町の生まれらしい妻は田園風景と言うものをあまり知らないようで、どうやって田と田の畔の間を流れる川で瓜を冷やすのか判らないらしい。
「田と田の間には水を引く小さな川が流れているのです」こう言って母は瓜を持った両手を使って川の幅を説明した。
「そこに籠に入れた瓜やキュウリを漬けて流れに晒しておくと、よく冷えて洗う手間も省けるのです」「水はきれいなのですか?」「はい、山からの流れですから」これは津軽の平賀の話で関東平野の田舎では当てはまらないが、この妻が実際にやることはないからそれでよかった。
「旦那様の好きな瓜をもらったけれど・・・先ずはお供物にするベ」修作の好物の瓜だが、今日は佛壇に供えられてから母の口に入った。

修作の留守中に盂蘭盆会の時期が来た。明治になって太陽暦に改めた時から暦のままの7月と季節感で8月に分かれたが、この時代は全国一律に太陰暦の7月15日だった。
「確か去年は文代寺(もんだいじ)からお坊さんに来てもらってから、墓参りは目黒の文代寺と葛飾の真諦院(しんたいいん)へ行ったわね」文代寺は浄土宗、真諦院は臨済宗なのだが母にはよく判らなかった。ただキヨの墓参りに行った真諦院で僧侶が唱えていたお経の方が津軽で聞いていた曹洞宗のものに似ていたように思った。
「文代寺へは旦那様から頼みに行ったのかしら?」この時代の盆参りは宗門改めの意味もあり、僧侶が家に上がって佛壇の本尊や位牌を点検し、法要中の家族の態度でキリシタンではないことを確認していた。したがって檀家・門徒が頼まなくても菩提寺からやってくるのが盆参りなのだが、武家ではそれぞれの菩提寺から招く形になるため農家や庶民のようにはいかないらしい。と言いながら足軽並みの同心は武家ではなく、家々によってやり方が違うようだった。
「勝手なことをして旦那様に迷惑がかかっても困るし、かと言って法要をせずにお盆を過ごせば申し訳ないし・・・」そんなことを考えながら昨年の盆には修作が夫の位牌を佛壇に収め、テンジンとキヨと一緒に文代寺の僧侶のお経で供養させてくれたことを思い出して鼻をすすった。
風の便り(尾野のタツが車智に寄ってしていく噂話)では夫の墓にテンジンが建立した地蔵は願を掛ける参詣者がひきも切らず大変に賑わっているらしい。
「うーん、マイが来ればテンジンさまにどうすればいいか訊いてもらうのに、最近はトンと顔を出さないから」イタコの才能があるマイならテンジンの意見を訊いてもらえるはずだ。しかし、母はトモ造とケイの足が遠のいていると思っているが、実は何度か訪問した時、「御主人様の留守中に上げる訳にはいかない」と玄関で追い払ったことで気を使って遠慮しているのだ。おまけにトモ造が船頭になったため車の修理のついでに寄ることもなくなっている。
「托鉢の坊さんが来れば頼めるけど・・・その方がテンジンさまのお好みでしょうから」確かにテンジンは托鉢をしながら旅を続けた風来坊主だったが、普通の托鉢の坊主は家を持てない貧乏人が暮らす長屋を回ることはあまりしない。中にはどこかで手に入れた法衣を着て笠をかぶり托鉢に回っている偽坊主が暮らしていることもある。
ましてや町奉行所の同心が暮らす長屋に近づくのは余程の道心堅固な修行者か、単なる喰い詰め坊主であろう。
母の思案は結論が出なかったが、法要の時に着るキヨの形見の喪服を衣裳櫃(いしょうひつ)の底から出して干すことにした。

お盆に入り、街には日傘をさした坊主たちが黒い法衣で汗をかきながら歩き回るようになった。田舎では村一軒の菩提寺の坊主が家々で法要を勤めて回るのだが、数多くの寺が競合している江戸では坊主同士がすれ違うことが珍しくない。しかし、お中日を過ぎても文代寺から坊主が来る様子はなく母は心配になってきた。
迎え日を焚いて、盆提灯を提げ、胡瓜の馬と茄子の牛を作り、縁側に置いた盆棚には佛壇の本尊や位牌を並べ、津軽の家で作っていた精進料理を供えている(内心では夫の霊のためにでもある)。あとは坊主に先祖供養をしてもらうだけなのだ。
「やはり旦那様はご自分で申し入れに行っておられたのかしら・・・」本来、坊主は出家した時点で実家とは縁を切っており、寺で没した住職ではない坊主の供養は「亡僧霊位」として歴代住職の後に勤められている。家族としての法要が行われるようになったのは明治以降、僧侶の妻帯が一般的になり寺が世襲制になってからだ。したがってこちらから申し入れなければ法要が行われないことを母は知らなかった。
「旦那様もまさかお役目がこれほど長くなるとは思っておられなかったのね」4月に出立して3か月、単なる交渉ごとの役目にしては長い務めだった。
公儀としては前例がない外交交渉であったため、事前に予想問答集を作り譲歩できる線を決めながら実際の回答にも慎重を期したため時間がかかった上、ラックスマンたちが帰国することを見届けるまで手を引くことができなかったのだ。
「今からでも法要のお願いに行こうかしら?」そんなことを考えていると玄関で「頼みましょう」と聞き覚えがない若い男の声がした。
「はい、ただいま」母が玄関の土間に下りて障子を開けと若い坊主が網代笠を胸の前にさげて立っている。非常に痩せた頼りなさげな風情だった。
「拙(せつ=拙僧の略称)は文代寺の雲衲(うんのう=修行僧)でモジュと申す者、今年は守野様より盆の勤めの御依頼がありませぬが・・・」母は「やはり申し入れなければならなかった」と自分の失敗であるかのように後悔した。
「拙は寺に上がった頃、テンジン師に大変可愛がっていただきました。師はいつも自室に自ら彫られた観音様を祀り、奥様の菩提を弔っておられました」これは出家した僧侶には許されない俗世への執着なのだが、普通の坊主ではないテンジンはそのような慣習にしばられるつもりは毛頭なかったのであろう(確かに毛はないが)。
「本日は近くで勤めがありましたので、テンジン師と奥様のお参りをさせていただきたく勝手ながら寄らせていただいた次第です」そう言ったモジュに母は大きな溜め息をつきながら頭を下げて庭に案内した(草鞋を脱ぐ手間を省くため縁側に棚を置き、佛具を並べるようになったのが棚経の由来)。

庭で立ったままお経を上げたモジュに母は縁側に敷いた座布団を勧め、小さ目の湯呑に入れた湯冷ましを出した。盆の勤めでは家々で茶を出されるため汗き、飲み物は喉を湿らせる程度にするのが作法なのだ(持ち帰れる缶コーヒーもお勧めです)。
「ついでに寄らせていただきましたから、すぐにお暇(いとま)します」そう言ってモジュは立ったまま湯呑を取った。
「本日、御子息はお勤めですか?」「主(あるじ)はお役目で遠くへ出ております」昨年の盆には修作も立ち合って、縁側に正座して一緒に念佛を唱えていた。
逆に言えば勤めが休みの日に法要を頼んでいたのであろう。ただし、同心の仕事は事件が起これば急に出仕を求められることもあり、不在の時には僧侶は庭で勝手に法要を勤め、線香を途中で消して香炉に寝かせておくなどの証拠を残すことが多い。
「お急ぎのところ1つ、伺いたいのですが、文代寺様と奥様の真諦院様ではお経が違うようなのですが・・・」これは以前から感じていた疑問だった。宗教法人と言う組織制度がなかったこの時代には宗派と言う区分も庶民には周知されておらず、蓮如聖人によって宗門意識が固められていた門徒=浄土真宗や他宗派を敵視していた日蓮聖人の法華宗を除けば「お大師様の御祈祷」「法然上人のお念佛」「道元禅師の坐禅(実際には祈祷と供養だけが法務だった)」程度の認識だった。
「ウチは法然上人のお念佛の宗旨ですが真諦院様は坐禅の宗門ですから、お経も違うのでしょう」「それでテンジン様はどうして奥様とは違う御教えのお寺に入られたのですか?」この質問にモジュは懐かしそうな目をして答えた。
「テンジン師は全国各地の寺を巡り歩いて悟りに至られた方なのですが、佛になって振り返れば宗旨などと言うものは大樹に茂る枝葉のようなものだ。どの枝の花が美しい。この実が美味いなどと言い争うのは無駄なことだ。美しいのも美味しいのも御佛の教えの木なのだと仰っておられました」母には難しく、その悩んだ顔を見てモジュは言葉を続けた。
「誰もが念佛で救われるのなら坐禅や厳しい修行など無駄なことだ。南無阿弥陀佛で生きながらにして往生してしまえと言うのがテンジン師の教えでした」湯呑を盆に置くと、モジュは母が差し出した紙に包んだ布施を受け取り帰って行った。その時、何故か念佛の代わりに「ホウゲジャク(放下著)」と唱えていた。
モジュを見送った母の胸に津軽の家にケイと一緒に現れたテンジンの姿が甦ってくる。あの夜、泊めたテンジンは「こんなに美しい母娘と枕を並べては煩悩が疼いて眠られぬ」と言って土間の藁の中で寝た。そのとぼけた台詞にケイは愉快そうに笑ったが、母は心の中で「すけべ坊主」と非難していたのだった。
ところが参ることが許されぬ夫の亡骸が眠る土地にトモ造に彫らした石地蔵を建立し、「墓参ではない地蔵様への参詣だ」と知恵を授けてくれた。
この家で修作から聞く大番頭だった頃の烈しい武士としての姿、身分違いの妻を愛し抜いていた夫、母を失った我が子を育てた優しい父、どれも母には理解できない特別な人物像なのだが、また1つ謎が増えてしまった。

修作は伊達領・一関(いちのせき)で一緒に松前へ赴いた同心たちに追いついた。一関は伊達領と言っても初代藩主・政宗公の妻・愛(めご)の実家・田村氏が治める支藩で、官医・建部清庵は江戸・小浜藩邸の官医で解体新書の翻訳に参加した杉田玄白と幾度も往復書簡を交わし(この書簡は「和蘭医事問答」と言う本になっている)、蘭方医学を東北の地にもたらした。なお清庵の五男・伯元は杉田玄白の養子になり跡を取っている。
清庵は浅間山噴火の前年、天明2年に亡くなっているが当時、度重なっていた飢饉の再発を予測し、「民間備忘録」と言う保存食の作り方や木の根、樹皮、ワラ、野草の食べ方、土の養分を食用にする土粥の製法、さらに体力を消耗しない暮らし方などを説いた研究書を残し、これで天明の大飢饉でも多くの領民の命を救うことになった。
さらに一関からは「海国兵談」と言う海防の必要性を説いた本を著した寛政の三奇人・林子平も出ているが、この本で説いている海からの脅威が現実になったラックスマンの来日の前に松平定信によって処断され、この頃は藩医である兄・嘉善に預けられていた(翌年に死去)。
江戸の町同心たちはそんな人物を輩出している土地であることも知らずに仕事をやり遂げた達成感と多めにもらった手当てで物見遊山の旅をしていた。
他の同心たちは大間ではなく下北半島の付け根である野辺地に上陸したものの八甲田山の秘湯・酸ケ湯で疲れを癒し、十和田湖や松尾芭蕉の「奥の細道」に倣って平泉を拝観しながらの道中だったため、若い修作が追いつくのは簡単だった。
同じ用向きで赴いた者の帰着に差があれば遅れた者の寄り道が疑われのは当然であろう。ただ、同心たちは「過労により途中で体調を崩す者が続出した」と口裏を合わせる相談はできており、堅物の修作が遅れてくれることはもっけの幸いなのだ。
宿での夕食後に始まった酒席では他の同心たちと修作の腹の探り合いになる。
「守野殿、ここから江戸へ真っ直ぐに帰るつもりか?」「はァ、皆様は如何なさいますか?」修作は恐山で母に言われた「戸沢領角川郷」に寄りたいと思っていたが一人だけ遅れる訳にもいかず悩んでいるところだった。
「伊達領と申せば・・・」「日本三景」「松島や ああ松島や 松島や」「奥州一の宮」「塩竈神社」「日本三奇の」「塩竈は霊験あらたかなり(凶事の前には釜の中の水が変色するとされている)」少し酒が入った同心たちは代わる代わる自分たちの希望を説明した。要するに修作を誘っているのだが、ならばとこちらも希望を申し出た。
「ソレガシの母は戸沢領の生まれでして」「あの大番頭様の御妻女か?」「確か吉原へ・・・」酔った勢いで余計なことを口にした同心が周囲から睨みつけられた。
「皆様が松島へ行かれるのならその間にソレガシも・・・」「行ってきなさい」「親孝行」「水呑み百姓の墓参り・・・」また余計なことを言った同心は口を押さえられた。

翌朝、修作は早目に出立して戸沢領に向かった。奥州の深い山を越えると出羽の国・戸沢領に入るのだが、「戸沢藩の城下町・新圧に着けなければ野宿するしかない」と言われていたため修作は必死になって歩いた。
ただ、新庄は伊達藩の仙台と公儀譜代の名門・酒井家が治める庄内藩を結ぶ交通の要衝であるだけでなく出羽国内の米沢、山形、天童、上山各藩の商人たちが北に向かう時の経路でもあり、時折ではあるが荷を背負った行商たちとすれ違う。こうした行商人たちを宿泊させているため旅籠は地域情報の集積場になっているのだ。
ようやく到着した新庄は六万石の小藩の城下にしては大変に賑わっていて、そんな様子からも天明の大飢饉の終息が実感できた。
新庄からは大蔵村で舟に乗り最上川を下ることになる。松尾芭蕉が「奥の細道」で「五月雨を 集めてはやし 最上川」、明治になって正岡子規が「ずんずんと 夏を流すや 最上川」と詠った急流が山肌を抉り大蔵から先は確かな街道が作れないのだ。
蔵岡村の船着き場で舟を下りて村人に道を訊ねたが訛りが酷く要領を得ない。ただ角川と言う地名にうなずいて指差した仕草に山を越える道と川沿いに上る道があることだけは判った。修作は暑い季節だけに川沿いを上ることに決めた。

夏の日差しを木々が遮って薄暗い川沿いの山道を歩いていくと急に開けた土地に出て、道端に立っている「つのかわ」の道標でそこが母の故郷・角川郷であることが判った。
山裾の平地には田畑が広がり、農民たちが働いているのが遠目に見える。
「母上、お約束通り角川へ参りました」道標の傍らで修作は笠を取り、風景に向かって礼をした。
ここで母の実家を探すのだが、母が江戸へ売られてきたのは二十年以上前であり、娘を売るほど困窮していた実家がどうなっているかを知る術がない。そこで集落から外れた盆地の奥に見える寺を訪ねることにした。
山裾に流れる小川に並行して作られている小道を歩いていくと、農民たちは刀を差している修作に気づき慌てて礼をしようとするが、修作は手で制しながら通り過ぎた。ただ、その顔が母と自分に似ていて不思議な懐かしさを噛み締めていた。

古びた山門をくぐり、本堂と庫裏をつなぐ回廊にある寺の玄関で案内を乞うと住職は快く招き入れてくれた。ただ、住職の私室である方丈ではなく庫裏の座敷に通された。
勧められたワラ座布団(ムシロを重ね縫いした敷物)に座り刀を右脇、十手を前に置くと挨拶もソコソコに修作は用件を切り出した。
「ソレガシは江戸北町奉行所の同心、守野修作と申します」「同心?奉行所のお役人さんだべか。江戸では立派な刀さ帯びてんだね」そう言って住職が興味津々に父の形見の同田貫を注視したので修作は黙ってうなずいた。これは本来、無礼な態度であるが田舎の寺の住職には関わりないことなのだろう。
「本日、まかり越しましたのは亡き母のことでございます」「母上様の?」突然の話に住職の顔が困惑に代わった。地元の顔立ちをしていても江戸の町同心と名乗るこの若者の母親のことを自分が知っているか先走って自問したようだ。寺は地域住民の人別帳を作成、管理していたためこうした問い合わせを受けることがあり、それに応えられないと面目丸つぶれである。
「母は2十年余り前、この村から江戸へ売られたキヨと申す者、御存知ありませんか?」初老の住職であれば知らぬはずはないのだが、腕組みして試案を始めた。町同心の母親が村から売られていった娘と言うのに合点がいかず、真意を探っていたのかも知れない。そこへ中年の女性がさ湯と漬物を乗せた盆を持って現れた。
「これは参籠されている方で、庫裏を手伝ってもらっております」住職は何も訊かれる前に説明する。当時、僧侶は妻帯を許されていなかったためこのような言い訳をするのが約束事だった。ところが女性は無頓着に話へ割り込んできた。
「キヨさんって言えば久左衛門さんの娘がそんな名前だったべ」この言葉で、この女性の参籠が二十年以上になることが判明した。つまり事実上の妻と言うことだろう。江戸であれば僧侶の破戒は特に寺社奉行所が目を光らせているが、戸沢藩ではかなり緩やかなようだ。
「あの器量よしのキヨさんか・・・角川小町が吉原に売られたと大変な評判だった」ちなみに小野小町も出羽の国雄勝郡(現在の湯沢市)の出身とされている。
修作は住職と参籠中(?)の女性が怪訝そうな顔で自分を値踏みしているので、江戸で客を取る前に足抜けした母が父に見染められて結婚したことだけを説明した。
「して、母の実家は?」「皆、大飢饉で亡くなったども親御さんは娘だけでも江戸で生きていればと言っていたんだが・・・」住職の言葉に修作は母が「訪ねてくれ」と言った訳が判ったような気がした。

修作は住職に連れられて寺の裏山に並ぶ墓を参った。そこには度重なる飢饉で亡くなった村人の墓標が林立している。
この時代は文字を刻んだ石塔は普及しておらず、地方では土葬した土饅頭(どまんじゅう)の上に目立つ程度の大きさの石を置き、白木の卒塔婆を立てていた。
角川郷は古くから戸沢氏が治めた土地であったが平地が狭い上、寛永・元禄・享保・宝暦と続いた飢饉によって蓄えが底をついていたため被害は大きかったようだ。
戸沢藩は元禄の頃までは新田開発などが軌道に乗り、実際の禄高は倍の十三万石程度にまで拡大していたものの、それを過信した藩主と重臣の放漫経営により財政が逼迫し、度重なる飢饉もあり一時期は禄高の三倍近い借財を抱えるようになった。このため重くなる年貢に耐え切れず娘を売る者も少なくなく、母が江戸に売られてきたのもそんな時期だったのだろう。
「この辺りが久左衛門さんとこの墓だ」住職は奥の墓標のかたまりの前で立ち止まった。まだ立っている古びた卒塔婆にはかすかに戒名が見て取れるので、裏面の没年から母の両親=修作の祖父母の墓を探したが、この土地の風習で当主は代々屋号の「久左衛門」を名乗っているため住職もハッキリ判らないようだ。
住職は持ってきた引鐘(いんきん・携帯用鐘)を叩きながら先ほど修作が渡した些少の布施に見合う「舎利礼文」と言う短いお経を唱え、先に帰って行った。
「ジジ上、ババ上、孫の修作です・・・」残された修作が手を合わせて挨拶を始めると背後で「修作・・・」と呼ぶ囁き声が聞こえた。
振り返るとそこには母が微笑んで立っている。母は亡くなった時のまま現在の修作と同じくらいの年齢で、自分をかばって早馬に巻き込まれた時に着ていた浅葱色染めの着物姿だ。修作は一瞬、「こんなに美しい女性だったのか」と見惚れてしまった。
「母上・・・・?」「修作、よく訪ねてくれました。ここでなら私はお前に会えるのです」そう言うと母は足を使わず、そのままの姿勢で近づいた。
「ここでなら・」「そうです。ここは私が生まれた土地、あの世からこの世にい出た土地ですから」母の説明に修作は人が生まれることは死と生の境目を超えることだと理解した。
「恐山でお前が私を呼んだ時、父上のお許しを得てここにお前を呼ぶことにしたのです」「父上は何と」「傍におられるのだが、お前が固くなるからと遠慮しておられるのじゃ」そう言って母は呆れた顔で傍らを見る。姿を見せることには幽霊側の意思があるようだ。
修作はやはり両親が再会を果たし、仲睦まじい時間を過ごしていることが判り安堵した。

