古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月2日・よく判らない本当に偉い人・岡倉天心の命日

大正3(1913)年の9月2日に職業と言う俗な分類では何者なのかよく判らないけれど偉大な業績を遺した岡倉天心さんが亡くなりました。50歳だったそうです。
岡倉さんの名前は山口県民なら周辺での放送を含めて週に数回は見る(その割に地デジ化で福岡県のテレビ東京系列のTVQが視聴できなくなりました)「開運!何でも鑑定団」のおかげで存在としては熟知しているはずですが、「何をやった人か」と説明を求められても答えに窮してしまいます。
判っているのは東京美術学校の校長として後の日本美術界の中核を為すことになる多くの人材を発掘・育成しながら本職の画家や彫刻家である教授陣の反発を招いて排斥運動を受けてしまい、退任後は日本美術院を創設したこと。 横山大観さん、菱田春草さん、下村観山さんなどの俊才を育成し、日本画の革新を推進したこと。日本美術史の研究者として多くの著書を残し、世界に日本の伝統芸術を広めたことくらいです。中でも横山さん、菱田さん、下村さんに「空気を描く工夫はないか」との設問を与え、それまでの日本画の伝統であった輪郭線を廃した画法を追及させ、近代化を実現したことはこの3者の作品が鑑定に出される度に紹介されるので極めて詳しくなっています。
そんな岡倉さん自身は画家や彫刻家ではなく(むしろ専門は音楽だったらしい)、あくまでも学問的に芸術を研究していただけのようです。岡倉さんは文久2(1863)年に福井藩の下級武士でありながら商才にたけていたため幕末の開国による海外貿易の幕開けに参画するべく開設された商店「石川屋」の手代務(てだいつとめ)として横浜に派遣された父と後妻である母の二男として生まれました。二男と言っても父の前妻は4人の娘を残して亡くなっており、母が産んだ兄と弟、妹を合わせると8人姉弟の大家族でした。この母は身長165センチの当時としてはず抜けた大女だったため岡倉さんも長身になり、海外に出る時にも体格で引けを取らないで済んだと言われています(同行した横山大観さんも長身だった)。
横浜では外国人相手の父の店を手伝いながら英語に慣れ、7歳で外国人が経営する英語塾に入って磨きをかけますが、9歳の時、母が妹を産んだ産褥熱で死亡すると父が再婚するのに「子供を減らそう」と養子に出されてしまいました。しかし、継母との折り合いが悪く寺に預けられ、住職から漢籍を学びながら日本人の洋学校へ通うようになったのです。ところが父が務める石川屋が藩籍奉還=廃藩置県によって閉鎖されると東京の旧江戸藩邸下屋敷で旅館を始めたためこちらに同行して上京しました。
東京では官立の東京外国語学校、在学中に東京帝国大学になる東京開成学校に入学し、兄が病没したため15歳で嫡男として結婚しています。東京帝国大学の卒業後は文部省に就職し、ここでアーネスト・フェノロサさんの日本美術の調査に通訳・助手として同行することになり、美術界との縁を構築します。現在の専修大学で教鞭を取った後、東京美術学校の設立の調査のためフェノロサさんがヨーロッパ・アメリカを視察旅行するのに同行し、現地で大流行していたアール・ヌーヴォーの自然美の投影に日本の伝統美術と共通する精神性を見出して、日本美術の革新と海外への発信を決意したと言われています。
帰国後は東京美術学校の校長となり(副校長はフェノロサさん)、前述のような経緯を辿りますが、徒弟制度や流儀の押しつけなど極めて保守・閉鎖的な日本の美術界に学校教育によって多くの流儀に触れながらの取捨選択と切磋琢磨の近代性を持ち込み、世界に目を向けさせて時には日本画と西洋画の枠さえも飛び越えた交流により、両者の長所を混合させた功績は極めて大きいと断言しても間違いではないでしょう。
それでも日本の美術界は作品の売買に高名な作家の推薦を求めたり、新たな画風を認めず陳腐に堕していた古い流儀を名前だけで有り難がる悪弊が継続して、幾多の天才たちが貧窮の中で早逝することになってしまいました。
岡倉さんは晩年まで海外で活動しており、特にフェノロサさんが帰国してボストン美術館東洋部長に就任した縁でアメリカの美術界、愛好者との交流は緊密で、死の直前にはオペラを作曲してボストンに開設される歌劇場で公開するつもりだったのですが、未完のまま亡くなってしまったようです。
岡倉さんがボストン美術館の招きでアメリカを訪問した時、羽織袴の和装で街を歩いていると若者から「お前たちは何ニーズだ。チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズか」とからかわれたため、岡倉さんは「我々は日本の紳士だ。お前は何キーだ。ヤンキー?ドンキー?マンキーか」とやり返したとの逸話が残っています。これは美術においても対抗するのではなく、しかし、卑屈にもならず相互理解を求める気概を持っていたことを表している逸話のようです。
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  1. 2017/09/02(土) 10:10:12|
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