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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

野草山岳録・師僧編

「野草山岳麓(野僧参学録)」(師僧編)

○エピソード0、野僧は小学生の頃、師僧の寺の本堂の壁に、墨書した「生をあきらめ、死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり」と言う修証義第一章「総序」冒頭が貼ってあるのを見て、無邪気に師僧に問いました。
「生を諦めたら死ねばいいけど、死を諦めるにはどうすればいいの?」すると師僧は、「それは坊さんになれば判る」と答えてニヤッと笑いました。
実は、この「あきらめ」とは「諦め」ではなく「明らめ」のことだったのですが、出来れば先に誤読を訂正してもらいたかったものです。
野僧は、高校に入り、「卒業までに図書館の世界哲学全集を読破しよう」と目標を立てて読み進み(3年の冬休みで達成した)、その寄り道として二年の夏休みに「正法眼蔵」を読んで、「生を明らめ」と書いてあるのを見て初めて誤読を知ったのですから。

○エピソード1、中学生1年の頃、師僧の寺に預けられていました。
ある日、野僧の小学校の友人が遊びに来て、元教師の師僧を交えて雑談をしていました。師僧が友人たちに訊きました。
「君たちは将来、何になるつもりかね?」すると畳屋の息子である友人は「畳屋を継ぎます」と即答しました。「建具屋になります」と建具屋の息子の友人も答えました。
「お前はどうするんだ?」師僧は、二人の答えに感心しながら野僧の顔を見ました。
「歴史の教師かな」、野僧がその頃の憧れの職業を言うと「ならもっと勉強しないとな」と厳しい顔をしたので、「だったら坊さんになろうか」と野僧がその場を誤魔化そうとすると、「だったら、頭を剃ってやる」と真顔をしました。
今思えばこの時、野僧は師僧に佛教僧としての種を蒔かれたようです。

○エピソード2、高校受験の頃、野僧には憧れていた学校がありました。
それは「自衛生徒」と言う海上自衛隊の下士官養成学校でしたが、この学校の受験は国数英理社の5科目で、その頃の高校受験よりも2科目多く、したがって野僧は他の受験生よりも余分な勉強をすることになったのですが、努力の甲斐があって何とか合格することが出来ました。しかし、合格してから父が突然、「給料をもらいながら学ぶのは中卒で働くのと同じだ」と言って猛反対しました。
「お前の父は、『自分が解らない』と言うことを理由にして怒る。理解しようともしない」志望を断念させられ(合格通知を破り捨てられた)、努力が無駄になり、無念の涙をこぼす野僧を師僧はこう慰めました。そして「お前の人生はお前のものだ、誰かに決められていてはつまらんだろうが」と励ましてくれました。
この頃から、野僧は師僧を両親よりも尊敬し、信頼するようになったのです。

○エピソード3、野僧は「大学へ行け」と言う父の命令で県立の普通科高校へ進学することになりましたが、そこはそれなりの伝統校だったので図書室には愛知の県立高校屈指の蔵書がありました(第2図書室もあった)。
入学時の校内案内で図書室へ行き、野僧はズラリと並ぶ蔵書の中で、世界哲学全集だけが新品に近い状態なのに気がつき手に取りました。
そして、「創立以来70年の先輩たちにも哲学全集を読む人はそれほどいなかったのか」と想い、「自分が卒業までに全巻読破しよう」と決意しました。
それから野僧はこれを実行し、次々と読破していきましたから(理解出来ていたかは別)、高2の時の倫理社会では試験はほぼ満点、答案用紙の裏に出題されている哲学者の思想について述べたため、先生(東大卒)はオマケで120点をくれたりしていました。また、その先生は電車でも一緒になり、通学の車内で読んでいる本の質問をして、哲学の魅力にはまっていきました。
そんなある日、マルクスの資本論を読んで疲れた野僧は、気分転換のため日本哲学全集の清沢満之を読み、深く感銘を受けました。
野僧は清沢満之を通じて親鸞聖人を知り、教行信証や和讃を読み、先生や師僧に質問を繰り返し、やがて龍谷大学や大谷大学へ進学して、もっと深く学びたいと願うようになりました。
ところが父は野僧の志望を「哲学なんかで飯が喰えるか。社会科が得意なら経済科か法学科へ行け」「寺なんかへ遊びに行くから変なモノに染まるんだ」と中学の時と同じことを繰り返しました(防衛大学校も自衛隊生徒と同じ理由で禁じられた)。
さらに高校3年の年、家を増築した上、妹が私立高校へ入ったため学費がなくなり、地元の大学へ進まざるを得なくなりました。
師僧は「駒沢大学か愛知学院大学では駄目か?宗門の大学なら何とかできるかも知れない」と言ってくれましたが、もう大学進学への熱意は萎えてしました。

