古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ951

倉田は2006年に全線開通した青蔵鉄道(チンツァン・ティエル―)を利用してチベットの首都・ラサに向かった。この鉄道の外国人の乗車券は全席がツアー指定になっているためアメリカの旅行社で申し込み中国入りした。客車はアメリカの航空機メーカーに製造させたものなので機密性は十分だが、それでも平地の酸素量を維持している訳ではないので高山病の心配はある。
「貴方はクライマー(=登山家)ですか」車内では1人旅の者同士の会話の花が咲いており、倉田も同席になった男性客に声を掛けられた。その金髪で同世代の客はアメリカのツアーに参加している割にアメリカ人的なバタ臭さがなく、むしろヨーロッパ人の品の良さを感じる。
「いいえ、私は山岳写真家です」そう答えながら倉田は荷物の中から日本の登山雑誌「山と渓谷」を取り出して冬山の写真を見せた。勿論、これは別のプロの作品なのだが漢字を読めない外国人なら倉田が撮影した写真だと勝手に思い込んでくれるだろう。
「素晴らしい。しかし、ヒマラヤに比べると縮小サイズのようですね」「はい、海抜はヒマラヤの半分以下です」実際、青蔵鉄道の最高峰であるタングラ峠は海抜5000メートルを超えている。しかし、倉田は現役時代、空挺部隊で勤務していたため高高度に対する耐久力には自信があった。
「それではチベットには何度も来ているんでしょう」「はい、3度目になりますか」チベットに入るには中国政府が発行している入域許可証が必要なためここは事実を語らないと不要な疑惑を抱かせることになる。実際、倉田は同じ肩書きでチベットには問題が起きる度に3度入っていた。
「ところで貴方こそ登山家ですか」今度は倉田が男性客に尋ねた。登山家にしては日に焼けておらず身体も逞しくはない。それでいて観光客のような気楽な雰囲気でもないのだ。
男性は倉田には躊躇なく質問してきた割に自分の身元を明かすことには慎重な様子を見せている。余り知られると困る職業なのかも知れない。しばらくの沈黙の後、男性客は口を開いた。
「私は報道記者でジェームズです」倉田はこの名前に反応したが表情には出さない。この車両は満席なので前後と隣りにもアメリカ人の客が座っており、何よりも中国の鉄道に盗聴器や監視カメラが備え付けられていると考えるのは常識だ。
「ほう、それでは青蔵鉄道の見どころを紹介する旅行案内の取材ですか」これは報道を使命=存在理由と考えているマスコミ関係者に対しては侮辱になる言葉だが、中国で政治的な話題に触れることには細心の注意を払わなければならないことは互いに判っているのでそこは苦笑してうなずいた。するとジェームズは手帳の余白に2つの文字を記して見せた。
「メイ(=3月) 10」これは1959年に中国共産党がダライ・ラマ14世を拉致して殺害しようとしていることを察知した民衆が蜂起して、ヒマラヤの国境を越えてインドへ亡命させた日付である。つまり取材目的は59年間のこの日を迎えるラサとであり、これが依頼のあった情報活動を意味しているのは言うまでもない。そこからは当たり障りがない世間話で過ごしていたが、その会話の合間に文字を記して見せ、必要な情報を交換した。

ツアーに組み込まれているラサ市内の外国人用ホテルに入ると倉田は早速に「街の写真を撮りに行く」と言って出掛けることにした。するとフロントはカウンターの上に市街地の地図を広げ、英語で外国人の立ち入りが制限されている地区の説明を始めた。その地図自体が人民解放軍の施設や観光用に開放していない寺院は削除されてあり、中国による支配がどのようなものであるかを如実に表している。
「今年はオリンピックが開催されるんだろう。観光地として売り出すつもりなら絶景の写真が撮れる場所を案内したらどうだ」一方的な説明が終わったところで倉田は不快感を露わにしながら親切な助言を与えた。するとフロントは背後に立っている同じ制服を着た若い男に中国語で話しかけた。
「良い風景写真が撮れる場所を教えろと要求しています」「この男の職業は何だ」「日系アメリカ人の山岳写真家のようです」「そうか、明日、案内すると答えておけ」どうやら若い男は共産党から派遣されている政治局員で政治的な判断はこちらが下すらしい。
その指示をフロントは頭の中で翻訳すると流暢な英語で「明日、係員に案内させましょう」と説明した。要するに「単独行動はさせない」と言うことだ。
スポンサーサイト
  1. 2017/09/19(火) 09:48:16|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<9月19日・苗字の日 | ホーム | 9月19日・ソ連をロケット大国にしたツィオルスキー博士の命日>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4149-8f3fc4d1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)