突然、幽霊の母が傍らと問答を始めた。
「そのようなこと御自身で仰ればよいではありませぬか・・・私が伝えれば良いのですね」そう言って母は少し真顔になって話を続けた。
「父上がいっそのこと刀を捨てて農家になればどうかと仰っておられる。お前は不器用だから職人は勧めんが商人も悪くない。坊主だけは止めておけとも・・・」そう言って母は再び傍らと問答を再開した。
「しかし、修作は同心として生きていこうとしているのです。貴方がそのようなことを仰られては・・・なるほど挫折した時の迷いを防ぐためですか、貴方らしい」この両親の問答を聞いて修作は母の生前、城番長屋で暮らしていた幼い頃に見ていた日常生活がこのような調子だったのか考えてみた。
あの頃の母は武士の妻になっても何も判らず、身分制度の枠の中の人間関係や武家の作法なども全て父に教えられていたはずだ。こうして普通の夫婦のような問答を交わせるようになったのは母が死後も父や自分の生活を見守ってきたからだと判った。何よりも東北訛りがすっかり消えている。
「それなら貴方が直接話しなさいよ・・・修作、父上が会うなら侍と坊主のどちらがいいかって」「それは勿論、大番頭(おおばんがしら)様です」「ですって」その言葉が終わるのと同時に母の隣りに大番頭だった頃の父が立った。頭には陣笠をかぶり、羽織と袴姿だが腰には脇差しか差していない。同田貫は修作に譲ったので幽霊まで差していては「どちらが本物か」と言うことになってしまうのだろう。
「父上、御無沙汰しております」いきなり地面に座り、両手をついて頭を下げた修作を見て父・テンジンは母・キヨに「こうなるから出てきたくなかったのだ」と言った。
「坊さんの方が良かったでしょうに何でお侍を頼んだの?」「坊さんになってからの父上はソレガシの判らない方ですから・・・」「それはどう言う意味じゃ」幽霊の父が拳を握ったので修作は座ったまま後ろへ下がった。
「幽霊は嚇すことはできても殴ることはできぬから安心せよ・・・それにしても坊主のワシはそれほど難しかったか?」「はい、この世の方とは思えませんでした」「貴方の坊さんは私には素敵でしたが修作には難しいのかも知れません」「それで良い、ソナタが判ってくれれば十分じゃ」両親は修作を放ったらかしにして見つめ合った。その意味では侍姿を選んだ修作は親孝行なのだろう。
「修作、後はお前の好き勝手に生きればよいぞ。常に前を向いて歩んで行け。父は常に後ろから見守っておる」「母はいつも一緒ですよ」父は母の手を握るとそのまま消えてしまった。

角川郷を歩き回り、母が幼い頃に見てきた風景を心に書き写してから修作は肘折温泉に向かい峠を越えていた。角川郷に長居し過ぎたため山がちなこの土地では完全に日は落ち、すっかり暗くなっている。
月明かりが山道を白く照らしているものの提灯も持たないのでは足元もおぼつかなかった。両側の深い森の奥では鹿の甲高い鳴き声が響き、獣が枝をかき分ける音が聞こえてくる。
峠の頂上で立ち止まり角川郷で汲んできた竹筒の水を飲んで一息つくと修作は下り始めた。その時、前に数名の男が立ちはだかったのが月明かりに浮かんだ。男たちの手には竹槍や出刃包丁、山の下草刈りに使う大鎌が握られているのが影で判る。
「金さ、けろ(くれ)」正面で鎌を振り上げている男が脅しをかけた。修作には言葉の意味が解らなかったが状況から見て山賊であることは判る。
先ずは同心の冷静さで火縄銃を持っていないか臭いを嗅いだ。火縄銃はないようだ。問題は弓だがこの暗さでは的を狙うことは不可能だろう。動く気配で山賊は4人と判断した。
「身ぐるみ、置いでげ」黙っている修作に別の男が続いたが、それでも返事はしなかった。
同心としては捕縛して戸沢藩の奉行所に引き渡すべきだろうが相手は4人いる。腹を決めた修作は同田貫の柄を握り鯉口を切った。慣れた山賊であれば刀を取り扱う音で危険を察知するのだが、素人のようで修作が黙っていることに焦り出していた。
「いいがら金か身ぐるみ、よごぜ」正面の男が怒気を含んだ声を掛けた時、修作は同田貫を抜き放ち、そのまま父が得意としていた上段に構えた。
月明かりが頭上の同田貫を青く光らせる。それは松前藩御用の研師・高田知介が磨き上げた銘刀の輝きだ。その青銀の光りは見る者を畏怖させるのに十分だった。
「ゲッ」「ギャッ」「ワッ」「デッ」男たちはその場で腰を抜かした。
修作は上段に構えたまま正面の男ににじり寄った。1人で複数の人間を相手にする時には取り巻きを相手にせず一番強い者を倒すしかない。それは父から習った戦いの原則だ。
腰を抜かしたまま後ずさっていた男は修作が振り下ろす間合に迫ると震える両手を合わせた。それでも修作は背後の男たちに備えて構えを解かなった。しかし、他の男たちも同様で、その場に座り込んで両手を合わせている。修作は刀を片手に持ち替えると男たちの鎌と竹槍、出刃包丁を谷底に投げ落とした。
「名匠・高田知介の技を試みる良き機会であったが、手を合わせている者を斬る訳にはいかぬ。ワシも坊主の息子じゃからな」自分でも思いがけない名台詞を吐いて同田貫を鞘に収め、その場を後にした。

津軽ではキヨ助親方が悩み多き毎日を送っていた。親方は金木郷の農家の2男だったが兄が出稼ぎに出たまま帰らなくなり、老いた親から「跡を取ってくれ」と言われているのだ。
と言っても藩御用の車職人としては車清を畳む訳にもいかず、最近は腕を上げたマサ吉に仕事を任せ、弘前城下から金木郷までを往復して田畑の仕事と両立させているのだ。
「ウチの娘がマサ吉と似合う年頃なら婿にして跡取りにするんだが二十も違うんじゃな」娘2人しかいないため、養子を取らなければ車清は続けられないのは判っている。
しかし、マサ吉は見込んだ通りの腕だがトモ造以上に商才がなく、店をまかすには不安なのだ。無愛想なマサ吉は娘たちからも不人気で夕食の時はソッポを向かれている。
一方のマサ太は同業者の息子を預かっているだけで仕事が終われば実家に帰り、あまり身を入れた仕事はしていない。おまけに幼馴染の許婚(いいなずけ)がいると自慢してはマサ吉を怒らせている。
夕食が終ってマサ吉が帰った後、妻と娘が談笑している輪から少し離れて親方は酒徳利を相手に独り言で語っていた。
「トモ造の野郎、上手くやっているのかな・・・アイツの江戸っ子の性分は商売にゃあ向かねェが職人には打ってつけだ。問題は客の奪い合いになった時だがな」江戸での商売が公儀の杓子定規な制限を受けて滞っていることは聞いている。
その点、津軽に戻ってから取引ができた木村屋の広三郎はトモ造と同じ年のはずだが頭の回転は速く、特に情報収集と状況判断には親方も舌を巻くほどだ。
現在も深浦で取引している北前船から各地の情報を驚くほど集めていて、港での積み荷の選定だけでなく、津軽で売れそうな商品を次回の積荷に加えてくれるように注文しているようだ(北前船は次回の寄港の確証がないため、基本的に注文は受け付けていなかった)。
トモ造やマサ吉を職人としては1人前に育て上げたと言う自負はあるが、「何かが足らない」そんな気持ちで茶碗に酒を注いだ。
「マサ吉は俺が親のつもりになって情ってものを教えてやらねェとな」「マサ太の野郎は江戸へでも出さなきゃ独り立ちできねェ。辛ェことがあると親から文句を言われるんじゃあ鍛えようがねェぜ」松前から帰った後、マサ太が分りもしないことを決めつけた言い方をしたため、親方は拳を数発振るったが、翌日には両親が揃って抗議に来た。
職人の修業を知っている父親は強く言わなかったが、母親が「大切な息子に親も上げたことがない手を振るうとは」と怒り狂っていた。その後ろで満足そうに聞いていたマサ太の顔=性根を叩き直すことはどうにも難しい。
江戸でトモ造を1人前に鍛え上げていた頃が妙に懐かしくなった。
「俺が手を引いたらマサ吉は木村屋に雇ってもらう方が間違いないかもナ」考えをまとめて茶碗酒を飲み干すと親方はその場で横になった。

男鹿には妻と娘2人を金木郷の実家に預けキヨ助親方自らが赴くことにした。これで江戸っ子の妻にも津軽の農家の嫁としての修業をさせる一方で娘の養育には母の助けを受けられるはずだ。
「車清」が請け負っていた仕事はマサ吉に任せることになるが、経営は木村屋の店主・広三郎の指図を受けることで藩の作事奉行の許可を得た。
マサ太には男鹿へ付いてくるかを訊いたが、「親元を離れたくない」と言って実家に帰ってしまった。本音では許婚と別れたくなかったのだろう。
それにしてもトモ造を津軽に送り出した時は親方の知らないところで話が進み、気がつけば「車清」弘前支店ができて、こうして帰って来るための地固めをしてくれた。あの時も木村屋、中でも広三郎の助言があったから商売に関しては不器用者のトモ造も店を切り盛りできたのであり、今回の決断にはマサ吉を独り立ちさせるための試練と言う意味もあるのだ。
それから親方は嫌がる妻をなだめて納得させ、後のことを木村屋の先代店主・辰次郎を交えてマサ吉と広三郎の4人で話し合うことにした。
木村屋の座敷に通されてもマサ吉は特に緊張した様子はないが、逆にそれが不遜に見られてしまう。女中が出した茶も無遠慮に飲み干した。親方は溜息をついて座敷の襖を見渡したが、目を患う前には書家であり、津軽凧絵の名手でもあった趣味人の辰次郎が描いたものだ。やがて広三郎に手を引かれたタツ次郎が入室し、話し合いが始まった。
ここでも新たな仕事を提供した木村屋と世話になる側の車清では一定の礼節があるのだが、どうしてもマサ吉の態度は誠実さに欠けてしまうようだ。ただ、幸か不幸か目が見えない辰次郎は出席者の会話で雰囲気を察しているため、マサ吉の表情や態度は判らない。
内容は広三郎が話を持ってきて以来、交わしていた段取りの確認だったが、広三郎もマサ吉が藩だけでなく同業者との関係を上手く続けられるかを心配している。そこで親方は「マサ吉は木村屋の雇われ職人になるのだ」と言い渡した。
車清の看板は親方が男鹿へ持って行き、城下の同業者には「木村屋として車を作る」と申し入れており、車屋の寄り合いには広三郎が出ることになるのだ。
親方は先日、トモ造が江戸で「車智」を上手く経営しているか心配していたが、「車清」の方が弘前城下から消えてしまうことになった。マサ吉が独り立ちを果たし、木村屋からの暖簾分けと言う形で「車雅」を立ち上げてくれれば、それで満足するしかないだろう。
広三郎が先代店主の名前で「車辰の半被を用意する」と言うと辰次郎は「ワシを忘れてなかったのか」と皮肉を言って笑った。

「行くのはマサ吉ではないのか?」作事奉行所に道中手形の発行を申請すると木村屋を通じて内諾を得ていたにも関わらず難色を示した。職人の腕は現場だけが知ることで奉行所としてはマサ吉の礼節を弁えぬ態度を問題視しているようだ。手形を受け取りに赴いた時も下級役人は同じことを繰り返した。
「御用の仕事は木村屋を通して受け給わることになっていますから御心配には及びません。職人としての腕はもう一人前です。御安心を」キヨ助親方はこの役人の態度をマサ吉が何か問題を起こした時の責任を押しつけるための方便であると受け留め、逆らわぬよう言葉に注意しながら弁明に努めた。
「うむ、後のことはソチが請け負うと申すのなら言うことはない。あちらでは当地のことを漏らすではないぞ」それだけ言うと下級役人は脇の盆に入れてあった手形を一段高い段の端に置き、キヨ助親方は土下座をしてから膝で居ざるように前に出て受け取った。

家族の荷物を車に積んで金木郷へ運び、辺りをはばからず泣く妻や娘たちと別れ、翌日の早朝、自分の道具と身の回りの品を車に積んで親方は男鹿へ出立した。マサ吉は自分の長屋の片づけに手間取っているらしく顔を出していない。
「キヨ助、早い出立じゃのう」まだ夜も明け切らぬ静かな街で車を牽いて歩きだそうとした時、後ろから声を掛けられた。振り返るとそこには笠をかぶった侍が立っている。親方は土下座をしようと車の枠から出ようとしたが侍は手で制し、そのまま笠を取った。
「河合様・・・」それは前藩主の作事奉行から新藩主によって大目付に抜擢された河合正衛門だった。河合は前藩主・信明(のぶあきら)公の側近だったため急逝された折には公職を辞し、十三湖の畔で畑を耕し、前藩主が推し進めていた半士半農を実践していた。
しかし、黒石支藩の藩主から末期養子として津軽藩を継承した新藩主・寧親(やすちか)公にその高潔な人格と比類なき実力を買われ、高級藩士の規律指導・犯罪捜査を担任する大目付に抜擢されたのだ。ただ、黒石支藩から弘前に乗り込んだ腹心からは「変節漢」と中傷され、藩主交代に際して江戸表が画策した謀略の処理に対する旧弘前派の側近からの非難もあり、苦しい立場にあるように聞いている。それがこんな早朝から一介の町人の旅立ちを見送ってくれたのだ。
「車清の看板も持って行ってしまうのか?」「へい、アッシが車清ですから」「そうじゃのう、職人は自分の腕が売り物なのじゃ、お主が腕を奮うところに看板がなくてはな」そう言うと河合は車の前に回り、枠の中で両膝を地面につけているキヨ助に懐から出した巾着袋を手渡した。受け取るとかなりの大金が入っているようだ。
「これは?」「餞別じゃ、新たな地に住めばいり用であろう。邪魔にはならぬ・・・ではな」河合はそれだけを言うと笠をかぶって歩き出した。明らかに高位の武士が町人と立ち話をしているところを他人に見られたくないのであろう。
キヨ助親方は荷車の枠から出るとその場に土下座をして静かな街から足音が消えるまで送った。

トモ造は相変わらず船頭を続けていた。船着き場の親方には「後釜が決まるまで」と言ってはいるが肝心の後釜を探している様子がない。
マサ弥が旅立ってしまってからは贔屓に納めた車の点検と修理に回る日だけ休むようにしているが、それがなければ車職人ではなく船頭が本業になってしまう。
同業者の寄り合いに顔を出しても末席に座らせられ、手酌で飲むばかりで商売の話にも加わることができないでいる。
ケイもどちらつかずになっているトモ造に冷ややかな態度を見せるようになっていた。ケイにとってのトモ造は自分の仕事の夢を熱く語っていた出会った時の車職人なのだ。
生まれた時、「車智の2代目」と言って大喜びしてくれたショウ大が成長しても、初代のトモ造が車職人をやっていないのでは、あの感激した顔が嘘のように思えてしまう。
こうなると今まで子守歌代わりだったトモ造の大イビキも眠りを妨げる騒音になってしまうから不思議だ。最近では子供たちが寝つかないと言ってケイとマイ、ショウ大は母が使っていた部屋で眠るようなっている。
トモ造は腕のいい羽織職人の父を支える母の両親の家庭で育ったため、外で稼ぐ夫、父の在り方を知らないのだ。
ケイもまた夫婦で力を合わせて耕作する農家の娘の上、作業場がある自宅で所帯を持ったためトモ造以上に判らなかった。
「けえったぜ」「おかえり」ケイの返事は作業場に続く台所からだ。1日の仕事を終えて戻ってもケイはトモ造の足を洗わなくなった。ただ濡らした雑巾が上がり端に広げてあるだけだ。
トモ造は草履を脱ぐと足を拭き自分の席に座ったが、テレビがない時代には手持無沙汰はどうしようもない。こう言う間の悪さは居心地の悪さでもある。
車職人の頃は作業場にケイが支度する夕餉の匂いが漂ってくると切りのよいところで仕事を終わり、後は片づけと翌日の段取りで待っていた。
「お前さん、次の船頭は見つからないのかい?」「おう・・・」ケイはトモ造のお膳を運んでくると毎日繰り返されている質問をした。今日のオカズも裏庭の畑で収穫した野菜と魚屋が売りに来る川魚だ。
「そう・・・最近、ショウ大が置いてあるお前さんの道具を玩具にしたがって困るのよ」そう言ってケイは奥の部屋の子供たちに声を掛けた。

ある日、いつものように船着き場に行くとゲン希に言われた。
「大将、夏は褌(ふんどし)に限りますよ」今日のゲン希は現代のバミューダーパンツのような股引ではなく、サラシの腹巻きの下は股間を覆う六尺(ろくしゃく)褌だけだ。
夏本番になり照り返しが強くなると川風が吹く水の上でもかなり熱い。櫓を漕ぐ船頭は肉体労働なので尚更だろう。
この時代にも3尺(約90センチ)のサラシ布を腰から股間を通して前で結んだ紐に引っ掛けて下げる越中(えっちゅう)褌はあったが、緩み易いため肉体労働をしない高齢者や高位の武士、豪商、僧侶などが使うものだった。庶民に普及したのは明治になって徴兵された軍隊で官給品として支給されたことによる。
一方、六尺褌は長さ6尺から10尺(約1・8から3メートル)、幅1尺(約30センチ)の布の端を顎で押さえ、跨ぐようにして局部を覆い、尻から捩りながら腰を回して前部を固定し、腰に返って締めるものでこの時代の一般的な庶民の下着であり、特に船頭や漁師などには水着を兼ねていた。
もう少し厚手の布で腹巻きを兼ねた締め込みもあるが、こちらは布自体が重いので水泳には向かず、陸上での肉体労働者や祭りの男衆の定番だ。
「褌かァ、オイラは裸になるのは好きじゃねェんだよな」確かに鍛え抜いて引き締まった身体のゲン希に比べ、トモ造はケイの料理が美味いこともあり、太り気味である。六尺褌ならまだ良いが締め込みでは廻しを締めた関取と間違われるだろう。
「裸で汗をかいて風に吹かれると気持ちいいですよ。何ならそのまま飛び込んで泳いじまってもいいじゃん」それはそうだろうが実はトモ造は泳ぎがあまり得意ではなかった。
「やっぱりオイラは船頭には向いていねェのかな・・・」と言いながら船着き場の人手不足を知っていては投げ出すことができない。かと言ってキヨ助親方の下で修業してきた車職人としての技を捨てることもできない。義理と人情の狭間でいくら悩んでも結論が出せないトモ造は目の前の仕事をやるしかなかった。

松木は応分蓮寺から預かった幸恵を江戸下屋敷の納戸役・村上貢蔵に預けることにした。若い独り身の男が愛しい女を預かれば「下女(=家政婦)」などと口実をつけて同居しようとするものだが、そこが松木直之進であろう。
尤も松木が住む中級藩士の長屋で独身者の家には妻でもない女性が同居すれば、たちまち上中下(かみなかしも)江戸屋敷で評判になるのは容易に予想できる。そうなれば手続きを進める前にどのような横槍が入るかも判らず、下手に隠し立てするよりも信頼が置ける人物に堂々と預ける方が賢明な選択だった。
村上は高野忠兵衛の死後、津軽から赴いた後任で見るからに古武士の風格があり松木は河合正衛門同様に尊敬していた。御馬廻り役として藩主の馬の飼育と共に騎馬隊を率いていたが代替わりを機に「体力の衰え」を理由として隠居を申し出たところ、この役を命ぜられたのだ。
「そうか、お主の嫁じゃな。しかと預かるから安堵せよ」松木は「先ずは相談を」と順を踏むつもりだったが村上は2つ返事で引き受けた。
村上は江戸下屋敷に勤める藩士として高野の旧宅を与えられていたが、当時の武家の不文律により後を追って無念の死を遂げた妻子の幽霊が出ると評判だった。
そうとも知らず夜中に忍び込んだ泥棒が廊下で遊ぶ子供を見て驚いているとそのまま消えてしまい、腰を抜かしているところへ無念の形相をした妻の幽霊が現われて気を失ったまま見回りに来た藩士に捕縛されたのだ。
泥棒の証言を聞いた若い藩士たちは度胸自慢の肝試しを始めたが目撃して寝込む者が続出して夜間の立ち入りは禁止されている。
ところが村上は夜中に現れた母子の幽霊を「とっとと成佛せんか!子供を忘れるな」と一喝し、浄土へ強制往生させてしまったそうだ。その話が評判になると「妻が来るまで女っ気がないから残念なことをした」と笑っていた。
その妻も江戸へ到着し、屋敷の方も落ち着いたところで松木は頼んでみたのだ。
幸恵は応分蓮寺でも庫裏を切り盛りしていたので、慣れない江戸生活を始める村上の妻の手助けにもなるだろう。つまり武家の妻見習いを兼ねた奉公のようなものだ。
「関白秀吉に最後まで歯向った北条の家臣の血筋とは頼もしいのォ」幸恵の身の上を説明すると村上は妙に関心を示した。
「しかし、津軽の田舎侍の養女などにするよりも坂東武者の方が格上じゃろう。ワシが人物を見極めた上で折を見て殿に申し上げてやる」この即断即決は河合にはない。長年の御馬廻り役で疾走する馬の速さで考える癖がついているのかも知れない。
ただし、「泊りに来い」と言う粋な計らいはなかった。

