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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

アラスカン・フィーリング

 「アラスカン・フィーリング」

物語は「亜麻色の髪のドール」聖美との別れから始まる。

私は1月上旬から山口県の防府南基地で曹候学生の卒業課程に入校する。
「3曹に昇任すると言う区切りがあるなら、帰って報告しろ」親から年末年始に帰省するように命令してきた。こうなったら有無を言わせないのがウチの親だ。私は聖美とのプランをキャンセルして帰省しなければならなくなった。

年明け早々、父の実家に年始の挨拶に連れて行かれた。父の両親の遺影が飾ってある奥の座敷の卓机2つを囲んで父の兄弟とその妻、従兄弟が座った。御馳走が並び、酒盃が重ねられる中、「沖縄はどんなところ?」と叔母が訊いてきた。
「いいとこですよ」私もホッとしながら話し始めた。そのまま観光案内的な沖縄の話題で盛り上がってきて、そこで私は何気なく「沖縄でハーフの子と知り合ったんですよ」と口にした。すると叔母は女性らしい興味を示した。
「もし、その子と結婚したら子供は何になるの?」「クォーターかな」従弟が答えた。私は「気が早いなあ」と思いながらも満更ではなかった。
聖美の母は娘がハーフゆえに殊更に厳しくしつけていて同世代の女性に比べても芯が強く、思慮深く、私はそんな人間性に魅かれている。ただ、それは私が3曹になってから考えるつもりだった。突然、伯父が口を開いた。
「ハーフなんて言っても混血児のことだろう」伯父はいつもの「沖縄人は文化も歴史も民族も違う」と言う持論を語気も荒く語り始めた。その横で伯母が母に向って説教を始める。
「そんなアイノコとつき合わせちゃ駄目だよ。南洋の女は情熱的で男に迫ってくるそうだから気をつけさせないと」すると母はうなずきながら「だから沖縄で彼女を作っちゃ駄目って言ってあったのに・・・」とこぼすように答えた。
伯父は説教をしながら酔いもあって興奮し、「そんな女と結婚すれば血が汚れる」とまで言った。私はうつむきながら怒りがこみ上げてくるのを耐えていた。その時、父が口を開いた。その口調は諭すように静かだった。
「どうせ将来はないんだから、そんな混血児とは手を切るんだな」これが判決だ。この家の子供である私には反論の余地もなく、ただ聖美を裏切る決心をしなければならなかった。

「本土は寒いんでしょ」「訓練って厳しいんでしょ」沖縄に戻り防府に出発する前の夜、聖美は私の身体の心配ばかりしていた。
「フライトは何時?」「9時かな」「いつもの迷彩の飛行機でしょ」「多分ね」「その時間、ランウェイを見てるよ」そんなたわいのない会話で時間は過ぎていった。そして帰り際、アパートの玄関でキスをした後、優しく微笑みながらこう言った。
「無理しないでね」私は口を固く結び、黙ってうなづいた。
「自分は今、この人を裏切ろうとしている」私は聖美の何の疑いも抱いていない目が怖かった。暗い廊下からは部屋の明りが逆光になって聖美の亜麻色の髪だけが光って見える。
「モリノ3曹、出発」聖美は右手を額にかざして敬礼をした。その時の聖美の目はしばらく会えなくなる不安よりも、その後に続くはずの未来を見ているようだった、私は答礼すると踵を返し早足で歩き始めた。
聖美が廊下まで出て見送っているのが判ったが、振り返ることが出来なかった。
この時の沖縄の1月の夜は本土以上に寒く、私は心が凍えた。

私は防府から聖美に一度も連絡することはなかった。
毎週届く手紙にも返事を書かず、教育を終えて沖縄に帰る日も知らせなかった。
「理由を告げない一方的な別れ」この非情な作業を時間だけに任せたのだ。
このことは親たちにとっては、子供が見つけてきた玩具を「気に入らないから」と取り上げた程度のことだろう。しかし、聖美は決して人形などではなかった。私は、人でなしになったのだ。

「シンシア、映画を見に行かないか?」防府から戻ったある日、私は行きつけの米軍用レストランでアルバイトしている顔馴染みのアメリカ人の女の子をデートに誘ってみた。
それは「ハーフの聖美をあそこまで誹謗した両親や伯父・伯母はアメリカ人の彼女だったなら何と言うだろう」と言う屈折したイタズラ心と「どうせ日本人、自衛官を相手にしてくれるはずはない」と言う冗談半分のつもりだった。
「リアリィ(本当?)」シンシアは一瞬、驚いた顔で私の顔を見返した。その碧い目は彼女の揺れる心を映しているようだ。ただ、シンシアは金髪と碧い目以外はアジア風の顔立ちで(ハーフの聖美の方が彫は深く外国人的だった)、大学時代の友人が講義中に隣りの席から見せてきた「機動戦士・ガンダム」のセイラ・マスに似ていると思っていた。
セイラ・マス1「機動戦士ガンダム」セイラ・マス
仕事中に私的な会話をしていてはまずいのか、シンシアはメニューを説明するような振りをして話を続ける。
「何か面白い映画やってた?」「ベストキッド2かな」「あれはカラテの映画だよ。サージェントもカラテをやるの?」シンシアは興味深そうに私の顔を覗き込む。しかし、前作のベストキットは聖美と初めて見に行った映画だ。
この「サージェント」と言うのは先ほど「アイ ビケーム トゥ スタッフ・サージェント=3曹になったよ」と申告してからの呼び名で、それまでは「キャデット(候補生)」だった。
一方、彼女の名前の「Cynthia」は正確には「スィンティア」に近く、始めは上手く発音できず、その指導から会話が弾み仲良くなったのだ。
「僕(実際の1人称は「I」です)がやってるのは拳法だよ、ブラックベルト(黒帯)なんだ」私の答えに今度は感心した顔で笑ったが、多分、空手と拳法の違いは判らないだろう。
「ほかに君が見たいのがあればそれでもいいけど」「ううん、OKだよ。でもマミィ(母親)の許可をもらってからね」シンシアの答えに「アメリカの自由な家族関係」をイメージしていた私は戸惑ったが、シンシアはそのまま店の隅にある公衆電話で家に電話をかけた。この私的用件の使い分けは理解不能だ。
食前のコーヒーを飲みながら聞き耳を立てているとシンシアと母親の会話が聞こえてくる。
デートの相手である私の説明には「ジャパン・エア・フォース」「スタッフ・サージェント」と自己紹介した時の情報を使っている。「ジェントルマン」「ナイス ガイ(好い人)」と言うのも私のことのようだ。
「空手のブラックベルトとベスト・キッド2を見に行く」と言うのは安心させて許可を取るための作戦だろうか。しばらくの遣り取りの後、シンシアは公衆電話を切って振り返ったが、その顔は満面の笑顔に変わっていて、それだけで母親の「OK」が出たのが判った。

夕方、シンシアがアルバイトを終える時間にレストランまで迎えに行った。

「沖縄が舞台の映画でも全然、沖縄の風景は出てこなかったね」「確かに」映画を見終わるとシンシアは意外に鋭い感想を口にした。確かに沖縄と言う設定の街並みや田舎の村落の風景は出てきたが、現地に住んでいる者から見れば明らかに違う。やはりハワイ辺りに作ったセットだろう。大体、街の看板が全て横文字で、車は右側通行なのだ。
「サージェントは本土の人だけど沖縄の文化に詳しいの?」「ジャスト ア リトル(少しは)」「私は文化人類学専攻だから日本文化を研究してるんだよ」シンシアは映画で描かれていた沖縄を文化人類学の視点で見ていたようだ。
「本土と沖縄は違うの?」「民族は一緒だよ」私は伯父たちが断定した見解を否定したかった。
「文化は違うでしょう?」私の答えにシンシアは真顔になって訊き返してくる。
「いや、根っこは一緒だよ」私は込み入った説明をするには英語力に自信がない。ただ母音のエ段がイ段、オ段がウ段になる沖縄の方言は古い時代の日本語がそのまま残っていると言われていることを英語で説明した(かなり苦労したが)。
「多分、同じヨーロッパ文化でもラテン圏とゲルマン圏が違うみたいなものだね」シンシアの方が上手い例えで納得してくれた。人ごみにまぎれて通りに出ると辺りはもう薄暗かった。
「夕食はどうしよう?」「ピザでも食べに行こうか」最近見つけた美味しいピザ店に連れて行こうと思って提案するとシンシアは意外な反応をした。
「駄目、私はイタリアン(イタリア人)ではないわ」シンシアは真顔だった。その「イタリアン」と言う言葉には、どこか見下したような響きがあることを感じた。
「それじゃあ、スパゲティも駄目なんだ」「ピザはヌードル(麺)だけど、あまり好きじゃないよ」シンシアはやはり首を振る。と言っても聖美とのデートコースだったアルデン亭には連れて行けないのだが。それにしても私は今日、色々なことを学んだような気がした。
この日、私はシンシアがアラスカ生まれの19歳、嘉手納のインターナショナル・カレッジ(国際大学)の学生で、母親は嘉手納・米軍病院のメジャー(少佐)の看護婦長、父親は基地医務室=空軍衛生隊のマスター・サージェント(1等軍曹)、5歳年下の妹がいることを知った。
「アメリカ人の女子大生がデートをするのにも親の許可を取る」「母親が空軍少佐で父親は1等軍曹」「イタリア系ではないからピザやスパゲティは食べない」カルチャーショックの連続だ(そもそもスパゲティの麺をパスタではなくヌードルと言っていた)。
「だったら、何を食べる?」「ハンバーガーが好い、あそこのマックへ行こう」そう言うとシンシアは映画通りの正面に見えるマクドナルドに向かって私の手を引っ張って歩き始め、そんな様子を周りにいた日本人カップルが驚いた顔で見ていた。しかし、マックでもシンシアは意外な話をした。
「何でハンバーガーに野菜を挟むの、肉が水っぽくなるよ」そう言ってシンシアが指でつまんで抜いたレタスを私が食べた(後日、カレーライスに誘ったが、「私はインド人ではない」と言わなかったものの「ライスは野菜だ」「パンに挟んで食べる」と言って呆れさせた)。

次のデートも映画だった。今度はシンシアのリクエストで「ゴースト・バスターズ」を観た。
映画のストーリーの展開に合わせて喜怒哀楽を見せるシンシアに私はアメリカ的なストレートに感情移入する映画の楽しみ方に感心しながらその横顔を見ていた。その時、シンシアはゴースト・バスターズと一緒に怪物と戦っていた。
映画の後、またハンバーガーショップに入るとシンシアが思い出したように話し始めた。
「父がモリノってイタリア人の名前だからピザやパスタが好きなんだって言うんだよ」「そうなの?」「デン・モリーノって言うイタリア系の有名なバスケットの選手がいるんだって」シンシアの意外な話に私は感心しながらうなずいた。ちなみに「モリーノ」とはイタリア半島の中央部にあるラクイラ県の山村の地名で、それを調べてくるところがシンシアだった。
「この間、ピザに誘ったのは、そこが美味しいからだよ」「うん、わかってる」とうなずきながらハンバーガーにかぶりつくのを見て苦笑してしまう。ただ、私はハンバーガーをコーラで食べるのは味覚としたまだ慣れていない。そのコーラもシンシアには「アメリカと違う」と不評なのだ(コカ・コーラを「コーク」と呼んでいて、私は昔の「コークと呼ぼう、コカ・コーラ」と言うCMを思い出してしまった)。
「ハンバーガーが安くて、お腹一杯になって栄養バランスも好くて、最高よ」食べ終わったシンシアの説明に私は「成る程なァ」とまた感心した。シンシアは看護婦長・衛生隊員の娘だけに食事の栄養バランスも考えているらしい。
「だったら、レタスも食べろよ」またシンシアが抜いたレタスを食べながら私は心の中でそう言っていた。でもピクルスは水っぽくならないから良いらしい。

そんなデートを重ねたある日、帰りのタクシーを止めた私にシンシアはキスをしてきた。
開いたドアの中から運転手が見ているのは分かったがシンシアは一度唇を離した後、首に手を回してきたので私は背中に手を回すとそっと抱き締めてもう一度キスをした。これがアメリカ式なのかは判らないが確かに映画のワンシーンのようではあった。
これは防府に入校する前夜、アパートの玄関で聖美と交わして以来のキスだった。私は胸の中で聖美に詫びていた。

「私の家に遊びに来て」次のデートの後、ハンバーガー店へ向かう歩道でシンシアが訊いてきた。陰ってきた日差しの中で碧い目が私の顔を覗き込んでいる。
「うん、いいよ。何時?」そう答えながらも私は「イタリア人じゃあないからスパゲティ―は食べない」と言うアメリカ空軍軍人である両親に会うことが少し心配だった。

翌日の日曜日の午前、嘉手納基地外の米軍官舎へ行った。
米軍官舎は周りの沖縄県民の住宅と違い広々とした敷地に点在していて風景もアメリカだった。シンシアは父親の車で官舎の入り口まで迎えに出てくれていた。
シンシアの父は私の父よりも若いのだろうか?髪は濃い茶色で目も茶色、金髪のシンシアとはあまり似ていないが、やはり共通した面影がある。私は後ろの座席にシンシアと一緒に乗り込んだ。
「はじめまして、モリノです」「運転中はドライバーには声をかけないように」車が走り出したところで挨拶をすると父はそれを制した。黙っているとますます車内の空気が重くなって窒息しそうだった。

「はじめまして、モリノです」官舎についてもう一度挨拶をやり直した。
「はじめまして、よく来てくれました」シンシアによく似た母も頭を下げた。シンシアの母は空軍少佐だけあって、私の上司でも隊長クラス、それ以上の貫録がある。短い時候の挨拶、雑談の時、私の一言にシンシアの父が突っ込んできた。
「アイ アム ジャパン エア・ホース(日本空軍)」私の自己紹介に父はいきなり両手で筒を作り、息を吹き込んだ。私が呆気にとられてシンシアと顔を見合わせると父は「これがエア・ホース(空気の管)だ」と言ってニヤリと笑った。
「これはジョークですよ」母はそう説明すると大らかに笑い、私たちもそれに倣った。「エア・フォース」いきなり父親から発音の教育を受ける羽目になってしまった。

「サージェントは本当にジェントルマンだって聞いています」「すいません、キスはしてしまいました(本当はキスをされた)」私の告白を聞いて両親と妹は一瞬呆気に取られた顔をしたが、すぐに愉快そうな表情に戻り話を続けた。
「キャデットは正直で、本当にジェントルマンだね」母は、感心したようにうなずいた。
「シンシアのラバー(恋人)はジェントルマンなの?」妹のサンディは父親似で髪は亜麻色だ。
「ボーイフレンドだろう」妹の問いかけに父が横から変な返事をした。
「ラバーだよ」父の台詞にシンシアと母、妹まで口を尖らせて反論した。父は黙って私の顔をマジマジト見直してきて、私はこの父と母の反応の違いは世界共通だと知り愉快な気分になった。

昼食は母とシンシアと妹がキッチンで作り、キッチンからは楽しげな会話と笑い声が聞こえてきた。
その間、父と私はリビングルームの掃除をしていた。日本であれば客を迎える時にはいつも以上の掃除をしておくものだが、父は1つ1つそれが何の記念品なのか説明しながらダスキンのようなもので飾ってある置物の埃を取っている。私もハンド・モップで家具の上を拭いていた。どうやら日常生活の中に受け入れてくれるつもりのようだ。
「サージェント・モリーノ(イタリア人の呼び方だった)」「イエス・サー」父が呼んだので私は軍隊式に返事をした。
「それを取ってくれ」父は拭き掃除をする手を止めて箒を指差した。
「ラジャー(了解)」私が空軍式に返事をして箒を取ると父が「チッチッチッ・・・」と口を鳴らして首を振る。私は「何の事か」と思って父の顔を見返した。
「ロージャ」父はいきなり私の発音を言い直す。
「ロージャ」「ノ―、ロージャ」航空自衛隊員が手軽に「ラジャー」と使いなれている「了解」の返事も、正しくは「ロージャ」に近い発音とアクセントのようだった。そのまま個人レッスンが始まったが中々上達できない。
「ロージャ」「ロージャ」「ロージャ」それが十数回の繰り返されたところで、ようやくで父の合格がもらえたが、その時には2人とも用事を忘れていて顔を見合わせて笑い合った。

