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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月19日・鼠小僧次郎吉が刑死した。

天保3(1832)年の明日8月19日(太陰暦)に義賊と呼ばれた実在の泥棒・鼠小僧次郎吉が刑死しました。次郎吉は無学文盲ですが抜群の記憶力の持ち主で2度目の捕縛後の取り調べでは時系列ごとに詳細な供述をし、奉行所の役人が驚嘆したと言われています。このため盗人でありながら一代記のような記録が残っているのです。
次郎吉は江戸・吉原門前に住む町人の息子として生まれ、商家へ奉公に出て戻った後、鳶職の親方に弟子入りしました。次郎吉は小柄で身軽なため高いところに登るのは得意でしたから真面目に働くかと思いきや博打・女色を覚え、稼ぎを湯水のように浪費し始めたのです。このため親も堪忍袋の緒が切れて25歳で勘当されました。こうなると特技(=次郎吉の場合は身軽さ)を悪用するのはよくあることで、たちまち盗人稼業に入ったのです。
次郎吉が狙いをつけたのは大名・武家屋敷でした。豪商は財産を守るため金目の物は堅牢な土蔵に収めている上、浪人やヤクザを用心棒に雇っており、見つかれば惨殺されて闇に葬られる危険性がありました。一方、大名屋敷は外への警戒は厳重でも(と言っても門番と巡回だけ)内側は広い敷地に家族が別れて住んでおり、家臣の控えの間も身分ごとに分散しているのです。さらに体面を気にするため泥棒の被害を家の恥として届け出ないことも見抜いていたのかも知れません。当時の制度では大名屋敷は大目付、庶民の犯罪は町奉行の管轄なので合同捜査本部が設置されない限り上手くいかないのも明らかでした。
こうして28軒、32回の窃盗を繰り返した後、土浦藩(藩主は土屋彦直)屋敷で捕縛されます。当時の刑罰の規定では「10両盗めば首が飛ぶ」と言われていた通り被害金額が重要でしたが、前述のように大名家は面子を重んじて被害届を出しておらず、次郎吉は「初めて泥棒に入った」と嘘の供述をして、刺青の上、中追放に処せられました。中追放と言うのは田畑、家屋敷を没収され、犯罪被害地と居住地、武蔵と摂津、和泉(=大坂)、大和、肥前、下野、甲斐、駿河の各国、東海道沿道、木曽路沿道、さらに江戸10里四方への立ち入りを禁ずるものです。
それで次郎吉は一旦、姿を消したものの勘当されたはずの父親の長屋に舞い戻り、また博打や女色に走って盗人稼業を再開しました。
それから7年間に71軒、90回の窃盗を繰り広げ、小幡藩(藩主は松平忠恵)屋敷で捕縛されたのです。ここで自分の生い立ちから過去の犯行歴を詳細に供述しますが、大名家などからの届け出がないため立件は不可能でした。それでも北町奉行・榊原忠之は市中引き回しの上、死罪、獄門の判決を出します。本来、窃盗は前述のように斬首ですが、次郎吉が大名・武家屋敷を専門に荒し回っていたことで、「武家の体面を傷つけた」として重罪人扱いされたのです。
ところが市中引き回しは噂を聞いた庶民が伝馬牢から小塚原の刑場までの沿道に殺到してパレード状態で、奉行所としても庶民の反発を懼れ、派手な装束を着せ、化粧まで施していたと言われています。このため次郎吉が「天の下 ふるきためしは 白波の みこそ鼠と あらわれにける」と辞世を吟じたと言う伝説が生まれましたが、無学な盗人には無理な話でしょう。
次郎吉が義賊と呼ばれるようになったのは、かなりの金額を盗んでいたにも関わらず本人は貧乏長屋でつつましい生活をしており、捕縛後の家宅捜索でも小判どころか、めぼしい家財道具もなかったそうです。このため金の使い道が話題になり、庶民の希望を込めた噂が噂を読んで「盗んだ金を貧しい家々に投げ込んだ」と言う義賊伝説が出来上がったのです。
映画、テレビ、漫画などにも登場し、「ルパン3世」にも4代目が出てきました。
鼠小僧次郎吉みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2015/08/18(火) 09:34:53|
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