ケイの母がいつものように庭で秋野菜の収穫に向けて畑仕事をしていると玄関から聞き覚えがある声がした。
「母上、戻りました」それは勿論、修作である。奉行所からの正式な連絡はないが、帰参予定がそろそろであることを同じく夫を迎える近所の同心の妻に教えられ、母は頸を長くして待っていたのだ。
「はい、ただいま」母は開け放ってある建物を通して聞こえるように大声で返事をした。急いで縁側に上がり手水鉢で手を洗うと、修作が立っている玄関に向かって速足で進みながら袖を上げているタスキを外し、襟元を整え、両手で髪を撫でた。
玄関には日に焼けた修作が立っている。母はその場に座り、両手をついて深く頭を下げた。
「長きお勤め、ご大儀様でございました」これは修作から習った武家の挨拶であるが今日はそれを本人に返した。
「母上こそ長き間、(家を)お守りいただき、かたじけなく存じます」こう言って修作は背負っていた風呂敷包みを置き、帯の刀を外し、向きを変えて上がり端(はな)に腰を下して草鞋の紐を解き始める。この間に母は足を洗う水を桶に汲んで運んで来た。
草鞋の紐を解き終えて足袋を脱いでいる修作の背中越しに置いてある荷物を見ると、出発時よりも小さくなっていることに気がついた。しかし、そのことには触れず母はしゃがんで桶を置き修作の素足を洗い始めた。
「ご主人様はお若いから長旅も苦にならなかったことでしょう」実際には足の手触りでかなり過酷な旅であったことを察していたが、武士は「『苦しい目に遭った』と慰められることを恥とする」と言う心得も修作から習っていた。
「いえ、ここだけの話、あちらこちらに回り道をしてきまして・・・」「回り道?」「先ずは恐山へ参ってイタコに口寄せを頼んでまいりました」「恐山?では南部の方に渡られたのですね」母の口調が少し沈んでしまった。胸の中では「函館から蟹田へ渡り、津軽を見てきて欲しい」と言う願いを抱いていたのだ。
「はい、父に訊きたきことがございました故、大間へ渡ったのです」「イタコさんなら津軽にもいますよ」「えッ?」修作には初耳だったがイタコは現在の岩手県、秋田県の北部から青森県、函館にかけての各地で口寄せだけでなく占いや除霊、厄祓い、佛教寺院と競合しない範囲で供養などを行っている。修作は顔を上げて母の表情を見ると、その胸の内を察した。
「ならば母上の地元の様子を見てくるべきでしたね。申し訳ありません」「いいえ、捨ててきた故郷ですから気になされますように」修作の心からの詫びに母も気を取り直して笑顔を作った。
「そう言えば母上に作っていただいた綿入れですがトモ造さんの知り合いと言う船頭が松前に残ると言うので餞別にやってきてしまいました」修作は本当に申し訳なさそうな顔をしているが、母はホッと安堵の溜め息をついた。その一方で母はケイが何度か訪ねてきてこぼしていった愚痴を思い出していた。

「母上、お盆はどうされましたか?」真っ先に佛壇を参った後、修作は心配そうに訊いた。やはり松前での仕事は盆前に終わると思っていたため、出立前に依頼しておかなかったようだ。
「お寺の方から若いお坊様が訪ねてきて下さいました」「若い?」「はい、父上様にお世話になったとかで、檀家回りのついでに寄ったそうです」「ふーん、父も妙に若い者に慕われるところがござったから、そのようなこともあるのでしょう」父の遺骸を荼毘に伏した時、人の死には慣れているはずの僧侶が何人も泣いていた。そんな1人が訪ねてくれたのだろう。
「そう言えば八戸の領内で父上を知っている者がおりました」「八戸で?」「何でも飢饉で死んだ者の弔いに回っていたとか・・・津軽へ行く前でしょう」「確かにそのようなことを仰っておられました」母は記憶の中でケイと一緒に現れたテンジンを思い出してみた。
「しかし、隠密ではないかと疑われて役人に捕まったらしいですよ」「そのようなことが・・・」これは松森のダイ司から聞いた話だった。
「やはり津軽に行けばよかったですね。母上がいつも言っておられる父が開眼した地蔵様のお参りにも」南部領内で父の足跡を辿えたのだから津軽でなら更なる発見があったはずだ。尤も1人旅ではなかったから、あまり自由気ままに行動することはできなかった。
角川郷からの帰路、修作は松島を回った同心たちに追いつけず、かなりの強行日程になっていた。宿場では旅籠の軒に手ぬぐいを付けた笠を下げる目印を決めていたのだが、それが見つからず暑い中、ヘトヘトニなるまで歩き通しだったのだ。
「津軽では殿のお召を受けたのですが、手紙をトモ造に預けて逃げてしまわれました」「なるほど・・・信明(のぶあきら)公は英明な方でしたから、父のことも変わった坊主がいると言う評判を耳にされていたのかも知れませんね」子供の頃には偉大な父であったが大人になってから角川郷で再会し、幽霊の癖に母と仲睦まじいところを見せられて急に親しみを感じるようになった。
「それで母上の供養も勤めてもらえたのですか?」「はい、盆棚の端に夫の位牌も置いておきましたからご一緒に」「それはよかった」母は修作の気遣いに改めて感動と感謝をした。
「ソレガシは松前で父の供養をしてきたのですよ」修作にそう言われて母は戸惑った顔をする。しかし、修作は何も言わず佛壇の横に立ててあった刀を手に取って正面に掲げた。母は表情を硬くして少し後ずさったが、修作はそれに構わず鯉口を切ると鞘を抜いた。
「松前の街で藩御用の研師に声をかけられまして見事に整えてもらったのです。刀は武士の魂、父上の魂も研ぎ澄まされたことでしょう」修作は青光りしている刀身に惚れ惚れした顔だが、やはり母には「人切り包丁」にしか見えず、心の中で「早く仕舞ってくれ」と願っていた。

「母上、湯屋にまいりましょう」荷物を解いて片づけを終えた修作は洗濯物を終えて土間にかけた竿に干しているケイの母を誘った。この時代、街中の自宅に浴場があるのは高位の武士か豪商くらいのもので、湯屋=銭湯は士農工商を問わず利用する一大娯楽施設なのだ。
武士も湯屋に行く時だけは袴をはかない丸腰が許されていたため(湯屋に刀を預かる係を置く余裕がないためでもある)、髷の結い方で武士と庶民を見分けるしかなかった。
ちなみに江戸では「湯屋」と呼ぶが上方では「風呂」である。それは関西の方が古来の入浴がサウナ式であった名残りが色濃いからであろう。
また松平定信が寛政の改革の風紀取り締まりで禁じるまでは混浴だったのだが、民間施設である湯屋が全て浴場を改築できるはずがなく、大半は女性が昼間、男性は仕事帰りで夕方と時間を分けていた。つまり日のある時間に行かなければ母は入れないことになる。
「しかし、私と一緒ではご主人様が入れませんが・・・」「ソレガシはこれで」そう言って修作は十手を見せた。町同心は捜査情報の収集や犯罪防止のため時間を問わず女湯にも入浴できる特権があった。勿論、多くの女性たちと一緒に湯船につかるかは別問題だが、若い修作としては母と一緒なら丁度良い口実になるだろう。女性に囲まれると男性の方が委縮するもののようだが、妙なところで図太い修作は平気なのかも知れない。
「それではお伴いたします」母は入浴用の手拭いを渡すと玄関で修作の草履を揃え、後に続いた。この時代には石鹸やシャンプーなどはなく、手拭いも湯屋で借りられるのだが、やはり体を洗う道具だけは自分の物と言うのが一般的だった。
「帰りには団子でも食べましょう」「まァ、嬉しい」半歩遅れて歩く母は声で喜びを表す。修作は「夕食を」とも思ったが用意してあれば申し訳ないと考えオヤツにしたのだ。
湯屋の看板には弓と矢を描いたデザインが多く、中には矢をつがえた弓の実物を下げている店もある。これは「弓を射る」を「湯に入る(いる)」にかけた洒落だが、文字が読めない人にも判り易くする目的もあった。
番台で金を払うと揃って中に入った。足軽並みとは言え町同心は髱(たぼ=裾の膨らみ)のある町人髷(ちょうにんまげ)ではなく、侍(さむらい)髷なので疑われることはない。武士にとって「倫理」は命を掛けて守る存在理由であり、疑念を差し挟むことは「死ね」と言っているのと同義であって庶民には決して許されないのである。
修作は老婆から幼女まで全裸になっている脱衣場で裸になった。すると若い娘たちは恥ずかしがるどころか修作の裸に興味を示し視線は股間に集中している。しかし、そこは修作である。むしろ男根を突き出して浴場に向かい男性ストリッパーになって女たちを堪能させた。
ただ、混み合った女たちの間を「冷えものでございます=入浴前の汚れた身体です」と断って通る。それは武士も庶民もなく互いに不快な思いをしないための入浴マナーなのだ。

湯屋の帰り道、約束通り修作は団子の屋台に寄った。この時代、ウドン、ソバなどの麺類だけでなく鰻や寿司、天婦羅も屋台で食べる気軽な料理であったが、武士は席のある店に入ることを作法としていていた。その点、足軽同心は適用除外であるが湯屋帰りでは識別できないため、武士の恥とならぬようやはり持ち帰りにしなければならない。しかも注文は母がすることになる。
「ご主人様、お幾つ召し上がれますか?」「母上は?」「私は2本です」「ならばソレガシも」この会話で屋台に置いた長火鉢で団子を焼いていた店主は親子のようで違うような2人の関係を計りかね怪訝そうな顔をした。
「それでは4本、頼みます」「へい、4本でがんすね」みたらし団子は京都の下賀茂神社の祭礼で竹を扇状に割って開いた十本の串に5個ずつ刺した団子が発祥で、境内の糺(ただす)の森にある「御手洗(みたらい)池」に湧く泡に似ていることから命名されたとされている。一方、江戸では1個1文、4個で4文にしたため少し大き目の4個刺しが定番になり、現在でも関東は4個、関西は5個と分かれている。
「母上、持ち帰りにするよう言って下さい」「はい、持ち帰りでよろしゅう」「へい」本来であれば修作が直接、声を掛ければいいのだが、それも武士の対面を保つ=無用のトラブルを避ける生活の知恵であろう。
「へい、お待ちどう様でござんした」店主は砂糖醤油のタレの壷に差し入れた団子4本を笹の葉にくるみ、麻紐でくくって母に手渡した。笹や栃、柏などの葉は高価な紙の代用品として食品を包むのに常用されており、さらに葉自体に殺菌作用や独特の風味があり、現在も郷土料理などに残っている。
それにしても屋台の団子を買う武士(に見える)も珍しいが、関係不明の男女の組み合わせに気疲れしたようで、店主は修作が母を介して渡した代金16文を受け取ると前まで出てきて深く一礼したため、母も深く礼を返し益々ややこしくなった。
八丁堀の同心長屋に帰りながら修作は思い出話を始めた。
「ところで母上がみたらし団子をどのように食(しょく)されますか?」「えっ?」母は突然の意表を突いた質問に即答できない。上から1つずつ食べるか、横からかじりつく違いしか思い浮かばない。
「守野の祖父は大口を開けるは見苦しい、祖母は口や手が汚れるからと箸で食させたのです」「はー」母は呆れて口がふさがらなくなった。
「ところが父は串刺しは陣中食、手早く喰えと両手に持たせて食らいつかせたのです」「ほー」これも別の意味で呆れてしまった。
「それで母は口が汚れたから洗いなさいと後で井戸へ連れて行ってくれました」これだけは納得できる。しかし、どう考えても武家の祖父母とテンジンよりも出羽国の貧しい農家の娘だったと言う母親のキヨの躾が一番正しいように思えた。

家に戻ってから支度にかかり、夏の長い日が沈んだ頃、行燈の灯の下で夕餉になった。
「母上の料理を食すと帰ってきた気がします」母が揃えた心づくしの手料理が並んだ膳を前に修作はシミジミ言った。
「奥州もようやく飢饉から立ち直り始めておりましたが、どこも人手が足らず豊かな実りには程遠いようでした」この時代、目的地から戻るには時間がかかり食品の土産は持ち帰れなかった。珍しい民芸品なども背負う荷物が重くなるため小さな物だけで、佛閣・神社のお札や守り袋などが定番だ。したがってそれがなければ土産話しかない。
江戸や上方で道中図の浮世絵が盛んに刷られたのは土産話に臨場感を持たせることも目的の1つだろう。
「南部領でも母が生まれた戸沢領でも耕し手がおらず荒れ地のままの畑が目立ちました」修作は母親・キヨの故郷・角川郷へ向かったため伊達62万石の仙台には寄らなかった。その代わり妙な寄り道をしてしまい、これが同心一向に中々追い付けなかった理由なのだ。
「そう言えば伊達領で不思議な方にお会いしましたよ」「不思議な?」ようやく土産話が始まりそうなので母は箸を膳に置いて修作の顔を見た。
「戸沢様の御領内から奥州道中(=街道)に戻る時、山形城下から笹谷峠を越えたのでござる」「なるほど」しかし、母が津軽領内から出たのは江戸へ来る道中だけでよく判らなかった。
「それで道中に出たつもりが船岡なる地に入ってしまいまして・・・船岡は伊達騒動の原
田甲斐が治めた土地なのですが」「はァ」と言われても母には一向に判らず本当に面白くなるのか心配になってきた。
「並木の下を歩いておったら枝が落ちてくるのです」「枝が?」「それで見上げると大きな狒々(ひひ)が高い高い場所に登っているのでござる」「狒々?」狒々と言うのは猿が大型化した妖怪で女性をさらうとされている。したがって母は怯えた顔を見せた。
「ところがその狒々は鋸をつかって枝を切っているのです」「それは妙な狒々ですね」「そこで声を掛けるとスルスルと下りてきたのですが、それが不思議な方で」「方?」母はここで修作が敬称を使ったのに戸惑った。樵や庭師であれば身分は下のはずである。
「何でも桃太郎を育てた爺様の末裔で女土津桃衛門と名乗られました」「メドツモモエモン?」母には訳が判らなかった。
「その方が仰るには船岡が桃太郎の生まれ育った土地だそうで、その屋敷跡に祠を祀っているそうなので参ってきました」ここで修作は懐から桃の印が入ったお札を取り出して母に手渡した。
「そのまま御自分で建てられた総起庵(そうきあん)に泊めていただいたのですが・・・」「が・・・?」「通りがかった領民が平伏するので訊いてみたところ船岡屋敷の代官様だそうで、刃物なら刀よりも鋸、鉈、鋏がお好みだそうです」この落ちだけは母も納得できた。

いつものようにケイが別室に母子の布団を敷いているとマイが独り言を始めた。
「だってお父っつあんのイビキ、うるさいんだもん。こっちで寝てても聞こえるんだよ」「それに寝ていてオナラするんだよ。ボンッて花火みたいな」布団を敷き終わったケイが声を掛けた。
「マイ、またおジィけ?」「うん、おジィがお父っつあんと一緒に寝なきゃ駄目だって」ケイは父親がトモ造との夫婦関係を心配していることを察した。トモ造が船頭になって以来、夫婦で助け合っていた生活の形が崩れ、家事から子育て近所との関わりまで全てを自分一人に押し付けられているような気がしている。朝、弁当を持って出かけ、夕方に腹を空かせて帰ってくれば行水して夕餉を食べ、後は「疲れた」と言って寝るだけだ。車職人の時には家中に響き渡り、生活のリズムを作っていていた槌や鉋、ノコギリの音がなくなり、一緒に生きていると言う実感までも消えてしまったようだった。
「そんなこと言ったって子供たちも静かな方がよく寝るんだよ」ケイはマイが向いている壁に訴えた。するとマイが父親の返事を伝えた。
「イビキの音がテテオヤの寝ている時の声だって・・・テテオヤって何?」「うん、お父っつあんのことだね」マイには「テテオヤ=父親」と言う単語が難しかったらしく祖父が説明したようだ。その様子を見てケイが反論をした。
「あの人だって先に寝ちまって朝まで目を覚まさないんだから私たちがどこに寝たって判らないよ」するとマイは壁の一点を注視して何かを聞いている。
「えーッ、そんなの難しいよ。うん、チョとずつだよ」今度の父親の答えが難しいようでマイは壁に向かって抗議した。
「メオト・・・メオトって目で音を聞くの?お父っつあんとお母っつあんのことだね。メオトは体が離れるとココロが冷えてしまう・・・ココロって何?」マイには言葉が難しいようだったが、ケイには父親の教えがよく判った。
津軽の冬、布団の中でトモ造に抱き締められて眠った時、暖かだったのは身体よりも気持
ちだったのかも知れない。あの頃はトモ造のイビキがウルサイと鼻を摘まんで遊んだものだった。
その時、襖の向こうでトモ造が大きなクシャミをした。盆を過ぎて夜には涼しい風が吹くようになってきた。船頭の仕事で疲れ切って眠るトモ造は布団も掛けていないのかも知れない。
ケイはもう眠っているショウ大と寝てしまったマイに肌布団を掛けると、襖を開けてトモ造の様子を見に行った。やはり褌と腹巻きだけで丸まっている。寝汗で濡れた背中に夜風が吹きつけて冷えているのだろう。
ケイはトモ造の足元に畳んだままになっている肌布団を広げると身体に掛けて部屋に戻った。しかし、襖を閉めるのと同時に大イビキが始まり、ケイは父親の教えを守り「明日から一緒に寝よう」と決めたことに自信がなくなった。

数日後、修作が船着き場にやってきた。トモ造は丁度、対岸から客を乗せ到着したところだった。
岸では親方の女房が渡し料を集めているが、客たちは十手を差した町同心の姿を見て何時になく神妙に銭を器に入れて通り過ぎ始めた。
「これは守野様」「母上から聞いていましたが本当に船頭になったのでござるね」舟を桟橋の杭につないだトモ造が挨拶をすると修作は腹巻きと六尺褌姿のトモ造を検めて眺めた。
女房は客がいなくなったところで一礼だけして乗船待ちを兼ねた茶店に戻った。町同心には取り入る気がない者は近づかないのが今も変わらぬ庶民感情だろう。
「実は2つほど用件があって来たのですが・・・」「アッシに用件でやんすか?」自分と修作の関係を考えれば御用の筋ではなくケイの母からの苦言だろうと想像できる。
トモ造は頭に巻いた手拭いを外し背中の汗を拭いた。そろそろ川風が汗をかいた身体には冷たくなってきているのだ。
「1つはケイ次からの言伝(ことづて)でして」「船頭のケイ次さんがですかい?」「松前でオロシアの船に近づく見物客を取り締まった時の相方だったのです。家の者に松前へ来いとのことです」トモ造は不思議な取り合わせに感心しながらも「これで船頭が辞められなくなった」と困惑した。
「もう1つは母上から頼まれた話です」「母上ってケイのですかい」トモ造の返事が終わる前に修作は腰の同田貫を抜き放った。
「・・・」目の前に昼間の日の光を受けて眩しく輝く刀がある。トモ造は声も立てられずに腰を抜かし、茶店の中で「ガチャン」と女房が茶碗を落として割った音がした。遠目にはトモ造が怒りを買い無礼討ちされるように見えたのだろう。
トモ造は母が「斬ってくれ」と頼むようなことをケイにしたのか必死に考えていた。しかし、修作は固まっているトモ造に刀身を見せながら話を続けた。
「この刀は父の形見なのですが松前で藩御用の研師に磨き上げてもらったのでござる」「・・・」「熟練した職人の技には人を呑む力があると言うことでござろう」確かにトモ造も職人としてノミや鉋などの刃物を研ぐことはある。それに比べてもこの刀の光り方は鬼気迫るものがあり、職人の技の極致をトモ造に見せつけた。
母は目の前で修作が同田貫を抜いた時に感じた恐怖をトモ造にも見せることで職人の魂を思い起こさせようとしたのかも知れない。
「でもアッシが辞めるとこの船着き場は・・・」「トモ造さんは1人、2役はできますまい」それでも周囲の迷惑を考えてしまうトモ造に修作はテンジンの息子らしく喝破する。
「と言われても・・・」「そんなに2役がやりたいのなら、身体を2つに分けて進ぜよう」そう言うと修作は同田貫を上段に振り上げ、「パッリーン」今度は茶店で皿を割る音がした。
「もう1つ、松前でケイ次と一緒に働いていた若い船頭が江戸へ来たいと言っておりましたぞ」話を終えて同田貫を鞘に納めると修作は「そこんとこよろしく」と言う顔をして船着き場を後にした。

修作は帰りながら茶店に寄り、親方の女房が落として割った茶碗と皿を弁償していった。やはり周囲に客がおらず見ているのはこの女房だけであることを確認していたのだろう。
修作を見送った女房は舟で客を待っているトモ造のところへ歩み寄った。
「あの役人さんは何ねェ。いきなり段平(ダンビラ=大きな刀)を振り回して」やはり女房の目にはトモ造が無礼討ちされるように映ったようだ。ただし無礼討ちは武士だけに許されていた特権で足軽並みの同心には認められていなかった。同心が差している刀はあくまでも護身用なのだ。
「あの役人さんの家で女房の母親が厄介になってやして、そのことで来られたんでさ。あの刀は見せてくれたんでやんす」トモ造の説明にはいささか無理があり、女房も納得しなかった。とは言っても「船頭を辞めて職人に戻れと言いにきた」と口にできるはずがない。
「まあ、茶碗と皿でこんなにオアシ(金銭)をもらちゃあ、唖(おし)になるっきゃないけど」そう言って女房は両手の中でもらった銭をチャリチャリ鳴らした。早い話が口止め料なのだろう。この時代は市街地で刀を抜くにはそれなりの身分と理由が必要であり、修作が抜刀したのも現代の警察官が拳銃を取り出したくらいの意味がある。そこは念には念を入れたと言うことだ。
その時、次の客が来て女房は茶店に戻っていった。客が集まるまでは舟を出さないトモ造は修作に言われたことを思い返してみた。
「先ずはケイ次さんがマツメェ(松前)に残るから家の者に来いって伝えろってたな・・・それにしてもマツメェってどこでェ?」ケイ次が赴いたのは蝦夷地のはずである。この時代の地名は古来の国名と藩主の姓を冠した藩名が入り交じり複雑だった。そもそも庶民にとって地理・地名の知識は暮らしている隣近所のことで十分なのだ。
「それからケイ次さんが使ってる若ェ船頭が江戸へ来てェったな」地名のことを気にしている間に記憶がスキップしてしまった。要するにケイ次は戻ってこないが、こっちに来たい若い船頭がいると言う都合が好い話だ。これでは禁を犯してまで刀を抜いて見せた修作の立つ瀬がない。
「ケイ次さんの家にはゲン希の野郎に言わせればいいな。後釜が見つかればオイラは用済みだ・・・・それじゃあオイラは何をするんでェ」ようやくトモ造の思考は修作がやってきた目的に戻ったが炎天下で頭の地肌を照らされて(月代=サカヤキを剃っているため)ショート寸前のようだ。
本来であれば船頭を辞めて車職人に戻るための手筈を確認しなければならないのだが、頭はボーとして働かない。トモ造は桟橋に膝をついて座り、川の水で月代を洗った。

