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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月下旬・九戸城が落城

豊臣の時代になっていた永禄11(1568)年、秀吉への無条件降伏を選んだ主家に反発した九戸政実を南部信直(のぶまさ)は自分ではなく秀吉への謀反として届け、奥羽仕置きに来た豊臣秀次、蒲生氏郷、浅野長政、井伊直政らの中央派遣軍の力を借りて制圧しようとしました。
しかし、九戸城の守りは固く容易に落ちなかったため、あろうことか家臣の助命を条件に降伏を勧め、それに応じた政実をだまし討ちにした上、城内にいた家臣、城兵、領民を婦女子に至るまで皆殺しにしました。
いまでも政実が斬首された9月下旬(20日の説あり)になると、九戸城への街道には武者行列の亡霊が現れ、女子供の泣き声が響き渡ると言われています。
そもそも南部家は鎌倉時代、奥州藤原氏が滅ぼされた後、送りこまれた甲斐武田家と同族の源氏の家柄で最初からの進駐軍でした。したがって家臣・領民をいたわる気持ちに欠け、家臣の反発に対しても策略や中央の力を借りての弾圧を繰り返し、領民には重税を課す暴君でした。
また、天明の大飢饉の折、南部藩では江戸で米が高騰していることを聞いて、領民を救済するどころか徹底的な搾取を行い、農民の種もみまで取り上げたため天候が回復しても耕作が出来ず、被害を拡大、深刻、長期化させました。
さらに江戸時代も後半の藩主・南部利敬は、津軽公が幕府の要職である侍従に推挙されたと言う噂を聞いて下位に立たされることを悔しがり、文政3年、実際に就任すると怒り狂った挙句、憤死したのですがその時、「津軽が許せん」と言い遺したため、それが遺言となって家臣に伝わり、下苫米秀之進は「主君の無念を晴らそう」と江戸参勤から戻る津軽公の暗殺計画を企てました。
ただ、この計画は銃撃用の密造銃を請け負った職人によって津軽藩に漏れ、津軽公は帰国のコースを変えて難を逃れましたが、下苫米は江戸に逃れ相馬大作と名乗っていましたが、すぐに捕縛されて斬首されました。当時でも街道通行の安全を脅かすことは公共の重罪であり、忠臣を死に追いやった南部の馬鹿殿振りを象徴する事件です。
トドメに戊辰戦争の時、南部は奥羽越列藩同盟軍の先兵として薩長側についた秋田・佐竹藩を攻撃したのですが、後に東京・九段に造られた靖国には薩長軍側の戦死者は軍神として祀られている一方、幕府側は賊軍として現在も差別されています。
ところが2009年1月に亡くなった南部家42代当主・南部利祥氏は、長く靖国の宮司を勤めながらこのことには何も手を着けず、ただ日露戦争で戦死した当主の慰霊だけを行っていたようです。
浅田次郎先生の名作「壬生義士伝」では主人公・吉村貫一郎が最期まで南部武士の忠誠と誇りを失わなかった姿を感動的に描かれていますが、逆に言えばこれ程の武士を脱藩せざるを得ない窮状にまで追い詰めた南部藩の愚かさの物語と読むことも出来ます。
  1. 2012/09/25(火) 11:25:07|
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