古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ929

安川和也と聡美の新婚生活は順調だった。聡美は市内の観光ホテルのレストランでのアルバイトに励み、3等陸曹1号俸の安月給の夫との生活を支えている。それでも取っておいた2年満期の満期金で中古の4WADの軽自動車を買って行動範囲を広げ、今年の夏はテントと寝袋を持って聡美を北海道旅行に連れて行った。この軽自動車を雪国では必須の4WDにできたことだけで満足できるところがこの若い夫婦の成功の秘訣だろう。何もなくても一緒にいられればそれで幸せなのだ。
聡美のバイト先では夏になると外国人の観光客が増える。と言うのも2005年に知床半島一帯が世界自然遺産に指定されたため海外での知名度が上がり、ヨーロッパなどからも観光客が押し寄せて、自動車での北海道一周旅行を楽しむようになっているからだ(中国や韓国はまだだった)。
「ディデュ ディサイド ザ オーダー(注文は決まりましたか)?」聡美は外国人の客には自然に英語で声をかける。これは英語の教師である母親の個人レッスンの成果ではあるが、中学・高校で英会話クラブに入っていた努力の方が大きい。
「イエス(はい)、ユアー イングリッシュ イズ ベリーグッド(貴女は英語がとても上手いです)」「イッツ エクセレント(素晴らしい)」客たちは注文の前に聡美の英語を誉めてくれる。聡美は教師としての体面だけの父親への反発から大学進学は放棄していたが、勉強が嫌いなわけではなかった。実際、英会話クラブの余技としてフランス語やドイツ語にも興味を持ち、シャンソンやオペラを原語で唄えるくらいにはマスターしていたのだ。その成果もここでは発揮できる。
「ビテ サグ エスミァ」初老の夫婦を席に案内すると突然、夫から英語ではない言葉で話しかけられた。これは意図的な嫌がらせではなく母国での癖で口にしてしまったようだ。
「ジェ、ビテ トゥン」それに聡美が即答すると夫婦は驚いたように顔を見合わせた。要するに「少し教えてくれ」とドイツ語で声を掛けられたので「はい、どうぞ」と答えたのだが、日本国内でドイツ語が通じることは希(まれ)であり、ましてや東京から遠く離れた田舎町のホテルでそれが即答されるとは想像もしていなかったようだ。しかし、聡美は仕事として失敗を防ぐために予防線を張った。
「イチュビンニッチ セァ グッ アゥトゥ デゥッチ(私はドイツ語があまり得意ではありません)。ウェンモグリッチ ブレゲン シー アゥフ エングリッシュ(できれば英語でお願いします)」すると夫婦も聡美のドイツ語の発音が初級であることを察してうなずきながら返事をした。
「ジェ、イチ ベレステへァ(はい、判ったよ)」「ノー(違う)! アイ アンダースタンド」どうやら夫が「判った」と言いながらドイツ語で返事をしてしまったため、妻がたしなめながらあまり得意ではない英語で言い直したらしい。それでも注文の他にドイツ語を話せるようになった経緯などを質問され、和やかに談笑できた。
「安川さん、君を正社員にしたいんだが」外国人の客たちの注文を取り終えるとこの店の責任者が手招きで呼び寄せ、真顔で話しかけてきた。
「君がウチで働き始めて半年、正直なところ『未成年なのに結婚した』と聞いて長くは続かないだろうと思っていたんだ。ところが本当に真面目に働いてくれるし、何よりも外国からのお客さまに対する接客は誰にも真似ができない。是非、正式に就職してもらえるように御主人とも前向きに相談してくれないか」仕事の合間の立ち話にしては重たい内容だが、聡美にとっては嬉しい要望だった。自分の英会話能力を高く評価してくれた上、正社員として採用したいとスカウトされたのだ。ただし、問題もあった。
「ネェちゃん、高校生?」「可愛いね。遊びに行こうよ」「そうだ。この街を案内してよ」次の客はバイクで北海道一周しているいわゆるミツバチ族の若者たちだ。彼らは高校生にしか見えない聡美を本気でナンパしてくることも珍しくないのだ。そのため責任者の許可を得て左手の薬指には結婚指輪をはめているのだが(通常は不衛生になるため認められない)誰も信用しなかった。
「こちらがメニューでございます。お決まりなられましたら、そちらの呼び出しボタンを押して下さい」このような客にはマニュアル通りの台詞を並べ、動作を演じるしかない。一通りの説明を終えたところで若者の1人が開いたメニューで料理の説明を求めたため、身を乗り出すと別の若者の手が尻を撫でた。アルバイトを始めた頃には悲鳴を上げ、後で泣いたものだが、今では無視することができるようになっている。しかし、それは大人になっていくと言うよりも少女としての感受性を失っているように受け止めている自分を聡美は知っていた。
スポンサーサイト
  1. 2017/08/28(月) 09:16:20|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ930 | ホーム | 8月28日・実在の剣豪らしい荒木又右衛門が突然死した。>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4101-945410ec
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)