津軽ではマサ吉が悪戦苦闘していた。今までキヨ助親方は仕事の手抜きを中心に目を光らせ、叱責する時は先ず怒鳴り飛ばし、次は拳骨を振るったのだが、それはどちらも一瞬のことで通り過ぎればサッパリしたものだった。
ところが広三郎は声を荒げることはしないものの、商品として売る側の立場から細かく目を配り、欠陥や仕上げの不十分な点を見つけると徹底的に直させ、それを同じ作業工程の度に指摘するのだ。これは痛い急所を針で繰り返し突かれるようなものだろう。
この日も藩に納める荷車の仕上がりを点検している広三郎の指摘が始まった。
「マサ吉、この車輪の材に木の節が入っているが、そこから折れたりしないのか?」確かに木の節は他の部分よりも硬いため重い圧力が加わると強度の格差で周囲から折れることがある。マサ吉は以前、指摘された材料のやり繰りを優先して、使い残していた余材を加工したのだ。それにしても車職人でなければ車引きでもない広三郎がこのような点に気づくのは驚きだった。商品を吟味するこの眼力が中規模な老舗だった木村屋を弘前城下一の大店(おおだな)にのし上げたのだろう。
「へい、確かに折れやすくはなりやすが、丁度、手頃な材が残ってたんで使いました」「材を無駄にしないことよりも車の出来の方が大切なことは職人なら判るだろう。キヨ助親方は当たり前だが、トモ造さんもこんな仕事はしなかったぞ」マサ吉にとってこれは一番言われたくない台詞だ。広三郎はマサ吉が「兄弟子であるトモ造にだけは負けたくない」と言う感情を抱いていることを知った上で言っているのだ。
「へい・・・」マサ吉はアカラサマに不快そうな顔をして黙りこむ。広三郎はそれを叱責
した。
「自分の間違いを問題にされて不満そうな顔をするのは怒られて脹れっ面するガキみたいだぞ。お前も一端(いっぱし)の職人だったら、こんな落ち度をした自分が許せないって面をしろ」これは職人ではなく商人の心得だ。商人が客に品物の不具合を指摘されて不満そうな顔をすれば店の信用を失ってしまう。相手の顔色を覗いながら笑って誤魔化すか、深く反省している態度を取るかを選び、時には偽りの涙も溢せなければならない。マサ吉にここまでは必要ないが、将来、自分の店を持つようになった時、無駄にはならないだろう。
マサ吉は広三郎の叱責に職人としての誇りを学び、真剣に反省し始めた。その顔を見て広三郎は思い掛けない台詞を吐いた。
「この車輪の材は無駄になったんだから、お前の給金から差し引くぞ」「えッ?」またマサ吉の顔は不満そうになる。しかし、こうして一皮一皮、甘えや自惚れを剥ぎ取られ一人前の職人、大人の男になっていくのだろう。

最近、広三郎は城下に御用聞きに出ると必ず仕事場に寄るようになっている。それは作事奉行所や他の店で請け負った車の仕事を伝えることもあるが、多くの場合、マサ吉の仕事ぶりを監督するためのようだ。
「マサ吉、この切れ端は冬場の薪にして売るから勝手に使うなよ」「えッ?」マサ吉は呆気に取られて仕事の手を止めた。キヨ助親方の頃は木村屋から加工した材料を買っていたので切れ端は釜戸や囲炉裏の焚きつけに使っていた。現在は木村屋に雇われている車職人なので材料は無料で提供されているが、廃材まで商品にして所有権が及ぶとは思っていなかった。
「オイラも焚きつけに使うんだども」「それも買え・・・とは言わないが、他に使い途がない長さの物だけにしろ」「へい・・・」「そこでふて腐れた面をするな」マサ吉は木村屋に車職人として雇われているのではなく丁稚奉公しているような気分になってきた。
広三郎自身も農家の3男として兄の小作人で終わることを嫌って家を飛び出し、弘前城下で先代の辰次朗に拾われてからはこのような苦労をしてきたのだろう。店主に才覚を買われ頭角を表せば、番頭や古参の奉公人から出る杭として叩かれるのは今も変わらぬ日本社会の悪習だ。
「何で手を止めている。親方はお前やマサ太を使っていたがお前は1人で仕事をしてるんだ。親方の時に増えた仕事を1人でやるにはどうすれば良いか考えろ」職人の世界では無理な仕事は手抜きや見落としの原因になるため控えるのが常識であり責任だ。「粗製乱造」などと言う仕事は職人の誇りに賭けて請け負うことができない。それはキヨ助親方からも徹底的に叩きこまれてきた美学だった。
しかし、広三郎が言っていることは一歩上を行っていた。品質を落とさず、然も獲得した顧客を減らさず、作業量を維持しろと言う現代風の経営方針なのだ。
これは広三郎がマサ吉の中に頑固者のキヨ助親方や真っ正直だが不器用なところがあったトモ造とは違う能力を見出しているから要求している無理難題だった。
その意味では広三郎の経営者としての発想は奥州の田舎の城下では革命的なものだろう。
「お前がいくら良い仕事をしても売れる品を作らなければ金にはならない。売れる品と言うのは必要な品だ。必要な時に売らなければ不要な品になってしまう」マサ吉は手を止めて話に聞き入りたくなったが、また怒られるので騒音を立てる叩く仕事だけは控えながら広三郎の言葉に耳を傾けた。
ところが広三郎はマサ吉が切り落とした角材の切れ端を拾い上げて訊いた。
「マサ吉、この切れ端で何か作れないか?」わずかな切れ端まで無駄にしないのでは焚きつけに使う木材など出そうもない。この冬は暖房の燃料に不自由しそうだ。その前に今夜の夕餉の支度で使う廃材が欲しかった。

その日、マサ吉は広三郎に連れられて以前、納品した車の具合を見て回ることになった。ところが出かける前に叱責された。
「半被が違うじゃあないか」マサ吉は「車清」の半被を着ているのだ。
「もらった半被は洗濯して乾いてないんでさ・・・納めた車は車清のだからいいっぺ」反論をするとマサ吉は上州弁が混じった。
マサ吉は広三郎から背中に「車辰」と染め上げた新しい半被をもらっていた。染めや仕立ては江戸で作った「車清」の物よりも丁寧で、マサ吉も気に入っている。
ところが盆を過ぎて弘前では岩木山から肌寒い風が吹く季節になり、仕事の時も羽織るようになって柿の渋汁(=脱色防止に使われた)が手に入ったところで今朝、洗ったのだ。この時代の脱水は手で絞るしかない。したがって洗濯物は水が滴り落ちていない程度だ。
「職人の半被は商人(あきんど)の看板だ。店が替わったのに古い看板じゃあ客の信用は買えないべ。先ず看板を売り込むくらいでないと駄目だ」職人の美学では売り込むのは先ず腕であり、評判は黙っていてもついてくるものだ。ただし、マサ吉は美学などに興味はなく、単に仕事以外のことを考えるのが面倒臭かっただけだろう。
「仕方ない。ワシの半被を貸してやるから着な」そう言うと広三郎は提げていた風呂敷から真新しい半被を取り出して渡した。
広三郎が「車辰」の半被を着て街を歩けば木村屋の贔屓に会った時、変に思われる。あくまでも車を買った相手の店に入る前に着替えるつもりだったようだ。こう言うキメ細かい気配りはマサ吉だけでなくトモ造にもできないだろう。
それはあくまでも客を相手にする商人として必要な能力であり、腕で勝負する職人には無用かも知れない。ただマサ吉は木村屋に雇われている以上、無視することはできなかった。
実はマサ吉も最近、広三郎の叱責が自分に欠けている社会的常識を教えてくれているような気がしていた。キヨ助親方の罵声と拳骨が鋼を鍛える鍛冶屋の木槌なら広三郎の嫌味は一皮剥いてくれる包丁なのかも知れない。
マサ吉が半被を着替え、車清の半被を上がり端に放り投げると広三郎は注意した。
「親方からもらった半被を粗末にするんじゃない。第一、留守中にお客が来れば見苦しいじゃないか」「・・・」「そこでふて腐るな」「へい」マサ吉は素直になろうとした自分を「やはり似合わないことはするもんじゃない」と反省した。
マサ吉が道具箱を担いで一緒に店を出ると広三郎はトドメを刺すような台詞を吐いた。
「お前が独り立ちする時には『車雅』の半被を原価で作ってやるよ」「祝いに下さるんじゃないで?」「儲けなしで作ってやるんだ。儲けの分がお祝いだ」このまま木村屋で修業すればマサ吉は全国チェーンの車屋になるかも知れない。

道具を担いだマサ吉と歩きながら広三郎は思いがけないことを言った。
「車は何でも直せば良いってもんじゃあないぞ」「えッ?」これはキヨ助親方からは聞いたことのない教えだ。マサ吉にはこの雇い主が何を言おうとしているのか全く判らない。
「壊れて直せないと言って新しい車を買ってもらえれば金になる。修繕の代金よりも売った方が儲かるだろう」黙っているマサ吉に広三郎は話を続ける。
「と言って簡単に壊れたんじゃあ車辰の信用がなくなる。客が仕方ないと諦めがつくくらい使い込んだ『壊れ時』の車の話だ」マサ吉は歩きながら考えた。
職人には「壊れ時」などと言うものはない。作った車は1日でも長く、少しでも役に立ってもらいたいと願って仕事をしているのだ。マサ吉は今まで感じたことがなかった職人としての誇りが胸に湧き上がってきた。
「アッシには壊れ時何てもんは判りやせん。具合が悪ければ良くなるように直すだけでさ」マサ吉の反論に広三郎は冷ややかな薄ら笑いではなく真顔で見返した。
「お前もトモ造さんみたいなことを言うな。やっぱりキヨ助親方の弟子だね」いつもは比べられると気分が悪くなるトモ造の名が今日は素直に胸に響いた。
上州から江戸へ流れ着いてキヨ助親方に拾われた時、兄弟子として出会ったトモ造は面倒見がよく、事細かに世話を焼いてくれた。それが自分を服従させているように思え、心の中で反発し、いつかは追い抜いてやろうと敵視していたのだ。
それが「腕では追いついた」と言う自信を持てるようになると「職人としての資質」の違いで競わなければならなくなる。
江戸でも指折りの羽織職人の息子として生まれ育ち、始めからキヨ助親方に弟子入りして、車職人として修業してきたトモ造には貧しい小作人の子であるマサ吉にはない「職人としての血統」があるように感じていた。
黙り込んで歩くマサ吉に広三郎はいつもの薄ら笑いを浮かべながら話しかけた。
「トモ造さんは千手観音さまの手を2本借りてるんだってよ」「手を?何ですかいそれは」「車の仕事は世のため人のためだってことだ」「・・・」またマサ吉は黙り込んでしまった。1人なら立ち止ったかも知れない。

その日の最初の仕事はトモ造が作った車だったが、客は「先代の車清」と呼んでいた。
弘前の客にとってトモ造は江戸前の具合がいい車を持ち込んだ「車清」の創業者であり、キヨ助親方は「真打(しんうち)登場」で現れたその師匠と言うことのようだ。
マサ吉はトモ造が作った車が1日でも長く使われるように念入りに点検、修理したが、その隣りで広三郎は「そろそろ新しい車に買い替えた方がいいですよ」と勧めていた。

その頃、津軽のマサ吉、広三郎は勿論のこと江戸のトモ造もあずかり知らぬ江戸城中で政変が起きていた。10代将軍・家治の死を隠蔽して偽の御意(ぎょい=将軍の命令)を発令し、老中筆頭・田沼意次を追い落とした前回の政変に比べ、今回は波風すら立たない通常業務の中で松平定信が失脚したのである。
実はアダム・ラックスマンが漂流民・大黒屋光太夫、磯吉、小市を送り届けに来日する前、京の朝廷と江戸の公儀(幕府)で同じ問題が発生していた。それは天皇と将軍の父の尊号の贈与だった。
田沼意次が政務を執っていた安永8(1779)年、後桃園天皇が22歳で崩御したが、天皇には皇子がおらず、5代前の東山天皇の曾孫を末期養子(死後の養子縁組)にしたのが10歳の光格天皇なのだ。この天皇が成長すると「皇位を持たない実父に上皇(譲位した天皇)の尊号を贈り、宮廷に住まわせたい」と言い出して、これを皇室の権威回復に利用とした公家が政界工作を始めた。
ところが公儀でも11代将軍・家斉が「帝の孝心に倣いたい」と実父・一橋治済(はるさだ)に大御所(譲位した将軍)の尊号を贈り、城内に住まわせたいと言い出したのだ。
家斉は8代将軍・吉宗の2男・一橋宗尹(むねただ)の孫だが、松平定信は3男・田安宗武の子である。ところが枝胤(しいん=徳川家の親族・松平家)である奥州白河の藩主の養子に出され、甥である将軍の家臣となっていた。
その欝憤もあり定信は天皇からの申し出を「前例がない」「上に立つ者は世に範を示すべきである」と徹底的に突っぱね叩き潰したのだ。
定信はそれだけで済まさず政界工作に熱心だった過激派公家・中山愛親(なるちか)と正親町公明(おうぎまちきんあき)を江戸へ呼びつけて、若い天皇を諌めなかった責任を厳しく指弾して公儀の決意を示したが、これは同時に将軍に断念させるためでもあった。
そのしっぺ返しは将軍・家斉自身が言い渡した。ラックスマンへの対応が幕閣の間で検討されている中、定信には沿岸警備の状況視察として相模湾と伊豆半島への出張が命じられ、出張から帰って登城してもこの一大事にはノータッチのまま全ての仕事は素通りするようになり、やがて老中を解任されたのだ。
実際には倹約のターゲットにされて衣装、化粧から食事まで制限されていた(将軍が愛妾を抱く回数まで制限した)大奥が不満を夜毎に訴えたため、将軍の怒りが燃え上がったとも言われている。
雲の上のできごとでも江戸の城下に広まるのは早く、七年間にわたり綺麗事を強要する圧政から解放された庶民は快哉を叫び、解任の理由を定信が呼びつけて指弾した公家2人が、叱責するために下向したと逆の解釈をして、中山愛親の名前にあやかった商品が大流行したそうだ。それが登場人物たちにどのような影響を及ぼすかは不明だが。

秋、津軽藩主・寧親(やすちか)公が参勤してきた。大名の参勤は1年在府(江戸)、1年国元の交互在住なのだが、代替りにより「用捨(ようすて=特別免除)」されていたので久しぶりの江戸出府となる。
支藩の藩主は本藩の藩主と交代で江戸詰めしているが、中屋敷を与えられていたため寧親公も江戸城に近い本所(墨田区)の上屋敷に住むのは始めてだった。
妻子も藩主交代と同時に上屋敷に移っているが、待つ身としては用捨など返上して早く江戸に来て、藩主の家族として暮らしたかったであろう。
秋の出府は領内の収穫を確認してからと言う配慮であるが、津軽から佐竹(=秋田)辺りまでは雪混じりの道中になりかねず、温暖な江戸に着いて一行は安堵していた。
寧親公は英君の誉れが高かった先代・信明(のぶあきら)公に比べると凡庸で、黒石支藩からの古株家臣の言うことを鵜呑みにして、先代が天明の大飢饉を乗り切るため断行した藩政改革も旧来に服すことが多かった。
それでも分を弁えた誠実な人柄で幕閣の評判は悪くなかったが、これで後年、大きな事件に巻き込まれることになるのだ。
江戸詰の藩士たちが序列順に藩主と対面したが、下屋敷納戸役の村上貢蔵は御馬廻役だった頃、支藩の藩主だった寧親公に乗馬の指南をして顔見知りだった。
「この度(たび)、御意(ぎょい)を得ました村上・・・」「おう、師匠ではないか」寧親公は村上が挨拶を終える前に懐かしそうに声を掛ける。それは藩主と家臣の作法から外れ、傍らに控えている江戸家老が「ゴホン」と咳払いをした。
「そうじゃったの。苦しゅうない面(おもて)を上げよ」「はは・・・」「構わぬ、面を上げよ」「村上、面を上げよとの思(おぼ)し召しじゃ」「はは・・・」これでようやく顔見知りの対面となる。武家の作法とはさように面倒臭いものだった。
「村上、馬から下りて慣れぬ江戸での藩邸勤め苦労も多かろう。大事ないか?」声を掛けられれば恐縮して土下座に戻る。この馬鹿らしいほど形式的な作法には城内で馬の世話と調教を差配していた頃が懐かしくなった。
「はは、慣れぬお役ゆえ、行き届かぬこともあろうかと存じますが、何卒、お許しを賜りたく伏してお願い申し上げます」村上は舌を咬みそうな長台詞を一気に言い切った。
「妻女も慣れぬ江戸暮らしに難儀しておらぬか?」気さくなところは黒石支藩の小所帯で家臣・領民と親しく交わっていた寧親公の身上だが、江戸家老は渋い顔をしている。村上は両者の間で綱渡りのように話を進めた。
村上貢蔵は寧親公が思いがけず妻を気遣う言葉を掛けてくれたことで松木直之進の許婚(いいなずけ)のことを持ち出すことにした。
「実は当藩の者から北条家の家臣の末裔と言う娘を預かりまして家事を手伝わせております」「ほう、北条家のか」寧親公は率直に興味を示したが、この興味が変な方に向かえば「側室に上げろ」と言うことになりかねず、村上は「藩士から預かった」と予防線を張ることを忘れなかった。
東照大権現・徳川家康公は秀吉により関東へ転封された時、多くの北条家の遺臣を召し抱えた。それは信長が武田家を滅ぼした後も同様で関ヶ原でも活躍した井伊家の赤備え隊は信玄配下の飯富兵部少輔(おぶひょうぶしょうゆう)虎昌のものだった。
つまり滅んだ旧領主の遺臣は必ずしも忌み嫌われる存在ではなく、武名を称えられる武将であればむしろ進んで召抱えられることも少なくなかったのだ。
さらに津軽藩2代藩主・信枚(のぶひら)公は石田三成の娘・辰姫を愛し、公儀から「家康公の養女・満天姫を正室に」と強要されても上州大館村の飛び地(ユキエの故郷)に建てた屋敷に側室として住まわせて、参勤の度に逗留していたのだ。
「ゆくゆくは妻に迎えたいようなのでございますが、郷士の娘では殿のお許しを得ること
ができず、拙者が相談を受けて預かっておるのでござる」「ワシの・・・世の許しか」本藩の藩主となると1人称まで変わる。それが身についていないところを見ると江戸へ参勤するまで弘前城内ではもっと気軽に話していたのかも知れない。
話が盛り上がってきたところだったが家老は「話が長い」と咳払いをしたため、その場は退席した。
次の対面は何時になるかは判らないが、少なくとも事前情報を伝え、悪くはない反応を得た。しかし、藩主の周りには自分たちの主君を常識の型にはめることを忠義と信じる頑迷固執な宿老も多いので糠よろこびを与えて失望させることがないように松木に知らせることは先送りにした。

この日もトモ造は船頭として働いていた。夕暮れ時、最後の便として客のない舟を対岸から渡船場に向かって漕いでいる時、川の中ほどで白い塊が流れてくるのが見えた。
しかし、夕日の逆光のためはっきりは見えず、そのまま直進させると舳先で「ゴンッ」と言う音がしてそのまま櫓に何かが絡みつき重くなった。
「うん!」トモ造は全身の力で櫓を前後させながら進むが、水中から何かに引っ張られるような感覚で川の流れに逆らうのにも苦労する。
全身の力を使い果たして渡船場に着いた時には日が沈み、月明かりに代わっていた。
「大将、遅いじゃん。客を待ってたんですかい」桟橋で待っていたゲン希が声を掛けてきたがトモ造には返事をする元気もない。ゲン希は艫綱(ともづな)を杭に括りつけ舟を固定すると、トモ造を手伝って櫓を引き上げようとしたが、やはり水中に引っ張られるような感覚だ。2人は怪訝そうな顔をして互いを見合った後、力を込めて櫓を持ち上げた。
すると「ドボドボ」と嫌な音がして女の水死体が水面に浮かび上がった。満月の青い光に照らされたその顔を見て、ゲン希は「ヒーッ」と引きつった悲鳴を上げ、トモ臓は黙って船底に腰を抜かした。
水死体はそれ程時間が経っていないようで腐敗はしていないが、その分、水を呑んだ苦悶の表情が凄みを帯び、長い髪が櫓に絡みついている。
「アッシは番所に一走りしてきやすから、大将は仏が流れないように見ていて下せェ」ゲン希は腰を抜かしたまま動けなくなっているトモ造に櫓ベソを握らすと、桟橋に飛び移り茶店で片づけをしている親方の女房に簡単な説明をして石の河原を駆けて行った。
流石の女房も女の土左衛門(ドザエモン=水死体)と聞いては近づいてこない。後に残されたトモ造は舟の上で水死体に背中を向けながら櫓にしがみついていた。
水死体は再び水中に没しているが、櫓を揺らしても動かないことで絡みついていることは
判る。そうしながらトモ造は舟のへりを叩く「ピチャピチャ」と言う水音が不気味に思えてきた。
「水面から手が伸びてきて引き込まれてしまう」それとも「振り返ると水面に女が立っていて手招きをしている」そんな怪談の場面が始まるような気がして、法事で菩提寺の坊主が唱えているお経を思い出そうとしたがトモ造の実家は真言宗なので、難しい呪文は覚えていなかった。頼みの綱の千手観音も職人を止めていては加護がないかも知れない。
「何でも好いから助けてくれェ」トモ造の悲痛な叫びが暗い川面に響いた。

