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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月22日・会津城落城

1868(明治元)年の明日9月22日は会津城が3カ月の攻城の末に落城した日です。
会津の方が未だに長州を許さず、山口県人と判るとタクシーが乗車拒否したりすることを山口県人は「執念深い」などと言いますが、山口県在住の東北人の野僧は「お前らがよくその台詞を吐く」と嗜めることにしています。
会津人が長州を許さないのは戊辰の役の敗戦が理由ではなく、そこで長州が行った武士道は元より人道にも悖る卑劣な振る舞いが故であります。
長州は禁門の変に於いて会津、薩摩軍に完膚なきまでに叩きのめされ、それまで京都での尊王攘夷運動で演じていた主役を失いましたが、それは長州藩内の過激派の暴走を止められなかった自業自得であり、会津藩は京都守護職として職務を遂行したに過ぎず、実際、長州敗走後には孝明天皇から功績を称賛されています。
ところが長州藩は旧敵・薩摩とは手を結ぶながら会津への恨みを忘れず、鳥羽伏見の敗戦後、奥羽越列藩同盟は結びながらも非戦の態度を取っていた会津に無理難題を押し付け、さらに屈辱的な挑発により戦いに追い込んだのは長州の私怨と言っても良いでしょう。
そして近代兵器を持つ長州軍は優位に戦いを進めたのですが、身分の上下、年齢の老若、男女の別まで問わず忠義に命をかけることを怖れぬ会津藩士は勇猛に戦い続け、3か月の攻囲の末、砲撃により会津城の天守閣は破壊されようやく降伏したのです。
ところが長州はここでも武士道・人道に反する暴挙を繰り返したのです。
降伏の席で藩主・松平容保公に対し正座をさせながら長州軍は床几に腰をかけて見下ろし、下級武士まで立ったままそれを眺める屈辱を与えました。
さらに会津若松の街中に斃れた藩士の遺骸を埋葬することを禁じ、夜の闇に紛れてそれをすれば、たちまち長州軍に咎められたため、遺族たちは父や夫、兄の遺骸が野犬に食い千切られ、朽ち果てて行くのを黙って見ているしかなかったそうです。
そして最大の暴挙は戊辰の役は終結した後、会津藩を青森県下北半島の不毛の地・斗南へ転封させたことです。会津藩は若い働き手の殆どが戦死するか戦傷を負っており、しかも資金も戦費として藩に上納していたため、未開の原野を耕作して収穫を得るまでの食料もなく、労働力が老人か女子供ばかりでは開拓も十分には進まず、多くが餓死、凍死、病死しました(来年の大河ドラマで描かれるかも?)。
「この過ちを深く反省しろ」と言っても絶対に自分たちの非を認めない県民性につける薬はないですな。この戦いを起こした元凶・世良脩蔵やこいつを育てた師の殺生僧・月性を未だに顕彰しようとしているくらいですから。
  1. 2012/09/21(金) 10:46:12|
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