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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月3日・盤珪永琢和尚の命日

明日9月3日は江戸前期の傑僧・盤珪永琢和尚の命日です。ただし1693=元禄6年の太陰暦ですが。
ところでイキナリ余談ですが、臨済宗の方は「禅師」と言う単語を尊称として手軽に使わることがよくありますが、禅師号は古来、皇室によって許されたものなので乱用することに問題はありませんか?
先日も臨済宗の老師たちの対談で、大愚良寛和尚を「良寛禅師」と呼んでいましたが、良寛和尚は住職にすらなっていません。盤珪和尚も「盤珪禅師」と書いてある本をよく見ますが、禅師号の宣下を受けられた記録は存じません(不勉強なだけかも知れませんが)。
盤珪和尚と言えば「不生禅」ですが、常識を抱えた人たちには「不生=生きず」が解決になることが理解出来ないようで「難解だ」「不可能だ」と口を揃えますが、死ぬことばかり仕習ってきた野僧は「苦しみの根本原因は生きていることだ(生命だけでなく存在を主張することも含む)」と実感していますので「不生」を得心できます。
このことは佐賀藩の「葉隠」に大きな影響を与えた鈴木正三道人も著書「反故集」で「総じて死して死に損なく、生きて生き損多きものなり」と明確に説いています。
盤珪和尚曰く「修羅にしかえず、餓鬼にしかえず、畜生にしかえず、おのずから佛心で居ようよりは外に、しよう事がござらぬわいの」「おこる念に少しも貪着せずして、起こるまま止むままに被成候わば、自然に本心に叶い申候」三河武士として幾多の合戦を戦い抜いてきた正三道人よりも少し優しいですか。
盤珪和尚は坐禅に励み過ぎて身体を壊し死線を彷徨ったことがあるそうですが、どこぞの高祖さんの言う「安楽の法門」とは次元が違います。
盤珪和尚はこれからの季節に好く合う言葉を遺しておられます。
「夏の頃しも恋しき風も 秋の果てぬに早にくむ」ただ、盤珪和尚の崇敬者や禅を学問的に学んでいる人は「これは単なる季節感を述べているのではなく、もっと広く奥深い世界観を語っておられる」と主張しますが、意外に本人は感じたままを素直に詠っているだけで、それを周りが勝手な解釈をしていることも珍しくありません。
盤珪和尚は遷化に当り弟子たちから「何か仰せおかれることは」と問われ「身ども一生、云置く事のない事ばかり、人々に云い聞かせた」と答えられたそうですが、野僧のブログもそんなものでしょう。
  1. 2012/09/02(日) 12:52:05|
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