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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月18日・埋もれた天才・前原嘉蔵の命日

明治25(1892)年の本日9月18日は大天才によって発掘されながら再び埋もれてしまった天才・前原嘉蔵=巧山さんの命日です。
どのくらい埋もれてしまっているのかと言うと出身地である宇和島市の紹介ページを見ても市出身の有名人の中に入っていません(野僧が知っている人物は漫画家の谷岡ヤスジさん=「鼻血ブー」ぐらいですが)。
前原さんは昭和52年のNHKの大河ドラマ「花神」で愛川欽也さんが好演して注目を集めましたが、地元出身者に訊いても「二宮忠八なら知っているけど、前原嘉蔵なんて知らない」と言う答えが大半でした。尤も、訊いた相手は航空自衛官ですから模型飛行機を発明した二宮さんの方が模型蒸気船を制作した前原さんよりも関心があったのかも知れません。
野僧も中学生の頃に司馬遼太郎先生の「花神」を読むまで知りませんでしたが、逆に言えば司馬先生だから再発掘できた逸材なのでしょう。
前原さんは文化9(1812)年に伊予国(=現在の愛媛県)南部の海岸沿いにあった宇和島藩の八幡浜で生まれ、幼い頃から手先が器用なため細工職人を目指しましたが、宇和島城下では弟子をとって教える程の親方はおらず、他国に出て修業するだけの余裕もなかったため、自己流で提灯の修理を本業としたようです。
しかし、市場規模が小さい宇和島藩内の八幡浜集落では提灯の修理の頻度は知れており、頼まれれば雨漏りの修理や棚の取り付け、どぶ板の補修からちゃぶ台などの家具の製作、小間物細工までやっていました。
そんな前原さんは単なる手先が器用な職人ではなく、物を作りながら構造を探求し、改良する工夫を思案する研究者的な資質を持っていたのです。
その頃、宇和島藩では蘭学好きの藩主・伊達宗城公が相次ぐ外国船の来航を受けて海防の近代化を言い出し、鳥居耀蔵の策謀でつながれていた伝馬町の牢から脱獄した(=手下の牢番に放火させて逃走した)高野長英をかくまい技術指導を受けましたが、あまりにも優れた西洋技術の導入であったため幕府の疑いを招き、追い払うことになりました。
それでも外国船の来航は頻繁になる一方で、ついにはロシアとアメリカが国交の樹立を要求してくるに至り、次の指導者探しを藩医でシーボルトの高弟だった二宮敬作先生に命じ、大阪の緒方洪庵先生の適塾の塾頭だった村田蔵六さんを見つけ出したのです。
着任早々、村田さんは藩主・宗城公から蒸気船の製作を命ぜられますが、問題は村田さんが引いた設計図を理解して近代的な機械を製作できる技術者がいないことでした。
宇和島藩は10万石の小藩のため他国から高名な職人を招聘する資力はなく、藩主の命令と村田さんが示した条件に苦慮した重臣が「藩内1番の職人」として推薦したのが前原さんだったのです。
村田さんは「宇和島藩内の職人」と聞いて失望し、担当する仕事のレベルの高さを思い知らせるために蒸気船の設計図を見せたのですが、すると前原さんは長時間にわたって図面を眺めた後、機関部と推進部の接続の不備を指摘しました。
そこは村田さんが読んでいた西洋書にも詳細な解説がなく、長崎で実物を見てから書き加えるつもりだった部分で、図面を見ただけでそれを見抜いた前原さんに村田さんは自分と同レベルの天才としての能力を認めたのです。
こうして村田さんに同行して長崎で実物の蒸気機関を見て、その後は既に蒸気船を導入していた島津藩で研究を深め、帰国後は村田さんと二人三脚で蒸気機関を試作し、ついに日本初の純国産蒸気船を完成させました。
この功によって士分として宇和島藩に仕えることとなりますが狭い藩内から出ることはできず、明治5年になってから大阪へ出たものの商才は欠けていたため翌年には宇和島に帰って、そのままこの日を迎えてしまいました。
西洋式新型小銃や砲弾の開発などの軍事技術だけでなく、染料、木綿繊維、合金の研究やミシンまで製作しているのにパンを作ることには失敗したのはご愛嬌でしょう。
前原嘉蔵みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
  1. 2016/09/18(日) 08:55:32|
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