古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月28日・実在の剣豪らしい荒木又右衛門が突然死した。

寛永16(1638)年の明日8月28日(太陰暦)に講談や文庫本、時代劇と言うよりもチャンバラ映画で剣豪として大活躍していた荒木又右衛門さんが39歳で突然死しました。
荒木さんと言えば鍵屋の辻の決闘が有名なのですが、野僧は三重県上野市(平成の大合併前は伊賀郡青山町)の寺に入ることが決まっていたため伊賀上野城外の小田町にある鍵屋之辻史跡公園を訪れたことがあり、檀家の郷土史研究者たちから話を聞く機会を得たのです。
荒木さんは上野城下の伊賀同心(=公儀隠密)・服部半蔵の出身地でもある服部郷荒木の生まれで、父は慶長13(1608)年に藤堂高虎公が伊勢に入ると臣従しましたがやがて出奔して、淡路で浪人しているところで備前岡山藩の池田忠雄公に召し抱えられています。ちなみに藤堂公は近江の浅井(あざい)家を始めとして7人の主君に仕えた苦労人のため家臣の出奔・脱藩にも寛大で、暇乞いに来た本人を茶などでもてなしながら愛用の品を記念に渡した上で「上手くいかなければ何時でも戻ってこい」と言って聞かせたそうです。そして実際に戻ってきた者には元の家禄を与えたため「不忠者を何故」と不満を口にする家臣には「人は禄(給与)だけでは臣従はせぬ。情けをかけて初めて心を開くのだ」と説いたと伝わっています。
父が池田家に仕えたため兄も出資することになり、二男である荒木さんは12歳の時、三河譜代の本多家の家臣で伊賀以来の知己である服部家に養子に入りました。しかし、どう言う訳か本多家が姫路城主になっていた28歳で養家を離れて浪人となり、伊賀へ戻ってしまいました。
この辺りから史実と講談などが語る英雄譚の区分がつかなくなると郷土史家が嘆いていましたが、父から手ほどきを受けた中条流を基礎として叔父から神道流を学び、かなり嘘っぽいところで柳生但馬守さまやその子息の十兵衛三厳さんの門弟となり新陰流を身につけたことになっています。何はともあれ荒木さんは剣名を買われて大和郡山城主だった松平家に剣術指南役として召抱えられることになりました。
世は天下泰平、荒木さんの生活も安定していた寛永7(1630)年、ある事件を切っ掛けに荒木さんは剣豪劇・英雄譚の主役の座と引き換えに波乱の人生に入ることになります。父の友人で妻の父親でもある池田藩士・渡辺内蔵助さんの息子で美男子として有名だった源太夫くんが同僚の河合又五郎に同性愛を求められて断ったため殺される事件が起きたのです。実は源太夫くんは小姓として仕えている主君の忠雄公のお気に入りでもあり、当然、又五郎くんは逃亡しましたが、やがて江戸の旗本・安藤家に匿われていることが発覚したため事態は想定外の展開を見せることになりました。池田家としては殺人犯の引き渡しを要求しましたが旗本側は拒否しました。泰平の世には事務手続きを担当する旗本の差配に外様大名も従わざるを得ず、両者の間には確執が生じており、面子と面子が正面衝突することになったのです。
結局、幕府が仲裁に入り、旗本は謹慎、又五郎は江戸所払いとなったものの忠雄公はその決定の報を聞く前に疱瘡で急逝しており、然も「又五郎を討て」と遺言を残していました。さらに池田家は代替わりを機に鳥取に転封となりましたが、藩主の遺命は果たさなければならず、源太夫くんの兄・数馬さんがその役を担うことになりました。当時の武家の慣習としては目上の兄が弟の仇を討つことはなく異例でしたが主命でもあったため脱藩と言う形を取って仇討ちの旅に出ることになったのです。しかし、その数馬さんは剣の腕前に自信がなく、妹婿である荒木さんに助太刀を頼みました。
こうして寛永11(1634)年11月7日、又五郎くんが大和郡山藩の元剣術指南役(荒木さんの前任者なのかは不明)である叔父の屋敷に潜伏していたことが判明し、追及が迫ったことを察知した叔父が護衛をつけて逃亡させようとしたところを待ち伏せて仇討ちとなったのです。
講談などでは「荒木又衛門の36人斬り」などと派手に語っていますが、記録に残っているところでは又五郎側の護衛は10名、討っ手は荒木さんと数馬に助太刀2名の計4名で、荒木さんは又五郎くんの叔父を馬に乗ったまま脚を斬り、落ちたところを殺害し、又五郎の叔父の妹婿で尼崎藩の槍術指南役を他の2人に包囲させて刀による斬り合いの上で殺害した2名だけです。
又五郎くんは数馬さんに任せましたが、5時間にわたる斬り合いでも勝負がつかず、両者に疲れが見えたところで数馬さんが傷を与えたため、荒木さんがとどめを刺しました(公式記録では3人目にはならない)。
仇討ち本懐を遂げた2人は講談並みの賞賛を浴び、現場となった藤堂藩の客分となりましたが、鳥取藩の要請を受けて出仕するため移動したものの呼び寄せた妻子が到着する前に突然死したと言われています。
前藩主の醜聞を隠蔽するための毒殺や又五郎の叔父やその妹婿の門弟などからの報復を恐れて身を隠したなどの風説がありますが、ここでも講談と史実の区分がつきません。
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  1. 2017/08/27(日) 08:34:20|
  2. 日記(暦)
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