fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月24日・西郷南洲の命日

1877(明治10)年の明日9月24日は西郷南洲先生の命日です。 
始めに断っておきますが西郷隆盛と言う誤名が定着している吉之助さん・南洲先生の諱(いみな)は「隆永」で、普段は「吉之助」の名を用いていたのです。
ところが明治新政府から官位を贈られことになり、諱を記する必要が生じて確認しようとしてたのですが、本人は函館戦争を指揮した帰路であったため友人の吉井友実に確認したところ、間違えて南州先生の父親の諱である「隆盛」と答えてしまったのです。そして南洲先生は「誤りを指摘すれば朝廷に恥をかかせることになるから」とそのままにしたと言われています。
征韓論で敗れた南洲先生は薩摩に戻ったのですが、何故、征韓論を主張したのかを問われたのに対して「戊辰の役で多くの者が生き残り過ぎた」と答えたそうです。
つまり南洲先生は新政権が成立した時、敗れた士族が反乱を起こすことを怖れ、そんな不平分子たちを戦争で殺すことが目的だったと言うのです。この高所に立ち大局を見渡した冷徹な達見には畏敬の念を覚えます。
また薩摩に下野した南洲先生の下には戊辰の役に於いて降伏した際、その高潔な人格に触れ心酔いていた庄内藩の酒井公が若い藩士たちを派遣しており、西南の役でも従軍しています。
ちなみに庄内には薩摩よりも早く南洲神社が創建され、生き残って帰郷した藩士たちが「西郷南洲先生遺訓」を発刊し、その思想を知る貴重な資料になっています。野僧もその研究会に入っていた山形の親族から多くを学びましたが、全国的に嫌われている長州とは正反対の印象を抱いているようでした。
ただ、西南の役では田原坂での敗戦以降、西郷軍は宮崎県を通って薩摩に向け敗走したため、その通り道になった地域では住民が巻き込まれて死傷し、集落や住居などが破壊され、多大の損害を被っています。現在では南州先生が英雄になっているため日向人も表だった批判はしませんが、陰では声をひそめて恨み節を囁いています。
城山で南洲先生は足を負傷して籠に乗って付き従っていた別府晋介さんに「晋どん、もうここらでよか」と切腹の覚悟を伝え、晋介さんは「御免なってたもんし(お許し下さい)」と言って涙ながらに介錯したそうです。
しかし、西南の役に代表される不平士族の反乱は、旧幕軍側ではなく薩摩、佐賀、萩など謀反軍側で相次いだのは南洲先生の読み間違いでしょうか。
  1. 2012/09/23(日) 09:35:49|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<9月下旬・九戸城が落城 | ホーム | 東三河権衆(ごんぢゅう)論>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/248-f6c031da
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)