古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ930

「ただいま」「おかえり」聡美のアルバイトは夕食までなので和也の方が帰宅が早く自宅で出迎えを受けることになっている。靴を脱いだ聡美が台所を抜けて居間に入ると和也は座卓で緑色の表紙の本=陸上自衛隊教範を開いて勉強をしていた。
「夏は観光客が増えるから遅くなってごめんね」「大変だったろう。ごくろうさん」お互いの仕事の話題は食事の時の楽しみなのでここは黙って服を着替え、和也の後ろを通り過ぎて台所に立った。
「今日も昼のセットの残りをもらってきたからメインはこれで良い」「うん、有り難いなァ。家計が助かるし、お前の手間も省けるからなァ」まだ22歳の割に和也の台詞が随分と年寄り臭くなっているような気がする。それを「頼もしい」と思うところが聡美の長所でもある。
「次の演習は何時だっけ」「うん、当分は持続走の大会に向けて強化訓練だな。雪が降ったら今年は冬戦教かも知れないからな」北海道でも名寄の9月は朝夕の冷え込みが始まっている。大雪山系では山頂付近で紅葉が始まっているらしい。昨年の今頃は和也が陸曹候補生として東千歳駐屯地の北部方面教育連隊に入校したため千歳市内のアパートで独り暮らしをしていたが、今年は名寄で秋を迎えることになる。しかし、演習があれば和也は帰ってこないから暖房をつけても気持ちが凍えてしまいそうだ。やはり聡美にとっては「亭主、元気で一緒が良い」なのだ。
レストランでもらってきたオカズを皿に盛りつけ、レンジで温める前に手早く洋食に合うスープとサラダを作った。本当は「容器を持ってくればスープやサラダもやる」と言われているのだが、それでは味気なく、何よりも妻として手抜きのような気がして遠慮している聡美だった。
「貴方、できたよ」「おう、良い匂いだな」2人の食事は台所ではなく座卓で食べるので移動するのは聡美の方だ。トレイにオカズを載せて運ぶ間に和也は勉強道具を片づけて急須にポットのお湯を注いでおいてくれるのが役割分担だ。そんな夫婦の場面を22歳と19歳の2人が演じているのも日常風景になってきている。
「いただきます」「いただきます」共同作業が終わってようやく手を合わすことができた。ここからが夫婦の会話の開演だ。
「俺は名寄に来てからノルディックをおぼえたんだけど、サッカーで脚を鍛えていたからスキーを蹴り出す力が強くてすぐに上達したんだ。だから陸曹になったら冬戦教に入校するのが夢なんだ」この話は何度も聞いているが、熱弁を奮う和也の自信と希望に満ちた顔が好きなので聡美は黙って耳を傾けていた。
「でも冬戦教には色々なコースがあるんでしょう」これも知っている内容だが和也が喜ぶのであえて質問した。すると案の定、得意満面の表情になって一口茶を飲んだ。
「うん、冬季遊撃戦集合訓練に入りたいんだ。上級スキー指導官ではただの体育の先生だからな」実はこの上級スキー指導官集合訓練は冬季オリンピックの選手要員を選考する目的もあるため希望者が多いのだが、そこは価値観が違うらしい。
「でも入校になったら今度は冬の名寄で独り住まいだね」「また真駒内に来れば良いじゃないか。そうすれば少しは寒さも緩いぞ」和也の意見はその通りなのだが、今日の聡美には逆の相談をしなければならないことがある。そこで語り終わって満足したらしい和也の前で今度は聡美がお茶を一口飲んだ。
「貴方」「はい」箸を置いて姿勢を正した聡美を見て和也も条件反射で座ったまま「気をつけ」をして返事をした。
「私、店長からある正社員として就職してくれないかって言われたんだけど」「ホテルのレストランにか」「うん、貴方と相談して決めてくれって」得意の英語を活かすことができる今のアルバイトは聡美も遣り甲斐を感じているのは知っている。そんな聡美の生き生きとした顔を見て暮らすのは和也としても幸せなことだった。問題は今後も長期の転地演習や入校の時に聡美の居場所が固定されてしまうことだ。だから官舎でも正社員として働いている奥さんは地元出身で結婚前からの仕事を継続している人だけに限られている。和也が返事をしないと聡美が顔を曇らせた。
「駄目なの・・・」「俺の入校の間、アルバイトなら辞めて一緒に来られるけど正社員だとそうはいかないだろう」「冬戦教の次の入校の予定は」言われてみれば後は幹部候補生に合格するまで予定はなさそうだ。その前に合格する可能性は・・・果たして前川原が待っているのか。
く・葦田伊織イメージ画像
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  1. 2017/08/29(火) 09:10:26|
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