○エピソード4、航空自衛官になってすぐに同期が体育訓練中に殉職し、半年後には、入校していた浜松基地でブルーインパルスの墜落事故を目の当たりにしました。
野僧は、「自衛官としての死」と言う疑念を抱き、師僧に問いました。
すると師僧は「人には死ななければならない時は確かに有る。しかし、それは度々あるものじゃない。普通は無いものだ。お前たち自衛官は死に近い、死を直視する職業なんだろう」。師僧はそう言って野僧に「坐禅をせよ」と勧めました。
ブルーインパルス4
○エピソード5、航空機整備員として赴任した那覇基地で、今度はT―33Aの死亡事故を目の当たりにしました。
そして、部隊葬が行われる時、遺骨を抱いた奥様が乗った車に向ってデモ隊が罵声を浴びせるのを見て、「この国のために死ぬ」ことに深刻、切実な疑問を抱きました。
「戦死すれば軍神になることが出来た旧軍人が羨ましい」、帰省してパイロットたちが口にするブラックジョークを話すと、師僧はこう教示しました。
「誰かのため、何かのために働くのではなく、職業そのものを目的にせよ。任務遂行だけを目的に精進努力せよ」。この教えが、その後の野僧の使命感に重なりました。

○エピソード6、野僧に沖縄で愛する女性が出来たことを知った両親は、父の長兄に相談し、「そんな遠くては親戚つき合いが出来ない」「歴史も文化も違う相手とは上手くいくはずがない」と無理やり引き裂き、その後も同じことを繰り返しました。
野僧が親には言えない沖縄での彼女との楽しい話をしながら悔し涙を流すと、師僧は、「本当の親孝行とは子供が幸せになることだ、それをお前の親や親戚は、自分たちの考えに従わせることだと思っている、もう、お前は沖縄から帰って来るな」と駆け落ちまで勧めてくれました(今は、そうすればよかったとシミジミ思っています)。

○エピソード7、やがて佛教書を読み漁り、帰省の度に師僧に疑問を問うようになりましたが、それが言葉、知識にとらわれる、理屈で佛教を理解することに陥っていきました(後年、小浜でも、「典(書物)は読み尽くせ」と名づけられましたが)。
ある時、師僧は野僧の顔の前で手を叩くと「今、どちらの手が鳴った?」と問いました。野僧がしたり顔で「片手では鳴らない、鳴るはずがない」と答えますと「本当に鳴らないか?」と念を押し、いきなり平手で野僧の顔を一発叩き、「どうだ、鳴っただろうが」と言いました。その瞬間、野僧の中で理屈を越えた「佛法」が鳴り響きました。

○エピソード8、ある夏季休暇、野僧が坐禅を組んでいると師僧がやって来て、「暑いじゃろう」と訊きました。そこで「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」と答えると、「滅却したなら、その心頭を見せてみろ」と言って両手を差し出しました。
○エピソード9、大韓航空機撃墜事件が起こり、野僧が所属する第83航空隊も実質的な戦闘態勢に入り、約2週間、連日連夜の防空任務を遂行しました。
次の帰省時、その苦労話をすると父は、「お前らは国民に断りもなく勝手に戦争を始めるつもりか」と一方的に非難しました。
失意のうちに同じ話をすると師僧は、「今の平和そうな日本でもそんなことがあるんだな」と労をねぎらいながら、「命を懸けるに値する今の仕事こそ最高無上の修行なのだ」と励ましてくれました。
「仕事こそ修行」。この職業に何の見返りを求めないと言う美意識が、野僧の中でやがて「陽明学的使命感」に発展し、「現代の武士道」へと確立していきました。

