古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月17日・果たして芸術家で良かったのか(?)・高島野十郎の命日

昭和50(1975)年の明日9月17日に東京帝国大学を首席で卒業し、学術者としての王道を与えられながらも本人の意志で画家としての生涯を選び、それを貫徹した高島野十郎(やじゅうろう)さんが亡くなりました。艱難辛苦を重ねた割には当時の平均寿命を大きく上回る85歳でした。
高島さんは明治23(1890)年に現在の福岡県久留米市で醸造業を営む裕福な家庭の男6人女2人兄姉妹弟の5男として生まれました。このため5男でありながら恵まれた教育を受けることができたのですが、旧制中学校を卒業するに当たっての進路で父親と対立してしまいました。と言うのも12歳年上の長兄が家業を継がずに詩作と禅の修行ばかりに現(うつつ)を抜かした挙句の果てに詩人になってしまったことに懲りていた父親は学業優秀なこの5男には堅実な正業に就いてもらいたいと考えており、画家と言う文学と美術の違いはあっても不安定な破滅型の人生を認めることができなかったのです。このため本人が志望していた美術学校ではなく旧制高等学校に進学することを命ぜられましたが、九州・熊本の第5高等学校ではなく新設されたばかりだった名古屋の第8高等学校を選んだのはささやかな抵抗だったのでしょう。
名古屋へ行って間もなく進学を命じた父親が病死しましたが、それでも東京帝国大学への進学が決められており、帝大の農学部水産学科でも人並み外れた学才を発揮して学費免除の特待生に選ばれた上、首席で卒業しました。ただし首席の者に天皇から与えられる銀時計は辞退しながら恩師から贈られた金時計は受け取っています。
卒業後は助手として大学に残りましたが翌年に母親が病死したことで絵画への傾倒を強め、喪が明けた大正10(1921)年に初めての個展を開き、大正13(1924)年にも回を重ねました。
昭和4(1929)年からの4年間、兄弟たちの援助で北米とヨーロッパを旅行して絵画芸術に対する思索を深めましたがあくまでも独学で、帰国後は久留米の実家に戻って画業を再開したものの戦争の影響もあり、東京の青山と福岡を往復する生活になったのです。
そして敗戦後の昭和23(1948)年に上京してまたも青山に住み、本格的に画業に打ち込みますが、東京オリンピックによる都市整備のため立ち退きを強いられ、70歳になってから千葉県柏市にアトリエを構えました。そのアトリエには電気やガス、水道がなく周囲の空き地で自給自足しながらの生活でしたが、本人にとっては自由を満喫し、作画に専念できる「パラダイス」だったようです。
しかし、ここも終の棲家にはならず、昭和46(1971)年には転居を余儀なくされて知人の屋敷内に移り住み、最終的には千葉県野田市の特別養護老人ホームで亡くなりました。
貧困生活を送っていた高島さんの作品はモデルを必要としない静物と風景画が多く、中でも野僧は「月」を描いた作品が好きです。高島さんは「描きたいのは暗闇で月はそのために開けた穴だ」と語っていますが、野僧には暗黒の現世に開いた穴から天上の光が漏れているように見えます。
それにしても同郷の青木繁さんのように「天才」との評価を受けることがなく、同じく坂本繁二郎さんのように文化勲章を与えられることもなく、人知れず貧窮の中で死んで逝くくらいなら作画は趣味・副業に留めて学究生活を送り、比類なき頭脳で学術的業績を遺した方が世の中のためにも本人にも幸せだったのはないかと無能過ぎて坊主しかできることがない野僧は愚考してしまいます。
それでも本人は生前、「世の画壇と全く無縁なる事が小生の研究と精進です」と言っていますから納得ずくではあったようです。
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  1. 2017/09/16(土) 09:20:32|
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