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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月28日・徳川四天王の筆頭・酒井忠次の命日

慶長元(1596)年の明日10月18日(太陰暦)は徳川四天王の筆頭である酒井忠次さまの命日です。忠次さまの他の徳川四天王は本多忠勝さま、榊原康政さま、井伊直政さまですが、この3人は家康公の代になって仕えたのに対して忠次さまは先代の松平広忠さまからです。
織田から取り戻された竹千代くん(後の家康公)が今川の人質として駿府に送られる時には23歳になっていましたが相手役として同行しました。
駿府で竹千代くんが元服するとそのまま家臣として仕え、永禄3(1560)年に桶狭間の合戦で今川義元が討たれて岡崎に戻り、宿老として重んじられていきます。
永禄6(1563)年初頭から約1年間の三河一向一揆では一族の多くが門徒側に与した中、あくまでも家康公への忠義を貫きました。
一揆を鎮定して家康公が三河統一に乗り出すと吉田城(現在の豊橋市)攻めでは先鋒を務め、城代・小原鎮実を敗走させ城主を任されています。このため東三河での国人・豪族の取りまとめ役としての役割を果たすようになりました。
家康公が三河の主となり、織徳同盟によって東に勢力の拡大を図るようになると甲斐の武田晴信(=信玄)公も駿河を手中に収めるべく動き出し、その交渉を担当しました。
しかし、武田は駿河、徳川は遠江と言う約定があったにも関わらず武田軍の一部が侵入し、その違反を巡り苦しい立場に置かれます。さらに晴信公が上洛に動き、飯田街道を南下し始めると東三河の諸将は続々と寝返り、苦境に追い打ちを掛けられたようなものでした。
三方ヶ原の合戦では浜松城に逃げ帰ると城門を開け広げさせて松明を炊き、櫓で陣太鼓を打ち鳴らしたと言う伝承が残っています(歌舞伎の演目「太鼓音智三略」にもなっている)。
これは暗夜に逃げてくる味方に城門の位置を知らせるためとも考えられますが、これを見て追手の武田軍は「何か奇策があるに違いない」と勘繰り撤退したと言われています。
長篠の合戦では軍議の席で「(武田側の)鳶巣山砦の奪取」を主張したところ、信長公から「決戦を前に小手先の策を弄するとは」と嘲笑されますが、後で1人呼ばれ「敵に内通している者がいるかも知れないから否定したが、極めて優れた策である」と称賛され、4千名の兵を与えられ攻撃の指揮を命じられました(添付した絵はその場面)。この結果、長篠城を救った上、退路を断つことにもなり、武田騎馬軍団は織田・徳川連合軍が馬防柵を建てて待ち構えている設楽ヶ原で死の突撃を敢行せざるを得なくなったのです。
その後も軍功を上げて徳川家筆頭の重臣となっていきますが、忠次さまの隠居後に嫡男の家次さんが家康公から与えられた禄高は3万石で、他の四天王たちが10万石であることに比較すると冷遇と言えました。
そのことを家康公に抗議すると「お前でも息子が可愛いのか」と言われたそうです。それは家康公の嫡男・信康さまと正室の築山どのに信長公から謀反の疑いが掛けられた時、弁明のために安土城へ派遣された忠次さまが武田との内通を認め、自刃を阻止できなかったことを指していたのです。家康公は信康さまが二俣城で自刃する時、逃がさなかった大久保忠世さまにも同じことを言ったとの伝承があります。
近年、インターネット上では信康さまの自刃はその武勇を懼れた家康公の画策であったと言う説が出ていますが、素人の奇をてらった邪推に過ぎないでしょう。家康公は祖父・父が非業の死を遂げる悲哀を味わい続けていますから我が子を手に掛けるようなことはあり得ず、築山どのを失って以降、秀吉に妹・旭を押しつけられるまで正室は娶っていません。
酒井小五郎忠次石井あゆみ作「信長協奏曲」より
  1. 2015/10/27(火) 09:08:09|
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