舟(ふな)番所では当番の同心として守野修作が詰めていた。この時代、江戸市中に入る街道の渡船場には舟の客や積み荷を監視する町奉行所直轄の番所が置かれており、勤務時間は渡船の営業中だけなので連絡を待っていたのだ。
番所には奉行所や関所から派遣される役人の他に読み書きソロバンができる程度の教養を持つ独り身の老人が住み込んで普段の雑用を担当している。
これが江戸市中を隔てる柵の木戸番であれば夜間通門の記録などの防犯業務もあるが、街外れの舟番所では建物の管理だけが仕事だろう。
「お役人様、土左衛門でござんす」息を切らして駆け込んだゲン希に修作は食べかけていた弁当の握り飯を包みの笹の葉に置き、立ち上がって蜀台の明かりを近づけた。
土左衛門と言うのは八代将軍・吉宗の時代の力士・成瀬川土左衛門の白く膨れた身体が水に漬かっていた水死体に似ていたことから言われ始めた俗語だ。
「土左衛門?どこで上がった」修作にはゲン希の風体から渡船場の船頭であることは察したが手順としての現場確認をして硯の筆を取った。
「へい、舟の櫓に引っ掛かりまして」「ソチの舟か?」「いいえ、船頭はトモ造と言いやす」「トモ造さんか?まだ車作りに戻っておらぬのだな」ゲン希は同心がトモ造を知っていることに驚いたが、修作は発見現場と発見者の名前を記録すると立ち上がり、蜀台から提灯のロウソクに灯を点けた。この時代は和紙の紙縒り(こより)を芯にした和ロウソクなので火は点きにくいが、風でも簡単には消えない。
また、時代劇などの捕り物シーンでは「御用」とだけ書いた提燈だが、実際には奉行所の名前なども併記されており、どこの役人であるかを一目瞭然にしていた。現在で言えばパトカーの車体に「○○県警」と表示してあるようなものだろう。
修作は刀を帯に差し、十手を右手、提灯を左手に持ったが、「土左衛門を見てからじゃあ、飯が咽を通らないな」と言って握り飯を口に入れてからゲン希の案内で渡船場に向かった。
すると番所に住んでいる老人が「こちらに運びますね」と確認し、修作は「よろしくたの
む」と返事した。この老人は今夜、水死体と過ごすことになるのだが特別な感情は見せなかった。川で上がった水死体を預かることには慣れているのだろう。

待ちくたびれていたトモ造は月明かりの下、「御用・舟番所」と書いた提灯を持った人影が近づいてくるのを見て「ホッ」と溜め息をついた。
「トモ造さん、仏は?」「これは守野さま」トモ造は提灯を持っているのが修作だと判り、もう一度、溜め息をつき直して櫓の先を指差した。
「ゲン希、戸板を持ってきてくれ」「へい」修作に名前を呼ばれゲン希は周囲を見回したが、待ち合いになっている茶店の扉しかない。茶店の中では親方の女房がまだ待っていた。
「お上さん、お役人さんが板戸を貸せと言ってまして・・・」「これに土左衛門を載せるのかい?困るよ」女房は板戸で水死体を運ぶことを察し、嫌そうな顔をした。
日中であれば川原で検屍するのだが月明かりでは不可能であり、番所まで運び翌日まで安置することになる。遺体を運んだ板戸を再利用することは誰でも嫌だろう。女房が嫌がっても役人の要請を拒否することはできないので、ゲン希は扉を外すと桟橋に運んだ。ゲン希が到着すると修作は2人に声を掛けた。
「さて、仏を上げよ・・・普通はワシらが来る前に上げておくものだがな」役人は自分の手は汚さず、身分が低い者にやらせるのは現在も変わらない。2人は諦めて顔を見合すと力を込めて櫓を回し、桟橋に遺骸を寄せた。すると修作は桟橋から両手を伸ばし、「南無阿弥陀佛」と念佛を唱えながら遺骸の両脇に手を差し入れて引き揚げた。
「うむ、若い女子じゃな。勿体ない」驚いている2人にかまわず修作は桟橋に遺骸を寝かせると瞼に手を置いて見開いた目を閉じさせ、同様に両頬を掌で温めて歪んだ口を塞いだ。一般的には目を開けている遺骸は瞼を指でふさぐと思われているが、硬直した遺骸の目は簡単には閉じず、体温で温めて筋肉を弛めればまれに閉じることがある程度なのだ。遺骸を整えた後、修作は提灯の明かりを近づけて簡単な検屍を始めた。
「どうやら心中だな」修作は女の腕を縛っている赤い紐を見つけ呟いた。心中する男女が死んでも別れ別れにならないように赤い紐で腕を結ぶのはこの時代の習慣であった。
そう言われてゲン希が恐る恐る見ると遺骸の顔には苦悶の表情が消えている。優しさに触れると死者も安らかな気持ちになれるのかも知れない。
一方、トモ造は顔を背けて手を合わせて震えていたが、修作は質問を投げかけた。
「トモ造さん、男の仏はいなかったのか?」「へい・・・わかりやせん」あの時には白い塊が流れているように思っただけだ。それが水死体だったとは思いも寄らなかった。修作は曖昧な返事をしたトモ造に非情な命令を下した。
「では仏を戸板に乗せて番所まで運んでくれ」「へい」「げッ」2人は別々の返事をする。ゲン希は漁師の息子だけに水死体を見たことがあり、先ほど修作が自分で引き上げたことで腹を決めているようだが、一方のトモ造は身内の死にも立ち合ったこともなかった。

ゲン希が肩を、トモ造は足を持って遺骸を戸板に寝かせた。すると修作は乱れて乳房と足があらわになっている肌着の胸元と裾を直し、顔に懐から取り出した手拭いを被せた。本来であればムシロを掛けるのであるが人家もない川原では手に入らないと考えたのであろう。トモ造は初めて触れた遺骸の冷たい感覚が手に残り、指先が凍りついた思いがしていた。
「それでは参ろうか」修作に促され2人は戸板に取りついたが、今度もゲン希が前、トモ造は後ろになった。遺骸は頭が重いため若いゲン希は辛い方を選んだのだがトモ造としては「顔から少しでも遠くに」と考えていた。しかし、前なら背中を向けて歩くが、後ろでは遺骸の全身を見ながらになる。その辺りの状況判断は今一つだろう。
修作は提灯を持ち先に立って歩き出したが、茶店の前に立っている親方の女房に会釈をし、女房は両手を合わせて頭を下げた。茶店を閉める戸を使われることに腹を立てていた女房だったが、いざ死人(しびと)を見てしまうと「それも供養」と言う気持ちになるようだ。
舟番所は川岸から少し離れた高台にある。それは河川工事が現在ほどしっかりしていなかったため増水すれば溢れることも珍しくなく、建物内が水浸しになることを避けるためだった。川岸からの街道を修作は提灯で照らしながら先導しているが満月の光で十分だ。
「お役人さんは恐ろしくないんでやんすか?」前を歩くゲン希が修作の背中に声を掛けた。
「ワシは武家の出での、武士は人を斬るのが商売、死人は売り物のようなものじゃ」修作の身の上を知らぬゲン希は驚いたのか戸板を持ち直し、遺骸が揺れたことでトモ造は身体を固くした。
「お主こそ、若いのに良い度胸じゃのう」とゲン希よりも年下の修作が褒める。
「アッシは漁師の出でやすから土左衛門には慣れていますんで」そこは足軽並みとは言え役人には礼を尽してゲン希は説明した。
「なるほど、大平の世では侍よりも漁師の方が余程、生き死にの挟間に身を置いているのかも知れぬの」修作が僧侶の息子とは知らぬゲン希はこの台詞に感心した。
普通、足軽並みの町同心の言葉づかいは庶民的で、それが情報収集の時に距離感を埋めることにも役立っているのだが、この若い同心は言葉遣いだけでなく立ち振る舞いも武家そのもので、さりげない台詞にも教養を感じさせる。
「この同心はトモ造を知っているようだから、後で訊いてみよう」とゲン希は思った。
一方、トモ造は戸板の上で月明かりに照らされている遺骸が今にも起き上がるのではないかと怯えていて2人の会話は耳に入っていなかった。

「お疲れ様でございました」舟番所では住み込みの老人が準備を終えて待っていた。同心が書き物や食事をする机と腰掛けは土間の隅に移動してあり、蜀台の横に置いてある香炉の前には竹筒に入れた線香が置いてある。
修作の指示で2人が土間の中央に戸板を置くと、老人は顔に手拭いを掛けてあるだけの遺骸を見て、裏からムシロを持ってきて掛けた。
「まだ新しい仏だからよろしいですが、古い仏では臭いが酷くて線香を幾ら焚いても間に合いません」「へい」修作が1本立てた線香を見て老人が言った台詞にゲン希が返事をしたが、トモ造だけは土間の隅で黙りこくっていた。
トモ造は先程から背中に冷たいものが覆いかぶさっているような悪寒を感じているのだ。それでも修作が線香に火を点けて立て、手を合わせると一緒に頭を下げた。
「それではソチたちは帰ってくれ」外傷を調べるには着物を脱がして裸にしなければならず、この若い女性の遺骸に恥をかかせることになる。それを避けるため修作は2人を帰したのだ。この時代の町同心は捕縛する下手人も家族の前では縄を掛けないなど人情を弁えていた。それが明治になって毛利・島津・土佐・佐賀の藩士が警察を組織すると見せしめのように非情な態度を取るようになったと言われている。

「・・・」入口の障子を開けてもトモ造は敷居を踏み越える力がなかった。背中の冷たいものは重さを増し、このまま地の底へ連れて行かれそうな気分になっている。いつもよりも鐘1つ分(2時間)は帰宅時間が遅く、ケイは奥の部屋で子供たちを寝かせつけているのだろう。
「お前さんかい?」障子を開ける音はしたが閉める気配がないことを不審に思ったケイが奥から声を掛けた。その声と同時に背中の冷たいものは全身に絡みつき、「ドサッ」と言う音を立ててトモ造は土間にうつぶせに倒れた。
「お前さん!」ケイは慌てて襖を開け、上がり端に飛び出してきた。
「お父っつあん」ケイの後ろにはマイもいる。しかし、トモ造は2人の声を遠いところで聞いていた。意識はドンドンと地の底へ引き込まれていくのだ。
「お姉ちゃん、誰?お父っつあんに何をしてるの?」マイが倒れているトモ造の背中に声を掛け、ケイが驚いて顔を見るとマイは横を向いて話し始めた。
「お姉ちゃんと話してはいけないの?だってお父っちあんの上に乗ってるじゃない」「うん、オジィがそう言うならやめるよ」ケイはトモ造の上に若い女の霊が乗っており、マイが話しかけるのを父が止めたことを理解した。そして土間に倒れているトモ造の重い身体を無理して背負い、敷いた布団に寝かせた。

それからトモ造はうなされ続けた。目を開け意識を取り戻したように見えると天井に向かって「許してくれ」「俺は知らねェ」と絶叫し、意識を失うことの繰り返しだ。
仕事を休んだトモ造を見舞ったゲン希から渡船場で水死体を引き上げたことを聞いたが、ケイにはどうすればいいのか判らない。医者に往診を頼んでも「どこも悪くない。祈祷でも受けろ」と匙を投げられただけだ。
それにこのような状態のトモ造を置いて家を空けることはできず、できることは枕辺を離れず、時折、ケイ自身が口に含んだ水を唇づけて流し込み、意識を取り戻した時に食べさせる雑炊を作っておくことだけだった。

「今日もオジヤ?お父っつあん、食べないね」夕食ではトモ造が食べなかった雑炊を家族で食べる。マイやショウ大には庭で飼っている鶏が産んだ卵を落としているので喜んで食べているが、太目だったトモ造は随分と瘦せこけてきた。何よりもサラシ布のオムツを当てているが便も尿も出なくなってきている。
「このままでは・・・」ケイは1番恐れていることが頭をよぎり1人首を振った。その時、またトモ造が天井に向かって叫び始めた。
「俺は知らねェ。俺はアンタを引き上げただけだ」その声はかすれ、弱々しくなっている。以前は両手を天井に向けて突き出していたが今は体力が落ちているのだろう胸の横で立てているだけだ。子供たちも見慣れてしまって怯えた顔はしなくなったが、父親が弱っていく姿を心配している。その時、マイが祖父と話し始めた。
「おジィはお父っつあんを助けられないの?うん、私たちを守るだけなんだね」父には怨霊を退散させる力はないようだ。だからこうして娘と孫たちを守ってくれているのだろう。ケイが「テンジン和尚を呼んできてくれ」と頼もうと思った時、マイが父の提案を口にした。
「お線香を上げてみろって?お父っつあん、死んじゃうの?」マイの素朴な質問にケイは思わず頬を打ってしまった。突然、頬を打たれたマイは手で押さえ、怯えた顔で母を凝視している。しかし、ケイの方が涙を流していた。
「お父っつあんが私たちを置いて死ぬはずないべ」ケイの胸には何もできない自分の無力さとこのままトモ造を失う恐れが蓄積していて、マイの一言でそれが一気に溢れ出したのだ。
驚いて泣き出したショウ大と泣きじゃくるマイを抱き締め、ケイは声を上げて泣いた。行灯の薄明かりの中、車智ではトモ造のうめき声と母子の鳴き声が響いていた。

翌朝、様子を見に寄ったゲン希にトモ造の実家への伝言を頼むと仕事を投げ出して掛けてくれたようで、昼過ぎには両親が菩提寺の僧侶を連れて訪ねてきた。
「トモーッ」母は上がり端の布団に横たわる我が子に取りすがったが、その時、トモ造は弱々しく叫び始めた。
「俺は知らねェ・・・違うんだ・・・もう許してくれ」その声は溜め息のように掠れている。手も指を開き握るだけだった。
「和尚、お願いしやす」トモ造の父親は横に控える中年の僧侶に声を掛けた。
「うむ、支度をしますのでお待ちを・・・着替えに部屋をお貸し願いたいのだが」僧侶はケイに声を掛け、奥の部屋へ案内させた。その間、母親はトモ造の痩せた顔を不安そうに見ていたが、羽織職人の父親は意識を取り戻さない息子を叱った。
「だから職人が船頭何ぞになっちゃあいけねェんだ。腕の使いどころが違うだろう」しかし、母親は夫の言葉には耳を貸さずトモ造の手を両手で握りながら声を掛けている。
「トモ造、苦しかろう。お母っつあんが変わってやるから憑き物をよこしな」するとトモ造はもがくように叫び始めた。
「やめてくれェ・・・駄目だ・・・嫌だ・・・」家族が互いの顔を見合わせた後、トモ造を覗き込むとそこへ派手な法衣に着替えた僧侶が襖を開けて現れた。
僧侶はトモ造の枕元から家族を下がらせてから父親に持たせてきた大きな風呂敷から香炉と小さな火鉢を出して並べ、ケイに釜戸から持ってこさせた火種で火をつけた。
「ではお勤めします」僧侶は座布団に座ると数珠を「ジャラジャラ」と音を立てながら揉み、太い声で経文を唱え始めた。
始めに洒水と言う清めの水を器から散杖(さんじょう)でトモ造に振り掛ける。続いて火鉢の中に護摩木と呼ばれる木片と粉を入れると炎が上がった。立てた線香からは白い煙が1本立ち昇っていく。その様子をショウ大は黙って見ているがマイは怯えたようケイにしがみついた。
やがて僧侶は残った護摩木を次々と投げいれながら「ノウマク・サンマンダ・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラ・ターカンマン」と不動明王の真言を繰り返し始めたがトモ造はそれには関係なくうなされ続けている。
やがて最後の護摩木が燃え尽きてしまった。僧侶は家族の方に向き直ると懐から取り出した手拭いで汗を拭きながら弁明を始めた。
「まだ苦しんでくれれば読経が届いていることになるのだが、このように関係なしでは手の施しようがありませぬ」すると父親が激昂した。
「てやんでェ、ウチのガキが死ぬか生きるかの瀬戸際なんでェ、何とかするのが坊主だろい。おめェは葬式の算段をしてるんじゃあねェだろうな」それが図星だったのか僧侶はきまり悪そうな顔をして帰り支度を始めた。結局、医者が勧めた祈祷も効果はなかったのだ。

その日の夕方、両親が残っている車智に修作が訪ねてきた。障子を開けた修作にトモ造の枕元に座っている父親がぶっきら棒な言葉を投げかけた。
「お役人が何のようでェ、ウチのガキはまだ死んでねェぞ。帰った帰った」その声を聞いて土間からケイが顔を出した。
「守野さま・・・」日に日に弱っていくトモ造の姿に必死に堪えていても不安は頂点に達しており、ケイはそのまますがりつきたい心持ちだった。
「渡船場を訪ねましたところトモ造さんが倒れたと聞きまして急ぎ駆けつけた次第です」そう言うと修作はケイに深く頭を下げた。両親はこの同心がトモ造やケイの知り合いと判り、気まずそうに顔を見合わせた。
修作は刀を帯から外すと上がり端に腰を下ろして草鞋の紐を解き、両親が席を譲ったトモ造の枕元に座り、弱り切って呻き声も上げられなくなっているトモ造に話し掛けた。
「あの女は上流の街道筋にある旅籠の出女で、色(男)と心中をしようとして川に突き落とされたのでござる」出女とは旅籠に足洗い女、飯盛り女として雇われた娘たちで、客へのサービスと同時に夜の相手もさせられている実質的な女郎であった。
「死んであの世で一緒になろう言い交わしておったようでござる」修作の説明に突然、トモ造が最後の力を振り絞るかのように泣き叫び始めた。
「アンタ・・・アンタ・・・何で・・・何で・・・」その声は女のものだった。
「橋から飛び降りようと腕の赤い紐は男が結び、女が男の腕に結ぼうとした時、突き落さ
れて・・・流れ着いたのがトモ造さんの舟だったのでござろう」トモ造は力が尽きたのか声は出さず眠ったまま嗚咽を繰り返している。修作は女の腕に結んであった赤い紐の反対側が腕から抜けた状態ではないことに疑いを持ち、上流の宿場町で捜索を始めていたのだ。
捜索は簡単であった。足抜けした出女は仲介した人買いも血眼になって探しており、色はすでに捕縛され、折檻(拷問は訊き出すための虐待)を受けて半死半生になっていた。
手下たちは女が泳ぎ着いていないかだけを確かめに川下を探していたが、修作から水死体になって見つかったことを聞いて引き上げた。
事の顛末を聞かされ、その場にいるケイと両親は夫・息子を苦しめている女に同情して涙を浮かべた。それでもトモ造は意識を取り戻さない。相変わらず苦しみ悶えているが、先ほどの号泣で生命の火が燃え尽きようとしているのか声はなく荒い吐息だけになっている。その時、祖父の隣に座っているマイが誰もいないトモ造の向こうに話し始めた。
「えッ、それをお役人さんに言うの?」マイのイタコとしての能力を知らない両親は驚いて顔を見合わせ、「お役人さん」と言われた修作も振り返った。

「うん、お坊さんの言うことならね」マイは寝ているトモ造の向こうに返事をすると修作に話し始めた。
「お役人さん、ドータヌキを抜けってお坊さんが言ってるよ。ドータヌキってタヌキさん?」「ふーん、刀のことかァ」ケイはマイのイタコとしての能力を説明しようとしたが、修作はその前にうなずいた。
「マイちゃんはイタコのようでござるな」「へッ?」「ソレガシは恐山でイタコの口寄せを受けてきたのでござる・・・父上がこの同田貫を抜けと申されておるのだな」修作の返事にマイはうなずいたが、両親はキツネにつままれたような顔のままだ。修作は右脇に置いていた同田貫を取ると両手で掲げた後、鯉口を切り、鞘を抜いた。
一般的には「刀を抜く」と思われているが居合道では鞘を引き抜く。何故なら刀を抜くには刀身の長さを突き出さなければならず、それでは姿勢が大きく崩れ、そのまま構えに移ることができないからだ。
「えーッ、お父っつあんを斬っちゃうの?駄目よ、駄目駄目」テンジンの次の指示にマイは首を振る。やはり幼い子供には難しいようだ。
「うん、わかった・・・その刀でお父っつあんの上を斬れって」「上を?」「うん、すぐ上を」マイの説明に修作は頭の中でやるべきことを描いてみた。要するに刀を横一線に振り抜けと言うことのようだ。
「御一同、危ないですから下がってなさい」修作は正面に同田貫を立てながら両親とケイ、マイを下がらせた。ショウ大はケイが抱いている。マイも母親が抱き締めた。
周囲の安全を確かめると修作は腰を上げ、左足を敷き、右ひざを立てる構えになった。そして同田貫を右脇に寝かせて深く息を吸い、雑念を祓うように目を閉じる。家族たちは固唾を飲んで見守り、母親はマイの口を手で押さえた。
やがて「カーッ」と言う気合いと共に両手で同田貫を横一線に振り抜いた。それはトモ造の鼻を削ぎ落としたのではないかと思う高さだった。
庶民である家族たちは刀の抜き身を見るのも初めてであり、ましてや振るところなどは恐怖以外の何物でもない。「ブンッ」と空気を切り裂く唸りには度胸が座っているはずの父親まで目をつぶり、膝の上で拳を握っていた。
するとトモ造が「フーッ」と大きく息を吐き、静かに吸い込んだのが分かった。修作が同田貫を鞘に納めるのを待って家族はトモ造ににじり寄り、顔を覗き見た。その顔には苦痛はなく、穏やかな寝顔になっている。今度は家族が一斉に溜め息をついた。