○エピソード10、ある冬、沖縄から帰省した野僧は師僧の寺の大掃除に励みました。すると素足に冷水で本堂の雑巾がけをする野僧に師僧が心配して声をかけました。
「沖縄から帰ってきたばかりじゃあ、寒さが堪えるだろう」
「これも修行だから」野僧がそう答えると「修行と思っているうちはまだまだだな」と言って自室に帰っていきました。

○エソード11、帰省の度に師僧の寺を訪ね、道を問うていた野僧に師僧は、「趣味の座禅なら今のままで良いが、ここから先を知りたければ頭を剃れ」と言いました。
野僧も「望むところ」と快諾し、「善は急げ」とばかりに即日得度したのでした。
「江戸時代に鈴木正三(しょうさん・師僧と同じ愛知県豊田市の出身)と言う三河武士出身の禅僧がいた。正三は『坊主よりも武士の方が修行になる、なぜなら武士は常に生死のギリギリの所に生きているからだ』と言っている。お前も自衛官の仕事を修行と心得て精進せよ」これが得度に当たっての垂訓でした。
得度式
○エピソード12.はじめ師僧は野僧に「大愚」と言う道号を与えようとしました。
それを聞いて野僧が「大愚なら良寛和尚と同じだね」と言うと、師僧は「何だ知っていたのか」と愉快そうに笑い、野僧は「名前負けしないかなァ」と答えました。
その時、それを書いた紙をのぞいた野僧の母親が、「そんな愚か者、大馬鹿みたい名前は駄目だ」と反対しました(だから素人は困る)。
すると何故か母親に頭が上がらない師僧は「そうか・・・」と考え込み、そして、「お前は航空自衛官だから大空、色即是空の大空にしよう」と言いました。
「愚」ではまだ「愚なる自己」が残る、それも捨てて「空っぽ」、本当に良い名前です。
ちなみに真言宗の根本経典である理趣経の中にも「大空」の概念が出て来ますが、後日、その話を師僧にすると、「お前はワシも読んでおらんような本を読んどるなァ、ワシも勉強せんといかん」と感心してくれました。

○エピソード13.野僧は山口県防府市に転属になり、近所にあった玉林寺と言う寺へ毎週ごとに通い、作務や坐禅、色々な御話をうかがうようになりました。
御住職は杉原正信師(平成十五年四月十九日遷化)。杉原師は山口県宗務所長も務めておられたものの、その頃には脳梗塞の発作を二度起こされて半身不随、言葉も不自由にしておられました。
一方、元教員の御庫裏様(平成十六年二月十二日逝去)は方丈様の御世話と家事に、寺の作務と檀家さんへの対応まで一手に引き受けて毎日忙しくしておられました。
この話を師僧にすると、「弟子が御世話になります」と玉林寺様に手紙を出してくれて、こうして筋を通してもらったおかげで、玉林寺様も野僧を僧侶と認め、安心して作務を任せ、お勤めや坐禅も自由にさせて下さるようになったのです。
玉林寺で不自由な身体となっても威厳を失わぬ方丈様と、苦労に耐える訳でなく、逃げる訳でもなく、淡々漂々と受け入れ、通り過ごしているかのような御庫裏様の御姿に身近に接していたことは、百の法語を聞く以上の教訓を与えてくれました。

○エピソード14、野僧に子供が出来た時、師僧は一言「この子は国の子だぞ、お前なら解るだろう」と言いました。
「国の宝だね、磨き上げなければ」と野僧が答えると、師僧は満足そうにうなづいて、
「お前なら自分の価値観を押し付けるようなことはせんだろうが、磨き上げたなら、パッと解き放って自由に飛び立たせてやれ」と祝いの言葉を贈ってくれました。
しかし、これには些か野僧の両親への皮肉が込められていたような気もしています。

○エピソード15、師僧は実弟を亡くしてから、急に弱っていきました。
野僧は、釋尊の入涅槃に倣い、なるべく機会を作っては帰省をして、師僧から最期の教え、末期の一句を受けようと努めました。
そして別れ際には必ず、「私は軍人だから見事に死ぬ覚悟は常に持っている。どっちが先になるかは判らんが生前は御世話になりました」と挨拶しました。
その真意が、野僧が師僧に送る「永訣の辞」であったことは言うまでもありません。
すると師僧は、「わしは坊主としての生き方が出来なくなったなら食を細うして、やがては断って、長患いをせずに死ぬつもりだ」と覚悟を伝えました。
実際、師僧の死に際はその通りだったようです。

