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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月24日・「ケンカ十段」空手家・芦原英幸の命日

平成7(1995)年の本日4月24日は芦原会館の創始者である空手家・芦原英幸館長の命日です。師である大山倍達(本名・崔永宜)極真会館館長の逝去から363日後でした。
野僧は極真会館空手と芦原会館空手に接したことがあるので(とても「かじった」とは言えない)、その共通性と差異についてある程度は理解しているつもりですが、強いて言えば極真会館は剛対剛で勝つには相手を上回る力を身につけるしかないのに対して芦原会館は剛対剛を基本としながらも時には相手の力を利用して引き倒す柔の要素が含まれていたように感じました。芦原館長の高弟が総合格闘技・K1の創始者であることはこの感想が大きくは外れていない証左なのかも知れません。
その実戦空手の「柔」とは芦原館長が強調しておられた「さばき」で、これは力学的に相手を崩して技で制する柔道や関節技で極める少林寺拳法の柔法とも違い相手が攻撃に出てくる勢いを体さばきで引き込んで転ばしてしまう技法です。
野僧は体育学校の徒手格闘(=日本拳法)の試合稽古で知っている色々な武道の技を試してみたのですが、日本拳法の腰を支点とする突き方は体重が移動しないため「さばき」には馴染まないもののむしろ銃剣格闘の第3教習(試合形式)で相手が刺突してくるのをかわしながら片手で腕を掴み、後頭部を押してやると面白いように転がすことができました。
また他の伝統空手の型が沖縄の唐手(とうでい)のものを模倣に過ぎず実戦への応用は考えていないのに対して、芦原会館の型の下段蹴り(=ローキック)への受けから始まる一連の動作は実戦(=試合)を想定したシャドー・ファイティングでもありました。ただし、徒手格闘では防具をつけていない部位への蹴りを認めていない日本拳法のルールを踏襲しているため試合稽古でも下段蹴りを用いることはできませんでした。特に下段蹴りの受け方の1つである「ストッピング(相手がローキックを仕掛けてくる太腿を足の裏で蹴り止める)」の有効性を検証し、試合の中で練習できなかったのは残念でした。
芦原館長にいついては大山倍達館長の伝記劇画「空手バカ一代」に登場して数々の武勇伝が描かれていて、脇役と言うよりも準主役のような扱いになっていますが、梶原一騎先生の原作作品では物語を劇的にするための誇張・創作が多いのも確かで、芦原館長の直弟子である野僧の先生の話ではあの劇画で紹介されている逸話には他の極真会館の門弟のものの使い込みが多く、「話半分とは言わないまでも5分の4くらいにしておかないと某中国製拳法の開祖のように神格化してしまう」と窘めていました(その癖、大山館長の神格化については批判しなかった)。ただ先生は「館長は劇画みたいに空は飛ばないが超人であるのは間違いなく、何よりも劇画以上に魅力的な人物だ」と熱く語っていました。
芦原館長は敗戦間際の昭和19(1944)年の暮れに海軍の聖地・江田島で生まれ、中学を卒業して東京に出ると自動車整備工場で働きながら極真会館になる前の大山空手道場に入門したのです。
そこで天撫の才を発揮して極真会館設立後にはブラジルへ指導員として派遣されることになったのですが、その直前に喧嘩事件を起こして禁足処分(=出入り禁止)になっています(劇画では破門されますがこれは誇張だそうです)。ただし、頭を剃って屑鉄屋になったのは実話で、極真会館の会長=顧問だった衆議院議員のとりなしもあって禁則が解かれるのと同時に愛媛県で道場を開くことを命じられました。
しかし、四国は香川県の多度津に本部を置く(自称)中国製拳法の本場で地元・愛媛大学にも部がある上、空手部は松涛館流なので、そこの卒業生が教員になっているため学校教育などにも深く浸透していて、強さ=力だけでは根を下ろすことはできませんでした。この辺りの逸話は劇画のような武勇伝だけではない深みがあるのですが、野僧の先生からの伝聞情報の記憶が曖昧なので書くことは避けます。
そうして極真会館四国支部長として地歩を固めた頃、後にK1を創始することになる高弟を関西に進出させたことを「独立への動き」と見た大山館長によって永久除名処分を受けてしまいました。
それでも芦原館長は大山館長に対する敬慕の念を抱き続けていたようで、口では「(極真会館の本部がある)池袋のハゲ」などと呼びながらも自分を語る時には必ず「大山館長のおかげで」と感謝の意を表し、最後には「大山館長は凄かったんだぞ」と偉大さを熱く語りながら涙ぐんでいたそうです。また、ある昇級審査の時、「大山」姓の受検生がいて、芦原館長は「おい、大山」「大山、しっかりしろ」と呼んで面白がっていたのですが、審査が終わった後「大山と言う名前に愧じない、立派な空手家にならんといけん」と声を掛けたそうです。しかし、幾ら慕っていたと言っても50歳の若さで後を追ってはいけないでしょう。大山館長の意思を継ぎ、実戦空手をより発展させるのが芦原館長の役割だったはずです。押忍(某中国製拳法の流儀になるので合掌はしません)
芦原英幸「空手バカ一代」より(多少美化されているものの似ています)
  1. 2017/04/24(月) 09:04:26|
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