トモ造の寝顔を見て両親は安心して帰って行った。ケイは「夜道は危ないから」と泊まっていくように勧めたが、「慌てて来たから戸締りも適当だ」と提灯を借りて帰ってしまったのだ。
帰りながら父親は「先払いした布施を取り戻す」と息巻いていたが、母親は「これからの
つき合いがあるからよしなさい」と止めていた。檀家をやめる訳にはいかないので取り戻しには行かないにしても「祈祷には功徳がない」と言う烙印は押されるだろう。
両親が帰り、子供たちには雑炊を食べさせ、土間で行水させてから奥の部屋に寝かせたが、それでも意識を取り戻さないトモ造にケイは寄り添っている。いつもは安眠の妨げだった大イビキが始まるまで安心できない。
障子ごしの月明かりでトモ造の寝顔を見ると唇が渇いていてケイは枕元に置いた急須から茶碗に水を注ぐと、それを口に含みトモ造の唇に口づけて流し込んだ。すると確かに「ゴクン」と咽が音を立てて飲み込んだ。ケイはトモ造が生命力を取り戻していることを確かめることができたような気がして頬に触れながら涙をこぼした。
外ではトモ造の細い寝息と合わせるかのように秋の虫が鳴いている。「コロコロ」「スースー」「リンリン」「スースー」「ガチャガチャ」「スースー」「スーイッチョン」太り気味の人のイビキは喉が圧迫されることによって起こることもある。船頭になってからは「腹が減る」と言って大食になり、以前から太り気味だった体形が相撲取りのようだった。数日の絶食でやせてしまったトモ造がイビキをかくことはないのかも知れない。
イビキをかくように太らせるつもりは毛頭ないが、体力を戻すためには食べてもらいたい。ただ大飢饉の時、お助けの炊き出しを受けてむさぼり喰った者は命を落とし、少しでも我慢した者だけが生き永らえた。
それを「欲をかいた罰(ばち)が当たった」と言う者もあるが、飢餓状態に陥った身体は生命を維持するために消化器官を縮小して脂肪を糖の代用として燃焼させている。この機能が低下した器官に大量の食糧を与えれば消化不能になり、嘔吐から胃痙攣を引き起こし、多臓器不全によって死ぬことも珍しくない。特に刺激物は厳禁なのだ。
これは飢饉だけでなく、戦国時代の兵糧攻めから解放された城兵に食事を与えた時の教訓でもある。ケイもトモ造が目を覚ましたら塩を加えた重湯(薄い粥の上澄み液)から始めなければならないだろう。
「クションッ」その時、奥の部屋でショウ大がクシャミをした。寝入った時には暑かったので蒲団を蹴ってしまったのかも知れない。ケイはトモ造の唇に自分の唇を重ねてから、子供たちの確認に立った。

翌朝、トモ造は目を覚ました。

トモ造の体力が戻り、仕事を再開することになったのは秋の色が濃くなってきた候だった。社会保障制度が完備していないこの時代には稼ぎ手が倒れれば女房が働くか、親族や隣り近所の世話になるしかない。「情けは他人のためならず」と言う教訓は本来、この相互扶助の意味を説いているのだ(「相手のためにならない」と言うのは曲解)。
結局、船頭の仕事は辞めることになった。目を覚ましてから修作が同田貫を振って除霊したことを聞き、その刀に関する話を噛み締めたのだ。おそらく名工が魂を込めて打ち出した銘刀を名匠が整えたからこそ、僧侶の祈祷にも耳を貸さず自分に憑依して離れない女の怨念を断ち斬る力を持ったのだろう。
「それじゃあ、仕事を探しに行ってくるぜ」トモ造は久しぶりに「車智」の半被を羽織り、上がり端に腰を下ろし、草鞋の紐を結んだ。この草鞋はケイが米屋の俵を安く買ってきて内職に作って売っていた物だった。
「お前さん、行っとおいで」「お父っつあん、行っといで」「といで」上がり端には母子が勢揃いして見送った。それにしてもマイの台詞は母親と同じだ。娘は母親を見て娘から女になっていくものだが、最近のケイは随分と近所の女房たちに染まっている。このままではマイは気風のいい江戸っ子の嫁になるだろう。
「おう、行ってくるぜ。ついでに迷惑かけたところにも挨拶回りしてくらァ」これが武家なら玄関に手をついて頭を下げ(ケイの母親はやっている)、侠客なら火打石を「カチッ、カチッ」と切るところだ。ちなみに火打石を切る風習は打ち出される火花を「切り火」と呼び、生れたばかりの清浄な火で邪気を近づけない厄除けだ。

最初に渡船場の親方に挨拶に渡船場に向かった。素人の手習いが上達した程度だったトモ造をケイ次の保証だけで雇ってくれた感謝と妙な事件で突然辞めることになった謝罪をしなければならない。ただ年を取って引退していた親方に再び櫂を漕がせていることを思うと気が重かった。
「おや、トモさん、もう好いのかい?」茶店では今日も親方の女房が商売をしている。
「おかげさんで」そう言って頭を下げたトモ造に女房は先廻りして声を掛けた。
「ウチの人なら新しく雇った船頭の腕を試してるよ」「新しい?」トモ造は安心すると同時に少し落胆した。しかし、後釜が見つからないことでトモ造は辞められなかったはずだ。
「よく見つかりましたね」「ケイ次の伝(つて)なんだよ」「ケイ次さんの?」それにしても松前へ住みつき家族も呼び寄せたケイ次がどのように、誰を紹介したのだろうか?トモ造は桟橋に出て川の中ほどで親方を乗せて舟を漕いでいる船頭を眺めた。

「おう、トモ造、もう好いのか」見知らぬ若者が漕ぐ舟で桟橋に着いた親方は待っているトモ造に声を掛けた。
「どうも御迷惑をお掛けしやして」トモ造は桟橋の上で深く頭を下げた。その間にも若者は櫓を上げてモヤイ綱を杭に掛け、手際よく作業を進めている。その様子を見ても本職(プロ)だと判った。
「コイツは今度、雇うことにしたイチの兵だ」「イチノヘイ?」トモ造は紹介された名前が判らなかった。先ほど親方の女房から「ケイ次の紹介」と言われた若者の顔をあらためて見たが、年の頃はゲン希と変わらないだろう。色黒で細身だが目鼻立ちのハッキリした中々の色男だ。トモ造が船頭だった時もゲン希を選んで乗る失礼な女の客がいたが、これなら人気を二分することになりそうだ。
「ケイ次さんの伝(つて)だとか?」「おう、松メェ(前)の函館で水夫をしてたんだが、江戸へ来る船があったんで乗ってきたそうだ」古来、蝦夷地や東北諸藩との海運は海流や風向・気象が比較的安定している日本海側と瀬戸内海を通って大坂までの北前船(きたまえぶね)の東廻りが中心だった。
太平洋側の西廻りは暖流と寒流がぶつかる三陸沖や黒潮が大きく方向を変える犬吠埼は難所であり、手前の銚子で荷を下ろし、利根川の水運で江戸へ運ぶのが普通だったが、4代将軍・家綱の時代に幕命を受けた川村瑞賢が犬吠埼を迂回して伊豆の下田に寄り、そこから江戸湾に入る航路を開拓した。しかし、北前船は蝦夷地からの帰路には秋田、庄内、越後で秋の収穫を終えた米を積み、大坂で卸せる大きな利点があり幕末まで優位さは変わらなかった。
「それにしてもイチの兵ってのは変わった名メェ(前)だね」「おう、そうだな」トモ造に言われて親方も初めて気づいたようにイチの兵の顔を見る。2人に見られたイチの兵は仕方なしに説明を始めた。
「オラの先祖は津軽の安東水軍だったんだァ、だから男の子には先に立って戦うイチの兵って名をつけてんだよ」そう答えたイチの兵には津軽訛がある。親方は困惑した顔をしたがトモ造には懐かしかった。おそらくゲン希も懐かしく思っているだろう。
安東水軍とは十三湊(とさみなと=現在の十三湖)を拠点として活躍した水軍で日本海を越えて大陸とも交易し、壇ノ浦の合戦の時には平家の援軍に向かったが途中で嵐に遭い果たせなかった。その血を受け継いでいるのなら生粋の船頭であり、ゲン希とは格好の競争相手になるかも知れない。自分の後釜が津軽の若者だと知ればケイがどんな顔をするか楽しみになった。
「俺の女房も津軽の百姓の娘だ。津軽の料理が喰いたくなったら遊びにきな」トモ造に言われてイチの兵は本当に安心した顔でうなずいてから頭を下げた。

久しぶりに顔を出したトモ造に渋屋の手代はいつものノリで応対した。
「大将、久しぶりでんがなァ、最近はマサ弥さんって若い衆ばっかりで顔出さへんからどないなってんか心配してたんやで」「そりゃどうもすんまへん」この店に来ると江戸っ子のトモ造も関西弁になってしまう。
「車はどんな調子でっか?」「大将に頼んだおかげでアンジョウ働いてまっせ」「それはよろしました」そこでトモ造は腰を上げようとしたが手代は引き留めた。
「そこで『新しい車はどないでっか』と訊かなきゃあきまへんがな」松平定信による寛政の改革の嵐、と言うよりも冷え込みが江戸を覆っていた頃、市場は圧迫され、流通は停滞していた。当然、輸送手段の車の需要は激減していたのだが「それでも何とかしよう」と言う経営手腕がないところがトモ造の欠点なのだ。
「車の注文があるんで?」「お城の中でチャブ台が引っ繰り返ったんは知ってますやろ」「へッ?」トモ造は松平定信が老中首座を解任された話を知らなかった。これまでやっていた船頭の仕事は客の会話に耳をすませば世の中の情報は幾らでも入ってくるはずだ。実際、現代でも酔った客を乗せるタクシーの運転手の情報量は凄まじいものがある。しかし、トモ造は船頭として未熟だったため、そんな余裕はなかったのだ。
さらに車職人に雲の上での出来事などは関係なく、注文が入った車を全力で作ることだけが仕事であり、腕を磨けば注文は自ずから入ってくるものだと信じている。しかし、それはキヨ助親方やトモ造の父のように「車は車清」「羽織は池田屋」と言う信頼を確保していればこその話で、江戸に戻った時は寛政の改革の真っ最中だったため「車清」の客を引き継ぐことに失敗してしまった。
「口やかましい老中はんが辞めなはったんや。石の下の虫も石をどかせばモゾモゾと動き出しますやろ、今まで我慢してはったお客さんも買い物を始めるはずでっせ」「なるほど・・・」つまり渋屋は反動の消費拡大を予測しているのだ。消費が拡大すれば流通は増加し、輸送手段である車の需要も増える。確かに「それを逃す手はない」だろう。
「で御注文は?」「港から店まで運ぶ大きなのはこないだ(この間)ので間に合ってます。配達用の小さいのが3つほど要りますな」港から店までの大八車は使用頻度が低いのだが、配達用の小車は毎日のように動き回っている消耗品なのだ。
「お納めするのはいつ頃で?」「市場がいつ動き出すかは天の声が聞こえなければ判りまへん。どっちにしろ早目に頼みまっせ」「・・・わかりました」トモ造はマサ弥抜きでの作業見積もりができず即答できなかったが、小車3台なら何とかなるだろうと請け負った。
渋屋は上方から進出してきた店であるからこうして注文を取れるが、江戸の老舗では他の車屋の顧客を横取りすることにならないように気をつけなければならない。
田沼時代は「株仲間」と言う同業者の組合による独占が納税と引き換えに認められていたが、松平定信によって解散させられているので現状は寄合に顔を出していないトモ造には判らなかった。

最初の挨拶回りで注文を取ることができたトモ造だが久しぶりの単独作業には苦労していた。元船大工のマサ弥は職人として完成していた上、呑み込みが早く1人2役で仕事をしているようなものだった。それが部品の加工の下ごしらえから1人でやらなければならなくなり、津軽の車清弘前支店でやっていた頃の仕事には中々戻らないのだ。
久しぶりに「トントン、カンカン」と槌音が響き始めた車智ではショウ大が作業場を覗いている。ケイから子守りを頼まれているマイも一緒だ。
「ちゃん、トントン、トントン」ショウ大はトモ造が振る鉄鎚、木槌の音に合わせて調子を取ってくれる。その横でマイは「今度はギーコギーコ」と鋸を引く音で合いの手だ。船頭になる前はショウ大が赤子だったので槌が立てる音にも気をつけていたが、今度は子供たちも楽しんでくれていて、それが遣り甲斐になっている。
「ショウ大、早く大きくなって手伝ってくれよ」そう言ってトモ造がショウ大の頭を撫でようするとマイが「手を洗わなきゃ駄目」と立ちはだかった。マイはお姉さんと同時に母親にもなっているようだ。
「マイ、ショウ大が入ってこねェように見張っていてくれよ」「あいよ、お父っつあん」トモ造は道具に興味を示しているショウ大をマイに頼んだが、ケイ譲りの返事をされてやる気が失せてしまった。ケイは内職で作った草鞋を納めに街道筋の雑貨屋へ行っている。
トモ造は頭に巻いた手拭いを取るとマイの前で両手を拭き、許可を得てからショウ大を抱いた。
「それにしても夏なら窓を開けっ放しで仕事できるから良いが、寒くなってくると締めっ切りで埃がこもっていけねェな」暖かい時間帯だけ開けてある窓から差し込む光には舞っている埃が無数に映り出されているが、子供の鼻や口の位置は大人よりも低いので淀んだ空気を吸うことになる。現在のように蛇口を捻れば水が出る訳ではないのでウガイをするにもケイが共同井戸で汲んで貯めている水瓶から柄杓でしなければならない。飲用は湯冷ましだ。
上がり端に腰を下したトモ造にマイが話し掛けた。
「お父っつあんが叩く音はお母っさんが藁を叩く音と違うね」「うね」膝の上でショウ大も唱和する。ケイはマサ弥が国に帰って以降、使う者がいなくなった作業場で草鞋作りに励んでいた。その作業は米屋で安く買ってきた俵をほぐした藁を叩いて繊維にすることからだ。藁を打つ杵は繊維を傷つけないため切って皮を剥がした丸太の側面を使う。しかも片手で扱うには重いので「トンッ、トンッ、トンッ」と単調になる。
「お母っさんの音は眠くなるよ」「るよ」ショウ大の合いの手に微笑みながらトモ造はマイに質問した。
「それじゃあ、お父っつあんのは?」「元気が出る」「出う」子供2人が声を揃えた返事にトモ造はやる気が湧いてきて、ショウ大をマイに渡し仕事を再開した。

ケイが妙な若者を連れて帰った。年の頃はマサ弥、ゲン希、イチの兵よりも2、3歳上に見えるが、フワ~として頼りなく、突っつけば手が通り抜けてしまいそうな存在感のなさなのだ。
「お前さん、この子を仕込んでやっておくれよ」「へッ?」トモ造は即答できなかった。確かに人手が足らずに困っているが、どう見ても職人に向いているようには思えない。そもそもどこの何者なのか説明を受けていないのだ。するとケイはトモ造の顔を見て先に説明を始めた。
「この子はユウ市って言うんだけど風来坊の働き者なのよ」「風来坊の働き者?」ケイの説明でトモ造は益々訳が判らなくなった。
「この子が行商しているところによく会うけど毎回売り物が違うんだよ」「毎回?」トモ造が顔を見るとユウ市と呼ばれた若者は気まずそうな顔をして下を向いた。
「どうも自分で商売を打ってるんじゃなくて、雇われているみたいなんだわ」「それじゃあ、確かにその時雇いの風来坊だな」トモ造が納得するとユウ市は安堵したように笑ったがこの反応も変だろう。
「そろそろ腰を落ち着けて仕事を身につけないとフラフラとしたまま一生を終わっちまうって連れてきたんだよ」「ふーん、おめェ(お前)がそう言うなら仕込んでみるか」トモ造とケイで話しを決めたがユウ市は口を挟まなかった。これでは都合の良い便利屋として使い捨てにされて終わるかも知れない。そこでトモ造はユウ市に最初の仕事を与えた。
「どうでェ1つ、おめェがやってきた商べェ(売)の口上(呼び声)をやって見せてくれ」トモ造の命令にユウ市は土間の広い場所に移動して声を張り上げた。
「先ず朝一番でやんす。ナット、ナットー(納豆)。アッサリー(浅蜊)シジミ(蜆)。次は昼日中でやんす。トーフ(豆腐)、生揚げ、ガンモドキ(鴈もどき)。竿や竿ダケー(竹)。そいで夜でやんす。茹で出しウドーン(饂飩)。夜鳴き~ソバ~(蕎麦)。オイナーリサン(お稲荷さん)よ」次から次と出てくる呼び声にトモ造と子供たちは大喜びした。
「上手ェもんだ。他にはねェのか?」子供たちの拍手にユウ市も調子が出てきたようだ。
「これは夏場だけでやんす。金魚―ェ、金魚。フーリン(風鈴)はいらんかねェ」大喜びしているトモ造や子供たちの横でケイは指を折って何かを数えていた。
「ユウ市、アンタは7つも商売をしてたんだね。それで本気でやろうと思った仕事はなかったのかい?」「へい・・・朝、早ェのはどうも苦手でして」浅蜊や蜆は朝の味噌汁の具として売るため夜明けと同時に海岸や沼で採らなければならず、豆腐も昼に売るためには仕込みは早朝になる。
「饂飩や蕎麦に稲荷寿司なら夜だから仕込みは昼だろう」「暗い夜中の商売は恐ろしくて・・・夜盗に辻斬り、幽霊に物の怪(妖怪)、おお恐ろしい」ユウ市は演技の身震いをしたがトモ造の方は幽霊に物の怪を経験したばかりだ。
早朝と夜中の仕事が駄目となると消去法的には昼日中に働く職人に向いていると言うことだろう。これ以上ないほど消極的な理由だが。

ユウ市を雇ってからのトモ造はキヨ助親方になっていた。朝から夕まで「何やってんでェ」と怒鳴り放しで、時には「ボコッ」「バシッ」と手が出ることもある。トモ造もキヨ助親方からビシビシ仕込まれたが怒鳴られるツボが違うのだ。
ユウ市は色々な商売を渡り歩いていただけに意外と手先が器用で、見かけよりも頭は良いのだが、雇い主が用意した商品を1人で売り歩くだけだったため「人に使われる」「人と一緒に働く」と言う感覚が身についていなかった。
現在でも新入社員には「報告」「連絡」「相談」の「ホウレンソウ」を徹底的に教え込むが、雇われの行商は受け取った商品を完売して代金を納めればよく、売り方は自分流でも許されていた。それぞれの商品の口上は客に判らせる看板のようなものだ。
この自己流が職人の仕事では、何度かやらせると「もうできる」と思い込んで勝手に先に進めてしまい、トモ造が考えていた工程が狂ってしまうことが続いている。
その日は車輪の軸になる材を切らせたのだが、妙に鋸を引く音が続くので作業を止めて見るとユウ市は角材を全て同じ長さに切っていた。
「誰がこんなに切れって言ったんでェ。勝手なことをするな!」弘前では木村屋が材料を部品の規格に揃えて卸していたが、江戸では丸太から材に加工している。トモ造は車軸を切った残りで車体の横枠を作るつもりだった。
「でも車は3つ作るんですから、そちらの軸に使えばいいじゃあねェですか」いつもは叱られればシュンとなるユウ市が珍しく反論したのでトモ造は教えを垂れた。
「ここに節があるだろう。節のところで強さが違っちまうから使い道を考えなきゃあいけねェんだ」「へい・・・」やはりシュンとなったが不貞腐れてはいない。
「そこがマサ吉とは違うところだ」とトモ造は思ったが、そのマサ吉も弘前で広三郎の下で大変な修業をしているとは知らなかった。
「材も銭を出して買ってるでェ、無駄にしちゃあ困るんだ」「へい・・・」顔は反省しているが、どこまで判っているのか?そこで指導は具体的になる。
「先ずは言われた仕事が終わったら、終わりましたって言え」とりあえず報告を教えた。
「へい・・・」「へいだけじゃなェ、大将ってつけろ」「へい・・・タイショウ」江戸っ子のユウ市にはトモ造を「大将」と呼ぶ理由が判らないようで、そんな困惑している顔を見てもうひと押しをした。
「おめェ(お前)、大将ってのは判ってるのか?」「へい・・・いえ」「どっちなんでェ」ユウ市はどう答えれば怒鳴られないですむのか考えているらしい。それは行商と言う接客業で身につけた処世術のようだ。
「いいえ、判りやせん」「判らねェことは訊かねェか」「へい、タイショウ」これでは職人の技術教育ではなく社会人としての精神教育だ。
「おっと余計なことで仕事が止まっちまった。次はな・・・」トモ造は思うように進まない仕事に渋屋への納品期限が心配になってきた。

