古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ947

ウチナー正月は韓国のソルラル(新年)だ。岡倉は妊娠したジアエをアメリカに呼ぶことができず、かと言ってアフガニスタンで韓国への同行を拒否した以上、当局の疑惑を抱いている可能性も考慮しなければならず、極めて慎重に入国した。今回はアメリカから直接、仁川(インチョン)国際空港に向かうのではなくフィリピンで経由してニノイ・アキノ国際空港からフィリピン航空で釜山国際空港に下りた。そこからは高速鉄道(KTX)・セマウル号に乗れば3時間弱でソウルだ
「アンニョンハセヨ(こんにちは)」2度目の李家の玄関で声をかけると今日は義母が出迎えた。ジアエは安定期に差し掛かったとは言えやはり初産であり急激な動きは控えているのだろう。
「これはタイガー、よくいらっしゃいました」「妻がお世話になっております」妻の実家での挨拶としては妙ではあるが夫の立場ではこうなってしまう。
「いいえ、私たちに孫を与えて下さって本当に感謝していますよ」「ジアエは」「居間で貴方を待っています。早く安心させてやって下さい」そう言って義母は早足に先導して居間のドアを開けた。
「ジアエ・・・」義母が声をかけると既にジアエは立って待っていた。岡倉は短くした髪から全身を確かめるように眺めたが、まだタップリとしたワンピースの腹は膨らんではいないようだ。
「貴方、おかえりなさい」「うん、お前も大変だっただろう」岡倉の言葉にジアエは微笑んで首を振った。その表情には今まで見せなかった強い自信を感じる。それが妻から母に脱皮した女なのだろう。
岡倉は義母が飲み物を用意するために台所へ向かったところでジアエを抱き寄せたが、両手を下腹部の前で組み防御の姿勢を取った。以前であれば身を任せるように胸に溶け込んできたのだが、ここでも妻よりも母であることが勝っているのだ。岡倉は軽めの口づけの後、しゃがみながら顔を下してジアエが手で押さえている腹部に唇をつけた。
「お父さんだよ。元気に育っているかい。お母さんに似て賢くて美しい人になるんだよ」我が子に話しかけている夫の頭を両手で支えながらジアエは少し笑った後、鼻をすすった。
「軍では問題になっていないのか」ソファーに座り、義母が用意してきた紅茶とクッキーを口にしながら話題は近況報告になった。
「勿論、法的には処罰の対象にはならないんだけど、士官の婚外妊娠は絶対に容認できない不祥事だ。相手を究明しろって言う上級幹部はいたわ」深刻な事態を説明している割にジアエの顔は平静なままだ。それを不思議に思いながら見詰めていると種明かしを続けた。
「でも父親が誰であるかを知っている人物が師団司令部にいるから、それ以上の話にはならなかったのよ」「中佐だな」「はい、他にはいないでしょう」ここでもジアエはドッシリ構えている。
「でも中佐は貴方のことをアメリカ軍の情報部員だと思っているみたい」「ふーん、それにはお前にも回答できないな」「中佐も私に答えなくて良いって言ってたわ」中佐のあまりにも寛大な態度に岡倉はジアエを人質として韓国軍への情報提供を求めてくる=二重スパイにしようとしているのではないかと懸念してしまった。2人の会話に一応の区切りがついたところで義母が立ち上がった。
「そろそろ夕食の支度をしましょう。ジアエも手伝えるよね」「はい、夫の好物を知っているのは妻ですから」そう返事をして立ち上がるジアエの動作はやはり慎重だ。しかし、介助しようと差し出した岡倉の手を柔らかく拒んだのは「妊娠は病気ではない」と言う自覚の表現なのかも知れない。
「ところでお義父さんは」母子が台所に向おうとしたところでようやく義父の不在に気がついた。
「学校のソンニョンフェ(送年会)に行っています」「そうかァ、マンニョフェ(忘年会)もソルラルの前にやるんだ」韓国だけでなく日本以外のアジアの国々ではカレンダー通りなのは公共行事だけで、個人としての催しは太陰暦で行っている。さらに韓国では「忘」の字は「心を亡くす(『忙』も同様)」に通じるため年末の宴会は「送年会」と呼ぶことが多いようだ。
今夜のメニューは流石に刺激物を控えており、岡倉にとっては日本料理に近いような気がする。食前の祈りはジアエが唱えてから十字を置き、岡倉だけが佛教式に手を合わせて頭を下げた。食事が始まるといきなりジアエが大きめの鉢に山盛りにしているキムチに箸を伸ばした。
「おい、キムチは刺激物だろう。食べて良いのか」妊婦が刺激物を食べると妊娠中毒を起こすと言うのはアメリカで読んだ妊娠解説書の請け売りだが一応は妻に注意した。
「キムチに刺激なんてないわよ」「そう、食欲が出るから沢山食べなさい」すると母子が口を揃えて反論した。この激辛な反論を聞いて岡倉も父の出身地・北九州の辛子明太子が食べたくなった。
スポンサーサイト
  1. 2017/09/15(金) 09:42:34|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ948 | ホーム | 振り向けばイエスタディ946>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4139-931b8a35
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)