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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月14日・名君・吉良上野介義央公の御命日

1702(元禄15)年の明日12月14日と言えば忠臣蔵ですが、野僧はあえて名君・吉良上野介義央(よしひさ)公の命日とさせていただきます。吉良公は愛知県吉良の領主で、石高は1万石に足らず大名ではないものの格式は高く、幕府の礼式を司る重職を担っておられました。
吉良公が名君と呼ばれる所以は、領地が毎年のように矢作川の氾濫で被害を受け、そのため堤防の修築を実行したのですが、その間の租税を免除し、城(屋敷)の雨漏りなども放置して家臣・領民を築堤工事に専念させました。また吉良公御自身も農耕用の赤い馬に乗って毎日のように現場を見て回り領民を励まされ、工事が完了すると誰言うともなしにこの堤防を「黄金堤」と呼ぶようになり、吉良公が赤い馬に乗った姿の人形が作られるようになりました。
ここまでならよくある名君の美談ですが、吉良公は自領の築堤が完了して水害が下流域に移ることを心配し、そこの領主に資金を貸し、技術者を出向かせて河口まで築堤を進めたのです。
この日、吉良公を討った赤穂浪士の主君・浅野内匠頭長矩は、自分の軽率な行為が藩を取り潰す結果を招き、家臣を塗炭の苦しみ陥らすことに想いが至らぬ短慮・軽率な暗君であり、藩を潰してまで果たすほどの遺恨とは何だったのか?その愚かさは江戸時代も後半になってつまらぬ嫉妬から相馬大作事件を引き起こした南部利敬と双璧でしょう。
吉良では今でも赤穂浪士が返り討ちに遭う劇が上演されていますが、この名君中の名君を未だに仇役にしている日本の放送業界に政治家の資質を語る資格があるのか!
ついでに言えば浅野は皇室からの使者を接遇する職務をなげうって刃傷沙汰に及び、それに激怒した将軍・綱吉によって即座に死罪の決を受けたのであって、赤穂浪士の墓がある泉岳寺の門前で、討ち入りを賛美する歌を詠んだ松陰先生も御自身の尊王攘夷思想と矛盾していませんか?
  1. 2012/12/14(金) 08:58:32|
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