キヨ助親方は毎月のように男鹿半島と津軽の金木郷の実家を往復している。男鹿半島での仕事は秋田杉を保護する久保田藩の統制が独り歩きして違う木にまで及んでいるため材料の調達が難しく、弘前城下の頃に比べると暇だった。
暇と言うことは稼ぎも減っていることになる。このため飢饉で死んだ近隣農家の土地を加えて広がった田畑をシッカリ耕して家族の喰い扶ちを作らなければならなかった。
男鹿半島から金木までの道中は途中で一泊しなければならない。大概は深浦で行燈・提灯職人をやっている友人の三浦屋に泊めてもらっており、今回の帰り道も寄った。
「世話になるぜ」キヨ助親方は宿泊代替わりに個人用の小型荷車に積んできた自家製の野菜を渡すと三浦屋はニコヤカに笑いながら受け取った。
「少しは喰わなきゃ、冬は越せねェぜ」「親方の手作り野菜を喰えば大丈夫だろう」三浦屋は非常に細身で顔は頬骨が見えるくらいだが独特の風格があり貧相には見えない。灯り職人は細かい仕事だけに金槌を振るように力で押しまくるキヨ助親方とは全く逆の人間性なのだが妙に気があった。
夕食後、キヨ助親方は三浦屋と杯を交わした。津軽では盆を過ぎれば秋は急速に深まり、夜には火鉢が欲しくなることも珍しくない。したがって酒は当然のように熱燗だ。
「どうだい、アチラの暮らしは?」「久保田の連中ってのはどうも腹の中が見えねェ」久保田藩は佐竹藩、秋田藩とも呼ばれている。藩主の佐竹家は豊臣の時代まで常陸(現在の茨城県)の守護大名だったが、関ヶ原の合戦で神君・徳川家康公に敵対した上杉景勝と「関が原に向かう徳川軍の背後を突く」との密約を結んでいたことが発覚し、改易(取り潰し)寸前だったが、家康公と懇意にしていた先代の人脈で出羽へ減封になった。
このため「公儀(幕府)から疑いの目で見られている」と言う疑心暗鬼を抱いていて他国の者には警戒心を隠さない。津軽藩は南部藩から戦国以来の逆恨みを受けており、参勤交代でも久保田領を通っているが、向こうは心を許している訳ではないのだ。
三浦屋はキヨ助親方が底なしであることを知っているので徳利を渡そうとはしない。キヨ助親方が差し出す茶碗に注ぎながら自分は手酌で飲んでいる。
「それで仕事は?」「秋の収穫を積んで城下まで運ぶ車の注文が入れば商売も成り立つんだがな・・・」キヨ助親方は近傍の八郎潟周辺からも注文がくれば資材統制も何とかなると思っていたが、そのためには車清の車の調子の良さを各代官所に周知しなければならない。結局、今年の秋には間に合わないだろう。
「大体、木村屋はマサ吉のつもりで話しをもってきたんだから、俺が行っちゃあ割が合わなくても仕方ねェんだが」そう言ってキヨ助親方は茶碗の酒を飲み干した。
「そう言えば弘前の車清は木村屋が引き継いで車辰ってェ看板を出してたな」「先代の辰次郎さんの名前を採ったんだろう」「うん、親方が置いていった若いのは、中々厳しく仕込まれているみたいだぞ」深浦の三浦屋にまで噂が届いているくらいならかなりものだろう。キヨ助親方は広三郎に仕込まれているマサ吉の顔を覘きに行ってみようと思った。

日本海側では雪が舞う日の方が多くなった候、キヨ助親方は家族と年を越すため男鹿半島の店を閉めて津軽に帰ってきた。そこで回り道して弘前に寄って見た。
久しぶりに元「車清」の前に立って見ると三浦屋が言う通り看板は「車辰」になっている。その上、妙に掃除が行き届き、店の周りも綺麗に片づいていて、キヨ助親方はキツネに摘ままれたような気分になった。マサ吉は車の仕事には力を惜しまず懸命に励むが、掃除などの雑用は嫌がり、無理強いするとアカラサマに手を抜いたのだ。親方はもう一度、看板を確かめたが、間違いなく「車辰」だ。
「おうマサ吉、邪魔するぞ」キヨ助親方は両側に達筆な字で「車辰」と書いてある障子の前で声を掛けると遠慮なく開けた。すると若い娘が「キャッ」と声を上げ、親方は焦って数歩後ずさった。娘は作業場に続く台所で昼飯の支度をしていたようだ。
「おめェさんは?」「マサ吉さんは店の方さ」娘はキヨ助親方の質問には答えず、手拭いで手を拭くと慌ただしく風呂敷を抱えて店から出て行った。その風呂敷にはマサ吉の洗濯物が入っていたような気がする。
「アイツに色気があるとは思わなかったぜ。それにしてもどこで見つけたのかな・・・」親方は娘が釜戸に掛けていった鍋の蓋を取って中を見ると、質素だが丁寧に調理した煮物が入っていた。

娘が飛び出して行って間もなくマサ吉が帰ってきた。ところが障子を開けたマサ吉は上がり端に腰を下ろしているキヨ助親方に深く頭を下げた。
「親方、御無沙汰しています。おかげさんで何とかやっております」「・・・」親方は口が利けなくなった。顔を見れば確かにマサ吉だが表情は柔らかくなり、頭を下げるにも両手を腿に当てて礼式に適い、口調は完全に別人だ。
「へい、御丁寧な御挨拶、痛み入ります。こちらもおかげさんで無事にやらせていただいております」立ち上がって暗記してきたような長台詞を述べた親方にマサ吉はニコヤカに笑って答えた。昔なら例え相手が親方であっても冷笑したはずだ。親方はマサ吉に近寄ると両手で顔を挟んで自分に向け、注視した。
「おめェ、間違ェなくマサ吉だな。いってェどうしちまったんでェ」「また、御冗談を」マサ吉はその手を振り払うこともせず、親方の手の温もりを懐かしむように微笑んだ。親方の背筋に冷たいモノが走る。親方は思わず「夢を見てるんじゃあねェだろうな。1発殴ってみろ」と言ってしまった。

「へい、承りました。拳が良いですかい?平手ですかい?」親方が思わず口走った台詞にマサ吉は真面目に応えようとする。親方も前言を取り消すことができず「平手」と答えた。
「すいやせん(すみません)、親方は高いんで顔を下げて下せェ」背が低いマサ吉は長身の親方に顔の位置を下げるように言った。そして親方が顔を下げて突き出すと平手で頬を思い切り打った。
「バシッ!」頬が音を立てるのと同時に親方の目には火花が散った。
「痛てェ!」叫ぶのと手が出るのとどちらが早かったかは判らない。ただ気がつくと親方もマサ吉の頬を張り倒していた。しかし、マサ吉は表情を変えずにお辞儀をするとこう言った。
「へい、毎度有り難うさんです。張り倒し1回、3文いただきます」「へッ?」昔のマサ吉なら不貞腐れてソッポを向くか、剥きになって文句を言ってきただろう。呆れている親方の顔の前にマサ吉が両手を差し出すので、仕方なく懐から巾着袋を出して1文銭を3枚入れた。マサ吉はそれを押しいただくと当たり前の顔をして土間の片隅に置いてある木箱に入れる。その一部始終を見ながら親方は声を掛けた。
「おめェ(お前)なァ、俺が殴れって言ったのを本気にする奴があるか」「御要望とあらばお応えするのが商売ってもんです」マサ吉の顔が広三郎に見えてくる。
「それじゃあ殴る前に色々訊いたのは?」「仕事を請け負うのに間違いがないよう確かめるのは職人も一緒でしょう」あのマサ吉を短期間にここまで仕上げた広三郎の教育力に親方は感心した。
「これならでェ(大)丈夫だな。おめェの腕に商売上手とくりゃあ鬼に金棒だ」親方は本当に誉めたのだがマサ吉は営業用の笑顔で頭を下げる。やはり人に心を開けない性分は変わっていないのかも知れない。そこで親方は先ほどの娘のことを訊いてみた。
「ところでさっきの娘は何でェ?」「へい・・・」突然、マサ吉の表情が変わった。しかし、それは不貞腐れたのではなく、むしろ照れたような顔だ。親方はマサ吉のこんな可愛い顔を見たことがなかった。
「あれは木村屋の女中です」「女中?」「賄い飯の残りを届けてくれてるんでやす」マサ吉はそう説明したが娘は鍋に手を加えていた。何よりも洗濯物を入れた風呂敷を抱えて行ったところを見ると、ただのつき合いではあるまい。
広三郎は厳しく躾ける一方で木村屋の雇われ人の宴席にも参加させ、頑なだったマサ吉の心をほぐすように努めていた。そんな中で女中とできたのかも知れない。
特に先代の辰次郎、お京夫婦は妙にマサ吉の職人肌が気に入り、可愛がっているらしい。男鹿半島に行ってから苦労続きのキヨ助親方には笑顔で自宅に帰られる良い材料になった。

春になり津軽藩下屋敷では藩主・寧親公の花見の宴が開かれた。各大名の江戸屋敷は参勤した藩主と家族が住む上屋敷、藩主が国元へ帰った不在間の駐江戸大使の役割を担う支藩の藩主や江戸家老の所在地である中屋敷、それに物資の調達、保管、発送などの役務を行う下屋敷があり、下屋敷が一番広いのが一般的だった。
藩主が下屋敷に足を延ばす機会は少ないため花見や紅葉狩りなどを催すことは珍しいことではない。下屋敷に勤める中級藩士たちは藩主と奥方、若君や姫たちを始め、上屋敷勤めの側近のお歴々の覚えを目出度くしようと懸命になるのだが、今回は村上貢蔵の妻が舞踊を披露することに決まった。
現在、日本舞踊の五大流派と言われている花柳流、西川流、坂東流、藤間流、若柳流のうち寛政年間に成立していたのは藤間流と西川流だけで、もう少し後の文化・文政になって坂東流、ペリーが来航した嘉永に花柳流が始まり、若柳流は明治になって宴席での芸妓の舞踊から派生した。日本舞踊は歌舞伎役者が劇中で舞う所作から演目を作り流派を起こすことが多く、現在は日本舞踊協会に登録されているだけでも90を超える流派があり、宮中や神社での雅楽の舞いや地方の祭礼などの踊りを加えれば数え切れないだろう。
村上はここで1つ策を練っていた。松木から預かったユキエを夫婦で気に入っており、妻が舞踊を教えていることを利用し藩主に売り込もうと言うのだ。
家族帯同の花見ならユキエの美貌が関心を惹いても「妾に」などと言われる心配はなく、舞った後の挨拶で紹介すれば一気に承認を得られる可能性は高い。村上は妻と相談して嫁いだ娘の振袖を仕立て直し、準備万端を整えた。
下屋敷の中庭の桜が満開になっていよいよ花見、春の日差しが程良く昇った頃、藩主と奥方、若君と姫たちの籠が到着した。
「おつき―ッ(到着)」行列の先払い(=先導役)の発声で下屋敷の正門が開かれる。江戸市中では将軍以外は「下におれ」と庶民に土下座をさせることができず、「片寄れ」と遠慮がちに声を掛けるのだがそれも無視して侍が追いつけない距離をワザと横切る無礼者もいた。したがって先払いも面目躍如とばかりに声を張り上げるのだろう。
正門が開かれるのは藩主と幕府からの公使だけで(将軍自ら訪問すれば別だが下屋敷に来ることはない)、玄関までの玉砂利は1つ1つ洗い、踏み石には雑巾まで掛けてあった。
その両脇には裃(かみしも)の正装をした下屋敷に勤める藩士たちが身分の高い順に並び、敷物の上で両手をついた土下座をして控えている。藩主の籠が入門すると一斉に頭を下げて地面に額をつけ、それに籠の窓を開けた藩主が「うむ、うむ」と独り言のような声を掛けてうなずきながら通過するのが作法だ。
その頃、屋敷内では緊張が充満していた。先ずは奥座敷で休憩し、頃合いを見て重役が庭に設けた席に案内するのだが、それぞれの場所で出す茶や菓子は毒見役に回さなければならず、その温度や量も藩主や奥方、子供たちの好みに合わせなければならない。しかも全ての作業は騒音を立てることなく行わなければならないのだ。

桜の下での宴は盛り上がっている。桜と言っても現在では代表格となっているソメイヨシノは江戸時代の末から明治にかけて江戸・染井村(現在の豊島区駒込)の造園・植木業者たちが葉に先だって花を咲かせるエゾヒガンサクラや花が大きく派手なオオシマザクラなどの交配から作り出したと言われる新種で、この時代には葉と花が一緒に咲くヤマザクラが主だった。
桜の下に赤毛せんを敷き、藩主・寧親は正室の福の方と並んで座り、家臣たちが披露する芸を楽しんでいる。先ずは茶道の野点てだが津軽家は遠州流なので道具に触れるには袱紗(ふくさ)を用いなければならず、複雑な所作もあって素直に茶を味わう訳にはいかない。次は琴と鼓の演奏、詩吟の詠唱と続き、いよいよ村上貢蔵の妻の舞踊だ。
演目はこの時代に流行り始めた上方舞だった。上方舞は宮中などで演じられる御殿舞や能に人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加えた振りで、三味線と地唄と呼ばれる謡曲で演じるのが特色だ。津軽訛りがないユキエは地唄の担当だが、お庭番として警備の任についている松木直之進も池の対岸から心配しながら見ていた。
この頃は三味線も渡来したばかりで、その音色も珍しく藩主夫妻も興味深げに身を乗り出している。やがて合いの手が入りユキエの地唄が始まった。
「明け渡る 空の景色もうららかに 遊ぶ糸遊 名残りの雪と 謎を霞にこめてや春の 風になびける青柳姿・・・」演目は「寿」だ。
「緑の眉か朝寝の髪か 好いた枝ぶり慕いて薫 好かいでこれが梅の花 宿る鷺 気の合うた同士 変わらで共に祝う寿」この唄は枕草子の冒頭を基に作られたと言われている。
村上の妻の振りとユキエの唄は同じ家で修練を重ねているだけに見事だった。松木も安心しながらユキエの唄声に聞き惚れた時、池の向こうで騒ぎが起きた。藩主夫妻の隣りの毛せんで子供たちは菓子を食べていたのだが、大人の芸に飽きた若君が池をのぞこうと駈け出したのだ。
子供たちに付いていた奥女中や側近の侍たちは舞踊の邪魔をせぬよう手で制止しようとしたが4歳の若君は逃げながら池に近づいて行く。
「若、なりませぬ」「若、お待ち下さい」との懇願に後、女たちの悲鳴が上がった。
着飾った奥女中たちや裃姿の側近たちは池に飛び込むことができず、「高いところから見下ろしては申し訳ない」と妙な気働きをさせてその場に座り、口々に「誰かお助けしろ」「竹竿をもて」などと指示するばかりだ。対岸からは若君が水面でもがいているのが見える。即座に松木が駈け出した。走りながら大小の刀を両手で帯から外し、池の畔に刀を置くと、「御免」と声を発して裃のまま池に飛び込み、胸まで水に漬かりながら若君を助け上げた。
この若君が後に嫡男でありながら黒石支藩を継ぎ17歳で亡くなる津軽典暁(のりあき)だった。津軽本藩を継いだが女と酒に溺れ「夜鷹殿」と陰口を叩かれた2男の信順(のぶつぐ)が生まれるのは数年後のことだ。

宴席は中止になり若君は同行していた典医の診断を受けていたが、間もなく近習頭(きんじゅうがしら)が奥座敷の襖の外から結果を報告した。家臣は主君の喜怒哀楽を直接見ることを避けるため報告の内容によって対応を変えるのだ。
「典医の診立てによれば若君は少し水を飲まれておられるものの心配には及ばぬとのことでございます」「そうか」襖ごしでは返事だけだが、夫婦は親として安堵の溜め息をついた。
一方、若君が診断を受けている間、側近や奥女中たちは深刻な議論を繰り広げていた。それは「誰の責任か?」の一点を巡る堂々巡りの議論で、若君を飽きさせた演芸の企画担当者から始まり、立ち上がった若君を制止しなかった奥女中、駈け出したのを抑えなかった側近など互いの非をあげつらうばかりで、やがて池に近づくのを先回りして阻まなかった身分が低い御庭番の責任と言うことに落ち着きかけた。
それを襖ごしに聞いていた村上貢蔵は先手を打った。若君の様子を見に奥方と姫君たちが席を外している時、奥座敷に一人残っている藩主に「謝罪」を申し入れたのだ。
次の間で村上が両手をついて額を畳につけるのを合図に両側の近習が障子を開けた。
「村上、何を詫びることがあるのか?」「ははッ、数々の不始末、腹を切ってお詫びをいたしとうございます」「不始末?ワシには思い当たらぬが。よいから面(おもて)を上げよ」藩主の「面を上げよ」が3度繰り返されたところで村上は顔を上げた。
「先ほどの1件は拙者の妻の舞いが拙い故に若君がお飽きになられたのでございます」「・・・」藩主は思いがけない申し上(もうしじょう)に返事に困った。
「地唄を披露しておりましたのも拙者が預かる者、重ねて拙き芸をお詫び申し上げなければなりませぬ」この説明で藩主は参勤で江戸に来た時の話を思い出した。
「さらに拙者が命じた御庭番・松木直之進が若君をお止めせず、警固の任を投げ出して池に入りました段は誠に申し訳なく、共に腹を切りたくお願い申し上げ奉る」ここまで言って村上は再び畳に額を擦りつけた。すると藩主が村上の背中に声を掛けた。
「そうか、あれがソチの預かる北条の旧臣の娘とその許婚か。構わぬ、ここへ呼べ」「ははッ」藩主の御前から下がって村上は下屋敷内に控えさせている妻とユキエ、松木を呼んだが、松木は池の濁り水で汚れた裃を洗濯中だった。出仕する時に着てきた羽織、袴はあるが藩主の前に出るには許されない。かと言って家紋が異なる他人の裃を借りることは身元詐称に当たる絶対禁止条項なのだ。おまけに裃は材質上、固絞りはできない。
それでも汚れを落とした裃を着て松木は村上と妻、ユキエと共に藩主の御前に出た。ただし村上と松木では身分が違うため座っている畳の位置が違う。藩主に3度促され4人は顔を上げた。すると藩主の隣には奥方も座っている。
「松木直之進、ソチの働き親として有り難く思うぞ」「ははッ」松木が頭を下げるのにユキエも合わせる。それが揃っていて藩主と奥方、村上と妻は顔を見合わせて微笑んだ。その時、奥方が藩主に目で何かを促した。
「よし、ソチたちに杯を許す」藩主の思い掛けない言葉に今度は松木とユキエが顔を見合わせる。その場で2人は固めの杯を交わし、夫婦になった。

思いがけない藩主の許しによって夫婦になった直之進とユキエだったが、ずぶ濡れでいた直之進は風邪をひいて寝込んでしまった。
必要最小限の家具や布団を買い、村上の屋敷に置いてあった荷物を直之進の中級藩士の長屋に運んだ頃から寒気を感じ、長屋の住人たちを招いた披露目の宴席では熱っぽかったのだが勧められるままに飲んだ酒の酔いのせいだと思っていた。
ところが客たちが帰り、玄関で見送った後、支えられるようにして布団に行く時、手を取っていたユキエが「熱がございます」と言った。荷物を運び込んだ時、直之進が「今日は冷える」と言って仕舞っていた火鉢を出したことで察知していたようだ。
幸恵は直之進を着替えさせると布団に寝かせ、自分の掛け布団も直之進に着せた。そして額に手を当てるとやはり熱がある。ユキエは台所へ行って桶に水を汲み、手拭いを持ってきた。
濡らした手拭いを絞って額に当てると直之進はボンヤリ目を覚まし、「うつるから構うな」と呟いたがユキエは「妻としての初仕事でございます」と答えた。

翌朝、直之進が目を覚ますとユキエが枕元に座っていた。若いユキエは眠らずに付き添っていたのだろう。目を開けた直之進の顔を見て安堵したように微笑んだ。そこでユキエはためらうことなく自分の額を直之進に重ねた。
「熱は下がったようでございます。どこか痛いところはございませんか?」「少し胸が痛むが大したことはない」直之進の返事を聞いてユキエは部屋の隅に置いてある火鉢から鉄瓶を提げてきた。
「ならば丁度良かった。寺でいただいてきた薬湯を煎じておきました」風邪に効く漢方薬は色々な症状で使い分けられている。初期症状だけでも発熱し頭痛、悪寒はあるが汗が出ない場合は麻黄湯。発熱し発汗、頭痛、悪寒の場合や鼻風邪には桂枝湯。発熱、悪寒と背中の痛みはあるが汗が出ない時の葛根湯。発熱、悪寒、頭痛があり、尿が多い時の小青竜湯などがある。ここから先は医者・薬師の処方になるのだ。
「それから昨夜の残りで卵酒を作りましょう」この時代、卵は貴重な動物性蛋白質で、庭付きの家に住んでいる者は鶏を飼っていることが多かった。ただし、長屋では鶏の鳴き声が近所迷惑になるため卵を配って許してもらうのも一種のマナーだろう。ユキエは昨日、近所の妻から卵を分けてもらっていたのだ。
独身の時は病んでも自分でできることをして、後は倒れ込んだ布団に寝るしかない。それで熱が下がっても食事は自分で用意しなければならず快復は先延ばしになる。
「やはり、世帯を持つのは良いものだな・・・」直之進は天井を見上げながら呟き、覗き込んだユキエの顔を見つめ鼻をすすった。
「うむ、まだ鼻水が出る」直之進の照れ隠しにユキエは幸せそうに「はい」と答えた。