「お互いのことを知るために、これからも時々遊び気に来て下さい」父の車で送ってもらう私に母は微笑んで両手で握手してきた。
「はい、ありがとうございます」私も両手で握り返して家族に受け入れてもらったことに礼を言った。父は私の返事にはじめて表情を緩めた。シンシアは安心したように笑顔で妹と顔を見合っていた。
Cynthia’sfamily 2
3曹に昇任してから私の仕事へのプレッシャーは厳しくなっていた。曹候学生の士長の頃には許された仕事のミス、出来ない仕事も周囲は認めてくれない。戦闘機の故障が手に負えず助けを求める私に、先輩たちは「3曹になっても駄目か」と厳しい言葉を投げかける。そんな毎日が続いている。
「責任を果せ」「努力に不可能はない」、私が子供の頃から父に叩き込まれてきた言葉は、不甲斐ない現状を、自分自身への失望へと追い込んでいた。
そんな時、母と父は少佐と1等軍曹の立場で教訓を与えてくれる。
父は「空軍にはオフィサー(士官)の空軍とエアマン(下士官・兵)の空軍がある」と言うのが持論で、自分たち上級軍曹はエアマン(=現場)の空軍の指導者であるとのプライドを持ち、オフィサーとは管理・監督を受ける関係ではあっても任務においては対等であると断言していた。
「できないものはできないと正直に言うのも責任なんだよ」シンシアの父は空軍の上級軍曹として、そんな慰めとも違う言葉で私を激励してくれる。
一方、母は組織全体や国家を考え、日米安保体制まで視野に入れた助言を与えてくれた。
「できるように頑張っているだけで今はいいんじゃないの。人材育成も空軍の勤めだよ」母はそう言うと落ち込んでいる私の顔を優しく見詰めてくれた。
その後のシンシアの激励は決まっている。拳を握りながらの「ドゥ ユア ベスト(最善を尽くして)!」だ。そして激励のキスで翌週に向かって気持ちを奮い立たせてくれる。しかし、私は「日本軍の下士官が、米軍人に慰められていて良いのか」を悩んでいた。
(下士官の父は一般空曹補学生と言う個人の技量に関係なく2年で一律に昇任させる人事制度についてどう説明しても納得せず、士官の母は優秀な隊員の確保と人材育成の施策として理解してくれた)

※この時、父が語ってくれた下士官の資質(NCO Leadership)=資料もくれた
Integrity(高潔)、 Knowledge(知識)、 Courage(度胸)、 Decisiveness(決断)、 Dependability(信頼)、 Initiative(率先)、Tact(機転)、 Justice(公正)、 Enthusiasm(熱意)、 Bearing(威厳)、 Endurance(忍耐)、 Unselfishness(無私)、
Loyalty(忠誠)、 Judgment(判断)

ある日、父が「アン オフィサー アンド ア ジェントルマン=邦題『愛と青春旅立ち』」のビデオを借りて来て見せてくれた(字幕なし)。こうして家族揃って鑑賞するのもアメリカでは普通のことのようだ。
「やっぱりネービー(海軍)は格好良いね」ビデオのラストで海軍の白い詰襟の制服姿のリチャード・ギアが恋人を迎えに行くシーンを見ながらシンシアは何気なく呟いたが、元々は海上自衛他志望だった私も内心では同感だった。
「何を言ってるんだ! エア・フォース イズ ベスト(空軍が一番だ)」突然、父が大声を出し、シンシアは驚いたような顔をした。
「ユニフォーム(軍服)だけだよ」シンシアは言い訳をしたが今度は母が横から口を挟んだ。
「ユニフォームもエア・フォース・ブルー(=空軍の青)が一番美しい」私はそんな両親を「意外に大人気ないなあ」と呆れながら黙っていると話はいきなり私に飛び火してきた。
「君は自分の恋人がエア・フォースよりもネービーの方が好いと言っても平気なのか?」シンシアは驚いて妹と顔を見合わせた。
「貴方はサージェントでしょう、もっとしっかりとしたプロ意識を持たないと駄目」返事をしないと母まで私に説教を始めた。シンシアは自分の一言で私まで叱られて困り果てていたが、それも自衛官として有り難い教訓になったのだ(※後年、海軍を描いた「トップ ガン」の大ヒットに刺激された空軍の全面協力で「アイアン イーグル」が製作され、それに「愛と青春の旅立ち」の軍曹役だったルイス・ゴセット・ジュニアが準主役で出演していたのを見て、この時の両親の態度を思い出して笑ってしまった)。

当時、「愛と青春の旅立ち」の主題歌「アップ ウェア ウィ ビロング」は全日空が新たに導入したボーイング767に合わせて変更した機体の塗装のCMに使っていた。
その機体が着陸してくるのを見た隊員たちは自然にこの歌を鼻ずさんでいたが(鼻歌)、誰も歌詞を知らなかった。そこで私はシンシアに頼んでビデオから歌詞を書き取ってもらうことにした。
「ふーん、こうして聞いてみるとアメリカの英語じゃないね」あらためてビデオを再生しながら聞き直すとシンシアは意外な指摘をした。私には同じ英語にしか聞こえないが母国語として使っている者にはかなり違うらしい。実際、唄っているジョー・ロッカーはイギリスのロック歌手だった。
「できたァ。同じ歌詞の繰り返しが多いから簡単だったよ」そう言って紙を手渡したがシンシアの筆記体は癖字なので詠み辛く、つかえながら小声で読み上げているとシンシアは少しイライラしながら口ずさみだした。
「単語を全部読もうとするからいけないのよ。耳に残った言葉だけを拾って歌えば良いの」そう言うとシンシアはビデオを巻き戻し、ラストシーンの歌を再生した。
確かにシンシア作の歌詞カードにある単語を(文法から考えて入れたらしい)かなり跳ばしている。おそらく口の中で歌って次の必要な単語に移っているのだろう。
全日空のCMで使っているサビの部分でも歌詞カードでは「ラブ ライフ アス アップ ウェア ウィ ビロング、ウェア ザ イーグル クライ オン ア マウンテン ハイ」とあるが、聞こえてくるのは「ラブ ライサップ ウェア ウェビロング、ザ イーグル クライ オン マウンテン ハイ」のようだ。
この後、サビの部分だけを徹底的に指導されて暗唱し、翌朝の隊員食堂の行列で降りてきた全日空の新塗装の機体を見ながら歌うと周囲の人が拍手をしてくれた。 

「少林寺拳法の大会があるんだ、見に来るかい?」「うん、行く行く」いつもの映画の後、私は来週、基地の体育館で行われる少林寺拳法の大会に誘ってみた。
「一度、貴方のファイトしているところ見てみたかったんだ」そう言うシンシアは今の映画のアクションスターを見るような顔をする。と言われても少林寺拳法の大会は試合ではなく、組演武と言われる試合形式の型なのだ。そのことを説明してもシンシアはやはり気合いを入れた。
「貴方なら絶対勝てるわよ、優勝して」シンシアは力を込めて拳を握って見せる。私はそんなシンシアに静かに首を振った。
「武道の目的は勝ち負けじゃあないんだ」「じゃあ、何のために練習するの?」私の答えにシンシアは怪訝そうな顔をする。私は説明するための英単語に悩んでいた。
「自分に負けないためさァ」「自分に?」私の通訳が拙いのかシンシアは難しい顔をして考え込んだ。
「怖いって言う弱い心に勝つためだよ」私は知っている英単語を並べて言い直してみた。
「難しいなァ、東洋の哲学だね」シンシアは感心したようにうなづいた。その顔を見て私は美空ひばりの「柔」を唄い、また、その歌詞を英語で説明した。
「ボクシングやレスリングじゃあ、そんな難しいことを教えないよ」「あれはスポーツマンシップとファイティングスピリッツだからね」これは私が中退した大学での体育理論の講義で習った話でもある。私の返事にシンシアは深くうなづいた。シンシアは大学で文化人類学を専攻しているのだ。
「ドゥ ユア ベスト!」今回もそれがシンシアの応援と激励だった。

試合前、道着の上にジャンバーを羽織ってゲートまで迎えに行くと約束の時間通りにタクシーでシンシアはやって来た。タクシーを降りて私を見つけるとシンシアは笑いながら手を振って駆け寄ってくる。要件を訊くのに困っている歩哨の横から私が声をかけて、そのまま警衛所で面会手続きをすると、増加警衛勤務で顔見知りの警備の隊員は驚いた顔をしてシンシアを見た。それに気がついた他の隊員たちまで受付に集まってきて警衛所内は人だかりになった。
「代筆で良いよな?」「名前はカタカナで書くのか、英語で書くのか?」私の質問にも警備の隊員は気がつかないほど夢中になってシンシアの方を見ている。
「お前らなァ」私が少し声を荒げて訊き直すと受付の隊員は慌てて振り返り、ベテランの判断を仰いで、「カタカナで結構です」と答えた。

試合会場でもそれは同じだった。会場の体育館の壁際に立っているシンシアを仲間の部員は準備運動もそっちのけで、応援に来ている若い隊員たちも無遠慮に視線を浴びせてくる。私がシンシアと立ち話をしていると部長や先輩たちまで遠巻きに囲んできた。
「サージェント、ブラックベルトが似合ってるよ」とシンシアは周囲には無感心に誉めてくれたが、胸にある当時の少林寺拳法の卍の印を「(ナチスの)ハーケンクロイツみたい」と怪訝そうな顔をしたので、「お寺のマークだ」と意味まで難しい説明をすることになった(英語で)。
私が拳法の形を幾つかやって見せるとシンシアはその度に拍手をして喜んだ。そんな様子を羨ましそうに見ていて彼女を呼んでいた仲間が怒られていた。
やがて開会式の集合が告げられ、シンシアは「ドウ ユア ベスト!」と先週と同じ激励の言葉をかけてくれた。

大会では3位だった。予選の上位3組で行われた決勝では演武の最初の回し蹴りが相手の腹に入って中断したため大幅に減点されたのだ。
「エイッ!」と気合を入れて蹴り出したつま先を相棒が受け切れず、「ウッ・・・」と呻きながらうずくまった様子にシンシアは「ノック・アウトしたか」と思って拍手したが、こちらは「しまったァ」と焦りまくっていた。
大会の後、銅メダルを見せるとシンシアは「ノック・アウトしたのに何故、ブロンズ(銅)・メダルなの?」と訊いたので、私は組演武のルールを説明し直した(※デートには薄い英和・和英の辞書を携帯しており、通じないとお互いにその場で引いて見せていたが、「演武=型」の英訳はないので「ポーズ」「ゼスチャー」「パフォーマンス」などと思いつく単語を並べたのが間違いだったかも知れない)。
「それでベストを尽くせたの?」「君の応援があって120パーセントだったよ。余ったパワーで相棒をノック・アウトしてしまったけど」私の皮肉な答えにシンシアは嬉しそうに笑って両手で手を握ってきた。それを遠目にみんなが羨ましそうに見ていた。

私は那覇の街で嘉手納の空軍や普天間の海兵航空隊の同業者と飲むことがよくあった。
先輩の行きつけのスナックで日米混成の整備員たちで飲んでいる時、テーブルに刻んだオレンジが出て、私がそれを食べながら「美味しい。I like Sunkist(私はサンキストが好きだ)」と言うと、突然、隣の席のアメリカ兵の顔が変った。
「Are you Sonkisst(君はサンキストか)?」と彼が訊くので「文章としておかしい」とは思いながらも「イエス」と答えると彼の眼が妖しく光った。
私としてはあくまでもアメリカ産オレンジを誉めて場を和ませようとしたのだが、彼はいきなり私を抱き締めて口づけをしてきた(唇を奪われてしまった)。
驚いて跳ねのけるとその様子を見ていた別のアメリカ兵が説明してくれた。
「オレンジなどのブランド『SUNKIST』は英語では『スンキスト』と発音しなければならず、『サンキスト』では息子にキスをする人と言う意味になる。この場合の息子は男性自身で『ホモ』を意味する」と言うことだった。つまり私はホモを相手に「自分はホモが好きだ」と告白してしまった訳で「悪いことをした」と深く謝ったが、彼は「謝った」ことを「満更でもない」と理解したようだ。
その後も傍を離れず肩を掴み、尻を撫で、腕に手をからめながら「君は肌が綺麗で魅力的だ」「男性との愛に目覚めればきっと夢中になるよ」などと口説いてきたが、そちらの趣味はないので逃げまくった。しかし、男に接吻をされて舌まで入れられてしまった・・・これも経験(?)。

別の日、海兵隊でも地上部隊の連中と飲んでいた時のことだ。
酔った黒人軍曹が潤んだ目で有線放送に合わせて口ずさんでいるのを見た店の女の子が「ヒー イズ プリティ」と笑った。すると彼の眼が突然鋭く光り、怒り始めた(多分、顔色が変わっていた)。
私は興奮した彼の怒鳴り声を通訳しながら怯える女の子に説明したが、要するに「俺を幼稚な奴、小物と言った=馬鹿にした」と言うことだった。
日本の学校では「プリティ(pretty)」と言う単語を「可愛い」の意味で教えるが、これには「幼い者」「小さい物」を愛でる上から目線のニュアンスがあり、女性が男性に用いると侮辱的な意味を持つことがあるのだ。
私は彼に「日本人はプリティにそんな意味があることを知らないのだ。彼女はファニィ(funny=微笑ましい)と言いたかったのだ」と説明してようやく納得してもらったが、そのあたりも学校で教えないと無用のトラブルに巻き込まれるかも知れない。

父の命令を伝える母の電話で夏期休暇には帰省させられた。
私は聖美の件が許せず親が謝罪するまで愛知には帰らないつもりだったが「父の機嫌が悪くなると私が困る」と言う母の泣き言で応じざるを得なかったのだ。
しかし、父は反省するどころか地元の神社の大祭が行われるゴールデン・ウィークに帰省しなかったことを叱責した上、「沖縄の女との交際を禁じるのはモリノ家として家訓だ」と厳命し、母は「もう懲りたでしょう。諦めなさい」となだめるだけだった。
そこで私は実家には泊まらず、中学生の時に預けられていた祖父の寺で久しぶりの小坊主として過ごすことにした。
祖父は高校受験の時、父が気に入らないと言うことだけで猛勉強をして掴んだ海上自衛隊生徒の合格通知を破り捨てられ、志望大学も同じ理由で許されず、父の命令で嫌々入った地元の大学も高校3年の夏休みに家を改築し(騒音の中の受験勉強だった)、妹が私立高校に行ったことで学費が続かなくなり結局は止めたことを知っていて、私の不満・嘆きを聞き、相談に乗り、激励してくれていた。
聖美と引き裂かれることになった時も寺に行って号泣した私に「その人と結婚して勘当されてしまえ。自分の人生を取り戻せ」と言ってくれた。今回も私がシンシアとの楽しい出来事を話しながら悔し涙をこぼすと祖父は何があったのかを察してくれた。
「本当の親孝行とは子供が幸せになることだ。それなのにモリノ家の人たちは親の言うことに黙って従うことを親孝行だと思い込んでいる。××子は何をやっているんだ」祖父は自分の娘である母が何もしないでいることを怒っていた。
「外国人だろうが、日本人だろうが、好い人は好い人なんだ。その人に会いもしないで何が判る」「碧い目の嫁さんかァ、世界が広がって面白いじゃあないか」祖父の言葉は有り難かったが、それでなくても祖父を快く思っていない父が仲違いすること、その板挟みになって母が苦しむことを私は怖れていた。我が家では母親が息子を守るのではなく、息子が母親を守るルールになっているようだ。
そこへ奥の部屋で昼寝をしていた祖母が顔を出した。
「お祖母ちゃんに習った英語がアメリカ人に通じているよ」祖母は女学校時代から英語が得意で中学に入った時、厳しく徹底的に英語を教えてくれたのだ。私の感謝と報告に祖母は「発音はわからんよ」と謙遜したが、やはり少し得意そうだった。

