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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月15日・靴の記念日=東京築地に西洋靴の製造工場が開設された。

3月15日は「靴の記念日」ですが、これは明治3(1870)年の明日に西村勝三さんが東京築地に日本初の西洋靴の製造工場を開設したことに由来します。
日本では皮革を使うには手を血に染めて動物の死骸から皮を剥ぎ、なめさなければならないため弥生の農耕文化では禁忌とされ、いわゆる被差別の人の仕事とされてきました。
実際、野僧の母方の曾祖母は渥美半島の豪農の旧家から嫁入りしていましたが、叔父たちが明治の初期に東京で靴工場に就職していたことを知った父親の実家から「穢れた血筋の娘」と極めつけられていました(本当は惨めに没落した父親の実家の虚栄心による断定ですが)。
しかし、西村さんは千葉県佐倉市(長嶋茂雄さんの出身地)の旧藩士であり、それも藩の道場の頭取で、父親は佐野支藩の附家老を務めた名家の出身です。
幕末の混乱の中で武士の時代が長くは続かないことを見極め、脱藩して佐野の商人と横浜に出て貿易を始め、そこで外国人から靴についての知識を身につけたのは卓見と言えるでしょう。
それは渥美半島の田舎から靴の時代の到来を予測して東京に出た曾祖母の叔父たちにも言えるかも知れません。多くの小作人を使っていましたから喰うに困っていた訳ではないのです。
徳川幕府から国政を奪い取った薩長土肥にとっては近代的な軍の創設は急務でしたが、反乱軍が完全に洋式だったのは銃だけで、頭には変形させた陣笠(江川太郎左衛門英竜が考案した韮山笠に近い)、上は西洋式の軍服か筒袖の着物、下は細く仕立てた作務衣のような袴か股引(時代劇の岡っ引きのイメージ)の転用が多く、腰には帯を巻いて刀を差し、足は大半が草鞋でした。
とは言っても軍服や装具品などは輸入によるしかなく、服の袖丈は詰めれば用を足しても靴だけは何ともなりません。そこで兵部大輔である村田蔵六さんから白羽の矢を立てられたのが西村さんだったのです。こうして東京築地の京橋入舟に「伊勢勝靴工場」を設立し、製造を開始します。
ところが村田さんは前年の11月に徴兵制の導入を武士の否定と受け取った毛利藩士に襲撃された時に受けた傷が原因で死亡しており、万事が行き当たりばったりだった明治新政府への納入が約束通り進む保証はありませんでした。
実際、天才・村田さんが企画・立案していたことを凡人の新政府首脳や新米官僚たちが理解するには時間を要し、4万足と言う大量の発注が届いたのは明治3年末になってからでした。
西村さんの工場はその後、同業他社と合併して現在では「リーガル」のブランドで世界的に有名な日本製靴株式会社となっています。
野僧は航空自衛隊一般空曹候補学生で第1術科学校に入校していた時、浜松基地の売店でリーガル・シューズを購入して以来、愛用し続けていました。と言う訳でリーガル会員登録しています。
野僧の場合、空曹時代から制服もセミ・オーダーの私物でしたから亡き妻は自衛隊に官給品の制服があるとは思っていなかったかも知れません。
リーガルの靴は三沢や横田、厚木、横須賀、岩国、座間などの在日米軍に赴任した軍人の間でも人気になり、アメリカでも広まって来日時の土産に頼まれることが増えたそうです。
ところが沖縄にはリーガル・シューズの専門店がなかったため那覇市内の靴店から特別注文が殺到して、野僧が勤務している頃、国際通りに出店しました。
余談ながら日本にも公家や神職が履く「履(くつ)」はありましたが、西洋式のように踵(かかと)を取り付けてはおらず、来日する西洋人が履いている靴を見て(直接、目撃していなくても噂を聞いて)、「獣のように踵がない」と思い込んでいた日本人は少なくありませんでした
  1. 2016/03/14(月) 09:03:10|
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