古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ942

安川3曹は希望通り冬季戦技教育隊に入校できて年明けから真駒内駐屯地に単身赴任する。小隊長や中隊先任陸曹は陸曹候補生を終えて1年での入校を心配したが、中隊長の田島1尉は強く後押ししてくれた。ただし、1つだけ問題がある。今年は聡美が成人式を迎えるのだ。
「真駒内から名寄の帰宅は2泊3日では厳しいな」入校に当たって面接した中隊長もこのことが気掛かりなようだ。現在はハッピー・マンデーなる妙な制度で成人の日は第2月曜日になっているため3連休にはなるが、札幌市南区の真駒内からでは金曜日の帰宅は難しく、土曜日は異動で潰れ、月曜日も成人式が終わればその足で電車に乗らなければならない。然もこの集合教育はレンジャー課程に準ずる扱いを受けているため(2009年から正式な冬季遊撃=レンジャー課程になった)休日も自主トレが課せられるのは間違いない。
「はい、入校中に帰宅するつもりはありません。妻もその覚悟でいてくれています」安川は自分自身の決意を確認するためにそう言い切った。入校が決まった時、聡美とも話し合ったのだが、身内が誰もいない名寄よりも愛知県の地元での成人式に出席するように勧めたものの正社員となったレストランがあるホテルはスキー・シーズンの連休は満室で休暇を取れるはずがなかった。
「大丈夫、貴方と結婚して未成年は卒業したんだから記念品をもらいに行くだけよ。連休中に仕事を休む方が困っちゃう」聡美の言葉は入校を控えた夫に余計な心配をかけないための強がりにしか聞こえなかった。
「まあ、ウチの女房が娘の予行演習として面倒を見るつもりでいるから、その点は安心してくれ」「はい、お願いします」あまり深く考えずに踏み出す。歩きながら考えるのが陸上自衛隊の思考法だ。聡美もその気風に染まりつつあるような気もするが、やはり安川の自己弁護だろう。

「聡美さん、とっても綺麗よ」「本当、こんなに綺麗な娘さんは滅多にいません」成人式の朝、中隊長の妻に付き添われて美容院に出かけ、髪のセットと着物の着付け、そして化粧を終えた聡美を見て田島夫人は店主の美容師と一緒に感嘆の声を上げた。そう言われて聡美も鏡に映る自分の姿を見たが、いつもの自分が着物を着て立っているだけだ。これが夫に誉められれば胸一杯に感激が湧き起こり、泣き出してしまうかも知れない。
「それにしてもお嬢さんは成人式でも留袖なんですね」田舎の美容師は無神経に立ち入ったことを口にした。これは安川の母が結婚披露の時の義姉の鶴舞のお古の振袖を既婚でも着られるように直して送ってくれたものだ。それにしても田島夫人が名寄に来て3年、数カ月に一度の来店だから個人情報に詳しくないのは仕方ないが、年齢から見て成人式を迎える娘がいるはずがない。
「この人は主人の部隊の隊員さんの奥さんなんです。だから留袖なのは当然でしょう。ねッ、聡美さん」「はい、そうです」聡美にはこの微妙に不機嫌な遣り取りの原因が自分であることに困惑したが、薬指の結婚指輪を見せることで収めた。
「それにしても名寄市も馬鹿正直に1番気候が厳しいこの時期に成人式をやることないのに何を考えているのかしら。スキー・シーズンで忙しい新成人も多いはずよ」今度は田島夫人の逆襲だ。地元出身の店主に名寄市役所への批判を聞かせれば少しは溜飲が下がると言うものだ。確かに新成人の出席率の低下が問題になってからは5月の連休や夏休みの8月、さらに正月3カ日中に行っている地域が増えている。零下20度になる1月中旬にワザワザ着物姿で集める必要はないはずだ。
「でも夏場の成人式では着物じゃあなくなるから着付けの仕事がなくなってしまいますよ」「そうよね。浴衣じゃあ商売にならないわね」・・・「やはり幹部の妻は恐い」成人の日に聡美は大人としての経験を1つ積んでしまったようだ。

「君、可愛いね。帰りに成人祝いをやろうよ」式典会場で聡美は新成人の男たちから代わる代わる声を掛けられた。どうやら成人式の後に着物の駒回し(帯を引いて脱がす)をするのが目的らしい。
「これは安川3曹の奥さん。ご苦労様です」すると制服姿の自衛官たちが周囲を取り囲んだ。その態度は警衛勤務につく時そのままで屈強のボディー・ガードを従えている王女の気分になる。これも田島1尉の特別命令なのだが、式が終わった後に携帯で記念写真を撮るところは現代っ子だろう。勿論、聡美もホテルの結婚式の写真係に頼み、正式な記念写真を撮った。
お・葦田伊織イメージ画像
スポンサーサイト
  1. 2017/09/10(日) 09:36:35|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<9月11日・奄美大島を描いた孤高の画家・田中一村の命日 | ホーム | 振り向けばイエスタディ941>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4129-b3887c81
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)