直之進は国元への連絡の名目をもらいユキエを伴い津軽へ帰ることになった。旅の途中、高崎城下に寄り甥の家に身を寄せた応分蓮寺の住職に結婚の報告をした。
住職は大きな商家の庭にあるハナレに住んでいる。それは本来、茶室のようで3畳の狭い部屋に炉が切ってあった。床の間にはお題目の軸が掛けてあり、僧侶の居所としての体裁は整っていた。
住職は茶を点てながらも話を続ける。茶をもてなしと捉えれば所作を体で覚えて自由に会話できる方が正しいのかも知れない。少なくとも緊張を強いるのでは意味はないだろう。
「松木さま、拙僧もこうなることを願っておりましたが、これほど早くとは思いも寄りませんでした」「はい、拙者も同様でござる。軍師に任せたのがよかったようです」流石に若君が池に落ちたのは想定外だったのであろうが全ては村上貢蔵の策だった。
本当は舞った後の妻の挨拶に唄ったユキエを同席させ、そこで紹介するつもりだったようだが思い掛けない事態を逆手にとり一気に話を決めた。ただ、話が早く進み過ぎて津軽の親の許可は取っていない。だから尾野のタツの定期便に託して親に一報し、返事が届く前にユキエを連れて帰るのだ。
「ユキエ、願いが叶って好かったの」「はい、方丈さま」先に薄茶を勧められて飲んでいる直之進の隣りで幸恵はうなずいた。抹茶は回し飲みにすると思い込んでいる者も少なくないが、あれは濃い茶であり、薄茶は1杯を飲み切り、お代わりすることも許されている。
「お前が田圃の様子を気にしていたのは松木殿が来られるのを待っておったのだろう」「方丈さま・・・」思い掛けない暴露に幸恵は頬を赤らめた。そこで直之進が飲み終えたので住職は茶碗をすすぎ、ユキエの茶を点て始める。
「松木殿は代官が夜伽の相手をあてがっても見向きもしなかったと聞き、それならお泊めしても大丈夫じゃろうと思ったのじゃ。何せ山内で若い男女が秘め事をされては困るからの」「確かに拙者もユキエと同じ屋根の下に寝ているのかと思うと辛うござった」「ハハハ・・・」思い掛けない直之進の告白に住職は笑い声を上げ、茶杓に汲んでいた抹茶をこぼしてしまった。
「おっと粗相をした。と言ってお武家の御妻女を使う訳にもいかぬ。雑巾を取ってまいります」そう言った住職に直之進が目配せをしてユキエは立ち上がって水屋へ行った。その様子を見て住職は安心したように何度もうなずいた。
本来、茶室は侍も刀を帯びることができぬよう潜り戸を設けてあり、身分は持ち込まない。しかし、住職があえて「お武家の御妻女」と言ったのは2人の呼吸を計るためだったのだろう。それに2人は見事に応え、夫婦の呼吸を披露した。

ユキエにとっては初めての奥州への旅だったが直之進には通いなれた道だった。
津軽藩は長年にわたる南部藩との確執があり、参勤交代でも碇ヶ関から久保田藩領を通って奥州街道に出ている。これは初代藩主・津軽為信公が南部家に反旗を翻して現在の領地を奪取したことを津軽藩では「戦国の習い」としていても南部藩は「裏切り」として恨み続けているためだ。
これから約20年が経った文政4年には南部藩主・利敬が39歳で亡くなった時、蝦夷地警備の功で自分よりも津軽寧親公が先に昇進し、加増で石高も逆転したことを恨む言葉を遺したため、家臣の下斗米秀之進が参勤交代の行列を狙撃して暗殺しようとした相馬大作(逃亡中の下斗米が名乗っていた偽名)事件が起きている。
直之進は天明の大飢饉以降、一揆の噂が絶えない南部藩の実態を視察してみたかったのだが、愛するユキエを危険な目に遭わせることは避け、仙台から出羽山脈を越えて天童に入り、新庄、湯沢から横手への道を選んだ。
久保田領内に入り、田沢湖に寄って幻想的な風景を眺めながら辰子姫の伝説を説明するとユキエは目を輝かせたが、辰子の相手の八郎太郎に会いに八郎潟(八郎太郎は十和田湖に住んでいたが南祖坊と言う修験者に敗れ、八郎潟を作って住んだ)に寄ると遠回りになる。
田沢湖からの山道で2人は気のよさそうな馬子(=マッサキ)に声を掛けられた。
「お武家さま、ご新造さんに山道は無理だべ。馬はどうけ?」馬子の後ろには体格の良い馬が控えている。ユキエは関東の農耕馬よりも一回り大きな馬に少し怯えていたが直之進は頼むことにした。
「んだば大人しくしてろ」馬子は馬を抑え、直之進が幸恵を抱き上げて背中に巻いてあるムシロに座らせた。
「わーッ、高こうございます」馬の背中でユキエはハシャギ声を上げたが、武家の妻の慎みとして控えた。しかし、馬子はそんなことには構わず馬の手綱を引いた。
「オグリキャップ、行くぞ」歩きだした馬に直之進も並んだ。馬に蹄鉄を打つようになったのは明治政府が軍用馬に西洋式の管理法を導入してからで、この時代は蹄を保護するために草鞋をはかせていた。したがって足音も「パカッ、パカッ」と軽快ではなく「ボコッ、ボコッ」と鈍重だった。
「それにしてもオグリキャップとは妙な名前だな」「いつも訊かれるけんど『送る』に『客』だす。調子よく言うとオグリキャップになるんだべさ」馬子は身分などには無頓着に話した。確かに東北弁では江戸前の敬語や謙譲語などを使い分けることはできない。直之進自身も津軽藩士なので気にはしなかった。
「1つ、馬子歌でも披露するベ」馬子の遠慮なさは武家の妻として振舞うことを心がけているユキエの緊張感も解きほぐしたようだ。馬の背中でワクワク期待した顔をする。
「嫁にこねェかァ、オラのところへェ 桜色したァおめェが欲すんだ 日の暮れの山道で馬さ引いて 何故かしら忘れ物してるような気がして 幸せてェ言う奴を探してやっからァ 嫁に嫁にこねェか 体、体1つでェ」山道を下りたところで直之進は多めの銭を払った(金は金貨、銭は銅貨のことだった)。

弘前城下に近づくと岩木山が目の前にそびえ立っている。津軽の人間はこの山の姿が見えると帰郷したことを実感し、立ち止まって頭を下げてしまう。直之進も道の傍らによって立ち止まると笠を取って頭を下げ、ユキエも倣った。
「やはりお山に会うと帰ってきた心持ちになるな」笠をかぶり直して歩き始めた直之進はシミジミと呟いた。岩木山は津軽平野側から眺めると裾野からそそり立つ美しい円錐形だが、麓の弘前では山頂付近が迫ってくるためかなり印象が違う。
「私には赤城山が故郷の姿でございます」「赤城山か・・・」直之進も検見の役で上野国勢多郡に赴いた時に見上げたが、赤城山は複数の火山の総称で、デコボコとした重々しい山容なので独立峰の岩木山の方が高く見えた(赤城山は海抜1828メートル、岩木山は1625メートル)。
「赤城山も好いが、妙に恐ろしげじゃからワシにはこちらのお山が日本一じゃ」「確かに赤城山から吹いてくる空っ風は辛うございます」冬に赤城山から吹き下ろしてくる乾燥した強風を「赤城颪(あかぎおろし)」と呼び、津軽の地吹雪に劣らない寒さなのだ。
「私は江戸に出てきて初めて富士のお山を見ました。雪が積もって白くなった頂が夕陽に染まるのは美しゅうございます」江戸から見ると富士山は西にあるため赤く染まるのは夕陽なのだ。しかし、直之進は先ほど岩木山を「日本一」と言った手前、無理な言い訳をした。
「あれは日本2の山じゃ、高ければ良いと言うものではなかろう」夫の片意地張った台詞にユキエは苦笑した。

「あれは何でございますか?」弘前の手前、平賀郷の外れの森に赤い幟が立ち、菓子や玩具を売る露店が出ていた。幟には「南無義民地蔵尊」とある。
「義民地蔵か・・・ワシがおった頃にはなかったのう」直之進の返事にユキエは益々興味を持ったようだ。直之進は店番の婆さんに声を掛けた。
「ちと尋ねるが、義民地蔵とは何か?」「へい、何でも願い事を聞いて下さる有り難い地蔵さまだべ」「いつからあるのじゃ?」「へい、知らぬ間に祀られていて、気がつくと祠まで建ってたんだァ」婆さんの説明通りなら森の中に突然、出現した地蔵と言うことになる。直之進は確かめてみようと思いユキエと一緒に森の中へ入っていった。
するとそれは素人が彫ったような素朴な石地蔵で、明らかに職人の手による祠の中で優しく微笑んでいた。その時、直之進の胸に弘前にいた頃、聞いた義民の話がよみがえった。
天明の飢饉で米が高騰した時、南部藩では領民から翌年の種籾まで奪い取った。それに倣おうとした重臣の動きを知った平賀郷の庄屋が藩主に直訴して磔になったのだ。しかし、直之進はその庄屋が旧知のトモ造の妻・ケイの父親とは知らなかった。
2人揃って手を合わせたが、ユキエはこれから会う直之進の両親との円満を願っていた。

弘前城下の武家屋敷の隅に中級藩士である松木家はあった。
直之進は松木家の2男で兄は北前船の終着地である大坂に津軽藩が置いている蔵屋敷に勤めており、妻も大坂でもらっている。
2男まで江戸で結婚したとなれば親としては我慢のならないところだが藩主の前で固めの杯を交わしてきたのでは、これ以上の名誉はなく有り難くかしこまるしかない。
そんな訳で親との対面は無事に終わり、その夜は佛檀の前で正式な婚礼の儀を行い、親族と近所の人を集めての披露の宴になった。

翌日、直之進はユキエを連れて河合正衛門を訪ねた。しかし、河合は顔色が優れず、かつての開け広げな雰囲気がなくなり難しい顔をしていた。
「河合さま、何か御心痛がござるのですか?」近況報告の後、直之進は単刀直入に訊いた。中級武士の2男として予備の跡取りである部屋住みか養子の口を待つしかなかった直之進を見出して取り立ててくれたのは河合だった。その河合の暗い表情が本当に心配なのだ。
「うむ・・・殿のなさることは国元と江戸ではまるで違うようじゃな」「違う?」直之進は寧親公が藩主に就任した直後に江戸へ赴いたので国元でのことは判らなかった。
「国元では黒石から連れてきた取り巻きの言うままに先代さまが為された新たな政(まつりごと)を旧弊に戻すばかりじゃ」先代藩主・信明公は度重なる飢饉で農民が減少し、人手不足による生産量の減少に歯止めを掛けるため侍が農耕に従事する半士半農など大胆な藩政改革を断行していた。しかし、身分制度に固執し、古臭い因習を守ることしか能がない守旧派には到底容認できず代替わりを機に白紙撤回を画策し、次々と実行しているのだ。
先代藩主の急逝を受けて河合が十三湖の畔で畑仕事を始めたのは遺訓を守るためであり、そのまま土に埋もれて忘れ去られていくのが河合にとっての殉死だった。ところが新藩主に召し出され藩政の一翼を担うことになったのだが、それは先代藩主の業績を打ち壊し、葬り去る堪え難い役割なのだ。
「そちは江戸で殿にお仕えしておる。村上殿も中々の人物、こうして良き妻女にも恵まれた。後は妻女を泣かさぬことだけに気をつけて思う存分に勤めよ」「はい、今後とも変わらぬ御指導を賜りますようお願い申し上げます」直之進には河合の言葉が遺言のように聞こえたので、こう答えたが唇を歪めて笑い顔を作っただけだった。
幸い河合は数年後(寛政8年)、新たに開設された藩校・稽古館の責任者になり復活を果たした。

河合を訪ねた帰り、ユキエに弘前城下の最勝院の五重塔や禅林街など案内している時、かつてトモ造が車屋を営んでいた店の前に出た。すると看板は「車辰」になっている。
怪訝に思って開け放ってある店の中を覘くと直之進と同世代の職人(マサ吉)が仕事をしながら腹の大きくなった女房と楽しげに話していた。

ある日、トモ造はショウ大を連れて渡船場に行ってみた。今でも川に近づくと夢の中で幽霊の恐怖が甦ってきてうなされてしまうのだが、息子には父が働いていた現場を見せておきたいと言う気持ちが勝ったのだ。
親方の女房が営んでいる渡船場の茶店の前には舟を待つ若い娘たちが群れていた。トモ造は呆気に取られて女房に訊いてみると「ゲン希とイチの兵目当ての客だ」と答える。店の柱に「次はゲン希」と船頭を知らせる札が下がっているのに気がついた。
最近、この渡船場では行きと帰りでゲン希とイチの兵が漕ぐ舟に乗り分けるのが流行していて、女の客たちは後ろ向きに乗って船頭の一挙手一投足を見ているらしい。今は丁度、舟が川の途中で行き交う時のようで舟の姿は見えないが、待っている娘たちが「ゲンさま」「イチさま」と呼んでいるのは人気を集める歌舞伎役者のようだ。
やがて春霞に煙る川面に渡し舟の影が見えてきた。すると娘たちは「ゲンさま」と歓声を上げ桟橋に駆け寄る。トモ造は桟橋が重みに耐えられるかが心配になった。
しかし、娘たちはそんなことには構わず「いつも元気なゲンさまが好き」「無口なイチさまの方が渋い」などと勝手なことを言い合っている。トモ造に手を引かれたショウ大は「何が起こっているのか」とキョトンとしているが、これは父親が励んでいた仕事の風景ではないのだ。

ユウ市の職人としての修業は殴られる回数が減り、怒鳴れる声が小さくなり、指示される内容が大まかになり、任される仕事が増えて次第に使えるようになっていた。
ところがユウ市は意外なところで商売の才能を発揮した。日雇いの売り子をやっていたユウ市は色々な商売に通じていて顔も広かった。このためユウ市が車職人になったと言う噂を耳にした元の雇い主たちが仕事を頼むようになったのだ。ただし、それは車とは限らなかった。
行商人は天秤に商品を入れた桶を下げて歩くため「棒手振り」と呼ばれるが、中には夜鳴き蕎麦や鍋焼き饂飩売りなどの焜炉(こんろ=小型の火鉢)や食器棚まで仕込んだ特殊な天秤もある。これらの修理や製作が仕事だ。
「これは車じゃあねェからなァ・・・」「それでも屋台は良くて天秤はいけねェってのは判りやせん」仕事を引き受けるか迷っているトモ造にユウ市は珍しく反論する。どうやら知人からの依頼を勝手に受けてしまっているらしい。そこでトモ造は職人としての仕事に対する考え方を教えた。
「俺は天秤の仕事をやったことがねェんだ。やったことがねェ半端な仕事をやっちゃあ、お客に顔向けできねェし、車智の看板に傷がつく」「へい・・・」トモ造の説明にユウ市はいつものようにうなだれた。ただ、トモ造としても仕事が減り、船頭になったことを思うと仕事の幅を広げる必要性はよく判っている。
「先ずは修理からだな」「へい」トモ造が出した結論にユウ市は顔を上げて安堵の溜め息をついた。

トモ造がユウ市を仕込んでいるのを間近で見ていたショウ大は道具に興味を持って玩具にし始めた。ケイは怪我や道具を壊すことを心配したが、トモ造は「ガキの力じゃあ指を落とすような怪我はしねェよ」と笑い飛ばし、むしろ使い方を教えることにした。先ずは金槌からだ(流石に刃物は後にした)。
「ちゃん、トントントン」1番軽い金槌を持たせるとショウ大は大喜びで辺り構わず叩き始める。
「トントントン」トモ造が隣りで板を打って見せるとショウ大も叩くが、まだ「打つ」とはいかない。むしろ楽器のように音を楽しんでいるようだ。
「ショウ大、金槌は始めに上げる時だけ力を入れて、後は重さで落し、跳ね返りで打つんだ」トモ造はコツを教えたがショウ大はキョトンとして、隣りのユウ市がうなづいた。
「大将、アッシにはおさらいでやんすね」「おめェはトットと釘を打ちな」「へい」トモ造に言われてユウ市は仕事を再開して、車の枠の組み立てを始めた。
金槌の次は釘を打つことを教えるのだが、こうなると指を叩き、爪の血が死んで青くなる。痛みよりも驚いて泣いたショウ大に駆け寄ったケイは抱き上げてトモ造を睨みつけた。
「ショウ大、大丈夫かい。お前さん、何をやってるのさ」「てェ(大)したことねェよ。釘の代わりに指を叩いただけでェ」トモ造は平然と答える。
「爪が青くなっているじゃないか」「椿の粉でも塗っときゃあ治らァ」「へーッ、そんなもんですかい」椿の花粉は内身の薬とされ、開花期に集めておくのは職人の知恵だ。それもユウ市への教育になった。
刃物となると血を見るが、この頃にはケイも慣れてきて簡単には動じなくなってきた。指先を怪我しても庭に生えているドクダミでこすって汁を塗るか乾燥させたペンペン草(ナズナ)の葉の粉をかけるだけだ(どちらも化膿止めの効果がある)。
「ちゃん、ギーコ、ギーコ」鋸を挽く動作と音は子供には興味をそそられるようでショウ大は大喜びだが、大人の職人が使う道具では幼児のショウ大の手に余り、トモ造が半分切って溝をつけた材にはめた鋸を両手で挽かせた。
「ノコってのはな力を入れちゃあいけねェんだ」「うん」「へッ?」ショウ大は素直に返事をしたがユウ市は驚いて顔を上げた。
「早く切るには力を入れなけりゃ駄目でしょう?」確かに素人考えでは鋸を押しながら挽けば刃が材に喰い込んで早く切れるような気がする。
「それじゃあ、かえって材の目に流されて曲がってしまうんでェ。まさかおめェ・・・」「ギクッ」ユウ市は慌てて顔を背けたが実は今も材木を歪めて切ってしまい、削って修正するところだった。日本の道具は刃の切れ味が優れているため力を抜くことでかえって本来の機能を発揮するのだ。このため道具の刃を研ぐなど手入れにも職人の技があるが。
ショウ大が鉋を扱えるようになれば1人前だが、全身を使った作業ができる身長になるまでは無理だろう。木目に合わせた刃の調整や研ぎ方を教えている間には指を切ることになるが、それは職人になるための痛みだとケイも学んでいる。

ある日の夕方、トモ造は完成した荷車の試運転に出掛けた。マイとショウ大は荷台に乗せられて大喜びしており、ケイはそんな様子を幸せそうに見ている。ユウ市に引かせながらトモ造は車軸を中心に足回りを確認していた。
「うん、おめェの仕事も中々のもんだぜ」トモ造に誉められてユウ市は足を止めてしまい荷台の上で子供たちは転がった。
「馬鹿野郎、何をやってやんでェ」いきなりトモ造の拳がユウ市の頭に飛んだ。
「痛てェ・・・」ユウ市は頭を撫でながら不満そうな顔をする。
「アッシは車引きじゃあねェですぜ」「その商べェ(売)はしなかったのかい?」ありとあらゆる仕事をわたり歩いてきたユウ市が車引きをやっていなかったとは意外だ。
「そりゃあ少しぐらいは・・・」案の定の答えにユウ市はもう1度頭を叩かれた。
ケイは子供を心配してユウ市を怒鳴りかけたがトモ造が先に殴ったことで笑ってしまった。
「ちゃん、トントントン」ショウ大はトモ造が振るった拳に大喜びして合いの手を入れたが、マイは表情も変えずに「駄目な人だね」と言った。
「あッ、星」その時、ショウ大が立ちあがって空を指差した。トモ造とケイは一斉に顔を向けたがマイだけは「ショウ大、座ってないと転ぶよ」と注意した。
「一番星かァ、俺は一番星が好きなんだよな」トモ造の初めて聞く言葉にケイは驚いたように顔を見た。考えてみれば日の暮れ前にはトモ造は仕事の片付け、ケイは夕餉の支度で忙しく一緒に出歩くことはなかった。
ケイはそんなことを考えながら嬉しそうに一番星を眺めているトモ造の横顔を見つめた。
「よし、一番星の歌を唄うぜ」そう言ってトモ造は即興の歌を唄い始めた。
「男の旅は一人旅 女の道は帰り道 所詮、通わぬ道だけど 惚れたはれたが交叉辻(こうさつじ=交差点) アーアー一番星空から 俺の心を見るだろう・・・」ケイが手拍子を始めるとショウ大も倣い、ユウ市もつき合った。
「もののはずみで生まれつき もののはずみで生きてきて そんな台詞の裏にある 心のカラクリ落とし穴 アーアー一番星出る頃は 俺の心に波が立つ」歌い終わったトモ造は照れたように空を見上げたが、聴衆はマイも加わって拍手した。その時、カラスが鳴きながら飛んでいって、あたりは少し薄暗くなっている。
「よし帰ェるか」そう言ってトモ造はユウ市に指で車の向きを変えるように指示し、子供たちに腰を下すように注意した。
「オイラの旅は夫婦(めおと)旅 子供が増えて4人旅・・・」トモ造の即興の歌は続いている。
「どさ?」「家さ」隣りでケイが久しぶりに津軽弁で問いかけるとトモ造は当たり前に答えながら手を握った。お江戸の夕日は遠く富士のお山に沈む・・・。

  1. 2014/12/19(金) 09:40:48|
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