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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

閏4月20日・山口県が生んだ悪鬼・世良修蔵が誅殺された。

慶応4(1868)年の明日閏4月20日(太陰暦)に山口県が生んだ非道の悪鬼・世良修蔵に天誅が加えられ、無間地獄に堕ちました。
世良鬼は瀬戸内海に浮かぶ周防大島(現在の山口県大島郡周防大島町椋野)で半農半漁を営む庄屋の子として生まれました。どう言う手を使ったのか庄屋=農家・漁師の子が藩校・明倫館に入り、続いて稀代の殺生僧・月性の門弟になって過激な殺戮者としての人格破綻に磨きをかけました。その後、江戸へ出て儒学を学んで帰ったため地元・阿月の領主に認められ、塾の講師として仕官を果たしたのです。
松陰先生(と付けるのが当地の作法)や月性などの過激で非現実的な攘夷論に引き摺られた毛利藩が、馬関海峡を航行する外国船に発砲した報復攻撃で敗北すると、藩論が幕府への服従に傾いていくのに焦った過激派テロリスト・高杉晋作が農民や商人までも戦闘に巻き込む奇兵隊を結成しました。高杉が内戦を起こして実権を握ると世良鬼は「(同じく月性に洗脳されていた)赤禰武人の誘いを受けて奇兵隊に参加した」と地元では語られていますが、赤禰は「幕府の第2次征討の危険性が高まっている時に内戦を起こすべきではない」と高杉に反対したことで裏切り者にされて遁走していますから、これは山口県人得意の史実捏造だと思われます。むしろ世良鬼は赤禰の失脚を知り、自分を売り込む好機と見て高杉の下へ乗り込んだのではないでしょうか。こうして世良鬼が奇兵隊に加わったことが日本史に大きな汚点=深い悲劇を生む原因になったのです。
「攘夷」を表看板にしながらアメリカ南北戦争の終結で余った武器を死の商人・坂本竜馬を通じて大量に購入した毛利藩は島津藩と共に反乱を仕掛け、世良鬼も持ち前の残虐さを発揮して近代化が遅れていた諸藩を撃破し、反乱軍の中で頭角を現していきました。そして江戸へ無血入城した反乱軍は九条道孝を長とする奥羽鎮撫総督府を派遣することになったのですが、その兵力は500名に過ぎず、然も軍艦で直接、仙台に乗り込む無謀さに毛利藩の品川弥次郎、島津藩の黒田清隆が断り、世良鬼が参謀として乗り込んだのです。
ところが世良鬼は半農半漁の成り上がり者であり、身分格式を全く弁えず仙台藩主・伊達慶邦公に「新政府内で地位を保ちたければ会津を討て」などの暴言を吐きまくり(その点、島津藩の大山綱良さんは由緒正しい武家なので礼節を失わず、これが東北で毛利藩と島津藩の評価が真逆な理由です)、さらに東北武士に色濃く残る徳川家への忠誠心を新政府への反逆と曲解し、「奥羽は全て敵と見て攻め滅ぼすべし」と言う書簡を戸沢藩の新庄にいた大山さんに送ったのですが、それを運んだのも福島藩士であり、内容はたちまち露見し、福島城下の旅籠で女と寝ているところを襲撃され、2階から飛び降りて負傷し、そのまま川原で斬首されました。尤も武士として切腹が許されても作法を知らなかったはずです。
病的に地元贔屓な山口県では現在も世良鬼や殺生僧・月性を顕彰しようとする輩がいますが、顕彰するよりも世良鬼の暴挙が原因で戦乱に引き込まれ、その後も不当な忍従を強いられた東北諸藩に謝罪しなければならず、確実に無間地獄に堕ちている師弟を救ってもらえるよう念佛法要を勤めた方が良いでしょう。
山口県人は「毛利藩は身分に関係なく人材を引き立てた」と誇っていますが、明治以降の失策を見るまでもなくこのような「人罪」にまで身分不相応な立場を与えていたのです。
ところで月性が説いた海防論とは「討幕」と言う亡国論だったのでしょうか?
  1. 2015/04/19(日) 00:11:34|
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