○エピソード16、師僧の遷化に野僧は立ち会うことは出来ませんでした。
師僧は年賀状に「今年は来るべきものが来る、何だろう」と自分の死を予告していました。そして、昭和63年3月11日に遷化したのですが、野僧は「仕事を修行と心得よ」との教えを守り、担当していた学生の教育に区切りがつくまで帰らないと伝えました。「それでいいんだ」師僧は野僧の決心を聞き、うなづいていたそうです。

○エピソード17、師僧が遷化した夜、野僧は玉林寺を訪ね、海から漁師の網で引き揚げられたと言う薬師如来にお勤めさせていただきました。
これは師僧の寺の本尊・薬師如来に通じるようにとの思いを込めてのことでした。
この時、御庫裏様は、「かけがえのない方を亡くされましたね、これからも御精進下さい」との悔みの言葉をかけて下さいました。
野僧にとっての師僧の存在を一番御存知だったのは、血もつながらない、師僧に会ったこともない、この御庫裏様とおそらくは方丈様だったのです。
そして、玉林寺が師僧の死後、野僧の居場所になりました。

○エピソード19、師僧が遷化して1ヶ月が過ぎた頃、野僧は夢を見ました。
若い頃に戻った師僧が、法衣に手甲、脚絆に草鞋をつけて、雲水行李に網代笠を持って、山門前に立っていました。並んでいる親族一同に「それじゃあ行くな」と一言、笠を被って振り返らず、スタスタと門前の道を歩み去っていきました。

○エピソード20、一周忌の時、師僧と同年輩の和尚様からこんな話を伺いました。
師僧は生前、「わしに跡取りではなく弟子が出来た。今の時代に勿体ない事だ」と喜んでいた。そして、その和尚様が「禅僧冥利に尽きるますな。本当にうらやましい」と言うと、本当に嬉しそうな満足そうな顔で笑っていたとのことでした。まさに「弟子冥利に尽きます」
師僧・文海敏章老師

「野草山岳麓(野僧参学録)」(現世往生の事)

○エピソード1、某街で托鉢をしている時、一軒の小さな阿弥陀堂の前を通りがかり
ました。そこで野僧は「阿弥陀如来根本陀羅尼」と「念佛」を唱えたのですが、すると中から「あんたの念佛はいいのォ、西方まで届きそうじゃ」と言いながらお爺さんが出てこられました。
その方は、着古した作業服、ズボンを着ておられましたが、物腰は品がよく、柔和な笑顔にも威厳があって一見して徳の高い和尚さんだと判りました。
「托鉢僧ですから、家の中まで聞こえないと仕事になりません」と野僧が答えると、和尚さんは「ハハハ・・・」と愉快そうに笑われ、「ワシは念佛の坊主だが、今時、うちの坊主でもあんたみたいな念佛を唱えられる奴はおらんゾ」と褒めてくれました。
そして「寺は息子に譲って、ここで遊んでいる。また寄りなさい」と言って下さいました。

○エピソード2、何度かお堂を訪ねお話を伺っているうち、野僧が元自衛官であった
ことが話題になりました。すると和尚さんは自分の戦争体験を話して下さいました。
それは「戦場で敵の攻撃を受け伏せている時に、敵弾が鎖骨から肺を貫通して脇腹に抜けた」と言う重傷を負い、収容された病院では「戦死見込み」と診断されて、まともな治療もしてもらえなかったと言う壮絶なものでした。
ところが数週間がたった時、見回りに来た軍医が、和尚さんがまだ生きていることを知って「助からんはずの兵隊が生きておる、流石は坊主だ」と驚いて、それからは手厚く治療、看護をしてもらえるようになったそうです。

