古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ954

夕食時、ジェームズが同席した。2人が親密になっていることはホテルの従業員も認識しているが、警戒対象である外国人ことに変わりはない。満席の時間帯を狙ってきていても従業員が各テーブルを回りながら常に会話に聞き耳を立てているのは明らかだ。
「旅行客を魅了するような場所を発掘できましたか」「立ち入り禁止の場所が多くて新発見は難しいですな」このような日常的に過ぎる会話では情報交換が難しい。それでも互いに有益な情報をまぶしながら会話を続けた。
「そう言えば貴方の他にも金髪の人たちが取材をしていましたよ」「ほう、どこの社の人たちかな」自分の話が虚構であることを倉田は目で知らせる。するとやはり背後の従業員が早足で店外に出て行った。おそらくカウンターの共産党政治局員に通報したのだろう。
「私の方は市街地とヒマラヤの組み合わせを狙っているのですが、やはり立ち入り禁止が多くてインパクトがある風景に出会えません」「これで本当に観光客を誘致する気なのかな」2人の会話が進む前に次の従業員が回ってきている。これでは警戒に念が入り過ぎており、かえって漏洩して困るようなことが計画されているのではないかと疑わせそうだ。
「それにしても海抜が高い関係で過熱が不十分になるから、あまり美味い料理はありませんね」海抜が高くなると沸点が下がるので野菜は芯が残り、肉は生臭さが抜けない。富士山頂と同程度の海抜にあるラサ市での日中の沸点は90度を切るはずだ。
「貴方の母国の刺身や生野菜の料理でも広めたらどうですか」「川魚では刺身は作れませんよ」2人の会話が談笑になると従業員も他のテーブルへ巡回する。やはり多くの外国人客の中でも警戒対象としての重要度を高くされているようだ。
「それではお先に」倉田は従業員が離れた隙にテーブルの下で紙片を渡して立ち上がった。それはトイレットペーパーに片仮名のみの日本文で手書きした今日の調査概要だ。片仮名にしたのは漢字や英語では中国人に読解され、平仮名は日本語としての認知度が高いからだ。何よりもジェームズが日本語に熟達していることはアメリカで聞いている。後はジェームズが読んだ後、トイレで流せば証拠は残らないと言う寸法だ。

翌日は中国人の女性通訳だけだった。つまりラサ市内であれば立ち入り禁止地区だけ判っていれば十分と言うことだ。若い女性をつけたのはハニー・トラップの可能性もある。倉田はアメリカ国内で中国や朝鮮系の移民が繰り広げている政治工作の実態を熟知しているのでアジア系の女性は避け、中国や韓国、日本とも接点が薄いアフリカ系の女性をつれ合いにしている。その意味では久しぶりにアジア人の女性を抱けるハニー・トラップには少し期待してしまいそうだ。
オート・リクシャーを拾ってチベットの伝統的な建物が残る市街地の外れを走り回るが、かえって撮影禁止の場所が多く、寒い中をバイクでツーリングしているような雰囲気になってくる。すると前方に長い列を作って托鉢してくる僧侶たちが見えてきた。
「ほう、この寒いのに随分と薄着なんだね」運転手が速度を落としたので間近に見ることができた僧侶たちは法衣の下から素肌の腕が見えており、裾からは毛脛が出ている。それにしてもラサ市内は赤道に近いため2月でも日中は10度近くまで気温が上がるが、日没後は零下10度近くまで下がるのだ。
「あれが彼らの信仰の形ですから当たり前でしょう。嫌なら止めて近代的な生活を送れば良いのです」女性ガイドの見解も極めて冷淡だ。これでは聞いている方の寒さが増して凍えてしまいそうだ。
「本当に寒くないか確かめてみたいな」「それは困ります」「だって貴女は通訳するためについてきているんだろう。仕事をしなさい」倉田は口では責めながら財布から取り出した紙幣を押しつけた。これは逆ハニー・トラップと言うものだ。その金額は女性の欲望をかなえるには十分な額だったらしく、チベット語でオート・リクシャーを止めさせて僧侶に声をかけた。
「お坊さま、このアメリカ人が僧衣で寒くないかと質問している。答えなさい」チベット語では僧侶については敬称になってしまうので仕方ないのだが、その他は完全に命令口調だ。その時、倉田は僧侶と話しているガイドの背後でカメラバッグのポケットから「BJF
(イギリス報道人連盟)」と書いたプレートを出して見せた。すると周囲の僧侶たちの目の色が変わった。
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  1. 2017/09/22(金) 09:45:10|
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