古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ946

「いらっしゃいませ」常連たちが引き上げて美恵子が店じまいの準備を始めようかと思っていた頃、客が来た。店の構造上、中に入ってくるまでそれが誰なのか判らないため反射的に声をかけたが、余程の馴染み客でなければ断ろうと思っていた。
「ネェネ、少し良いねェ」それは松真だった。先ほどは店を開けて早々だったが、今度は締める直前だ。これまで淳之介と姉の息子・勇邦を連れて飲んでいたのだろう。
「何ねェ、もう店じまいする時間なのさァ」美恵子は松真の来店目的が説教・叱責であることを察して追い返しにかかる。しかし、松真は真顔のままカウンターに座った。
「オールド・パーの水割りをグラスで」美恵子が何も言う前に松真は注文した。「自分のキープ・ボトルもこのようにして処分されたのだろう」と言いたいのかも知れない。美恵子はカウンターの奥に並んでいるキープ・ボトルの端から疎遠になった客のスコッチを選んで水割りを作った。それもミネラル・ウォーターではなく水道水だ。
「オールド・パーはないからホワイト・ホースさァ」「それじゃあ、料金は半額だな」松真は原価から断定したが、グラスの代金は美恵子の気分次第なので迷惑料を加えて最高額にしたいくらいだった。
松真は氷でグラスを鳴らしてから口に運んだ。そんな仕草からも本土でそれなりに遊んでいることが判る。この弟も30代半ばになっている。
「ネェネはどうして淳之介を引き取ろうとしたんだ」松真はグラスのホワイト・ホースを2口舐めたところで本論を切り出した。本当は淳之介を交えた思い出話の中で真情を探ろうとしたのだが、美恵子の態度が敵意丸出しだったため断念したのだ。それでも美恵子は視線を合わせようとしない。その頑なな態度に松真は口の中が苦くなってきたためグラスを半分空けた。
「店ではプライベートな話はしないのさァ」重い沈黙に圧し潰されそうになってようやく美恵子は答えたが、それは逃げ口上だった。実際の美恵子は理容店の客をこの店に誘うなど昼と夜の顔を使い分けてはいない。だから先ほどの客=台湾人の劉青然との通い同棲を始めることになっている。
「店って言っても俺と2人だけだろう。弟の真剣な質問に答える気がないのか」松真は少し言葉を荒げた。この店を出てから入った居酒屋で淳之介に聞いた美恵子の態度に感じていた怒りも加わって冷静でいられる自信がなくなりそうだ。
「アンタも自衛隊だな。私にはそんな真剣さが重いのさァ」「だったら淳之介にも軽い気持ちで引き取るって言ったのか」「子供が『来たい』って言うんだったら『来い』って言えば良いじゃない。何が悪いのさァ」姉でなければ殴りたくなるような暴言だが、目の前の女がそんな軽い感覚で生きてきたことは弟として見てきた。問題なのはその経験から何も教訓にしていないことだ。
「ネェネはどうしてニィさんと結婚したんだ」「義兄さんってどっちのねェ」松真は淳之介の父親を階級の2佐にかけてニィさんと呼んでいるのだが、美恵子にとっては前夫と次夫・矢田の2人がいる。会話の流れで相手の意図が読めない鈍感さも他の姉たちとは全く違う。そこに悪意がないだけに善意で守ろうとする身近な者を深く傷つける結果になってきたのは確かだ。
「それは淳之介の父親の方さ」「あの人は私の仕事を理解して応援してくれていたからさァ」「それじゃあ仕事のために結婚したのか」「少しは優しさも感じていたよ」ここでようやく美恵子は松真の顔を見たが、その真剣な目に再び顔を背けた。
「ニィさんの仕事のことはどう思っていたんだ」「自衛隊なんてあってもなくても変わらない仕事さァ、アンタみたいに飛行機が好きな人間は触って飛ばして喜んでいるだけはない。あの人は防府に行って戦争ごっこが好きになったのさァ」この極めつきの暴言に松真の腹の中は完全に煮えたぎってしまった。それを冷却するためグラスに残っている水割りを氷と一緒に飲み干した。
「ニィさんの優しさに応える気はなかったんだな」「あの人は優しくするのが趣味だったんだよ。だから職場でも部下のことを馬鹿みたいに真剣に考えていて家族にだけじゃあなかったのさァ」義兄がまだ若い頃、「国を守ることは家族を守ることだ。だから命を賭けることにも躊躇しない」と語っていた。この姉にはそんな義兄の家族になる資格がなかったようだ。
「やっぱりネェネはモリヤニンジン2佐の妻になってはいけなかったんだよ。勿論、淳之介の母親にも。俺はモリヤ2佐の義弟になれて幸せだけど今は申し訳ない気持ちの方が強いよ。せめてこれからは淳之介に関わらないでやってくれ」そう言うと松真は1万円札を置いて店を出て行った。
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  1. 2017/09/14(木) 10:40:02|
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