シンシアがバイトをしている米軍レストランに隣接する公園で那覇市の夏祭りがあった。私はシンシアのアルバイトが終わるのを待って一緒に祭りに行くことにした。
広い会場は夜になって灯りが点り、露店が並び、迷子になりそうなくらいの人ゴミと相まって、本土と同じ夏祭りの雰囲気が出ている。浴衣姿の女の子も多く、ポロシャツにGパンのシンシアは少し羨ましそうに見ていた。
ズラリと並んだ露店を覗きながらシンシアはいつもの質問を始めた。
「これは?」「オクトパス(タコ)シュークリーム」タコ焼きをそう説明したがクリスチャンは聖書で鱗がない魚を食べることを禁じられていてタコ、イカも食べないらしい。シンシアは肩をすくめて気味が悪そうな顔をした。次は、お好み焼きだった。
「これはピッツァ(ピザ)?」「イエス(うん)、バット ジャパニーズ テイスト(だけど日本の味)」「ふーん」今度は興味がありそうだ。最初のデートの時、ピザはイタリアのスナックだから食べないと言っていたが日本のお好み焼きは良いらしい。
「レッツ トライ(試してしてみよう)」「うん」シンシアの笑顔を見ながら私は汗をかいてお好み焼きを焼いている小父さんに1枚頼んだ。小父さんは隣のシンシアに気がついて「大丈夫か?」と言うような顔をしたが、シンシアの興味深々と言う顔を見て作り始めた。
でき上がったお好み焼きとついでに買った私のビール、シンシアのコーラを持って、雑踏から離れたベンチに行き、並んで座って試食をした。
「あれ?ホット(辛い)」ピザかクレープを想像していたのか、お好み焼きに入っている紅生姜を1口食べて、シンシアは戸惑っていた。
「キャベツと肉が入っていて、ハンバーガーと同じくらいヘルシーな食べ物だよ」「ムグムグ・・・」私の説明には口の中にお好み焼きが入っていて答えられない。私はシンシアが飲み込んだのを確かめて訊いてみた。
「美味しいかい?」「うん、でもソースは日本の味なの?」相変わらず鋭い質問だ。
「多分、『お多福のお好み焼きソース』って言うスペシャルなソースだよ」「ふーん」うなずきながらシンシアはコーラ、私はビールを飲んだ。
「よォ」その時、彼女連れの友人が声をかけてきた。彼女は浴衣を着ている。しかし、友人には悪いが純沖縄の顔立ちの彼女にはあまり浴衣は似合っていなかった。そのまま2人は「グッドバイ」と言って暗い公園の奥へ歩いていった。
「誰?」「モリノ君」「彼女?」「だろう」そんな会話が聞こえてきた。
私たちはお好み焼きを食べ終えてから逆に雑踏に戻り、露店ショッピングを再開した。みたらし団子、タイ焼きなど甘い物ばかり食べておいてビールを飲むのは辛い。その時、私は公園のあちらこちらに貼ってあるポスターに気がついた。
「おっ、香坂みゆきのコンサートをやるな」コンサートは広場に作られた仮設ステージで行われるらしい。
「Who(誰)?」当然、シンシアは香坂みゆきを知らない。かと言って私も、「ジャパニーズ・シンガー(日本人の歌手)」以上の説明をする知識を持っていなかった。取り敢えず2人でコンサート会場へ行ってみると、まだ1番前の席が空いていた。
香坂みゆき香坂みゆきさん
「サージェント!」コンサートが終わった時、隣りからシンシアが声をかけてきた。シンシアの顔を見ると少し目が吊りあがっている。つまり怒っていた。
「貴方(You)は私が何度、声を掛けても気がつかなかったよ」確かに私は香坂みゆきの歌やトーク、それ以上に彼女の美貌と抜群のスタイルを真近から見上げ、夢中になっていた。
考えて見ればシンシアには日本語のトークも歌も、あまり理解できなかったはずで退屈だったのだろう。私は、「ソーリィ(ごめん)」とそれに気がつかなったことを謝った。しかし、シンシアの怒りの理由は違っていた。
「貴方(You)も、あのタイプの日本人の女の子が好きなんだね」一息にそれを言うとシンシアは黙って先に出口に向かって歩き出した。
「香坂みゆきは歌手だよ」「シンシアが俺のタイプだ」・・・私は後ろから一生懸命に説明したがシンシアは振り返らない。逆にシドロモドロの英語の言い訳に益々怒ってしまったらしかった。やがて私たちは交通量が多い国道の歩道に着いた。
シンシアはタクシーを止めると「グッド ナイト(おやすみ)!」とだけ言って乗り込み、すぐにタクシーはドアを閉め、走り出した。

部隊に帰るとすぐにシンシアから電話が入った。
「スタッフ・サージェント モリィノォ、電話ァ!」内務班の一斉放送の呼び出し方で、それは解る。ただし、シンシアからの電話は英語が苦手な当直空曹には敬遠されていた。
「彼女だよ」今日の当直空曹は曹候学生の先輩の小平3曹で、私は一礼して電話に出た。
「ハロー」喧嘩の続きの電話だけに「別れ話でも切り出されないか」と心配しているとシンシアは何故か笑いながら話し始めた。
「サージェント、ごめんなさい。私はジェラシー(嫉妬心)を爆発させました」「What(何が)?」「私はあのシンガーにジェラシーを感じました」私は焼き餅を焼いていたシンシアの顔を思い出して、つられて笑った。
「家に帰って今夜の話をしたら父に笑われ、母に叱られ、妹にカラカワレました」私は家族の反応がバラバラなのに興味を持ったがシンシアが説明してくれた。
「父は本当にサージェントが好きなんだなって」「ふーん」「妹は私が欲張りだって」「へェー」「母はそんなことしているとサージェントに嫌われるよって・・・ごめんなさい」「そんなことはないよ。イッツ マイ ミステイク(僕の失敗だったんだ)。ごめん」謝りながらも私はホッと溜息をついた。小平先輩は聞き耳を立てていたが英会話が判らなかったのだろうテレビを見始めた。
「でも、俺だってアルバイトでシンシアがお客さんと楽しそうに話しているのを見るとジェラシーを感じるよ」「リアリィ(本当)?」米軍のレストランとは言え客商売である。シンシアが注文をとりながら男性客と談笑する姿に嫉妬を感じることは確かにある。
「私、アルバイトをやめようかなァ」暫く考えてからシンシアが言い出した。
「違うよ、それも俺がシンシアを本当に好きだっていうことだよ」これは英語でなければ照れくさくて、とても言えない台詞だ。
「ユー アー マイ スペシャル(君は僕の特別な人だ)」「ミー トゥ(私も)。アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」 最後の台詞は解ったのか小平先輩はこちらを見てニヤッと笑った。

母の許可が出てシンシアを行きつけの喫茶スナックへ連れて行った。「アラスカ州の法律では18歳でOKだが、ここは日本だから」と20歳になるのを待っていたのだ。
マスターには「アメリカ人の彼女を連れて来る」と予告していたが、それが現実になると「英語は苦手」と言ってカウンターの向こうで内職のようなことを始めた。
「ねェ、エルビスって好き?」カラオケでカーペンターズやビートルズの英語の歌を何曲か歌ったところでシンシアが私の顔を覗き込んで訊いてきた。
「プレスリーねェ?」どうもロックとシンシアのイメージが結び付かない。私は高校時代、同級生が唄っていたロックを口ずさんでいて父親から「ロックは不良の音楽」と禁止されて以来、全く縁がなかったのだ。
「父が好きなの」シンシアは少し得意そうな顔をした。言われてみれば父は私と2人の時、オールディ―ズのテープを聴いている時がある。シンシアが聞き覚えのある歌を口ずさみ始めるとマスターが話に加わってきた。
「ラブ ミー テンダーねェ?」このくらいの英語は判るらしい。シンシアはうなずいた。
「ラブ ミー テンダー ル―ルルー・・・」マスターは判るところだけ口ずさんだ。私はそれを聴いて、この歌は唄えることを確認した。
「よし、唄ってみよう」そう言いながらマスターと男同士で額を寄せてカラオケのメニューを覗き込み選曲を始めた。マスターは機械を操作してカウンターの上に積んであった百円玉を1枚取って投入すると「ラブ ミ― テンダー」のイントロが流れた。
「love me tender, love me sweet・・・」英語の歌を唄うには画面の歌詞を読んで頭の中で発音を確認しなければならない。私は汗をかきながら一生懸命に歌った。シンシアはそんな私の横顔を嬉しそうに見ていた。
「サージェント、サンキュー」シンシアはそう言いながら唄い終わった私の顔を見た。
「うん、一応、英語の歌には聞こえたね」マスターは相変わらずズケズケとモノを言う。確かに初めての歌では発音も棒読みに近かったはずだ。
「でも、ラブの発音がおかしかったよ」「そうかなァ?」シンシアはそう言うと「アイ ラブ ユー」と手本を聞かせてくれる。
「アイ ラブ ユー」私もそれに倣ったが日本人が苦手な「L」と「V」が入っていて、こうしてあらたまると中々上手く発音が出来ない。
「アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」・・・・シンシアは何度も練習させながら、何故か嬉しそうに笑いだした。
「あんたらねェ、何回告白すればいいんだい?」マスターの呆れた声で、私もシンシアがさっきから嬉しそうな顔をしていた訳が判った。
「サージェント、アイ ラブ ユー」「ミー ツー(僕もだよ)、アイ ラブ ユー」「はいはい、ごちそうさま」見つめ合って微笑む私たちに、マスターは私のボトルのバーボンで勝手に水割りを作り、1人で「カンパーイ」と言って飲み干した。

その日は夕食の後、父と酒を飲んで泊めてもらうことなった。
「リビングのソファーで寝なさい」母はそう言うとシンシアに毛布と枕代わりのクッションを持って来させて父に続いて寝室に入って行った。
私はシャワーを浴び、Tシャツと短パンに着替えると先にシャワーを浴びていたシンシアと並んでソファーで話をした。シンシアの赤と白の格子柄のパジャマは可愛い。
「サージェント、貴方はもう私の家族のメンバーになれたみたいだよ」シンシアはそう言うと私の肩に頭をもたげ掛けてきた。
「おやすみ」のキスを終えるとシンシアは微笑みながら立ち上がり、そっと手を振って妹との相部屋へ歩いて行った。

「サージェント、寝ちゃった?」ソファーに横になって眠りに落ちた頃、耳元で声がしたような気がして目を覚ますと横にシンシアの顔があった。リビングの小さなルームランプだけの薄暗い部屋でシルエット(影)が見える。私はしばらくそれが夢か現実かに戸惑っていた。
「妹が寝たから・・・朝までここにいる」「エッ?」リビングは死角ではあったが両親の寝室に面している。シンシアは足音を忍ばせてドアに耳を当てて中の気配を確かめるとゆっくり戻って来て私の隣に座った。
「サージェント、一緒にいたい・・・」シンシアは私の顔を見詰め目で誘う。気持ちは「駄目だ」と言っているが身体はもうそのつもりになっていた。
そんな私の迷っている顔を見てシンシアは何も言わず首筋に腕を廻し身体を寄せてきた。ゆっくりと抱きしめると髪からシャンプーが甘く匂った。
手がパジャマの上からシンシアの体の輪郭をたどり、そのままソファーに押し倒そうとした時、私は背後に人の気配を感じた。それは自衛官の研ぎ澄まれたセンサーだった。耳を澄ますと両親の寝室でベッドがきしむ音がしている。小声で話す声も聞こえた。
「ごめん、今は止めておこう」「What?(どうしたの)」「Why?(何故)」私が手を止めてそう言うとシンシアは目を開けて怪訝そうな顔をした。その時、寝室から父の咳払いが聞こえた。シンシアは「もう」と言って残念そうに肩をすくめた。

日本人は放任主義をアメリカ式だと思い込んでいるが、ある程度の社会的地位(母が空軍士官)にある家庭では子供に対する躾は厳格で、生活そのものにキリスト教的な戒律が色濃く投影されていて、昔の日本のように父を軸にして「ピン」と筋が通ったところがある。
初めてデートに誘った時もシンシアは女子大生でありながら母親に電話して許可をもらい、親しくなってからは家族に会わそうとすることなどは日本ではとっくに忘れられていた昔の家庭のような雰囲気で、戦後、よくテレビで放送されていたアメリカのホームドラマの場面がそのまま目の前で実演されているような気がしたものだ。
また家族をとても大切にし、お互いの人格を尊重しながら信頼し合い、夫婦は家事を分担し、子供は親の手伝いをして、それを楽しんでいるようだった。
実際、米軍官舎でも休日には夫は草刈りや日曜大工に励み、子供たちが車を洗っているのをよく見かけた(近所の車を洗うのは子供の一般的なアルバイトでもある)。
また、ダンスミュージックが流れると両親がリビングで踊り出し、娘たちが後をせがむのは将来の社交デビューの練習のようで、その後の両親のキスも真似したかったのだが、そこは日本人の感覚でためらうとシンシアからしてくれたのも練習だった(何の?)。
テレビのニュースや映画を見ながら夫婦で互いの見解を討論し合い、それに子供たちが質問をして家族で考えると言うのは「日本人も学ぶべきだ」と思ったが、ウチの実家では私が父親よりも難しいことを口にすると「プライドを傷つけた」と激怒されていた。

そんな時、意外なマナーの違いを学ぶことになった。
いつもはバスの乗り継ぎか自転車で嘉手納基地まで時間を掛けて行くのだが、その日は嘉手納基地に飛来する珍しい米軍機を撮影に行くマニアの先輩に基地前のバス停で拾ってもらい、予定よりも1時間近く早く官舎地区のゲートに着いた。そこからシンシアの家に電話を掛けて迎えに来てもらうのだが、たまたま父が車で帰ってくるのに会い、そのまま乗せて帰ってもらったのだ。
「こんにちは」いつもの調子で玄関を開け、家に入ると母は異常に驚いた顔をした。
「サージェント・モリノ、どうしてこんなに早く?」母はどちらかと言えば立腹した顔で質問してきた。その後ろで妹のサンディが慌てて奥へ駆けていったのが見えた。
「いつもはバスで来るのですが、今日は嘉手納に来る先輩の車に乗せてもらって・・・」私が説明している時、奥からシンシアが出てきた。上半身はタンクトップで肩は丸出し、髪を後ろに束ねて顔はパックで白く固まっていた(当時は貼り付け式ではなかった)。
目は怒っているがパックで表情は見えず、あまり話もできないようだ。確かにシンシアは目や鼻がソバカスの中にあるように酷く、出迎える前にはパックで肌を整えていてくれたようだった。
「アメリカでは女性に支度する余裕を与えるように約束よりも少し遅れてくるのがマナーですよ。日本では遅刻がマナー違反のようですけど」完全に怒っているシンシアと愉快そうに笑っているサンディの前で母が説明してくれた。
それにしても父は入ってこない。ヒョッとすると自分が連れてきたことを責められないようにガレージで時間をつぶしているのかも知れない。

ある日、異常で恐ろしい体験をした。シンシアがバイトしている米軍用クラブでカントリー・ミュージックのコンサートがあったのだ。そのチラシを持ち帰った私はウェスタン映画好きの先輩に渡した。
「へーッ、本場の生演奏かァ」「でも嘉手納の愛好者バンドだから素人ですよ」先輩の期待が膨らみ過ぎないように私は釘を刺したが、隣りから別の先輩が話に加わってきた。
「俺も以前、嘉手納のジャズバンドのコンサート見たけど流石だったよ」この先輩は自分でもスゥイング・ジャズのバンドを組んでいてグレンミラーのナンバーを得意としている。実はチャンスを見つけて飛び入りしようと会場へ自分のトランペットを持ち込んでいたのだがレベルの違いを思い知らされてきたのだ。
そんな訳でチケットを購入してきた先輩に頼まれて同行することになった(自分のチケット代は払わされた)。

「駄目、絶対に来てはいけない」電話でシンシアにコンサートへ行くことを言うと強硬に禁じた。本当は「ウェイトレスのバイトを抜けて一緒に楽しもう」と誘うつもりだったのだが理由を言わずに強硬に禁じてくる。私は「もうチケットを買ってしまったんだよな」とも言えず楽しみにしている先輩の顔を思い浮かべて困惑していた。

