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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月14日・榊原康政の命日

慶長11(1606)年の本日5月14日(太陰暦)は徳川4天王・榊原小平太康政さまの命日です。
康政さまの榊原家は松平家の直臣ではなく三河・上野城主(現在は東名高速の上郷SAがある辺り)・酒井忠尚さんの家臣だったのですが、康政さまは幼い頃からの博識と能筆を買われ、13歳で家康公の小姓になりました。康政さまの岡崎・大樹寺で学んだ能筆は家康公に重宝がられていたようで、この時代の書状には亀丸=康政さまの筆による物が多いとのことです。
その2年後の永禄6(1563)年に勃発した三河一向一揆で初陣を飾り、武勲を上げて家康公の1字を与えられて康政と名乗ります。ところが主君の酒井忠尚さんは一揆側について籠城し、攻撃されると東へ逃亡したので、ここからは松平家の直臣・譜代に加えられたのでしょう。
さらに3年後の永禄9(1566)年に19歳で元服し正式に榊原康政となりました。ちなみにこの年の12月19日に家康公は勅許を得て松平から徳川へ改姓しています。
その後は同じ年の本多平八郎忠勝さまと好敵手の親友として切磋琢磨し、武勲を重ねていきます。
特に元亀元(1570)年に家康公が織田信長の軍に加わって浅井・朝倉の連合軍を撃破した姉川の合戦では朝倉軍の側面を突き、壊滅させる大殊勲を挙げました。
元亀3(1572)年の三方ヶ原の合戦で本多忠勝さまは逃げる家康公を守るしんがりを勤め、押し寄せる武田軍を一手に喰い止める荒武者振りに信玄公から「家康には過ぎた物が2つあり、唐の兜と本多平八」と称賛されましたが、康政さまも浜松城外に潜伏して敗走してくる兵士を集めて編成を取り、城に迫った武田軍を背後から襲い三方ヶ原を抉るように走る崖の絶壁から追い落としました。
設楽ヶ原の合戦や高天神城攻めでも武勲を重ねたのですが、武田勝頼を滅ぼして3ヶ月後に起こった本能寺の変で家康公は女性2名を含む34名の供回りだけを連れて堺に滞在しており、三河・浜松に帰るためには和泉から河内、山城、近江を経て(洞ヶ峠には大和の筒井順慶の動向を見定めるため光秀が出兵していた)伊賀を越えなければならず、地元民から落ち武者と見なされればたちまち襲撃されてしまいます。その時も康政さまは徳川4天王の1人として家康公を守り無事に帰りつきました。この難行軍で出遅れた家康公は羽柴秀吉に光秀打倒の先を越され、天下取りが先延ばしになっていまいますが、その間の小牧・長久手の戦いでも康政さまは活躍して旧主家である酒井家の忠次さまと同格の徳川4天王と称されるようになっていったのです。
家康公が家臣たちを評した言葉では「康政は武勇では本多忠勝には及ばないが、衆=兵を使う指揮能力では忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とあります。
康政さまの名が武勲の割に徳川4天王の中で今1つなのは徳川の主力を率いて中山道を西進していた秀忠が真田昌幸の挑発に乗って上田城攻めに引き込まれ、関ヶ原の合戦に間に合わなかった失態の責任を問う向きがあるからでしょう。実際には康政さまの「関ヶ原へ急ぐべきだ」との諫言も真田の挑発に怒っている若い秀忠は聞かず、他の側近たちまで同調したためどうしようもなかったと言われています。
この責任を感じていたのか康政さまは幕府が開かれてから水戸へ25万石に加増・転封する話を断り、上野国・館林10万石の領主として59歳の生涯を終えました。
榊原小平太康政
石井あゆみ作「信長協奏曲」の榊原康政さま
  1. 2015/05/14(木) 09:18:03|
  2. 日記(暦)
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