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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月16日・近代戦を定義づけたクラウゼヴィッツ少将の命日

1831年の明日11月16日は近代戦を定義づけた士官将校の必読書である「戦争論(原題・Von Kriege)」の著者であるカルル・フィーリップ・ゴートリーブ・フォン・クラウゼヴィッツ少将の命日です。野僧は誕生日が同じ7月1日なので死ぬ日も同じにしたいと願っているのですが・・・今年も日付が変わるまで期待しています!
野僧は空曹時代につき合っていたアラスカ人の彼女の母親(空軍少佐)から「戦争の定義を学ぶためにはこの本を読まなければならない」と指導され、元々の哲学好きもあって熟読するようになったのですが、那覇基地BXの書店で「クラウゼヴィッツの戦争論」と注文したところ、分厚い「戦争論の誕生・クラウゼヴィッツの生涯(=ドイツの書籍の翻訳本)」と言う伝記が来てしまい個人情報まで学ぶことになってしまいました。
その後もアルフレッド・マハン、大モルトケ、マイケル・ウォルツアーなどの戦争哲学書を愛読していたため、直属上司である幹部たちから非常に敬遠されたものです。
クラウゼヴィッツ少将は1780年にプロイセンの田舎町に住むポーランド系の税務所の役人(元陸軍士官)の息子として生まれました。1794年に12歳で王子の親衛歩兵連隊に見習士官要員として入営し、2年後にはフランス革命に抗する第1次対仏同盟軍戦争に出征しています。
15歳で少尉に任官するとその学才と探求心を高く評価していた連隊長の推挙によって士官学校に入校することになりましたが、そこで教官として勤務していたプロシア陸軍参謀本部を創設し、大モルトケなどに活躍の場を与えたゲルハルト・フォン・シャルンホルスト中将(当時は中佐)と出会うことになりました。クラウゼヴィッツ少将はシャルンホルスト中将のことを「父であり、心の友であった」と評していますから正しく運命の出会いだったのでしょう。
またシャルンホルスト中佐もクラウゼヴィッツ少尉の才覚を認め、個人的に開設した軍事学会に参加させています。この学会で数学、論理学、地理学、歴史学、文学などの一般教養を習得するのと同時に論文作成の技法を練磨し、これが後の著述活動の基礎を作ったのです。
その後は学会の会員だった王子の親衛連隊の副官として勤務し、この時期に後の愛妻・良妻・賢妻となる伯爵令嬢のマリー・フォン・ブリュールさんと知り合っています。
時代は全ヨーロッパを手中に収めようとするナポレオン・ボナパルトの侵略戦争の真っ只中であり、クラウゼヴィッツ少将も戦争に出征して実戦経験を積みながら捕虜生活も経験することになりました。プロイセンがナポレオンに屈服すると帰国が許されますが、そこで陸軍省に転属して再会を果たしたシャルンホルスト中将と共に軍制改革を進め、密かに対フランス抵抗闘争の準備を始めたのです。
そしてシャルンホルスト中将はスペインの抗仏蜂起を指導してナポレオンに初の敗北を与え、クラウゼヴィッツ少将はロシアに赴いて対仏戦争に関する助言を与えています。
帰国後は陸軍士官学校長に就任し「戦争論」の執筆を始めました。これはクラウゼヴィッツ少将が反ナポレオンであることをフランスに知られることで占領政策に悪影響を及ぼすことを危惧したプロイセン陸軍が学生に対する講義を許さなかったため、時間を持て余した暇つぶしだったとも言われています。
「戦争論」では戦争を「他の手段を以ってする政治の延長」と定義しており、その根底には人間が本来有する凶暴性があるとしています。
ただ戦争には決闘の延長線上にある通常戦と相手を完全に打倒する殲滅戦があり、政治的制御により後者は発生しないと述べていますが、第2次世界大戦に於いてドイツと日本を舞台とする殲滅戦が実現してしまいました。
「戦争論」はクラウゼヴィッツ少将がこの日にコレラで病没した時点では全8篇のうち6篇までしか脱稿しておらず、残りは賢妻のブリュールさんが7篇を執筆・編纂し、1836年にブリュールさんが病没した後には協力者たちによって8篇が出版されて完結しました。
  1. 2016/11/15(火) 09:25:15|
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