結局、先輩に連れられてコンサートに行くことになった。先輩には「彼女が来るなと言っている」と伝えたのだが「彼氏が来るんじゃあないのか?」などと真面目に聞かず、半ば強制連行だった。私としても情報を提供してしまった手前、断ることもできず後に続いて店に入った。
店内は冷房が効かない程の熱気に満ちていて、いつもは並べられているテーブルが片づけられて広いホールになっており、そこに作られた仮設ステージでバンジョーやウッド・ベース、アコーディオンが演奏されていた。
ステージの下ではテンガロン・ハットに革製のベストを着たカウ・ボーイ姿の男性や古びたワンピースに白いエプロンをした女性の客たちが陽気に騒ぎながら踊り狂っている。
中にはリボルバー拳銃を天井に突き上げている者もいるが、アメリカ人だけに「本物ではないか」と心配になった(クラブの敷地はアメリカの軍用地なので日本の法規は適用されない)。
先輩は演奏だけでなくウェスタン映画の場面が実際に目の前で展開しているような気分になったようで踊りに加わろうと近づいていく、しかし、私は危険を感じて引き留めた。
確かに踊っている客たちの中には時折、私たちを敵意と言うよりも殺意に似た目で見る者があり、猛獣の檻の中に入れられてしまったような気がしていたのだ。
まだ加わりたくてウズウズしている先輩を連れてホールの壁際に並べられている椅子に座ると、お盆を持ったウェイトレスたちが客の注文を受けて酒を運んでいるのが見えた。その酒はバーボンのボトルで男たちはジョッキに注ぎ合って飲み比べているのだ。その時、シンシアが私に気がついて早足で近寄ってきた。
「どうして来たの?危険だから帰って」そう言ってシンシアは先輩に「今日は米軍オンリー」と説明しながら玄関に連れ出した。先輩は「チケットは売ってくれたぞ」と不満そうだったがシブシブ従った。
後からの電話で「あのような場所でアジア系の人はネイティブ(いわゆるインディアン)と思われて危険」と説明したが、確かに酒が進めば本当に殺されそうな雰囲気だった。とうしても行くのならやはり紋付き袴に刀を差した「レッド・サン」の三船敏郎スタイルだろう。

カントリー・ミュージックのコンサートでの体験は私にアメリカ人の根底にある人種差別の問題を考えさせた。
最初のデートでシンシアは「イタリア人ではない」とピザを拒否した。同じヨーロッパ人であるイタリア人を蔑視しているのならネーティブ・アメリカ人を大量虐殺したようにアジア人である日本人も人間として認めていないのではないか?私の中で太平洋戦争中にアメリカ軍が行った都市部への無差別爆撃や原爆投下、ベトナム戦争でベトコンを虐殺したことなどが不信となって膨らんでくる。何よりも聖美の母が高校生だった時、コザの街の裏通りで数人のアメリカ兵に集団暴行されて妊娠したことが思い出された。
こんなことはシンシアに訊くことはできないので父と2人で日曜大工をやっている時に雑談として問うてみた。すると父はこんな話をしてくれた。
「ある日、ヨーロッパ系の兵士がアフリカ系の士官にワザと欠礼をした。すると士官は『私が誰であるかは問題ではない。合衆国が与えてこの階級に君は敬礼する義務がある』と言って敬礼をさせた」。つまり現在のアメリカ合衆国は国家として人種差別を認めておらず、合衆国の国民が公的にそれを主張することは違法であり、個人として差別意識を持っているのは反社会的な人間であることを自ら告白しているのと同じことだ。
「我が家ではそんなことは意識しないよ。エアマン(下士官・兵)と結婚したオフィサー(士官)の家族なんだから」言われてみればそうだった。シンシアのイタリア嫌いは別の理由がありそうだ。
父はついでにこんな敬礼に関する標語を語ってくれた(参考のためメモした)。
「You must salute all moving and fixed objects=君は動いている全ての物と据えつけてある物に敬礼しなければならない」「When in doubt salute=上官か疑わしい場合は敬礼せよ」

そこで2人で日米の敬礼を見せ合ったことから基本教練(ドリル)が始まり、私は英語で号令を掛けられるようになった(文字面とは異なり、動令は「ハッ!」と掛ける)。
自衛隊の基本教練はアメリカ軍と大差ないが「気をつけ(アテンション)」の時、手を握るのは警察・消防もやっておらず自衛隊がアメリカ軍から学んだようだ(寒い時に指先が冷えないので助かる)。
その中で米軍と全く違うのが「回れ右(アバウト フェイス)」だった。
自衛隊は第1動作で「気をつけ」のままの角度(60度の半分)で真っ直ぐ足を引き、第2動作は両かかとで回転し、第3動作で足を引いて揃えるのだが、アメリカ軍の「回れ右」は第1動作で後ろに引いた足をつま先立ちにして、第2動作で回るのと同時に揃える。
何度も模範演技を見せて父に教えたが中々マスターできず、発音指導の「恩」をこんなところで返したのだった。
父は「ジャパン・エア・フォースじゃあなくてよかったァ」と言いながらも自衛隊式に第3動作でかかとを揃えて音を立てるのが気に入り何度も試していたが、私にはかかとを鳴らすのはナチスの「ハイル・ヒトラー」のイメージがあり、少し不思議な気がしていた。

「天ぷらにチャレンジしてみたよ」シンシアは台所で皿を持って振り返った。
先日、一緒に入った日本ソバ屋で私が天婦羅そばを美味そうに食べるのを見てチャレンジしてみたのだと言う。最近は日本料理やカレーなど聖美とは行かなかった店にも行くようになっている。先日、そこのマスターからもらった店のロゴ入りの赤いエプロンを使っていて可愛い。
「すごい、御馳走だね」「でもレシピを見ながら作ったから・・・」シンシアの後ろの母と妹も自慢半分、心配半分の顔をしている。
「まあ、基本的にはフライと同じかな」母はそう言って腕組みをした。
「でも、ご飯がないね」「そうかァ、日本食だった」私の指摘に母は「シマッタ」と言う顔をし、シンシアと妹のサンディは顔を見合わせた。
「まぁ、オカズになれば十分です」私の助け船に母はホッとしたように笑った。
「ところでソイ ソース(醤油)は?」今度はシンシアが鋭い指摘をした。
「それもないよ、材料を探すだけで手一杯だったからね」母は言い訳のようにそう答えるとため息をつき、シンシアと妹はまた顔を見合わせた。
「なければソルト(塩)でも美味しいですよ」今日は妙にフォローに忙しい。私の返事に困った顔をしていたシンシアはパッと笑顔をほころばした。妹も微笑んで「早く食べたい」と言って皿に手を伸ばし、「行儀が悪い」母に叱られた。
「ところで私、日本食はどこで習えばいいの?」「彼の母親が教えてくれるよ」シンシアの質問に母は微笑んだが、私は自分の親の頑な性格を想い急に食欲がなくなった。         

シンシアの両親は男の子がいないこともあり私に息子のような職業教育をしてくれるようになってきた。リビングでの雑談の中で母は国際標準の軍事常識について語り、父はサージェントとしてのプロ意識をについて熱弁を奮う。時には資料まで用意して待っているようだった。
そんな中で父が語ってくれたアメリカ空軍の新兵教育隊の校則(=資料もくれた)は「アメリカ軍」と言う組織の本質を理解させてくれた。
1、合衆国の任務遂行(24時間)
2、行動の優先順位は①国家、②任務、③部隊、④同僚、⑤家族、⑥自分
3、任務は国家、国民、自由社会を守ること
4、カミの前に公正であれ、国家の前に公正であれ、同僚の前に公正であれ・・・(中略)・・・他人に迷惑をかけるな。誇りを持って敬礼せよ。
また「USAF 3SHARP(アメリカ空軍の3シャープ」は出かける時、支度に手間取る女性陣に父が呼びかけていた。
「LOOK SHARP (身嗜み良く)」「BE SHARP (ぼんやりするな)」「ACT SHARP(機敏に行動せよ)」これらは航空教育隊で習った「航空自衛隊の3S」=「スピード(SPEED)」「スマート(SMART)」「サイエンス(SCIENCE)」にも通じるが、やはり英語の国だけに完成度は数段上に感じた。
ただ、シンシアは私が夢中になってノートまで取っていることに焼餅を焼き、家よりも外で会いたがるようになってしまった。

※おまけの軍事英語のワンポイントレッスン(字幕や同時通訳でよく間違っている単語)
階級では「キャプテン」は陸空軍・海兵隊では大尉だが、海軍では大佐。「ルテナン」は陸空軍・海兵隊では中尉・少尉でも海軍は大尉・中尉。
次に部隊単位の「スコードロン」は空軍では「編制単位部隊」だが、陸軍・海兵隊では「分隊」。したがってスコードロンの指揮官は、空軍では「コマンダー」だが、陸軍・海兵隊は「リーダー」になる。ちなみに空軍の分隊は勤務態様で「ショップ」「セクション」「クルー」などに分かれる。
また戦争映画の題名にもなった「プラトーン」は陸軍・海兵隊の小隊で、空軍で小隊は「ユニット」とするのが一般的なようだ。

私は1年遅れで上映が始まった映画「人生劇場」に誘ってみた。最近、シンシアの日本語は私の英語以上に上達していて映画の台詞くらいなら大丈夫だろう。
「どんな映画なの?」「愛知県が舞台の文芸作品だよ」「貴方の故郷だね」「うん」人生劇場の原作は尾崎志郎が故郷の幡豆郡吉良町を舞台に書いた小説だった。
ところが次の日曜日に2人で映画を見に行った後のシンシアの反応は厳しかった。
「これはポルノなの?」シンシアは真面目に怒っている。
「いや、何で?」「セックス シーン(性描写)ばかりだったじゃない」確かに中井貴恵が愛人の松方弘樹や風間守夫と絡む激しい性描写が何度もあった。
「あの女性は売春婦なの?」「うん、そうだけどヤクザのお妾さん(=愛人)だね」私は中井貴恵が松方弘樹と風間守夫に抱かれていた経緯を補足説明した。
「貴方の故郷には売春宿があったの?」「昔はあったかも知れないな」私のそれを認める返事にシンシアは黙り込んでしまった。実は父方の曽祖父は生涯一度も働かず、田畑を売った金で遊郭に通いつめて大地主だったモリノ家を没落させたのだ。
「そんなの不道徳よ」しばらくの沈黙の後、シンシアは吐き出すように言った。
「善きアメリカ人」として育てられてきたシンシアにとっては買春婦や愛人も倫理に背く許せざる存在で、日本的に「男の性(さが)」などと寛容な目では見てはくれない、ましてや浮気などすればどんな目に遭うか、私は背筋がゾッとした。
「ゴッド ファーザーだって愛人を抱くシーンなんて描かないワ、日本映画は不潔よ」これからシンシアに日本映画を見せる前には映倫以上の厳しさで内容をチェックする必要がありそうだ。
確かに日本映画は人気女優の性描写を売り物する傾向があり、その点、性モラルへの認識が低いのかも知れなかった。
セイラ・マス2
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

ここだけの話、その頃の私はシンシアに顔向けできない悪さをしていたのだ。

那覇の街で嘉手納基地の空軍や普天間基地の海兵隊の整備兵たちと飲んでいて、次の店に行こうと歩いていると観光客の女の子たちから声を掛けられることがあった=いわゆる逆ナンパ。
「ねェ、こちらの外人さんを紹介してよ」グループのリーダーと思われる女性が私に向かって声を掛けてきた。
「私は日系アメリカ人だから日本語はあまり分からない」と英語で答えると彼女たちは大声で「この人もアメリカ人だってさ」「日本語が分からないんだってよ」などと言い合っていた。
そのうち「誰が誰とつき合うか決めまい」と言う声が出てジャンケンを始め(「チョキ」を「ピー」と言っていた)、勝った者から順番にアメリカ兵を選んで腕にすがりつき、中にはその場でキスを始める者もあった。アメリカ兵たちは観光客の逆ナンパには馴れていて、どうすれば歓ぶかを知っているようだ。実は我々も誰が女の子たちのホテルを使うかを話し合っていて今回は私がもらっていたのだ。
結局、1番負けた女の子が「日系人」の私になるのだが、本物の外国人に当った者たちは「日系人だってアメリカ人だらァ」「優しそうでいいじゃん」などと慰めるので私は英語訛りの日本語で「ヨロシク」と言って手を握った。
そこで解散になりそれぞれの女の子を連れて次の店に行ったり、飲酒運転でドライブに行くのだが、私は一度だけ先輩に連れて行ってもらったムードが良い静かな店に誘った。
「貴方はどこから来たのですか(英語)?」「アイチケーンのトヨハシ・シティです(片言の英語?)」これは先ほどの三河弁で予想していた。つまり沖縄で同世代で同郷の女の子と知り合ったのだ。出身校を訊こうと思ったが身元がバレそうなので控えた。
「貴方の仕事は何ですか?(英語だが「ワーク」ではなく「ジョブ」と訊くところがミソ)」「保母です(日本語)?」「ホボ?」「うーん・・・・プロフェッショナル・ベビーシッター」ワザと判らない振りをした私に女の子は苦し紛れの珍回答をした。英語で保母はナースだが日本人には「看護婦」と言う固定観念があるので自信がなかったのだろう。それでも片言の日本語で「リトル チャイルドのセンセー(先生)ね」と助け船を出すと安心したようにうなずいた。
こんな英語と片言の日本語のみの会話で酒を勧めて酔わせ、ムードの良い音楽でダンスを踊りながら、やがては彼女のホテルへ向かうといよいよベッドインになる。部屋のドアを閉めてベッドに座り、肩を抱くと彼女は緊張して震えていた。
それでも顎に指を掛けて顔を近づけると急に泣き出して日本語で「友達がそうしたいと言うから合わせていただけで本当はそんなことはしたくない」「地元に好きな人がいる」と訴えた。
私は日系アメリカ人と言うことになっていたのだから日本語が判らない振りをして押し倒してもここまで来ていれば罪にはならないだろう。しかし、私は「国民を守る自衛隊の使命」に則って退却した。
それにしても真面目でウブな女の子も周囲の目が届かなくなり、一緒にいる友人が調子に乗れば、それに無批判に同調してしまう東三河の女性にはトコトン愛想が尽きた。
あれが私だったから退却したが、後日、一緒に飲んだ時、このアメリカ兵たちは飲酒運転で海岸へ行き、女の子たちを「トッカーエヒッカーエ(妙な日本語)で抱きまくった」と自慢していたので、若し、ジャンケンで勝っていれば彼女も間違いなく好きな人を裏切ることになっただろう。
実はこの話は1回だけでなく「夏には本土から慰安婦がやってくる」と言うのは沖縄の自衛隊の常識だった(北海道は冬の悪天候で飛行機が飛ばなくなった時、空港に泊まろうとしているスキー客の女の子を下宿に誘うらしい)。

航空総隊総合演習でしばらく会えなかったが演習後は夏の日差しと暑さがやわらぎ外で活動するには丁度いいシーズンになる。
「シンシア、サイクリングへ行こう」最近、自転車を買ったシンシアを思い切って誘ってみた。
「本当?行こう、行こう」私の提案にシンシアは嬉しそうな顔をした。
「本島の南部へ行こう」私のプランにシンシアは「賛成」と言う顔でうなずいた。
「だったら、どこかでキャンプしようか」どちらから言うともなくこんな話になった。
「泊るなら海岸かな」私の提案にシンシアはまたうなずいた。つき合い始めて半年、私たちはまだプラトニックだったが胸に聖美とのことがよぎったのでそんなことは忘れておいた。
「テントと寝袋は私が持ってるよ、携帯燃料もあるしね」「さすが、クライマー(登山家)」とからかうと「エヘッ」とお茶目な笑いを見せる。本当は登山へ行きたいのだろうが沖縄では無理な話だ。実は以前から「北米大陸の最高峰・マッキンリーへ一緒に登ろう」と誘われていたのだが、高所恐怖症の私にはこれも無理な話だった。
「でも泊りで出かけたらお父さんお母さんにバレちゃうよ」「平気だよ」かえって大袈裟に心配する私の様子が不思議そうな顔をする。アメリカでは面接試験に合格すれば両親公認で交際は全面解禁になるらしい。
「その前に君がどうやって那覇まで来るかだね」「あッ、そうか」嘉手納から那覇まで自転車で来ては、それだけで体力を使ってしまう。結局、バスで来た私が乗って基地に帰ったのだが、座席の位置がかなり高く、身長が10センチ違っても足の長さが全く違うことを思い知らされた。

