古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ953

翌朝、倉田がフロントに向かうとガイドのチベット人と英語とチベット語の通訳が待っていた。昨日の話し合いでは案内人としてガイドを紹介することだけで通訳までは聞いていない。
「2人とは聞いていないぞ。料金はどうするんだ」倉田の抗議に昨日とは違うフロントは同じ若い男を振り返って指示を仰いだ。
「どうやら2人分の料金を払うのが惜しいと値切っているようです」この理解はいかにも中国人らしい。すると共産党の政治局員らしい若い男は「1人分で良いと言え」と答え、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「英語を話せるガイドを用意していなかった当ホテルの責任ですから料金は1人分で結構です」そう言われて2人の顔を見るとガイドは一見してチベット人だが通訳の方は明らかに漢民族だ。つまり外国人が直接チベット人と会話しないための監視役のようだ。実は倉田もチベットでは最も一般的なウー・ツァン方言も初級程度なら話せるのだがそれは隠しておかなければならない。
倉田が大通りに出てオート・リクシャー(陸車?後部に3人分の座席を付けた3輪オートバイのタクシーのインドでの呼称)を拾おうとすると通訳は玄関前に入ってきたタクシーを勝手に止めた。ラマ市内で流しのタクシーは珍しいのでホテルが手配していたらしい。ここでもチベット語ができることを明かす訳にはいかず素直に倉田が乗り込むとガイドは黙って助手席に乗った。通訳は運転手に「ヒマーラヤ(現地での発音)の写真を撮れる場所へ」とガイドを無視して指示した。
「先ずは名前から聞いておこう」タクシーが走りだすと倉田は左隣に座った通訳に質問した。
「私はサンポです。彼に直接話すことはないので良いでしょう」通訳の名前まで秘匿しようとする。どうやら「名前が判らなければ呼びかけられない」と念を入れたらしい。確かにサンポは「善良」を意味するチベット人の名前だが宗教色がなく、何よりも発音に北京語の臭いがした。
タクシーをネパールへのスカイラインに向かわせると間もなく街を抜けて前方にはヒマラヤの山々が見えてくる。山岳写真家と言う役柄としてはその麓まで行くべきなのだが今回の目的が違う。あまり料金がかさむ前に止めさせて怪訝そうな顔をしている通訳に理由を説明した。
「私は何度もネパール側からヒマラヤを撮っている。だから今回はチベットの風景の背後にヒマラヤの峰が入るような場所に案内してくれ」倉田の要望に通訳は「ガオディアン・シュオウ=早点説(それを早く言え)」と舌打ちしたがこれは北京語だ。やはり冬季には派遣されている共産党員も縮小されるためレベルが低下するらしい。

「チベットの寺院と僧侶を入れたい。やはりチベットと言えば佛教の聖地だからな」ラマ市内の住宅や市場などで撮影した後、倉田は通訳に次の場所を指示を出した。
「チベットは中国共産党によって法王の封建的圧政から解放された中華人民共和国の領土です。佛教などは人民を意のままに操るための麻薬に過ぎません」興奮させるとガイドの英語が怪しくなる。それにしてもここまで簡単に馬脚を現してくれると、かえって別の謀略を心配しなければならなくなる。それでも予防線を張るために形式的な言い訳をした。
「そうかァ。アメリカで読んだガイドの解説とは違うようだね。それが君たちチベット人の意識なのか」突然、チベット人と言われて通訳は一瞬答えに詰まった。倉田はその機を逃さず追い討ちをかける。
「その圧政を強いていた法王と言うのが1989年にノーベル賞を受賞したダライ・ラマ14世なんだな」すると「ダライ・ラマ」と言う名前にガイドが反応した。ガイドは目を潤ませてチベット語で何かを言いかけたが通訳は目を引きつらせてそれを遮断した。
「当地で法王の名前を出すことは止めなさい。我々は友好的に貴方たち外国人の観光を演出しているのだ。貴方たちにはその厚意に感謝してこちらの命令に従う義務がある」他の国であれば国際常識で反論するのだがここは中国だ。国際常識とは世界の中心である中国が作るものなのだ。これ以上は危険水域、と言うよりもチベットだけに冬山登山なので倉田も安全圏に引き返した。
「そうですか。それは失礼しました。私はアメリカで読んだ本の記述内容との違いを確かめたかっただけです。貴方たちの配慮には感謝していますよ」結局、今回は通訳の正体が判ったところまでにしたが、謝罪のために多額の別料金を渡す羽目になったのは言うまでもない。
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  1. 2017/09/21(木) 09:27:05|
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