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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月21日・功罪ともに山口県人(?)長岡外史中将の命日

昭和8(1933)年の本日4月21日は功罪ともに山口県人らしさを存分に発揮した長岡外史中将の命日です。
地元出身であれば歴史的に見れば亡国の徒に過ぎない人物でも偉人・英雄に祭り上げ、痘痕も笑窪式に長所を見つけ出し、それを過大に喧伝して罪を帳消しにした上で、国家権力を使って史実を歪曲することを常套手段としている山口県ですから当然「郷土の英雄」の1人にしたいころですが、長岡中将の最大の功績は「乃木は愚将である」と正しく評価したことなので、その愚将を英雄・軍神にしてしまっている山口県人としては同調し切れず、出身地である周南市限定の英雄になっています。
長岡中将は本当の名将である児玉源太郎大将と同じく毛利藩でも徳山支藩の出身で、6歳年下の安政5(1958)年に生まれました。戊辰戦争の頃はまだ10歳前後だったため藩校・明倫館で学んでいました。
薩長土肥の反乱が成功して新たな軍制が定まると明治11年に旧制度の陸軍士官学校を2期生として修了し、6年後には陸軍大学校の1期生として入校しました。こうしてエリート街道を突き進んだのには勿論、本人の実力もあったのでしょうけれど、あの乃木でさえ大将にしてしまった「山口陸軍閥の芋づる」も少なからず影響していたのではないでしょうか。
日清戦争には混成第9旅団の参謀として出陣し、終戦後から日露戦争の間には海軍大学校の教官を務めたこととドイツ(三国干渉の一国だった)に3年間の長期出張したことが注目されます。
そして少将として迎えた日露戦争では開戦直後に歩兵第9旅団長から参謀本部に配置替えされ、参謀総長の山縣有朋元帥、首相兼陸軍大臣の桂太郎大将以下の山口陸軍閥の側近・腹心として動くことになりました。そこで満州軍4個軍の司令官の中で唯一の山口県人である乃木の第3軍が旅順要塞の攻城に手間取り、多大な犠牲者を供じて満州軍の作戦全般を困難にしていることで山縣元帥・桂大将に乃木の更迭を意見具申したのです。参謀たちに能力を発揮させるよう叱咤激励し、それでも改善しなければ交代を要請するなどの処置を取るのが軍司令官たる者の役割であり、それができない乃木は更迭すべきであると断じたことは適切ですが、その一方で軍司令官に任ずるべき大将がいなかったから無能な乃木を現役復帰させて第3軍司令官とし、他の3個軍のように広大な満州を転戦させることなく旅順要塞の攻城だけを任務にした陸軍内の事情と配慮にまでは思いが至らなかったのでしょうか。この「自分が絶対に正しい」と思い込んで実現に暴走するのも山口県人気質です(山口県出身の現首相を見ても明らかなように)。
結局、「解任すればお気に入りの乃木が自刃する」と言う明治の愚帝の身贔屓で乃木は第3軍司令官に留まり、将兵を無駄死にさせるだけの正面攻撃を継続することになりましたが、ここで長岡少将は1つの貢献をしています。それは海軍の各根拠地に設置されていた28サンチ榴弾砲=要塞砲を旅順に送ったことで、やはり海軍大学校の教官としての経験が活きたようです。
ところが日露戦争において長岡少将は大罪も犯してしまいました。それは奉天が陥落して地上戦が膠着状態に入り、日本海海戦で圧勝したことを受けて、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講話会議の開催を提唱し、これにロシアが応諾の返事をした後に樺太への侵攻を計画すると如何にも山口県人らしい策謀を巡らして実行したのです。この計画については政府や陸軍、さらに海軍も残存戦力と国際慣習を理由に反対しましたが、すると満洲軍参謀長である同郷の先達・児玉大将に手紙を送り、「戦略的意義を認める」程度の社交辞令を記した返事を受け取ると、これを根拠に上層部を説得して南樺太に出兵(主力は北海道に残っていた屯田兵だった)・占領したのです。山口県ではこの暴挙を「ポーツマス条約で南樺太を獲得できたのは長岡少将の英断の賜物」「ルーズベルト大統領も戦略的判断と絶賛した」と賞賛していますが、40年後に日本がポツダム宣言の受諾を表明し、玉音放送が流れた後にソ連軍が千島列島・占守島に侵攻を開始したことを「仕返しされた」と反省せざるを得ない禍根を残しました。
戦争以外にも長岡中将に関する逸話は数多く残っており、例えば軍用気球の二宮忠八さんがゴム動力の模型飛行機の実験に成功し、「これを大型化してエンジンを搭載すれば人間を飛行させることも可能である」と陸軍の協力を要請した時には一笑に伏して拒否してしまいました。この時に援助の手を差し伸べていればアメリカのライト兄弟が1904年に成功する以前に日本が人類初飛行を実現していたのかも知れません(二宮さんの模型を検証した航空工学の専門家の見解)。
また新潟・高田の第13師団長だった時、視察に訪れたオーストリア軍のレルヒ少佐からスキーを伝授され、これを将兵に訓練させたことが「日本のスキーの発祥」とされています。本人も「日本のスキーの父」と呼ばれていますが適切なのかは判りません。
  1. 2017/04/21(金) 09:06:43|
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