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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月15日・またも負けたぞ日蓮宗!=慶長宗論が行われた。

徳川幕府が開かれて5年、2代将軍・秀忠公と大御所・家康公の二元政治になっていた慶長13(1608)年に江戸城内で浄土宗と日蓮宗のタイトルマッチ=宗教論争が開催されました。
日蓮宗は宗祖・日蓮(聖人を付けるのが嫌になりました)が他宗派を殊更に批判していた攻撃性を受け継いでいるため折伏(しゃくぶく)と称する布教でも現在に至るまでトラブルを起こし続けていますが、日蓮自身が鎌倉での辻説法で他宗派を罵倒しているのを耳にした良忠禅師と問答を交わしたのを皮切りにタイトルマッチと呼ぶべき代表者同士の対決も公式記録が何度も残っています。
今回は日経(日本経済新聞の略称ではない)と言う当時は「日蓮宗を代表する」とされていた論客です。日経は上総国=現在の千葉県茂原市の生まれで、現在の千葉県東金市にある日什門派の長久寺で修行した後、千葉県大網白里市に方墳寺を建立しています。
京に上ると秀吉が建立した方広寺大佛(木製だった)の千僧供養への参加を巡って宗門内で論争が起こり、「日蓮宗徒ではない秀吉が主宰する法要に参加するべきではない」と強硬に主張した妙覚寺の日奥が秀吉の没後に対馬に流罪となると赦免に奔走し、強引な折伏で他宗派の寺院を自分の宗派に組み入れることを繰り返して宗門内では名声、他宗派からは罵声を一身に受けていきました。
この問答が行われる前年の慶長12年には日什門派の本山である京都の妙満寺の住職になり、そんな中で名古屋の熱田神宮で浄土宗の正覚寺の沢道さんと法論を交え、これを破ったことになっています。
ところがこの法論の結果に納得できない浄土宗は徳川家の江戸の菩提寺である増上寺を通じて異議を大御所・家康公に訴え、日経と増上寺の廓山さんとの間でリベンジマッチが開かれることになりました。
この宗論では高野山遍照光院の頼慶さんがレフリーを務め、浄土宗からは廓山さん以下、関東と京都の5名、日蓮宗は京都を中心に6名を揃えていました。
奉行も本多正純さんほかの大御所側近3名が務め、この他にも家康公の馬鹿息子である松平忠輝や幕府の重鎮・大久保忠隣さん、本多正信さん、土井利勝さん、大久保長安さんや伊達政宗公、南部利直公、浅野幸長公などの錚々たる大名が立ち会いました(尾張藩からは家老で大名格=犬山城主の成瀬正成さんが出席している)。
対戦結果は宗祖以来の「日蓮宗の信者以外からは布施を受けず、逆に救済もしない」と言う「不受不施義」を主張した日経が、「佛教本来の衆生済度を否定した」と判定されて敗北し、袈裟を剥ぎ取られて放逐されたのですが、江戸を出ると「宗論に勝った」と公言して回ったため、翌慶長14年3月25日に鼻と耳を削がれる刑を受けました。
それでも命までは取られず、家康公よりも3年早い元和6(1620)年11月22日に現在の富山市で没しました。
この両宗門の対戦は30年前の天正7年にも織田信長公の命により安土で行われ、この時も日蓮宗が破れ、折伏をしないことを誓っているのですが、宗祖以来の病癖は治癒することがないようです。
何よりも問題なのは日蓮宗が宗祖以降の敗北を全て法難にしてしまい、敗因の論理的な検証をしないまま妨害や圧迫を捏造していることです。
この敗北も日蓮宗の記録では「宗論の前に日経たちは幕府の役人から暴行を受けて口もきけない状態だった。このため延期を申し入れたが強引に戸板に載せられて会場に運ばれた」ことになっています。しかし、外様大名を含む立会人が見ている公開宗論でそんなことができるはずがなく、このように佛法のみか社会規範まで踏み外している邪宗が禁教にされなかったのが本当に不思議です。やはり家康公は東照神君なのでしょう。
  1. 2016/11/14(月) 09:10:03|
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