古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ952

倉田がホテルから通りに出て振り返ると自分の部屋の窓に人影が見えた。部屋の小さな灯りを消さずに来たのはこのためだった。この時間にルーム・サービスが入っているはずはないのでフロントから連絡を受けた係員による手荷物の検査なのだろう。このようなことは北京や上海のホテルでも当たり前に行われているが、やはりチベットでの警戒は特別なようだ。
倉田はカメラを片手に持ちながら市内を歩き回った。ところどころで立ち止まって撮影するのだが、写された人物は必ず歩み寄ってモデル料を要求してくる。やはりチベットの人たちが中国国内の他の地域以上に貧窮しているのは明らかだ。
倉田が角を曲がってカメラを構えながら確認するとやはり同じ人間がついてきている。早い話が尾行されているのだ。中国共産党の統治手法から考えてチベットに入域している外国人全員に尾行がついているのかも知れない。
列車の中で指定された待ち合わせ場所に到着するとジェームズは報道記者らしく雑踏にカメラを向けて写真で撮っている。その背後にはやはり注視している中国人が確認できた。
「おっと失敗した」突然、ポケットに手を突っ込んだジェームズが舌打ちをした。同時に尾行の中国人は視線を反らして無関係を演じ始める。逆に子供たちがジェームズを取り囲んで手を伸ばし、何かをねだり始めた。
「予備のフィルムをホテルに置いてきてしまったな。これでは今日の仕事は終わりだよ」ジェームズの独り言は台本通りだ。倉田は適当な距離を取って出番を待っている。
「困ったな。今時、カメラのフィルムなんて売っていないだろうから・・・」助監督がいればここで背中を押すはずだ。
「どうしましたか」倉田もカメラを片手に歩み寄った。2人の会話が英語なのは当然だ。
「折角、絶好の被写体を見つけたのにフィルムが終わってしまったんですよ。今時、フィルム式のカメラを使っているような者はいないでしょうから・・・」「私の日本製で良ければお分けしますよ」ここからは会話が成立する。互いに背後を確認するとそれぞれの尾行たちも違和感なく監視を続けているようだ。
「それで幾らですか」「いいえ、日本製を試してもらえばスポンサーも喜ぶでしょう」「それはあまりにも申し訳ない。それなら今夜、酒でも奢りましょう」これで接点が創作できた。ここから先は親しくなった者同士として接触しても疑われことはない・・・と思いたい。

2人は夕食の席で一緒になるとそのままホテルのバーに入るとカウンターに座った。ボックス席では周囲の装飾品や椅子の中に監視カメラや盗聴マイクが設置されているため丸見え・筒抜けである。その点、カウンターなら実は数ヶ国語を操るのであろうウェイタ―にさえ注意すれば良いはずだ。
「今日はありがとう。おかげでチベットの風俗を紹介する写真を撮ることができました」ここでもジェームズの台詞は報道記者の役柄のままだった。
「いいえ、『困った時はお互いさま』と言うのが私の母国の流儀です」「ほう、母国はどちらですか」「日本です」ここまで話したところで店内に流れているムード音楽がピアノ曲になり、ジェームズの指がビアノを弾くように動き始めた。ジェームズが視線で中指を指定したので動きに注目するとモールスを打ち始めた。倉田も日米協同訓練のために学んだことがあるので理解はできる。この動きであれば監視カメラで見られても察知されることはないだろう。
「―(T) ― ― ―(O) ― ―(M) ― ― ―(O) ・―・(R) ・―・(R) ― ― ―(O) ・― ―(W) ― ―・(G) ― ― ―(O) ―(T) ― ― ―(O) ―(T)・ ―(E) ― ―(M) ・― ―・(P) ・―・・(L) ・―(E)」要するに英語で「明日は寺に行く」と言ったのだ。勿論、これは技量テストである。
倉田も色々な地域での諜報活動に従事してきたが、中国ほど気疲れする国はない。中国の恐ろしいところは古代から社会に張り巡らされ、毛沢東時代に組織化された相互監視と密告制度だ。毛沢東時代には親子・兄弟・夫婦の間でさえ危険思想の疑いがあれば当局に密告することが常態化しており、それが文化大革命の悲劇につながった。中国では自分以外の全てに監視され、常に裏切られる危険性を自覚しておかなければ任務を遂行するどころか生きて還ることもできないのだ。
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  1. 2017/09/20(水) 10:12:06|
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