古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ931

アフガニスタンへの派遣から戻った李知愛大尉は外交部で行われた事件の詳細報告の作成を終えて2カ月ぶりに連隊本部に戻ると今度は留守中に溜まっていた書類の整理に追われることなった。日報的な書類については部下の下士官が作成しているが、その事務処理の代行機能が働いていない。同僚の士官たちは自分の業務が多忙であることを示すため公務不在者の業務を平気で放置している。これが金大中政権以降の韓国軍の現状・体たらくなのだ。
「李大尉、君からの書類が滞っていて困っている。早急に提出してくれ」監理部長も不在間の業務代行を指導しなかった自分の責任は棚に上げて李大尉本人に処理させるつもりのようだ。
本来であれば留守中の業務処理の状況を確認した時点で休暇を与えられるはずなのだが、現在の韓国軍では民間企業が韓国バブルで社員を酷使しているのに合わせて兵士の休暇を制限する方向で指導されており、ましてや士官が私的理由で休暇を申請することが許されるはずはなかった。
「それではお先に」「大尉、お先に失礼します」「後はよろしく」書類の山が幾分、低くなってきた頃、課業時間終了後も残業をしていた同僚たちが一斉に帰っていった。窓に目を向けるとブラインドの向うの空はすっかり日が落ちて暗くなっている。李大尉は小休止するため廊下の自動販売機で缶コーヒーを買いに行こうと立ち上がると軽いめまいと同時に悪寒が背中を走った。李大尉は椅子に座り直すと今度は吐き気が起こり、口を押さえてトイレに向かった。
「ゲーッ、ゲーッ、ウェーッ」便器に吐いたが夕食を取っていないので出てくるのは胃液だけだ。したがって嘔吐はすぐに終わったが、悪寒は続いている。疲労からくる体調不良の可能性も考えられるが、李大尉の胸には別の期待が湧き起こってきた。
「月経はアフガニスタンで1回、あれから・・・」女性としての知識を1つずつ確認していくと期待は確信に変わってくる。長年の念願だった夫・岡倉幸一郎の血を受け継ぐ子供を身篭ることができた。その歓喜は何故か涙になって目から溢れて来た。

「部長、高陽病院に通院したいのですが」翌朝、李大尉はモーニング・レポート(毎朝の業務連絡・予定報告)の後で通院許可を監理部長に申し出ると困惑した顔で質問してきた。
「どうした。疲労で体調が悪いのか。それなら衛生隊で良いだろう」「いいえ、衛生隊の医官では専門外です」李大尉の返事を聞いて部長は深刻な病気を考えたのか今度は顔を少し強張らせた。
「報告は結果が出てからにさせて下さい。よろしくお願いします」いつもは従順であまり自己主張をしない李大尉が強引に許可を求めてきたため流石の陸軍中佐も押し切られてしまった。

「李大尉、これはどう言うことだ」妊娠3カ月(起算は最終月経日)と言う診断書を見せられて監理部長は声を荒げて確認してきた。李知愛大尉は敬虔なカソリック教徒の法務士官として品行方正、一点の非の打ちどころもない模範的陸軍士官だった。それが未婚の母になったと言うのだから、部長にとっては自慢の娘が世間に顔向けできない不祥事を起こしたような衝撃なのだ。
「はい、私は妊娠しました」「相手は誰だ」「申し上げることはできません。それは軍においても法的に保護されている個人情報の範疇です」この回答を聞いても部長にとっては聖女が悪魔に身を売り、魂まで奪われたように思われてくる。
「それで処分するんだろうな」「私はカソリックです。カミが与え給うた生命を殺すことはできません」こうなるとこの部下が手強いことは部長も熟知している。内心では「この場で突き倒して流産させたい」と言う正に悪魔のような考えがよぎったが、そこは常識として押さえた。
「若し、軍がこの件を不祥事として処理すると言うようなら私は退役して親元で育児に専念します。民事訴訟は起こしません」「ご両親は君が未婚の花になったことを知っているのか・・・その前にカソリックの信徒が結婚前に性交渉を持つことが許されるのか」「はい、籍を入れていないだけでカミの祝福を受けている相手ですから、両親も喜んでくれるはずです」韓国では日本と同様に結婚は役所が受けつけて成立する。その点が教会や寺院などの聖職者が証明するアメリカとは違う。
「つまり海外で結婚したと言うことなのだろう」部長は自分が着任してからも年に数回は海外旅行に出ていたことを思い出し、勝手に相手を推定した。その時、李大尉が口を押さえた。
「失礼します」手の下から断ると李大尉はトイレに早足で歩いて行った。これは悪阻(つわり)だ。
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  1. 2017/08/30(水) 08:57:49|
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