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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月26日・「聖職の碑(いしぶみ)」駒ヶ岳遭難事件が起きた。

大正2(1913)年の明日8月26日から新田次郎さんの名作「聖職の碑」の題材になった木曽駒ケ岳遭難事件が起きて校長と生徒10名が犠牲になりました。
野僧は「アラスカ物語」を読んで新田次郎さんのファンになって以来、乏しい小遣いの中から「八甲田山死の彷徨」「芙蓉の人」「富士山頂」に続いてこの作品も購読しました。
この事件は夏休みの集団宿泊行事として木曽駒ケ岳に入山していた長野県伊那郡中箕輪村立中箕輪高等小学校(現在の中箕輪中学校)の2年生25名と引率の赤羽長重校長、征矢隆得訓導(現在の教諭に相当する)、清水政治准訓導、そして同行した卒業生10名が遭難したもので、集団行動中の遭難犠牲者数としては明治35(1913)年1月の八甲田山雪中行軍の199名と収容後の死亡者6名や昭和38年1月の薬師岳愛知大学山岳部遭難事件の13名に次ぐものです(昭和48=1973年3月の富士山異常気象事故や平成26=2014年9月の木曽御嶽山の噴火、平成3=1991年の雲仙普賢岳の火砕流などは除きました)。
木曽駒ケ岳は海抜2956メートル、千畳敷カールや高山植物などの見どころが多く、交通の便が良いこともあり今でも非常に人気が高い山です。駒ケ岳と言う名前は春先になると中岳の山腹に馬の形の残雪が現れることに由来し、この他にも島田娘や種蒔き爺が現れ、麓の人々に季節の推移を知らせているそうです。ちなみに地元では全国各地にある駒ケ岳の最高峰である甲斐駒ケ岳(海抜2967メートル)を東駒、木曽駒ケ岳を西駒と並び称する一方で、連山である木曽前岳、中岳、伊奈前岳、宝剣岳を木曽駒と総称することもあります。山容としては個性的な宝剣岳が一番目立っていますが。
登山計画では8月26日午前5時に麓を出発、途中で内ノ薹、行者岩、将棊山、濃ガ池などの名所を巡りながら中岳に登り、その稜線から駒ケ岳山頂に到達し、そこで野営をして翌27日に下山、学校で解散の予定でした。ところが出発時には好天だったにも関わらず季節外れの台風が関東地方に接近した影響で天候が急激に悪化し、山頂に到着したのは計画から大幅に遅れた午後8時前後だったのです。その頃には暴風雨状態になっており野営は断念、無人の山小屋に避難しますがここも大きく破損して風雨をしのぐことができず、さらに夜間の冷え込みで山頂付近は零下になっていたと推察されています(「雨水が凍った」との証言がありました)。
このため翌朝、生徒の1人が低体温症で死亡、2名が意識混濁になったため暴風雨の中、校長と清水准訓導が2名を背負い下山を開始したのです。ところが天候は悪化の一途を辿り、ようやく濃ガ池に着いたところで生徒2名が死亡、生徒に防寒用シャツを与えていた校長もあの世へ引率するかのように倒れました。それでも生存者たちは下山を続けますが、先に村へ向かい急報しようとした征矢訓導と生徒を背負って疲労していた清水准訓導で前後に大きく離れてしまったため、生徒や卒業生たちは自分の判断で下山しなければならなくなったのです。
昼過ぎになって生徒の一部が内ノ薹村に辿り着き、遭難を知った村人たちによって駐在所の巡査を指揮官とする20名の救助隊が編成されて出発、続いて麓の伊那警察署からの40名に医師と郡役所の職員が同行する約70名の救助隊が出発し、消防団約700名も招集されました。
こうして行われた捜索の結果、道に迷っていた生徒や卒業生たちも救助されましたが11名が命を落としたのです。
現在では天気予報の確認は登山の基本中の基本ですが、国民新聞が全国版の天気図を掲載し始めたのは大正13年8月、ラジオで天気予報が流されるようになったのは大正14年3月からなので当時は東京の中央気象台に依頼しなければ天気予報は判りませんでした。合掌

  1. 2015/08/25(火) 09:06:00|
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