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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月19日・帝国陸軍の船舶司令官・鈴木宗作中将が戦死した。

昭和20(1945)年の明日4月19日に帝国陸軍の船舶部隊(正確に言えば船単位の編制なので部隊ではない)の初代司令官を務めた鈴木宗作中将が第35軍司令官としてアメリカ軍を迎撃していたフィリピンのレイテ島から小舟で脱出してミンダナオ島に向かう途中で戦死してしまいました。
野僧が鈴木中将の名前を知ったのは海上自衛隊志望の高校生だった頃に毎月購読していた「世界の艦船」が揚陸艦艇を特集して、陸軍にも水上・海上輸送を専門とする船舶工兵(単に「船舶兵」とも呼ぶ)があり、その発展に貢献した人物として紹介されていたことによります。ただし、陸軍の海上輸送でも商船などを乗員まで徴用する場合は輜重科の担当になり、船舶工兵の任務はあくまでも戦闘を伴う着上陸です。
愛知県出身(市町村は不明)の鈴木中将は名古屋の地方陸軍幼年学校から中央幼年学校に進み、陸軍士官学校を明治45年に24期生として修了しました。その後、陸軍大学校を首席で卒業しています。大正期の軍人は日清・日露の戦争を終えて束の間の平和を満喫していた時代であり、第1次世界大戦後は世界的潮流として軍縮の気運が高まったため軍人の士気も低下していたと言われていますが、陸軍ではヨーロッパでの第1次世界大戦において飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器や通信連絡網による広範囲にわたる指揮・報告、塹壕陣地での攻防などの新戦術が発展したことでその情報収集に努めていました。
中でも地中海の島嶼やアフリカへの上陸作戦において力を発揮した上陸用艦艇については日本が島国であり、日清・日露戦争での朝鮮半島・仁川への上陸や青島要塞攻撃においても苦労した経験から強い関心を持ったのです。さらに陸軍はフィリピのアメリカ植民地軍(海軍は同じくアメリカ艦隊との太平洋決戦)を仮想敵としていた関係で上陸作戦を積極的に研究を進めることになりました。
それまでの陸軍では上陸作戦と言えば手漕ぎのボートで川を横切っての渡河を指し、本格的な船を建造する考えはなかったのですが、海軍が戦闘艦艇の拡充だけに執心している以上、独自に研究・建造する必要に迫られたのです。ところが軍縮の気運を受けた政府は軍事予算の削減に躍起になっており、その限られた予算を陸・海軍で奪い合っている中で艦艇の必要性を口にすれば海軍を利することになり、このため陸軍の上陸用艦艇の研究・開発は海軍にも秘匿されたのです。と言っても大手の造船会社は海軍がお得意さまであり、発注どころか研究を依頼すればたちどころに海軍の耳に入ることは明らかだったため、一定以上の技術力を有する中小の造船会社に相談していくしかありませんでした。と言うのも発注する側がズブの素人だったのです(漁師や船頭が徴兵されてくると優先的に配置していましたが士官は別でした)。
結局、港内で貨物船から荷物を積み替えて運搬する艀(はしけ)に毛が生えた程度のものから始まったのですが、これを一気に発展させたのは大陸戦線です。中国の河川の河幅は黒竜江(アムール川)で約10キロ、黄河で約18キロ、揚子江(現在は長河)は約40キロもあり、日本最大の湖である琵琶湖が22キロであることを考えれば敵弾雨飛の中で滔々と流れる大河を手漕ぎボートで渡河することは不可能です。こうして発動機付きの上陸用舟艇が建造されることになりました。
やがて前の扉を開けばそのまま着上陸できるアメリカ軍のLSDに相当する大発などが開発されますが、速度が極端に遅かったため護衛の戦闘艇が必要になったものの海軍との共同作戦を嫌う参謀本部の意向により、戦車砲と機関銃を搭載した護衛艇まで開発されたのです(中国の河川警備でも活躍した)。
鈴木中将は開戦時、山下奉文中将の第25軍の参謀としてマレー半島への上陸作戦やシンガポール島への渡航作戦を指導しており、翌年にはこの経験を持ち帰る形で陸軍兵器本部に転属し、続いて陸軍運輸部長、そして広島市の海田市に新設された船舶部隊の司令官に就任しました。
この時期に陸軍は独自の上陸用艦艇を次々と開発していきますが、中でも驚くべきは輸送用の潜水艦を実用化していたことでしょう。これはガダルカナルへの補給を担当する海軍が高速駆逐艦による輸送(=ネズミ輸送)が敵の迎え討ちを受けて損害が多くなったことから潜水艦によるモグラ輸送に切り替え、ある程度の成果を上げたため、陸軍も独自に使用できる輸送潜水艇を計画したのです。結局、この潜水艇は「ゆ号」と呼ばれ38隻が実戦に投入されましたが制海権を奪われている中での人員輸送(=高級将校の移動)などで活躍したようです。それにしても現在の海上自衛隊でも最高度の操艦技量を要すると言われる潜水艦を素人が使いこなして外洋でも航行していたことには敬意を表しなければなりません。
鈴木中将が司令官を務めた船舶部隊は大戦末期、日本海の隠岐島などの守備隊として配置されていたようです(拙作小説に登場する船舶工兵の子息である某1尉のモデルの父上の体験談)。
  1. 2017/04/18(火) 09:29:20|
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