○エピソード3、またある時、ご自分の托鉢の経験を語って下さいました。
戦争から復員して、しばらくは自房で養生をしておられたのですが、ある程度動けるようになったところで、今で言うリハビリとして、早朝から胸につけた鉦を叩きながら(チンドン屋スタイル)近所を托鉢して歩いたそうです。
ところが始めは檀家の方まで「念佛坊主が托鉢なんて?」と言って誰も相手をしてくれなかったそうです。しかし、毎朝顔を合わせるうちに1人、また1人と挨拶をし、やがてお米をくれ、小銭をくれるようになったそうです。
そんな中1人、毎朝顔を合わせても挨拶しても返事もしてくれない小父さんが居たのですが、和尚さんが教職につくことになりこれで最後の托鉢と言う朝、その方が玄関先で待っていて「ご苦労様でした」と微笑んで、その頃としては多額の喜捨をして下さったそうです。
「托鉢坊主か、本当にいいのォ、まさに佛弟子の在り様だ」そう言って野僧の顔を羨ましそうに見て笑われました。

○エピソード4、いつものように阿弥陀堂を訪ねた後、お堂の近所のタバコ屋さんで托鉢を再開すると小母さんが言いました。
「お坊さん、よく管長さんを訪ねてくるけどお弟子さんかね」「管長さん?」野僧がキョトンとしていると小母さんは呆れた顔でこう言いました。
「知らなかったの?あの方は引退したXX宗の管長さんだよ」

○エピソード5、次に阿弥陀堂を訪ねた時、野僧は長年の疑団を問いました。
「托鉢は自力か、他力か?」すると和尚さん(と言うよりも猊下)は即答されました。
「修行だ法施だ、慈善事業の募金だと『自己』を立てれば自力になり、世間に生かされることに徹すれば他力じゃよ」

○エピソード6、猊下は、境内の倒れた松の老木で観音像を作ったのをきっかけに始めた木彫りの佛像作りを趣味以上のライフワークにしておられました。
猊下御手製の観音様は、円空や木喰とは違い、生真面目な作りですが、やはり素人仕事で、猊下も「趣味は趣味、これ以上上達してはいかんのじゃ、分相応分相応」と言い訳のように繰り返されてもいました。
「市販の観音さんをモデルに作っているんじゃが、お地蔵さんの方が頭の毛がない分だけ楽じゃ」と最近では御地蔵様が増えてもいました。
「観音様は阿弥陀様の脇待ですから良いけれど、御地蔵様は浄土三部経には出てきませんよ」と野僧が不躾な事を申しますと、猊下は「エエんじゃ、阿弥陀様は呼ばなければ迎えには来てくれん、六道を守っておいでの地蔵様も信じたらエエ」と、浄土宗の宗旨に反するようなことを平気で言われました。
野僧は、黙って猊下御手製のお地蔵様に手を合わせました。

○エピソード7、いつものように阿弥陀様の前に座って話していると猊下がこう言われ
ました。「念佛とは『今』の『心』を『佛』に向けることだ」
その瞬間、野僧は背後から阿弥陀如来に抱かれ、天地一切との一体になった感覚、衝撃に至りました。それは理屈を超えた未知の世界で文章では表現出来ません。
猊下は、その様子を見て微笑みながら「わかったな」と言われ、野僧は「はい」と深く、ゆっくりとうなづきました。
こうして野僧は忝くも「宗派に関わり無く、佛教に於いて正統な念佛者」即ち「無宗正統念佛者」の印可を許されたのでした。

○エピソード8、印可の後、猊下はこう垂訓されました。
「禅宗の坊さんは、口では『どんな道でも』などと言いながら、本音では僧堂、本山でやることでしか修行を認めていない。
しかし、念佛の教えでは在家は在家のまま修行なんだ。わしは坊主になってからの修行も、軍人としての修練も優劣は無いと思っている。だからお前も、今のままで十分修行を積んできているのだ」
そして「佛と自己の間に人間を介在させるな」、「お前が今の生き方を捨てて、大寺の住職になりたがったり、お布施を有り難がる普通の坊主になった時、日本の佛教は滅びるのだと覚悟せよ」と言われ、その証に手製木彫りの観音像を賜りました。
ただ、野僧にとってこの出来事は、ひた向きに道を突き進んでいたら、いつの間にか人間の世界を通り過ぎていたと言う感じでした。ですから猊下の印可もけっして誇るようなものではなく、「人間止めました」と言う卒業証書か、「マトモじゃない」と言う診断書だと思っています。
●佛歴2554年(平成22年)4月13日 猊下遷化
丹羽観堂大僧正猊下か・観自在菩薩

  1. 2012/05/04(金) 17:37:21|
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