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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月30日・宇垣一成陸軍大臣の命日

昭和31(1956)年の明日4月30日に戦前は「よくぞ」と広く国民からの支持を集めながら戦争中は一転、「アイツのせいで」と蛇蝎の如く嫌われ、戦後は公職追放が解除された昭和28年の参議院選挙ではトップ当選を果たした宇垣一成陸軍大臣が亡くなりました。87歳でした。
宇垣陸相と言えば「軍縮」ですが、これは平成に行われた防衛力の弱体化を目指した予算削減とは違い、第1次世界大戦後に軍縮が世界的気運となっている中、大正10(1921)年にワシントンで開かれた海軍軍縮会議と歩調を合わせ、明治以降、拡大の一途を辿っていた陸軍を国力に合った規模に縮小すると同時に近代化を推進しようとしたものです。
当初は山梨半造陸相が断行したのですが、折から関東大震災が発生したことで復興に動員した部隊は廃止できず、予算も増額される結果になったため、大正14(1925)年に後任として就任した宇垣陸相が再度の軍縮を図ることになったのです。
ただし、「軍縮」と言う単語は適当ではなく、あくまでも時代遅れな兵種や装備を整理して予算の無駄を省き、第1次世界大戦で登場した戦車や航空機などの調達に充てる近代化が主眼でした。
実際、4個師団、連隊区(自衛隊の司令部援護・広報班や地方協力本部に似た組織)16カ所、陸軍病院5カ所、陸軍幼年学校2校を廃止する引き換えに1個戦車連隊、1個高射砲連隊、2個飛行連隊、1個山砲連隊(山砲は野砲に比べ軽量で機動性に優れる)、自動車学校1校、通信学校1校、飛行学校1校を新設しています。このため騎兵の多くは戦車兵や飛行機乗りになりました。一方、師団を廃止して連隊を設立したことで将官の配置が減り、多くが予備役・退役に追い込まれました(野僧の曽祖父=少将・旅団長もその1人です)。
陸軍内での宇垣大将の評判は最悪で、何度も総理大臣への就任が実現しそうになりながら陸軍の妨害で頓挫したため首相を太陽に例えてその周りを回る「惑星」と仇名されたのです。
戦争中は大陸だけでなく東南アジア、南洋諸島、アリョーシャン列島にまで戦線が拡大して慢性的な戦力不足に陥ったため、「宇垣が軍縮をやったからだ」と非難を浴びせられ、昭和19年には失意のまま表舞台から身を引いて拓殖大学の学長になっています。
しかし、大正7(1918)年に第1次世界大戦が終結して以降の日本は大正10(1921)年の大凶作、大正12(1923)年の関東大震災、昭和4(1929)年の世界恐慌勃発、昭和6(1931)年の大凶作などの大打撃が続き、経済は危機的状態にありましたから、海軍の88艦隊構想と同様に陸軍の軍備拡張などは実行不可能だったのは明らかであり、むしろ戦力に見合った戦略を立てなかった軍首脳の方が非を問われるべきなのです。
敗戦後、宇垣陸相は「ファシズムに抵抗した平和主義者」と占領軍に称賛されていますが、実際は国家改造を企図したクーデター計画・3月事件の首謀者でもありますから、必ずしも当たっていないでしょう。
それにしても「近代化を目指した」と言いながら、昭和14(1934)年のノモンハン紛争ではソ連軍の戦車部隊や戦術に完膚なきまで叩きのめされていますから、基礎となる科学技術がなければ無理は話だったようです。
宇垣陸相は岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町)の農家の末っ子で、連合艦隊参謀長だった宇垣纏中将(22歳年下)も同郷ですが姓は同じでも親戚ではないそうです。
  1. 2015/04/29(水) 08:55:36|
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