「お待たせェ」朝、シンシアは父の車で那覇基地のゲートまでやって来た。今朝は一度、自分の自転車でゲートまで来て、徒歩で内務班(寮)に戻り、シンシアの自転車を取ってきて2台並べてゲート脇で待っていたのだ。
車から降りたシンシアはサングラスを掛け、白のポロシャツにエンジ色のショートパンツ、私は黄色のポロシャツにジャージ(基地の規則上、半ズボンでは外出できない)だ。
シンシアは私が用意していた自分の自転車の点検を始めた。ゲートの隊員は私の待ち合わせの相手がアメリカ人と判り驚いた顔をしている。
「大丈夫、航空機整備員が点検してくれてるから」車の中から母が呆れ顔で声をかけ、妹も可笑しそうに微笑んだが、父だけはムッとした顔で黙っていた。
シンシアが持って来た荷物を分けて荷台に積むと2人して自転車にまたがった。
「シンシア、行ってらっしゃい」車の窓から妹が声をかけてきて流石にシンシアは恥ずかしそうにはにかんだ。私も家族と背後から隊員の視線の集中砲火を浴びて困っていた。

聖美との思い出が心に残っているひめゆりの塔や摩武仁の丘などは避けたがコースには幾つかの戦跡がある。その中で米地上軍司令官・バックナー中将が戦死した地に建つ石碑に寄った。
バックナー中将が戦死した高台には私の祖父の出身地・山形県の慰霊碑があり、その傍らには日本軍が地下壕にしていた洞窟もあった。2人で階段を下りて中を覗くと「貴様は何故、毛唐の女を連れている」と叱責する声が聞こえてくるようだった。シンシアも気味悪がって少し後退さる。階段を上り、石碑の前に止めた自転車に戻りながらシンシアが質問してきた。
「どうしてここまで追い込まれても日本軍は降伏しなかったの?」軍人の娘であるシンシアは基礎的な軍事知識は持っているので私は日本軍の「玉砕」について説明した。
「そんなのクレイジーだよ。間違ってる」日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う「戦陣訓」の説明にシンシアは怒りを隠そうとしなかった。
「それが日本の軍人の美学なんだよ」そう答えて私は丘の上から海を眺めた。
「貴方は私のために生きて帰って来て」シンシアはそんな私の横顔を見詰めながら両手で片手を握った、

玉泉洞とハブセンターを見学すると目的地の新原ビーチに着いた。私たちは海水浴場から少し離れた砂浜に2人用テントを張った。
新原ビーチは海のマリンブルーと珊瑚礁のコーラルグリーンが夕方の日に映えて美しい。
あたりに人気はなく2人っきり、貸し切り、プライベートビーチ状態だ。
そういえば私たちは水着を持ってきていなかった。沖縄では夏の強過ぎる日差しが弱まる今が泳ぐには一番よい季節なのに。何よりシンシアの水着姿を見損なってしまった。
私たちは荷物を片づけると波打ち際を並んで歩いた。日は海に傾き、日差しは海からの風が心地よい。シンシアはサングラスを外し、手をひさしのように額にかざしている。私は歩きながら、いつもの癖で歌を口ずさみ始めた。
「This is the moment I have wait for・・・」「エルビスね、『ハワイアン ウェディング ソング』だったかな」シンシアが顔を覗き込む。
「I do」「I do」「Love you」「Love you」父親譲りのシンシアも合わせてデュエットになった。シンシアは歌いながら私の手を握り肩へ頭をもたげてきた。
「2人でハワイに来たみたい」シンシアの台詞に「新婚旅行の定番だな」と私は肩をすくめて笑った。傍らを見ると夕陽が金髪をオレンジ色に染めている。本当は夕方の海なら加山雄三の「君といつまでも」を唄いたかったのだが即興の英訳は無理だった。

夕食は父親提供の米軍のCレーション(携帯食)だった。日本軍の乾パンにあたる厚くて大きなビスケットにマーマレードをつけて食べ、携帯燃料で沸かした湯でインスタントコ―ヒ―を作って飲んだ。
「こんな時、軍人の娘は得なんだよ」コーヒーを飲みながらシンシアは笑った。
「でも携帯食は日本軍の方が美味しいな」「そうなの?」私の話にシンシアは興味津々と言う顔で訊き返した。
「日本軍のは色々な味のライスとオカズの缶詰の組み合わせなんだ」「フーン、美味しそうだけど重くない?」「確かに重いな」これは軍人の娘と言うよりも登山家としての意見だろう。
「今度、演習で出たら食べさせてあげるよ」「うん、楽しみ」シンシアは嬉しそうに笑った。
すっかり日が落ちて暗くなった夜空を見上げると今夜は満月だった。
「シンシアって月の女神の名前なんだよ」シンシアは月を見上げながら話し始めた。
「ダイアナ(Diana)も同じ意味だけど」「ふーん、プリンセス オブ ウェールズと同じなんだ」私は最近結婚したイギリス皇太子の若い妻の美しい顔を想い浮かべて答えた(※正確に言えばシンシア=アルテミスはギリシャ神話、ダイアナ=ディアナはローマ神話の月の女神)。
「日本にはシンシアって言う名前の歌手がいるよ」「本当?」「南沙織って言う名前で沖縄出身、お父さんは確かフィリピン系の米兵のはずだよ」「ふーん、ビッグ スターなの?」「うん」シンシアは興味深そうに私の説明を聞いている。
「シンシアって言うファンのシンガーソングライターが作った歌もあったな」「サージェントは歌える?」私の話にシンシアは身を乗り出した。
「うん・・・」そう答えて私は低く吉田拓郎の「シンシア」を歌い始めた。
「懐かしい人や 町をたずねて 汽車を降りてみても 眼に映るものは 時の流れだけ 心が砕けていく・・・シンシア そんな時 シンシア 君の声が 戻っておいでと唄ってる・・・」これは高校時代に吉田拓郎ファンの友人に教えられた歌だが、まだ唄えた。ただし、「シンシア」の発音はかなり本格的だった。リズムを顎で合わせながらこちらのシンシアもこのサビの部分を覚えたのか鼻歌で合わせてきた。歌い終わってから2人で並んで夜空を見上げ、今度は星座の話をした。
「月が明る過ぎてサザン クロス(南十字星)は見えないね」「沖縄から見えるの?」「水平線すれすれで上の1つだけだね」「北半球なのにね」琉球諸島最南端の波照間島からなら上の3つが見えるらしい。
「アラスカの州旗はノースポール(北極星)と北斗七星なんだよ」シンシアの話は中学校の英語の教科書にあった物語だ。私がその話をすると「それは小学校の教科書にあった話だよ」と言って呆れ顔をした。
「そうか日本の中学校の英語は小学校のレベルかァ」と私がぼやくと「貴方はレベルアップしているよ」と優しく笑ってくれた。
後年、大学(=中国研究では日本最高峰を自賛している)で使っていた中国語の教科書を中国人の友人に見せると同じことを言われ、さらに落胆したが・・・。
アラスカの州旗
朝、目覚めると隣にシンシアが寝ていた。シンシアは私の左の手を握っている。テント越しに朝の日差しがやわらかくシンシアの寝顔を照らしていた。枕元の腕時計はまだ6時を表示している。私が起きた気配でシンシアもぼんやりと目を覚ました。
「グッド モーニング・・・ダーリン」シンシアはかすれた声を出した。昨夜のシンシアはいつもの「サージェント(軍曹)」ではなく「ダーリン」と甘えてきた。
私を階級で呼ぶことを不思議に思い訊ねたことがあるが「だって貴方が軍曹であることは私の自慢だもん」と答えた。つまり軍人の階級は国家に果たしている職責を表し、それを誇りにしてくれているのだが裸になって抱き合う時は心の制服も脱ぐのだろう(後年、映画「トップガン」でトム・クルーズが演じる主人公をケリー・マクギリスの恋人の美人教官・チャーリーが、コールサイン兼ニックネームのマーベリックや本名のピートではなく、「ルテナン(大尉)」と呼んでいるのを見てこのことを思い出した。「ピート」と呼んだのは2人きりで甘える時だけで、そこも同じだった。一度、シンシアに「ルテナン」と呼ばせてみたかった)。
「グッド モーニング ハニー」私が答えるとシンシアは恥ずかしそうに笑顔を見せた(ダーリンとハニーは夫婦や親密な男女が互いを呼び合う言葉だ)。
シンシアがテントの中で着替えている間、私は外でシートの上に昨日スーパーで買ってきたパンを並べていた。
「モーニングコーヒーだよ」テントから出てきたシンシアに缶コーヒーを手渡すと「缶だけどね」と可笑しそうな声で答えた。
「これ何?」シンシアは並んだ菓子パンの中で、アンパンを取り上げて訊ねた。
「イッツ ANPAN(アンパンだよ)。 ジャパニーズ スイート テイスト(日本の甘味)」「甘い物も食べないとね、今日も長いこと走るんだから」そう答えるシンシアに「意外に世話女房だなァ」と妙に感心しながら私はうなずいた。

その日は太平洋岸を北上してコザ市側から嘉手納の米軍官舎に帰ったが、家に着くとガレージは空で家族は出掛けて留守だった。
「フーッ、流石にくたびれたァ」そう言ったシンシアは自分の自転車をガレージに仕舞い、私の顔を見ながら「今日は父に送ってもらいなさいよ」と提案した。確かに時間的にも体力的にも那覇まで帰るのには無理がある。ただ自転車がないと職場までの往復が徒歩になってしまうが仕方ないだろう。
家に入るとそのままシャワーを勧められた。ただし、着替えはないのでシンシアは父のTシャツを出してくると言った(身長は私よりも高いがサイズが合うと言うことは足が・・・)。
先にシャワーを浴びているとTシャツを置きにシンシアが入ってきた。アメリカ式の建築ではトイレと洗面台、バスタブとシャワーなどの水回りは同じ部屋で特別な更衣室はなく、着替えはカーテンの向こうに置いてあるワゴンの篭に入れるのだ。ところがシンシアが服を脱ぎ出した。
昨夜、裸を見たばかりだがこんなところに家族が帰ってきたらどうしよう・・・カーテンを開けて入ってきたシンシアは焦っている私の顔を見て不思議そうに首をかしげた。そこから先は言えません。
セイラ・マス4
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

次の土曜休みにも(この頃は隔週の週休2日制だった)本島中部のタイガー・ビーチまでサイクリングのキャンプをした。このビーチは嘉手納基地に近いこともありアメリカ人が多く、アバンチュールを狙った本土からの女の子たちも集まっていて余り雰囲気は良くない。
シンシアの水着姿はアメリカ人女性=グラマーと言うイメージとは正反対だったが、登山(ロッククライミング)が趣味なだけに筋肉質で下半身はしっかりしている。
「ビキニは着ないのか?」「駄目、自信がないよ」スポーツ水着のシンシアは首を振る。
「まあ、俺もマッチョじゃあないからな」と言いながら私も自分の細身の体をビーチで本土の女の子と戯れている米兵たちの筋肉質な体と見比べてうつむいた。
「ハーイ、シンシア」その時、同年代の男女の集団が声をかけて来た。それはシンシアのインターナショナル・カレッジの同級生たちだった。
「ハーイ」シンシアが座ったまま微笑んで手を振ると、彼等は私たちを取り囲んだ。
「貴方がヤング・サージェント(若い軍曹)ね」同級生の女の子たちは興味津々と言う顔で私を見て、その横で男たちは対抗意識丸出しの顔をしていた。
それから暫くは彼らと一緒に海に入ったり、ビーチボールで遊んだりして楽しんだ。
「サージェント、君はもっと食べた方がいいよ」昼食にビーチの売店で買ったコーラとハンバーガーやホットドッグを分けて食べ始めると同級生の男たちがからかって来た。
「可哀想に、ジャパニーズ エア・フォース(日本の空軍)では飯も出ないのかい?」別の男も私の貧弱な体を眺めながらボディ―ビルのポーズで隆々とした筋肉を見せびらかした。
「これも食べたら」女の子の1人が私にホットドッグを差し出したのを見て、シンシアはムッとした顔で言い返した。
「彼は、KENPO(拳法)のブラック ベルト(黒帯)よ」しかし、彼等はそれを信じない。
「沖縄大会でブロンズ メダリスト(銅メダル受賞者)なんだから」「だったら、KENPOの技を見せてみろ」シンシアがムキになって繰り返すと中でも1番長身で体格も大きな男がコーラを飲み干して私の前に立った。彼の顔は明らかに挑戦的だ、イザとなれば力でねじ倒してやると書いてある。ほかの同級生たちも半信半疑、むしろ冷かしの顔で私と彼を取り囲んだ。
私は米軍関係者とトラブルになることを恐れてためらっていたが、真顔でうなずいているシンシアの目を見て覚悟を決めた。
「痛くても絶対に怒るなよ」「OK」私の言葉に彼は嘲笑うように了解した。少林寺拳法の形で待ち構えると彼は無造作に掴み掛かってきて私は右手首を掴み、左わきに手を差し込みながら払い腰で投げ飛ばした。彼は一瞬で砂地に投げ倒されて「何が起こったのか」と言う顔で私を見上げている。
「オ―」同級生たちも呆気にとられた後、驚きの声を上げた。
「今度は俺だ」別の男が掴みかかってくる。彼も私より身長が高い。レスリングのようなスタイルで首を掴んできたので、そのまま腕を掴んで首を押しながらの大外刈り(正確に言えば講道館護身術の「追い手刈り」)で仰向けに倒したが、受身の心得がない彼は後頭部を打った。
彼のそばで様子を確かめている私に今度は別の男がボクシングのポーズで殴りかかってきた。
私はとっさに跳び退いて間合いを取り、少林寺拳法の形に構え直した。蹴り技がある拳法の間合いはボクシングよりも遠く、彼は明らかに素人のぎこちないステップで近づこうとするが、こちらが踏み込むと大きく下がり間合いは詰まらない。
アメリカ人には睨み合いが我慢できないようで(日本人のように息詰まる緊張感とは受け取らない)、先ほど投げられた連中が囃し立てると女子の同級生たちまで手拍子で応援を始めた。
引くに引けなくなった相手が1歩踏み込みながら顔面にパンチを打ってきたので私は拳法の防御で受け、そのまま連続した蹴りを繰り出した。先ずは足に下段蹴り(ローキック)、続いて肩へ回し蹴り(頭を蹴ったつもりが短足で届かなかった)、最後に足刀を突き出すとそれが腹に深く入り、後ずさりしながらひっくり返った。
「Ouch(痛い)!ギブアップ(参った)」始めは「当て止め」だったが最後の足刀は腹に突き刺さってしまい流石の素人ボクサーも降参した。
私が構えを解き、姿勢を正して合掌すると彼等は戸惑いながら顔を見合わせている。アメリカならば勝者は勝ち誇るのが常識なのだ(その前に祈りを捧げられた意味が判らなかっただろう)。
「だから彼はブラックベルトだって言ったでしょ」シンシアが自慢げに女の子たちに言うと彼女たちは黙ってうなずいていた。
シンシアはゆっくり歩み寄ると黙って首筋に手を廻し「勝者へのキス」をしてきた。それを同級生たちは遠目に黙って見ている。私は映画の主人公の気分を味わった。
Cynthia (2)
シンシアを抱くと困ったことがあった。当時の日本人の性交渉では男性のリードに女性は身を任せるのが常識であり、慎みとされていた。それはアバンチュールを求めてやってくる本土の女性たちでもベッドに入れば同様だった(一度、火が点くと滅茶苦茶だったが)。
ところがアメリカ人には性行為を愛情表現の1つとして「一緒に楽しむ」感覚があり、テニスなどのスポーツをダブルスのパートナーではなく対戦相手としてやっているような雰囲気なのだ。
これだけであれば求めるままに愛し、求められるままに応えれば好いのだが、楽しみながら結ばれるため声も「アウッ」「オウッ」などとスポーツの歓声のようでテントでは外に声が聞こえてしまうだろう(絶頂を迎える時、日本人は「いく」だがアメリカ人は「アイ アム カミング=来た」だった)。
ただ女性の恥じらいを常識としている日本人男性はアメリカ人女性を奔放で好色だと誤解しているが、これはあくまでも肉体で結ばれることを愛情の形ととらえ、快感を一緒に味わい、楽しんでいるのであって貪欲に快楽に走っている訳ではないのだ。
私の極めて乏しい僅かな経験ではアバンチュールを求めてくる本土の女性の化けの皮を剥いだ後の方がはるかに淫乱で始末に負えなかった。
教師や銀行員、国家公務員や一流企業のOLたちのベッドで乱れ切った姿を見ていると、この女性がどんな顔をして固い固い仕事をしているのか想像できなかった(その点、スチュワーデス=キャビンアテンダントはベッドでも完璧なマナーで感心した)。

