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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月15日・関ヶ原の合戦

明日9月15日は天下分け目の関ヶ原の合戦の当日です。関ヶ原の合戦は1600(慶長5)年と非常に年号が覚えやすくて好いのですが、山口県では屈辱の日のようで、あまり語られることはありません。
明治政府に招かれて陸軍大学で教鞭を取っていたドイツ軍参謀のK・W・J・メッケルは現地を視察し、東西両軍の配置などの説明を受けた上で西軍が敗れたことを聞き、「何故だ。あり得ない」と言い、誰が裏切ったかの補足説明で「この合戦は戦闘力ではなく政治力が勝敗を決した」とようやく納得したそうです。
現在の歴史の授業が未だに明治以降の薩長史観の影響下にあると感じるのは、西軍の大将が石田三成公と言われ、常識化していることです。
しかし、近江19万石の大名に過ぎなかった三成公が自分よりも大身の諸大名を指揮下に置くことなどはあり得ず、あの時代では尚更のことでしょう。
実際の総大将は中国地方の太守・毛利輝元公であって、本人は秀頼や淀殿を守るためと称して大坂城に入り、養子の秀元公を宰相に、さらに毛利両川の吉川広家公、小早川秀秋公を派遣するなど毛利家の総力戦で臨んでいました。
その結果は今更言うまでもなく小早川の裏切り、吉川の内通があって西軍は大敗、輝元公も大坂城を立ち退くことになりました。
ですから毛利家が敗戦処理で取り潰されなかっただけでも恩の字で、さらに敗因は一門の背信だったのですから、徳川家を恨むのは筋違いと言うモノでしょう。
その逆恨みを徳川幕府260余年の天下太平の間、持ち続けていた執念深さは現在の山口県にも色濃く残っています。
まだ山陽新幹線や高速道路も通っていなかった50年以上前に持ち出した岩国基地への民間空港併設の構想を、実現への執念だけが独り歩きして半世紀以上、県内の宇部空港や隣県の西広島、北九州空港が赤字で苦しんでいる中、米軍の再編に絡めて実現させた愚かしさは最早DNAとしか思えません。
ただ、同じ倒幕の謀反人でも薩摩・島津家には同情の余地があります。
島津家は当初、家康公側につこうとしたのですが、伏見城への入城を留守居役の鳥居元忠殿に拒まれ、已むなく西軍に参加したのであって、合戦に於いても三成公の指揮を受けることを拒否して動かず、勝敗が決してから中央突破で離脱しました。
1600名の島津武士は決死の座りこみ戦法などで主君・義弘公を逃がし、薩摩に帰りついたのはわずか60名でしたが、敗れてなお「鬼石曼子(おにしまづ)」の名を轟かせました。
  1. 2012/09/14(金) 09:30:16|
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