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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月18日・史上最強の柔道家・木村政彦の命日

平成5(1993)年の明日4月18日は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた史上最強の柔道家・木村政彦さんの命日です。通常、武道家には敬称に代えて段位を付けているのですが、木村さんの7段は誰が見ても不相応なので止めておきます。
野僧は高校で柔道部に入った時、書店に並ぶ解説書の中で木村さんの「柔道・実践に役立つ技の研究」を選びました。それは木村さんの名前を知っていた訳ではなく、写真が明瞭な上、説明も解り易かったからですが、その具体的な技のコツは本当に「実践に役立つ」でした。例えば木村さんの得意技と言われる「大外刈り」は、他の解説本では襟と袖を刈る足側に引いて重心を移すように解説していますが、木村さんは襟を巻き込むように引き上げ、袖を押し引いて相手を仰け反らせると説明していました。
一般的な技の仕掛け方では奥襟を取る必要があり、身長が相手よりも高いことが前提になりますが、木村さんは身長170センチなので当時の日本人としては大柄でもスポーツ選手としては小兵でしたから徹底的な工夫によって自分の技を確立したのでしょう。それは立ち技だけでなく寝技、関節技、締め技も同様で、これを試合で実践できれば必勝なのですが知識と動作が一致しないのは凡人の哀しさです(それが稽古の目的です)。
それでも大外刈りの練習として背後に立てたロウソクを足で消したことを真似てみたのですが、ロウソクを蹴飛ばしてカーテンを焦がし、家での練習を禁止されてしまいました。
木村さんは大正6(1917)年9月10日に熊本県飽託郡川尻町(現在の熊本市南区)で生まれ、幼い頃から父親と一緒に加瀬川の急流の中でザルを使っての砂利取りを手伝って強靭な足腰が鍛えられたそうです。10歳から竹内三統流柔術の道場に通い始め、武徳会から4段を与えられますが旧制・鎮西中学に入学すると柔道に移り、16歳の時には講道館から4段を送られています。在学中には全国制覇を成し遂げ、中学の先輩で拓殖大学の師範だった牛島辰熊に誘われて東京の自宅兼道場に寄宿することになり、拓殖大学予科に進むと不滅の無敗記録を開始し、それは15年間に及びました。
そんな幾多の偉業を成し遂げた木村さんですが、戦後には失意を味わうことになります。
昭和25(1950)年に師の牛島が旗揚げしたプロ柔道に参加したものの経営に失敗したため無収入になってしまい、そんな中、妻が肺病に罹ったことで多額の治療費を得る必要に迫られたのです。こうしてプロ柔道から脱退してハワイやブラジルへ渡航して興業するようになり、それがプロレスにつながりました。
力道山との対戦は格闘マニアの中でも話題が尽きない謎ですが、伏線として力道山とタッグを組んでいた木村さんがシャープ兄弟に花を持たせる役を押し付けられていることへの不満から新聞紙上で「実戦なら負けない」と語ったことがあり、力道山がこれを「プロレスの名誉を傷つけた」と非難し、「プロレス界に残り高額の収入=妻の治療費を維持したければ負けろ」と取引したのではないかと言うのが一般的な見方のようです。
昭和36(1961)年に拓殖大学の監督に就任して柔道に復帰すると輝かしい戦績を収め多くの名選手を育てますが、講道館は7段から昇段させることはなく、柔道殿堂に関連する資料、遺品を展示していません。
木村さんは「月刊柔道」の誌上対談で山下泰裕5段に「遠藤純男5段のカニ挟みで骨折したのは明らかに君の負けだ」と言って黙り込ませていました。また山下5段や遠藤5段、斎藤仁3段などの巨漢選手について「今の柔道は豚がやる柔道だ」と批判しています。
木村さんはエリオ・グレーシー(ヒクソンの父親)との試合で腕を骨折させながら「参った」の動作をしないので関節技を掛け続けた「柔道の鬼」ですから、スポーツ柔道そのものに相容れない想いがあったのでしょう。
  1. 2015/04/17(金) 09:11:03|
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