古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ936

関東平野に涼しい風が吹き抜けるようになった頃のある月曜日、私は目覚まし時計で起床すると用便とうがいをすませてタンスの上にお祀りしてある舟形後背の阿弥陀如来への朝課を始めた。
備えてある浄水を酌み換え、線香を立てるとあれから揃えた経机の前の座布団に座り、同じく買ったばかりの木魚と鐘子(けいす)の撥(ばい)を取る。服装は出勤時に制服を着なければならないのでパジャマのままだが勘弁していただこう。
「カーン、ジャラジャラジャラ、カーン、ジャラジャラジャラ、カーン」鐘の間に数珠を揉み、鐘に合わせて頭を下げる。単身生活になって近所の寺の朝課に参加させてもらい覚えた作法だ。
「カチッ、ポクッ」鐘の余韻が収まってきたところで木魚と一緒に撥で押さえる。ここからがお経の始まりだ。
「願我身浄如香炉 願我心如智恵火 念念梵焼戒定香 供養十方三世佛」浄土宗では最初に香偈を唱える。やはり猊下に戴いた法縁を思うと我が家の宗旨は浄土宗なのだ。ただし、出勤前の朝課は15分が限度だ。したがって浄土三部経を時間で切って詠んでいる(時間がない時は短い阿弥陀如来根本陀羅尼になる)。その後は自ら危めた北キボールの若者3人の供養を勤めて朝課は終わりだ。
「なもあみだぶ なもあみだぶ あもあみだぶ あもあみだぶ・・・なーもあみだーぶつなーもあみだぶー」締めくくりの念佛も浄土宗式になった。
「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 無上菩提誓願証 自他法界同利益 共生極楽成佛道」と浄土宗と禅宗を合わせた四弘誓願を唱えると灯明を消して台所に向かう。。
ここからは昨夜のうちに作っておいた粥をレンジで温め、鍋の味噌汁を加熱して、塩コンブを刻んだふりかけと梅干を用意すれば朝食だ。このメニューは都内の禅寺の座禅会に参加して食べた粥座(しゅくざ)の模倣だが、医師からカロリー制限を申し渡されている者としては丁度良いはずだ。
食事を終えて制服に着替え、室内の火気点検を終えて勉強机の上のアタッシュケースに手を伸ばした時、突然、心臓が誰かの手で握られたような感覚がして目の前が暗くなった。そして遠くなっていく意識の中、胸ポケットの携帯電話を取り出して返信ボタンを押しながら床に倒れた。

ハワイはまだ日曜日の昼過ぎだ。食事を終えて台所で食器を洗っていた佳織はテーブルの上に置いてあった携帯電話から夫専用の着信音・ウルトラ警備隊歌が聞こえたので、手を拭きながらとった。
「貴方、何?」月曜日の日本では出勤の時間だ。そんな夫が電話をかけてきたと言うことは何か急用に違いない。しかし、返事はなかった。
「貴方!」今度は呼びかけに変わった。声量を上げながら繰り返したが返事はない。その不安は確信になり、居間の隅の固定式電話で官舎の隣りの家に電話をかけた。
「おはようございます」隣りの妻の聞き覚えがある声が出た。最近は日本でも電話に出ても名乗らなくなっているようだ。そんな違和感は無視して佳織は用件を切り出した。
「おはようございます。ハワイからモリヤです。今朝、夫に何か変わったことはありませんでしたか」突然の電話で前置きもなしに投げかけられた質問に妻は困惑したようで即答しなかった。
「朝のお経が聞こえていましたけど、そう言えば階段を下りて行かれる音は聞いていませんね」「申し訳ありませんが自転車置き場の夫の自転車を確認してもらえませんか」佳織の依頼に妻は受話器を持ったまま裏の部屋の窓から階下の自転車置き場を覗き見た。
「ありますね。ご主人はまだ出勤していないようです」7時には出発しなければ8時までに市ヶ谷の陸上幕僚監部に到着できない。先日の電話でも夫が休暇を取る予定は聞いていないので、この状況では何か不測事態が起こった可能性を心配しなければならなくなった。
「夫には不整脈の持病があるんです。発作は突然起こるので家の中で倒れているかも知れません」隣家の妻としては遠く離れたハワイに住んでいる佳織が想像だけでここまで断言することが理解できないが、2人には普通ではない強固な絆を感じていたのも確かなので素直に同意した。
「私の携帯に着信があったんですけど返事をしないんです」「それでは管理人さんが出勤してくるのを待って連絡します。不安でしょうけれど・・・」心肺停止状態になった者にとって30分間放置されることは致命的だがこれだけの情報では他に対応のしようがない。若しかすると私は朝課で自分の弔いを済ませたのかも知れなかった。
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  1. 2017/09/04(月) 09:25:49|
  2. 夜の連続小説8
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