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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月5日・大村益次郎=村田蔵六の命日

1869(明治2)年の明日11月5日は大村益次郎=村田蔵六さんの命日です。
野僧は山口県人が誇る幕末の志士の中では村田蔵六さんが一番好きで、小庵には出身地の鋳銭司から贈られた蔵六人形を「文殊師利菩薩」として祀っていますが、愚息や友人・知人の子弟の合格祈願では一名を除いて成就していますから御利益はあるようです。
村田蔵六さんは山口市の長沢池の畔の鋳銭司大村の村医者(町ではない)・村田孝益の子に生まれたのですが、三田尻(現・山口県防府市)の蘭方医・梅田幽斉さんの門弟になり、そこから漢文を学びに豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓先生の咸宜園に入門し、そこで「均是人也(均しくこれ人なり)」の教えを受けたことから、人生の方向が微妙に変り始めました。淡窓先生の思想は「身分ではなく戦う能力がある者こそが武士なのである」と言う後に松陰先生が提唱された「草莽掘起」に先駆けるモノだったのです。
その後、三田尻に戻り、さらに蘭学を極めるため大阪の緒方洪庵先生の適塾に入門し、そこで塾頭となっていたことで、西洋式海防策を進めていた伊予国宇和島藩主・伊宗城公の命を受けた蘭方医・二宮敬作先生(シーボルトの高弟)にスカウトされて(鋳銭司に帰っていた)赴き、士分に取り立てられ、砲台を建設、蒸気船も完成させたのです(宇和島では「蔵六さんが高名な二宮敬作を訪ねてきた」としていると敬作先生の子孫から聞きました)。それからは宇和島藩の命で江戸へ出て蘭方医としての道を探りながらも、幕府の西洋書翻訳事業に参加し、最新の西洋軍事知識を極めていくことになりました。
さらに小塚原の刑場で女囚の腑分けをしているところを松陰先生の斬首された遺骸を引き取りに行った桂小五郎に偶然、見いだされて長州でも士分となってここで大村益次郎と名乗りました。
後は持ち前の冷徹な合理主義と西洋式軍事知識を発揮して第2次長州征伐の防衛戦や戊辰戦争の作戦指導を行って勝利に導いたのですが、明治新政府で薩摩・長州・土佐藩兵を中心に新国軍を創設しようとする大久保利通を抑えて徴兵制を実現したことで武士階級の怒りを買い、明治2年9月4日に京都の旅館で長州藩士・団伸二郎、神代直人ら8名の襲撃を受けて重傷を負い、移送された大阪病院で二宮敬作先生の弟子であったシーボルトの娘・イネの看護を受けながらも敗血症で亡くなりました(野僧も敗血症で死にかけたことがありますが、とても苦しいです)。
この襲撃時の手口が坂本龍馬暗殺の時に酷似しているため、大河ドラマ「龍馬伝」が放映されている頃、龍馬暗殺犯・長州藩士説が流れたことがありました。
大河ドラマと言えばかつて蔵六さんを主人公とする「花神」が放映されたことがあり、その原作者は司馬遼太郎先生であるにも関わらず、山口県では「坂の上の雲」で乃木希典を無能な愚将に描いているからと司馬先生を批判しています。しかし、好嫌、善悪などの前提を持たず高所から俯瞰的に史実を描く司馬史観に立てば、乃木が愚将であることは明白な事実であり、その一事を受け容れられないため全否定する態度は蔵六さんを襲った長州藩士の病理が未だ残っている証左でしょう。
東京・九段の靖国の鳥居の横には蔵六さんの巨大な銅像が立っていますが、これは靖国の前身の招魂社が蔵六さんの発願で創建されたことに依ります。
古志庵・文殊師利菩薩

  1. 2012/11/04(日) 09:04:15|
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