もう1つ具体的に困ったことがあった。それは興奮してくると背中に爪を立てるのだ。翌日、基地の浴場に行って裸になると顔見知りたちが声を掛けてくる。
「昨夜(ゆうべ)は激しかったな」「ヘッ?」「背中が凄いことになってるぞ」そう言われて脱衣場の鏡で見てみると背中に左右4本ずつの引っ搔き傷が線になっている。
「背中を洗うと沁みるぞォ」隣りから先輩も冷やかしてくるが確かに仕事中に汗をかいた時、少し沁みたような感じはあった。
シンシアとのデートは嘉手納基地内と周辺が多いので一部の人にしか知られていないものの目撃者からの口コミで徐々に広まっているようだ。
「アメリカ人を興奮させられるなんてお前も大したものだな」「いえ、単なる愛情表現です」「過激な愛情表現だな。俺もやってみたいもんだ」それにしても聖美とは1年近くつき合い、アパートへも毎週のように遊びに行っていたのだが最後まで清く正しく美しくプラトニックを守り通した。一方、シンシアとも決して遊びでつき合っているつもりはないが、ストレートな愛情表現にストレートに投げ返す若さを与えてもらっているような気がしている。
それは聖美を大切に守りながら育てていた愛情を親に頭から否定されたことで、幼い頃から押し付けられてきたモリノ家式の古臭い倫理観まで放棄してしまったのかも知れない。今はシンシアの「ストレートなラブ」に「ドゥ マイ ベストのラブ」で返しているだけだ。
「ところで彼女は金髪だろう。ナニの毛も金髪か?」話がシモに落ちるのはどうしようもない。
「いいえ、明る目の茶色です」と正直に答えながら私は心の中で「馬鹿野郎」と怒鳴っていた。

シンシアと一緒に嘉手納基地内のBX(売店)へ行くと雨が降ってきて(官舎側のゲートは米軍人や家族と一緒なら入門できた)、そこで意外な事実を知った。
嘉手納基地の空・海軍はシフト勤務態勢をとっているため休日でも軍服を着た兵員が食事などに来ているのだが、海軍の兵員は自衛隊のようにレインコート(雨衣)を着て、白い軍服のズボンの裾が汚れないように気をつけて歩いているのに対して空軍は軍服のまま平気で傘を差していくのだ。
日本では自衛官だけでなく警察官や消防士、海上保安官なども傘は差さないが、これは明治時代にヨーロッパから近代的な軍事や警察制度を学んだ時に入ってきた風習だ。
ヨーロッパではいつでも剣を抜けるように手を空けておくのが騎士の作法だったのに対して、日本で傘を差すのは位が高い者の特権で武士以上にしか許さなかった藩もあった(逆に日本の武士はいつでも刀を抜けるよう手を振って歩く習慣がなく、ヨーロッパ式の行進には困ったらしい)。
家に戻って母に訊くと「アメリカでは空軍だけが許されている。空軍はエンジニア(技術者)の集まりで戦争屋ではない」と答えた。
考えてみれば自衛隊でも服務規則や服装規則に傘を差すことを禁ずる規定はなく、マナーのレベルなのだから無視しても処罰の対象にはならないが、あえてやる者はいないだろう。

ある日、隣りの家のガーデン・パーティーに参加させてもらった。
映画などで見ることがあるように網をのせたコンロを庭に出して、そこで分厚い肉を焼くのだが、焼き具合は「レア」と言うよりも「血の滴る牛肉のタタキ」に近い。うっかり「ウェルダン」などと言えば「炭を喰いたいならこれを喰え」とコンロの中の燃えカスを出されるだろう(日本式に木炭ではなくオガクズを樹脂で固めたような不思議な固形燃料だった)。
そこで隣家の大尉が言うにはアメリカ産の肉牛は飼料のコーンを食べているから肉に独特の旨味があるが、オーストラリア産の肉牛は草を食べているため水っぽく青臭いとのことだった。
私は和牛の説明をしたが、肉を軟らかく脂肪を散らずためビールを飲ませ、マッサージをすると言うところで英語力は限界だった(「霜降り」の「霜」が出てこなかなったが、実際は「Marble Meat=大理石肉」と言う)。
何よりもこのようなワイルドな調理は男性陣の仕事で、女性軍は男性が焼き上がった肉を食べられる大きさに切って皿に並べ、女性軍が作っておいたサラダやフルーツを添えて運んでくるのを雑談しながら待ち構えている。
私も父に倣ってシンシアに甲斐甲斐しく運び、食べていただいたが、分厚い肉を調理した経験がなかったので(日本では焼き肉でしょう)残念ながら手料理ではなかった。
ガーデン・パーティーには大尉の部下のテクニカル・サージェントが家族連れで来ていて金髪の娘が可愛かった。父は「シンシアの幼い頃に似ている」と言って愛おしそうにあやしていたが、私は母に似ているように思っていて「シンシアもやがて母のような貫禄がある顔立ちになるのか」と納得した。
隣家の娘
両親と私で雑談していると笑い話としてミリタリー・スラング(Military slang)を教えてくれることがあった。中でもアメリカ5軍の陰口での呼び名は傑作だ。
陸軍(Army):Doggy=犬ころ・犬が土を掘る動作で兵士が壕を掘ることを表す。
海軍(Navy):Squid=烏賊・聖書では悪魔の手先のような扱いをされている。
空軍(Air Force):Zoomies =「ズーン」と言うジェットの衝撃音。
海兵隊(Marine Corps):Jar Head =壺の頭部・海兵隊刈りの頭を上から見た形。
沿岸警備隊(Coast Guard):Bath Tab =浴槽・外洋に出られないため
おまけにミリタリー小噺
小隊長「トムとジャックよ。お前たちは何故、軍隊に入隊したんだ?」
トム「はい、小隊長殿。私には妻はいないし、戦争が好きだから入隊しました」
ジャック「はい、小隊長殿。私には愛する妻がいますし、平和を愛するから入隊しまし
た」これを英語で説明されて一緒に笑わなければならないので大変だった。

ある日、エアコンが効き過ぎているので持っていった私の航空ジャンバーに縫い付けてある3曹の階級章の由来を説明した後(陣所の防護用に立てた盾=これをバリケード・ボードと説明したが通じた・・・はず)、米軍の階級章について教育をうけた。
先ずは父の下士官の階級章からで、アメリカの陸軍、空軍、海兵隊は兵から下士官の階級章は同じデザインで線が減らないのが年輪のような成長の過程を表していると言うことだった。
続いて母による士官の階級章では、少尉・中尉が木の幹、大尉が枝、少佐・中佐は葉と上に登り、大佐は鷲で空を飛び、将官は星になっていまうのだそうで、昔の軍服の襟に金色の生地が多かったため、目立つ銀色が上位の場合が多く、米軍でも少尉は金のバー、中尉が銀のバー、母の少佐は金の葉、中佐は銀の葉なのだそうだ。日本なら銀の空の方が金の陸より上になる。

今でこそ日本でもハロウィンを楽しむことが普通になってきたが、あの頃(昭和60年前後)にはまだ街中で楽しむ仮装大会のように思われていた。ところが米軍の官舎は法的にもアメリカ合衆国であり、この変な行事も本格的に行われていて、私も体験することができた。
女子大生のシンシアは「子供の行事」と白けた顔をしていたが(その辺りは日本と同じ)、中学生の妹・サンディは大はしゃぎで父の古い黒のコートとつばの広い帽子に箒を持って魔女に仮装し、母も日頃の威厳ある空軍少佐の顔を忘れてそれにつき合っていた。
夕暮れ時なると官舎には映画「ET」のように色々なお化けが現れ、それぞれ家々を回るのだが、玄関に籠に盛ったキャンディなどの菓子を置いておきお化けにそれを渡して除けてもらうのだ。
これはキリスト教が伝来する前に北欧で行われていた精霊信仰に由来する宗教行事であると聞いて、私は秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出した(この行事を知らなくてカメラを持って行かなかったのが悔やまれる)。

「お前は寺の息子だからクリスマスは関係ないよな」11月下旬のある日、先任空曹から声をかけられた。我が第83航空隊では単身赴任者は早目の帰省をし、クリスマスイブには若い者が嫌がって勤務のつき手がおらず、先任も勤務割に苦労しているらしい。
「息子じゃあなくて孫ですけど」「そうだったかなァ・・・でもキリスト教の行事は関係ないだろう」先任は強気に攻めてくる。
昨年は聖美が休みではなかったため「はい」と2つ返事で快諾したのだが、今年はシンシアと本場アメリカ式のクリスマス・パーティーに参加する予定だった。
「そりゃあ困った。あてにしていたのになァ・・・まァ、毎年ではお前も怒るわな」私が断ると先任は渋い顔で別の隊員に声をかけた。

アメリカのクリスマスは非常に厳粛で、家族で教会に出掛けて祈りを捧げ、その後、教会で讃美歌のコンサートを聞いてイエスの誕生を祝す。
ただし、基地の教会は1つしかないためミサはカトリックとプロテスタントが合同で、神父と牧師のチャップレン(従軍宗教者)が並んで聖書を詠んでいた。
そして家に戻るとホームパーティーが始まる。リビングにテーブルを運び、その中央に「トムとジェリー」と言うフルーツを浮かべたカクテルの鉢を置き、七面鳥の丸焼は無理だったので鶏にして、あとはケーキやクッキーを並べ、クリスマスキャロルをBGMにしながら談笑し、ダンスを踊って楽しむのだが、父と私はカクテルを飲んで酔っ払い、「佛教徒がクリスマスを祝っていいのか?」などとタブーに近い宗教談議を始め、私も何故か日本語で熱弁を奮い、それでも会話は成立していた(お互いに言いたいことを言っていただけ?)。
本来は日本の年始の挨拶や忘年会のように友人を招いてホームパーティーにすることもあるようだが、その年は来客がなかった(断ってくれたのかは不明)。
大晦日は強制帰省させられていたので行けなかったが、0時の10秒前からカウントダウンをするだけで特別なことはしないそうだ。どちらかと言えばクリスマスに全力投球して経済的にも体力・気力も残っていないのだろう(※春のイースター(復活祭)も大切な行事だそうだが、一緒に色つきの卵を作った以外は記憶にないのは何故だろう)。

年末の沖縄便は観光客が来る方は満席だが本土への便は意外に空いている。しかし、送迎ロビーは混み合っていた。そんな中、青い制服姿の自衛官と金髪のアメリカ人の組み合わせは目立っていたようだ。
「次は一緒に連れてって」アルバイトを抜けて空港まで見送りに来たシンシアはそう言って微笑んでいる。シンシアとのつき合いも春には1年を過ぎ、聖美よりも長くなるのだ。
「本土に行くなら夏が好いな。マウント・フジに登って見たい」シンシアはアラスカの小学生で登山を始め、中学生を過ごした韓国でも励んできたのだ。
「俺の家から遠くはないから、それじゃあ夏だな」「うん、日本一の山に登ってみたい」そう言ってシンシアは私の正帽をとり、抱きついてキスをしてきた。
その様子を丁度、到着ロビーに出てきた本土からの観光客の小父さん、小母さんたちが驚いたように、物珍しそうに眺めていた(米兵に見えたのだろう)。

家に帰っても母が吐く台詞は毎度の口癖だった。
「あっちで彼女を作っていないだろうね。駄目だからね」それは父の考えと、その向こうにある伯父の言いつけなのだろう。母は常に父の考えだけを尊重し、子供たちが背くことが無いように心配している。
「だから、何でそうなるんだよォ」私は寺に行って祖父に怒りをぶつけたが、流石の祖父も聖美の時と比べアメリカ人との結婚には慎重だった。
「向こうはクリスチャンなんだろう。将来結婚すればお前が洗礼を受けるか、あちらが佛教徒になるか決めないといけなくなるぞ。1つの家に2つの宗教では正しいことが別々と言うことになる。ウチの檀家でもそれで揉めてる家があるんだ」祖父の言葉に私は数日前、嘉手納基地の教会の厳粛なクリスマスのミサに感激したことを思い出し、来年からは仕事以外に宗教の勉強もしようと決めた。

正月の帰省以降、私の態度に不信感を持った母は毎週のように電話を掛けてきて素行調査をするようになった。しかし、度重なる母親からの電話に当直空曹から「マザコンか?」「乳離れしろよ」などと冷やかされるようになり、嫌々ながら毎週末にこちらから電話する羽目になった(当直空曹が電話に出ると「息子がお世話になっています。どうぞよろしくお願いします」などと馬鹿丁寧な挨拶をしたらしい)。

沖縄に帰った私を空港まで迎えに来たシンシアと一緒にバイト先に近い沖縄県護国神社まで初詣と武運長久の祈願に参った。シンシアは「神社に参るのは初めて」と言ったが、実は私も初詣をするのは初めてだった。中学時代から佛教に親しんできた私にとって神社は若者らしく可愛い巫女さんを見に行く場所に過ぎないのだ。ただ、神社への初詣の習慣がない沖縄だけに1月3日でも護国神社は空いていた。
2人で鳥居をくぐり参道を歩きながら、私たちは神社、神道のレクチャ―を始めた。
「日本には大勢の神がいるんでしょ?」いきなり文化人類学専攻の質問だった。
「うん、エイティ ミリオン ゴッズ(八百万の神々)って言うね」「ふーん、英語ではゴッドを複数形にはしないよ」「そうだろうね、唯一絶対の神様だもん」私の答えにシンシアは深くうなづいた。
「でも、初めてキリスト教が日本に来た時、神道の神職が日本に来ればキリスト教の神も八百万の神々の1人になるって言ったそうだよ」私の話をシンシアはメモでもとり出しそうな真面目な顔で聞いている。
「実際、そうなってるよ。日本ではクリスマスを祝って、1週間もしないうちに大晦日には除夜の鐘を聞いて、夜が明けたら正月で初詣に神社へ行くんだから」「ふーん、だからブディスト(佛教徒)のサージェントも初詣に来るんだね」そこまで話したところで拝殿についた。
私は2礼、2拍手、1拜の神社の拜礼の作法をゼシュチャーで教えたが、その意味に関するシンシアの質問に答えるには知識も英語力も不足していた。
「日本の神社はユダヤ教の神殿に似ている」参拜を終えた後、シンシアは本殿の中を覗きながら言った。
「そうなのか?」米軍基地には従軍牧師(Chaplain)の教会と同じようにユダヤ教の神殿もあるそうなので構造などが似ているのだろう。佛教寺院があれば就職したかった。

「ねェ、久米島に行こう」いきなりシンシアが提案してきた。
「なんで?」「沖縄の歴史的文化財を見てみたいんだ」久米島は沖縄本島から慶良間諸島を挟んで東に位置し、太平洋戦争でも戦場になっておらず琉球王朝時代の史跡が残っていらしい。しかし、島内を観光するのなら日帰りでは無理だろう。
「でも、久米島に泊まることになるよ」「うん、カレッジの研究のためだから大丈夫だよ」確かに日本ではゴールデン・ウィークが近いがインターナショナル・カレッジはアメリカのカレンダーなので連休はない。その分、完全週休2日制なので私が隔週休みの土日で行くことになりそうだ。しかし、これは婚前旅行と言うのではないだろうか?

