古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ932

その日の午後、李大尉は師団司令部の法務官から呼び出しを受けた。用件は言うまでもないが、その経緯は監理部長からの相談なのか、連隊から報告を受けた師団司令部の指示なのかは判らない。
「李大尉、入ります」「おう、素行不良になった自慢の娘が来たな」中佐は妙な軽口を叩きながらアフガニスタンでの部下を迎え入れた。
「まあ、座れ」中佐は敬礼も省略して応接セットのソファーを勧める。李大尉は腹部を圧迫しないように気をつけながらユックリと腰を下ろし、中佐はそんな姿を黙って見守っていた。
「君の妊娠について連絡を受けた。3カ月と言うことだったな」「はい、そのように診断されました」中佐も子供が数人いるはずなので妊娠期間の計算方法はある程度知っているはずだ。起算日(=妊娠1日目)は性交渉があった日ではなく最終月経の初日であり、1カ月は28日で計算する。これが判っていればアフガニスタンで妊娠したことは明らかだろう。
「相手はやはり牧村なのか」「はい、そうです」中佐は生真面目な李大尉であれば未婚の母になったことに自己嫌悪を感じて返事をためらうと予想していたらしく、ハッキリ即答すると困惑した顔になった。しかし、今日の李大尉は自信に満ち、むしろ母となる覚悟をかもし出している。これは「この妊娠を待っていた」と言うことのようだ。
「その様子では彼にレイプされた訳ではなさそうだな」「はい、合意の上で・・・むしろ私からの希望で関係を持ちました」ここまでアカラサマに回答されると中佐としては事情聴取と言う大上段に振りかぶった態度が維持できなくなる。
「彼の素性についてはどこまで知っているんだね」「はい、ほぼ全てを知っていますが、お話しすることはできません」「それは服務規律上の審問に対する陸軍士官としての報告義務であってもかな」これは口調こそ固いが法務官としては世間話的な質問なので李大尉も同じように答えた、
「はい、今回の件が問題に・・・」「だったら退役すると言ったんだそうだな」「はい・・・・」中佐の口調が少し厳しくなったのを感じた時、李大尉の喉には胃液がこみ上げてきた。
「失礼します」それだけ言うと腰のポケットから密封できる袋を取り出し、開くのと同時に中に嘔吐を始めた。普通の男性であれば顔を背ける光景だが、中佐は立ち上がると李大尉の背後に回り、背中をさすり始めた。
「私としては君をこのようなことで退役させたくはない。おそらく牧村も軍人、アメリカ軍で情報に関する特殊任務についている中級士官ではないかと考えている。だから君は彼の素性をあきらかにできないんだろう。返事はしなくても良い」その手と同じ言葉の温もりに李大尉は涙を浮かべたが、この件が服務規律上の問題になればアフガニスタンでの上官だった中佐にも責任追及が及びかねない。その迷惑を思うと感謝の代わりに謝罪していた。

「私、妊娠しました」その夜、李大尉は実家へ帰って両親に報告をした。すると2人は顔を見合せて絶句したままだった。その沈黙を払うように母に目で促された父が質問を返した。
「タイガーとはどこで会ったんだね」「アフガニスタンで外交部の推薦を受けた通訳として働いていたのよ。本当は今回の交渉が成功したのはあの人の力なんです」娘の説明に両親はうなずきながら真顔になり、教師らしく質問責めを開始する。
「それで軍は入籍していないお前の妊娠についてどう言っているんだ」「夫婦と言ってもアメリカの教会で愛を誓っただけでは認められないでしょう」アメリカでは教会で正式に結婚の契約書類に署名すれば神父・牧師が手続きを執り、公的に結婚が認められるのだが、2人は個人で祈っただけなので手続きは何も踏んでいない。しかし、仕事で本名も明かせない夫にそれを求めることは妻として自分が許せない。両親の心配に娘も深刻な顔になり、答えが出ない問題を考え始めた。すると両親は呼吸を合わせたように笑顔になった。
「一人娘が孫を産んでくれるんだ。これほど嬉しいことはない」「待ちに待った孫が抱けるのね。カミよ、この御恵みに感謝します」呆気にとられている娘の前で両親は勝手に感激を語り始めた。
「今のままならその子に『李』の姓を名乗らせることができるんだろう。ありがたい」韓国では儒教が社会制度にまで影響しているため、結婚しても夫婦は親の姓のままで子供は父親の姓になる。それが未婚であれば母=李知愛の姓になるのだ。意外なところで未婚の母も歓迎を受けてしまった。
ち・李英愛イメージ画像
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  1. 2017/08/31(木) 09:25:38|
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