久米島まで飛行機を使うと南西航空になる。それでは受付で聖美に会う可能性があるだろう。
聖美の性格から考えればシンシアと一緒のところを見られてもトラブルになることはないと思うが、私自身のケジメがついていないのだ。
結局、申し込みが遅かったため飛行機はとれずフェリーで行くことになった。

泊港ターミナルの前で待ち合わせてフェリーに乗船した。しかし、運悪く強い低気圧が接近していてフェリーは凄まじく揺れた。
私は高校時代、ヨット部に所属していたこともあり船酔いはしないが、シンシアは洗面器を抱えて嘔吐を繰り返し、私がそれをトイレに運んで片づけながらの散々な船旅は終わった。

「やっと大地に立てた」久米島の港に到着し、ふらつく足で波止場に下りたシンシアにはいつもの元気はなかった。
「天気が悪くなりそうだから荷物は持ったままタクシーで回ろう」「う・・・ん、だけど車に酔いそう」私の提案にシンシアは首を振った。
「でも、明日のフェリーは昼に出るから、今日中に回らないと研究できないぞ」「うん、民宿に行く途中の史跡を見学すれば良いよ」いつもの「ドゥ マイ ベスト(最善を尽くす)」とは逆の弱気な答えに船酔いがかなり堪えたのが分かった。仕方ないので港がある街で泡盛「久米仙」の工場や古民家などを見学してから民宿へ行った。

民宿についた途端、外は土砂降りの雨になった。
「お客さん、運がいいさァ」民宿の親父さんはカウンターでチェックインしている私にそう言って笑いかけた。
「彼女は日本食で大丈夫ねェ?」「イエス」日本語の質問に英語で返事をするのも変だが、それは最近の私たちの会話のスタイルだ。
「食堂はあちら、風呂はこちら、部屋は2人部屋です。案内します。ついてきて」親父さんはカウンター越しにそれぞれ指差して説明した後、鍵を持って先に立って歩き出した。
「こちらが自販機コーナーです」「トイレです」「正面が非常口ですが外からは開きません」途中で説明しながら部屋が並ぶ廊下に入り、非常口の説明をした後、1番手前の部屋に立ち止まった。ドアは合板の安い建材で、宿泊料金相応の造りだった。
久米島の観光スポットは世界有数の長さを誇る砂浜のイーフビーチで、リゾートホテルもあるが観光客相手の洒落た民宿もそちらに集中しているそうだ。
つまりこの民宿はフェリーを利用する業者などが相手で、だから直前でも予約できたのだ。
鍵を渡されてドアを開けると6畳の部屋に2段ベッドがあり、反対の壁に小さなテーブルと向かい合った椅子、奥には小型冷蔵庫の上にテレビが載っている。窓は外に出られないような胸の高さの狭いものだった。

「シンシア、アー ユー OK(気分はどうだ)?」「イエス、ダイジョーブ」シンシアは返事を日本語にして微笑んでうなずいた。
「シャワーを浴びれば気分も良くなるよ。浴槽は5時からだけどシャワーは24時間OKだって」「夕食は何時?」「シックス オクロック(6時)だからスリー アワー(3時間)ある」流石に親父さんの早口な説明では全ては判らなかったらしく私は英語で言い直した。
「雨は上がりそうもないからシャワーを浴びて休憩しよう」私の提案にシンシアは窓に歩み寄って暗い雨空を見上げた。

シャワーから出るとシンシアが廊下で待っていた。「女性の方が長いだろう」と部屋の鍵は私が持っていたので意外だった。
「あんな広いバスルームではリラックスできないよ」廊下を並んで歩きながらシンシアは理由を説明した。確かに湯船につかる習慣がないアメリカでは浴室はカーテンで仕切って狭いのが一般的だ。日本のように広い浴室で1人シャワーを浴びるのは落ち着かなかったかも知れない。
「それでドラヤーは使わなかったのか?」シンシアの金髪はタオルで拭いただけのようでウェーブが解けてストレートになっている。
「あれは使っていいの?」「そこはホテルと一緒だよ」と言いながら髪が短い私はよく判っていない。ただ脱衣場の鏡の前にドライヤーが置いてあるのを見ただけだ。
「エアコンが効いているから髪を乾かさないと風邪をひくよ」「うん、廊下で待ってて」シンシアが女子の浴室に戻り髪を乾かしている間、廊下で待っていた私に通り掛かった親父さんは「一緒にシャワーを浴びたねェ」と声を掛けてきた。そんな男女の奔放な関係がアメリカ人に対して日本人が抱いているイメージかも知れないが、確かにその夜は徹夜で煩悩が尽きる経験をした。
やはりテントでは外が気になって全力投球できないのだが、部屋の中なら(幸い両隣りは空き部屋だった)思う存分だ。
2段ベッドの下の寝床で一緒に寝ていて可能状態になると戦闘開始の繰り返しで22回、太陽が黄色くなるのはまだ手前、煩悩が尽きると風景が白黒になるのだぞ。

翌日は晴天になりタクシーで島内を回った後、フェリーに乗り込んだが、シンシアを腕枕して泊港まで爆睡してしまった。

真夏に「南極物語」と言う日本映画を見に行ったが今度は犬たちが主人公の映画なので、台詞が少なく助かった。ただ、シンシアはオーロラのシーンを見ながら涙を流していた。
私は「生まれ育ったアラスカを思い出しているのか」と思って黙って(シンシアにもらったパステル柄の)ハンカチを渡した。

7月下旬のある日、私はシンシアの両親に呼ばれた。私は8月下旬からF―4EJ戦闘機への転換OJTで福岡の築城基地へ約2ヶ月間臨時勤務する。このため夏期休暇は早目に取る予定だった。
「サージェント・モリノ、私たちは9月にアラスカに転属することになったんだ」食事の後、全員が揃った席で父が私に向って話を切り出した。
「リアリィ(本当ですか)?」私は、それだけを答えるとシンシアの顔を見た。
「私たちは故郷へ帰ることになるけれど、シンシアをどうするかを決めなければならないのです」言葉が出ないでいる私の横で母が話を続けた。
「シンシアはインターナショナル・カレッジだから転校は問題ないけれど、ここに残って寮に入ることもできるのです」母の説明にシンシアは黙ってうなずいた。私は先日、映画「南極物語」を見てシンシアが涙を流していた訳がわかった。多分、久米島行きも同じ理由だろう。
「貴方がシンシアをどう考えているかを聞かせて下さい」母はそう言うと私の顔を見詰める。父も妹も同じように私の顔を見ていたが、シンシアだけはうつむいていた。
私の耳元で祖父が「お前が幸せになることが本当の親孝行だ」と囁いた。そして、それを打ち消すように伯父が「親の意思に背くことは人として許されない」、父が「親の恩を忘れるような奴は人間の屑だ」と言った。さらに「沖縄で彼女を作っていないだろうね、駄目だからね」と言う母の口癖が続く。昨日も母は電話で夏期休暇に帰省しないことを「彼女と過ごすのか?」と勘繰り、クドクドと事情聴取してきた。シンシアとのことをあの家で許してもらうことは、どう考えても不可能だろう。
「将来に対する責任」、父が幼い頃から繰り返していた教えが私の胸に重くのしかかって来る。私が親の言いつけに背いて激怒する父と、それに怯える母の顔が浮かんだ。
「日本の家族制度の下では守り切れない・・・あの家の子は親に従うしかない」私は哀しい決断をして頭の中で慎重に英訳すると両親の顔を見返しながら答え始めた。

「私はまだ若いですから何の約束もできません。私にはシンシアとの将来に責任が持てません」そこまでの答えを聞いてシンシアは顔を上げて驚いた目で私を見た。シンシアは「自分をここに残してくれ」と言う答えを待っていた、信じていたのだろう。
「それはこれでお別れと言うこと?」シンシアは唇を震わせながら絞り出すような声で訊いた。「イエス・・・」私は深くうなずいた。私の答えを聞いて両親は顔を見合わせ、シンシアの目からは涙がこぼれ落ちた。この時、私は「碧い眼には涙が似合う」などと全く関係ないことを考えていた。
「責任とか約束とか言う問題ではなく、それは君とシンシアが決めることだよ」父は私に解るように易しい英語で訊き返した。しかし、それはモリノ家には通用しない考えだ。
「私はまだ下士官として技術を磨かなければなりません。プライベートなことを考える余裕はありません」これは明らか綺麗事だった。私の胸には勝ち誇った父と伯父の顔が浮かんでいた。
父は意を決した表情でシンシアに訊いた。
「シンシア、これがサージェント・モリノの答えだ。わかったな」「ノ―、私は沖縄に残る・・・」父の言葉にもシンシアは首を振った。
「シンシア、仕方ないんだよ。サージェントは今、仕事しか考えられないのだから」「お前がいるとサージェントの迷惑になるんだ」両親の説得にもシンシアはまだ泣きながら首を振っていた。
シンシアの胸に妹がすがりつき、抱き合って泣く姿に私も両親もかける言葉がなかった。ただ、軍人である両親は私の立場を理解して励ますようにうなずいてくれていた。結局、祖父が言っていた通り私には親の言うこと以外の選択はなかったのだ。
セイラ・マス4
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

夏期休暇は帰省せず、シンシアとも会わずに過ごし、8月下旬から築城基地に臨時勤務した。
築城基地からは少し落ち着いたシンシアに毎晩のように電話をした。私はその日あった仕事の話をし、シンシアは「母の本と父の趣味の物が多くて片付かない」と引っ越し準備の話をする。
そして「ドゥ ユア ベスト」と言って話を終わる時、急に泣き始めることの繰り返しだった。
このシンシアの言葉にどれだけ救われ、励まされ、力をもらっていたか、それは私が一番知っていた。

シンシアがアラスカに旅立って3週間後、私はOJTを終え、沖縄に帰った。そして、しばらくしてアラスカから小さな荷物が届いた。
中には「アラスカを忘れないで」と言う手紙と紺色地に北極星と北斗七星を描いた大きなアラスカの州旗が入っていた。
それから父の「君は考え過ぎるから下士官よりも士官が向いている」と言うメッセージとアメリカ空軍の徽章のキーホルダー、母からは「しっかり勉強して、良い士官になりなさい」と言う激励とアメリカ空軍大尉の階級章。そして、あの日、シンシアが涙を拭いたハンカチも入っていた。ハンカチからは確かにシンシアの匂いがした。
航空自衛隊怪僧記・USAF
総合演習を終えた私はシンシアと約束した南十字星を見に八重山へ傷心旅行に出掛けた。
夏の観光シーズンを過ぎた南西航空の旅客ターミナルは意外に空いている。石垣への搭乗手続きのためカウンターに並んでいると何故か懐かしい視線を横顔に感じ、顔を向けると私が並んだ列の隣の窓口に聖美がいた。
見覚えがあるオレンジ色のハイビスカスがプリントされたブラウスの制服を着た1年半ぶりに会った聖美は少し大人びて変わらず美しい。
一瞬、視線があった時、聖美が会釈したので私も深くうなずいて挨拶を返した。

搭乗待ちロビーの長椅子に座り軍事雑誌を読んでいると誰かが横に立った気配がして、見上げるとそこには聖美が立っていた。
「元気だった?」聖美にした仕打ちを思えばこの場で頬を打たれても仕方ないと覚悟したが、あの頃と同じように優しく微笑んでいる。私は何も言えないまま聖美の顔を見返していた。
「元気そうね」「うん」うなずきながら立ち上がると聖美は背筋を伸ばして胸の下で肘を抱くようにしている。あの頃と癖は変わらないようだ。私は見詰められたまま言葉を探したが何を言っても弁解になってしまう。
「ごめん・・・」私が謝ろうとすると聖美はそれをさえぎるように首を振った。
「ううん、貴方のことだから何か理由があったんでしょ。判ってるよ」「う・・・ん」私の胸にこの優しい人を何も知らぬまま差別、誹謗し、無理やり引き裂いた両親と親戚の顔が憎悪、怒りとともに浮かんでくる。聖美は私のそんな気持ちを読み取ったのか哀しげな眼をした。
「大丈夫、私も元気だよ」「うん」私は日頃の口達者が情けないほど何も言えないでいた。聖美はあの頃と同じように吸い込まれそうな深い目で私を見つめている。
私の胸に今度は聖美と過ごした優しい、安らぎの日々の思い出が蘇ってきた。
「何故、この人と別れたのか・・・それを繰り返さなければならなかったのか」確かに私たちは愛し、愛され、お互いを必要としていたはずなのに・・・私は運命と言うものが理解できないでいた。
「貴方とは優しい思い出しかないよ」短い沈黙の後、聖美はもう一度微笑んだ。
「それじゃあ、仕事をチョッと抜けてきたんだ」聖美はそう言うと、これもあの頃と同じ癖で胸の前で小さく手を振り、背中を向けてロビーから出ていった。

1泊2日の八重山旅行では波照間島に行くことはできず、私は石垣島の防波堤から南十字星を眺めた。夜の海からは波の音が響いてくる。
「シンシア、すまん」星空に向かってそんな言葉を呟いた時、胸に言い知れようのない怒りが沸き上がってきた。私は聖美やシンシアを心から愛し、彼女たちも私を心から愛し、必要としてくれていた。それを自分たちの価値観だけを押しつけて、聞く耳も持たずに引き裂いた両親、あの家とはもうつき合いきれない。私は海に向かった雄叫びを上げた。
私は石垣島から電話を掛け、那覇空港で聖美と待ち合わせる約束をした。

石垣島からの最終便で戻ってロビーに出ると聖美は制服のまま待っていた。
「ただいま」そう言って前に立つと聖美の顔から表情が消え、数秒間黙ったまま見詰め合った。
「これを」私が手を差し出して小箱を手渡すと聖美は黙って受け取った。中には八重山の民芸品「ミンサー織り」の小袋が入っている。これは本来、女性が変わらぬ想いを込めて男性に贈る品だ。
「来週の予約状況を教えて下さい」「・・・土曜日に空席があります」質問に聖美はようやく答え、私は「まだ、気持ちは通じている」と確信した。
「ありがとう」私はスニーカーのかかとを鳴らして気をつけすると野球帽のひさしに手をかざして敬礼した。振り返ると後ろで片づけを始めている職員が物珍しそうな顔で見ていた。

「こんにちは」次の週の土曜日、アパートの玄関で聖美は昨日の続きのように信じられないものを見るような顔で私を迎えた。
「おかえりなさい」それだけを言うと聖美は笑顔を作りながら目を潤ませた。何も言わずに思い切り抱き締めると聖美も私の脇に腕を回してくる。聖美の吐息、髪の匂いは変わらない。背の高さ、身体の弾力も同じだ。首筋に当てている頬の温もりが懐かしい。何も変わっていなかった。私の胸で聖美がポツリポツリと話し始めた。
「私、寂しかったよ」「哀しかったよ」「だけど待ってたよ」いちいちうなづきながら私の胸は申し訳なさで一杯になった。しかし、聖美の結論は違っていた。
「でも・・・ごめんね」「・・・」私は聖美の優し過ぎる気持ちを裏切った自分が申し訳なくて腕に力を込めた。
「やっとここに帰れた」胸に顔を埋ずめながら聖美は呟き、今度は私が涙をこぼした。

1年半ぶりの部屋に座って私は防府に出発する前、実家であったことから今までの出来事を全て話し、聖美は正座して自分の膝を見ながら話を聞いていた。
「俺は親よりも君を守りたい」そう話を締めくくった私に聖美は静かにこう答えた。
「私は親との縁が薄いから親のない辛さはわかっています。だから貴方にも、親御さんにも同じ思いをさせたくありません」「もし、私でなければ・・・」そう言いかけた聖美を私は遮った。
「俺は君を選んだんだよ」「でも」聖美はまだ私の顔を見ないでいる。
「俺は俺らしく生きたいんだ。それには君にいて欲しいんだ」自分でもよくこんなことが言えたなと呆れるほどキザな台詞だった。確かにシンシアと過ごした1年半は私の何かを変えている。聖美は顔を上げると涙をこぼした。あんなに芯の強かった人が何だか涙もろくなったような気がする。
「1つ約束して下さい。お父さん、お母さんに解ってもらうことを諦めないで下さい。私のために親を捨てるなんてことは考えないで・・・」しかし、私は黙って首を振った。
「自分の子供の幸せを尊重できない人間を親とは認められない」私はシンシアの家族に接し、親子関係のあるべき姿を学んだように思っていた。子供が掲げた志、描いている夢、育てている愛を自分たちの偏狭な常識だけで踏み躙り、破り捨て、引き裂き、それを反省もしない人間たちとは決別する覚悟で聖美を選んだのだ。それは故郷を捨て、家族と遠く離れて私と生きようとしてくれたシンシアから学んだ「マイ ベスト」だった。

「モリノ、それが男さァ」久しぶりに2人でウチナ―屋へ行って今までのことを話すとママさんはそう言って誉め、励ましてくれた。
「でも・・・」珍しく聖美がママさんの言葉に反論しようとする。
「聖美の気持ちもわかるさァ、だけど・・・」「だけど?」2人は真顔で見合った。
「人生、中々百点満点は取れないものなのさァ」「今、2人に何が1番大切か優先順位をつけなければいけない時もあるのさァ」「はい」聖美が深くうなずくとママさんも優しく微笑みながらうなずいた。
「モリノは聖美といることを1番大切だと選んだのさァ」「はい」「だったら選ばれた聖美が迷ったらモリノが可哀そうさァ」「はい」ママさんの言葉は私の気持ちを代弁してくれている。聖美は黙って私の顔を見つめた。
「人生は入試じゃあないのさァ、追試もあるんだよ」ママさんの話は判り易かった。
「聖美は百点満点しか取ったことがないからなァ」「そんなことないよォ」私が場を和らげようと茶化すと聖美は少しむきになって唇を尖らせた。
「ところであんたたち、もうすることはしたねェ」ママさんの突然の大胆な質問に私たちは顔を見合わせて下を向いた。確かにアパートでの再会の時、そのまま押し倒す手はあったができなかった。
「何だァ、始めからやり直しねェ」ママさんは呆れたように笑った。

今年も年末年始の観光シーズンが来て聖美の仕事は大忙しだった。正月休暇は年明けに交代で3日ずつだけだ。
「俺も後段休暇にして代休をためようっと」「本当ォ、そんなことできるの?」「後段休暇は希望者がいないから喜ばれるさァ」私の説明に聖美は「納得」と言う顔でうなずいた。
「だったらどこかへ旅行に行こう」「はい」私は迷うことなく提案し、聖美も迷うことなく同意した。シンシアは何度も抱き、煩悩が尽きるような経験もしたが聖美とはまだ清く正しく美しくプラトニックだった。聖美が負っている心の傷を忘れた訳ではないが、それを考えてためらうよりも胸に燃える想いに任せたいと決意したのだ。
「今度は2泊3日で八重山に行きたいなァ」私の希望に聖美は賛成した。
「冬休み明けの平日なら飛行機取れるかな、ホテルも探さないと」「流石は南西航空!」私がからかうと聖美は「エヘッ」とお茶目な笑いを見せた。これは以前には見たことがない表情だ。あの頃は陽気で元気な子が多い沖縄には珍しい物静かで、どちらかと言えばクールな女性のイメージだった。
「でも、南西航空を使ったら職場の人にバレちゃうよ」「平気だよ」聖美は大袈裟に心配する私を、かえって不思議そうな顔をする。自分から大胆な提案をして聖美の同意を得ておきながら、後から余計な心配をしてしまう臆病さは、まだ治っていない。それが「ドゥ マイ ベストだ」と信じて突き進むことを胸の中で再確認した。

後段休暇中は飛行訓練がないため整備作業は少ないが、警衛や当直の特別勤務や基地内待機が多く希望者はあまりいない。
それでも「年末年始期間中には何度でも勤務につきたい」と言う申し出に先任空曹は「いやーァ、助かるよ」と喜び、クリスマスイブと大晦日に警備勤務につくことになった。
「整備の仕事ができないからって警備で御奉公かァ」先輩たちの皮肉な言葉に少し傷ついたが、その後の大きな楽しみを思えばそれほど気にはならない。飛行機も民宿も聖美が手配してくれた。

大晦日の警備勤務で翌朝は元旦だ。南西ゲートの勤務についているところに出勤前の聖美が寄っていった。
「明日は8時まで南西ゲートだよ」と昨晩の電話で知らせておいたおかげだが厳密に言えば秘密の漏洩だ。
「明けましておめでとうございます」「ございます」門のフェンスを挟んでお互いに深々と頭を下げた。続いて私が「気をつけ」をして敬礼しながら「服務中異常なし」と報告して見せると、「御苦労様です」と、聖美も笑いながら敬礼して答えてくれた。
沖縄に慣れた体には冬はそれなりに寒い。私はジャンバー、聖美もジャケットを着ている。
「風邪ひかないでね」聖美は微笑んで手を振っていった。

「何故、正月なのに帰って来ないんですか?お父さんも貴方の顔が見たいと言っています」親からの年賀状にはこんな言葉が添えてあった。しかし、私はあの正月の出来事がまだ赦せないでいた。多分、生涯赦さないだろう。
「あなた方が従順に作ったはずの息子は今、言いつけに背いていますよ」と返事を書いてやりたかったが、あえて何もしなかった。

「友人と八重山旅行かァ、女の子とか?アメリカ軍の彼女とは別れたはずだよな」後段休暇に入る前、代休申請に行くと隊長代理の整備小隊長・三谷2尉は旅行計画を確認しながら声を掛けてきた。その黒い顔は小さな目が好奇心に光っている。
「まァ、お前に次から次なんて甲斐性があるとも思えんがな・・・」三谷2尉はそう言って納得したが、私は心の中で舌を出した。これで代休申請も完了、いよいよ出発だ。
「車に乗るなよ!」その頃、ウチの隊では隊員のレンタカーでの交通事故が続発していて、上司たちはかなり神経質になっている。
「はい」私は素直に、そして元気よく返事をした。

私は何とか空いていた昼前の飛行機に合わせて約束した時間の十分前にロビーに到着したが聖美はもう待っていた。
正月シーズンが明けても観光客は多く、離島便の南西航空のロビーは常夏のリゾート気分丸出しの観光客で混んでいた。そんな中、地元の私たちは冬の服装で聖美は白のブラウスに茶色のジャケットとスカート、私はポロシャツにトレーナーを着こみ綿パンだ。
「待たせたね」私の声に聖美は顔を向け、パッと光ったように笑った。
「大丈夫、私も今来たところ」聖美は嬉しそうに微笑んだ。2人で受けカウンターの前に並ぶと、聖美に気がついた同僚たちが笑いかけてくる。社員教育が厳格な本土の航空会社では、こんなことはあり得ないのだろうけれど、そこは沖縄、大らかと言うかいい加減と言うかだ。
「聖美、行ってらっしゃい」チケットを受け取りながら同僚に声を掛けられて流石に聖美も恥ずかしそうにはにかんだが、私も彼女らの視線の集中砲火を浴びて困ってしまった。

石垣島行きのボーイング737は満席だった。
「よく席が取れたね」私が感心すると聖美は「エヘッ」とお茶目な笑顔を見せる。
「何か裏技を使ったなァ」と言う私の追及にも、「エヘヘヘ」とまた笑って答えない。どんな技を使ったのか興味あったがそれ以上の追及は止めておいた。何だか2人ともウキウキしていた。
そのうち737はタクシング(移動)を始め、窓からは見慣れた那覇基地が見えた。整備格納庫では整備員たちが戦闘機に取りついて仕事をしている。普段の私なら、こんな光景を見れば後ろめたさを感じて暗い気分になっただろう。とにかく私は親から楽しむことを禁じられて育ってきたのだ。
「ところで旅行のこと、お母さんは知ってるの?」「うん、よかったねって言ってたよ」737が舞い上がってところで尋ねると聖美は微笑んでうなづいた。
「それからモリノさんによろしくって」聖美の言葉に一度だけ会った母の顔が浮かび「この人を取り戻してよかった」と心の底から思った。
飛行機が宮古島を通過する頃、聖美は感情を交えずに思いがけないことを口にした。
「私、貴方がアメリカ人の女の子と付き合っていたの知ってるよ」「エッ・・・?」「(同級生の)順子が見たって教えてくれたのさァ」私は返事ができなかった。
「貴方のことだから遊びじゃあなかったんでしょ・・・」「うん・・・聖美に会ったのは自分の気持ちにケジメをつけるための旅だったんだ」傷心旅行から帰ってそのまま縁りを戻した私を許してくれるのか・・・そう思って顔を見ると聖美は吸い込まれそうな深い目で見返してきた。
「その人が貴方に勇気を与えてくれたんだね」「エッ?」「前の貴方なら私を旅行に誘うなんて考えられなかったさァ」「うん・・・(確かに鍛えられた)」私の返事を聞いて聖美は黙って手を握ってきた。
宮里聖美 (7)
「あッ、聖美ィ、久しぶりさァ」聖美は石垣空港のスタッフからも声を掛けられた。
石垣空港ともなると那覇空港以上にアットホームになっている。
「今日は何ねェ」「旅行さァ」「いいなァ」そう言いながらその子は後ろに立っている私の顔を見た。私が会釈をすると、その子も会釈を返して聖美に何かを耳打ちした。聖美は照れたように笑いながら私を振り向いた。

宿泊先は格安ホテルか民宿のつもりだったが石垣市街の外れにある全日空系列の観光ホテルだった。
「ここ高いんだろう」「シャイン・ワ・リ・ビ・キ(社員割引)」真顔で心配する私に聖美は悪戯っぽく笑って答える。確かに南西航空は全日空系列だ。でもこの時期に予約を取るには何か裏技を使ったに違いない。
今回の旅行で私は、今まで知らなかった聖美の人間性を発見して驚きの連続だった。そのパワー、逞しさ、そして意外なほどの大胆さには「とってもかないません」とここらで白旗を上げるべきかと悩むほどだった。

私たちの部屋はダブルだった。それが聖美の決心を示していた。何よりも両隣の部屋はハネムーンのカップルだ。海に面した広い部屋は安いビジネスホテルや民宿とは造りが違いハワイかグアムのリゾートにいるようなエキゾチックな雰囲気があった。
シャワーを使い、Tシャツ、短パン姿で大きなベッドに座って待つ私には、これから聖美を抱くことへの迷いはなかったが、ただ若さゆえか胸が高鳴っていた。
やがて私に続いてシャワーを使っていた聖美が同じ格好で出てきて隣に座った。下着を着けない体の線が美しく、Tシャツを透けて見える小さめの乳首にドキッとする。
しばらくは2人で黙ったまま並んで座っていたが、やがて聖美が口を開いた。
「私、『好きな人に抱かれた』って言う記憶が欲しかったんだ」そう言って聖美は、のばした自分の素足を見ている。この言葉に今まで私が頭で考えていた「聖美を守る」と言うことがハッキリ言えば独りよがり、本当に聖美の気持ちを考えていなかったことに気づかされた。
中学生の時、義父に傷つけられた聖美の心の痛みを「今、聖美を抱くことでそれを救えるのなら」、そう思うと私の胸には聖美への愛おしさと同じくらいの切なさが溢れて、思わず泣き出してしまった。
「モリノさん・・・」それを見て聖美までもらい泣きをして、身も心も興奮、高揚するはずの旅の夜が妙に締めっぽくなってしまった。
「聖美さん」私はベッドの掛け布団をめくり、真ん中に座ると聖美を呼んだ。
「はい」聖美は涙目をしながらもはにかんだ頬笑みを浮かべて並んで座る。私がベッドの枕元のスイッチで部屋の灯りを消すと街外れにあるこのホテルには窓からの明りはなく、部屋は小さなルームランプだけになった。
「やっぱり恥ずかしいさァ」並んで座りながら肩を抱くと聖美がささやいた。それはさっきの告白をした自分の大胆さを言っているようだった。
私たちは黙って口づけるとそのまま抱き合って横になる。直接肌に触れるのは初めてだった。
身体が1つになってゆっくり優しく腰を前後させると聖美もそれに合わせて顎を上下させた。呼吸が次第に荒くなってくる。私の動きと聖美の息が重ねっている。私は命も一緒につながったのだと感じていた。
「ありがとう、私、幸せだよ」終った後、腕枕をしていると聖美は静かにささやいた。
「こちらこそ、ありがとうさ」そう言ってまぶたに口づけると聖美は涙をこぼした。
その時、私の胸に「イッツ ヨォ ベスト・・・(それが貴方の最高)」と言うアラスカの風が吹き抜けていった。


 私の語学力
私の英語は中学生の頃、女学校時代から得意だったと言う祖母から習い、この時にマスターしたのだが、両親はアラスカ出身、シンシアもアラスカ生まれでかなり訛りがあったらしい。
その後、防府に転属して岩国基地の航空祭などで米軍人と話すと必ず妙な顔をされた。
「君はかなりアラスカ訛りがあるがイヌイット(=エスキモー)か?」「はい、ジャパニーズ・イヌイットの山形県人です」とジョークで答えても通じなかったのは仕方ないだろう。
また、幹部に任官し、兵器管制幹部見習いとしてソ連軍のベトナムへの輸送機と交信する際、通常は無視するソ連軍のパイロットが反応することがあった。
「アエロフロート×××(コールサイン) ディス イズ ジャパン エァ セルフ ディフェンス フォース(こちら日本国航空自衛隊)、ユー アー ■マイル レフト・・・(君は飛行ルートから■マイル左にそれている=防衛秘密に属するので詳しくは書けない)」と呼びかけると突然、「ザー」と言う雑音が入り、そのまま懐かしそうな声で返信が入った。
「Oh, your English is excellent (君の英語は素晴らしい)」ソ連軍はアラスカの空軍と話し慣れているので思いがけない場所で私の訛った英語を聞き感動したらしい。
それに「スパシーボ(ロシア語の「ありがとう」)」と即答したので雑談が始まりそうだったが、SOC(方面隊指揮所)から「国際問題になるから余計なことを話すな」と指導が入り、航空自衛隊側が無視することになった。
さらに日本人のパイロットと交信すると「おっと米軍につながったかと思ったよ」と言われるくらい訛った英語のようだ。
航空自衛隊英語弁論大会の予選では「練習不足なら鍛えれば何とかなるが、あの訛りの修正は難しい」と山形出身の審査委員長に評価されたから私のアラスカ英語は東北弁と同じと言うことのようだ。ちなみに航空自衛隊の英語は太平洋空軍の司令部がハワイにあるため、当時、アイドルの早見優が売り物にしていたハワイ訛りだ。
前々回の大統領選挙でサラ・ペイリン・アラスカ州知事が注目された時、その演説やインタビューを聞いて妙に懐かしかったのも、「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく(石川啄木)」のような気持ちだったのだろう。
ただ、普通の日本人は英語を読むことから始めるため読解は得意でも会話は苦手と言うが、私は逆にシンシアから口伝え(口移し?)で習ったため、電話はできても手紙は読むにも書くにも辞書が手放せない。何より英語を日本語に訳さず理解するので文章は音読が欠かせないのだ。
次に私は中学1年から自衛隊に入るまで勉強の合間にモスクワ放送を聞いていたためロシア語もある程度話せ、領空に接近するソ連機にロシア語で通告すると向こうが妙に反応することもあった。ところがこれも方面隊指揮所から「国際問題になるから余計な話をするな」と指導が入り、日ソ友好は促進できなかったが、退職後にボリショイサーカスを見に行った時も係員とロシア語で会話できたから雑談してみたかったものだ。
中国語は愛知大学で習っただけだったが、あの頃、沖縄に働きに来ていた台湾人女性たちと仲良くなるのに役立った。
中華街のように飾り付けたアパートの部屋で広東語のテレサ・テンを聴きながら食べた手作り餃子や春巻は美味かった。
Cynthia
  1. 2015/02/14(土) 08:52:42|
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