古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ955

翌日、今度は単独で市内に出た。フロントは通訳の同行を勧めたが倉田はアメリカから持ってきたチベット語(=ウー・ツァン方言)と英語の対訳辞書を見せて断った。ただし、この辞書はアメリカのダライ・ラマ14世を支援する団体が発行している国内限定版なので手にとって見させる訳にはいかない。こうなれば当然、尾行がつくことになるがそこは諦めるしかない。
ラマ市内では気温が零度を超えた頃から市場が始まる。郊外の農家が野菜や果物を持ってきて路上に並べ市内の住民たちも手工芸品を売っている。観光客相手の土産物の露店もあるがやはり佛教関係の商品は置いていない。そう言えば時々中国人の警官が巡回してくるが掏摸(すり)や引っ手繰り(ひったくり)、置き引きなどの犯罪だけでなく並べている商品を監視しているらしい。
そんな粗末な露店の奥にはそれなりの店構えの商店が軒を連ねている。しかし、その看板は漢字で書かれており、ウィンドウの中で暖房に当たりながらこちら覗いている店主や店員は全て中国人だ。
倉田はこの対比をカメラに収めようと思ったが「買い物」と言ってホテルを出ているので仕事用の機材はフロントに預けており、不鮮明にはなるが携帯電話で撮影した。撮影しながら振り返ると尾行もこちらの様子を動画で撮影しているようだ。
「おう、BJF(ブリティッシュ・ジャーナリスト・フェデェケーション)×××」その時、背後から声を掛けられた。振り返ると法衣の襟元にマフラーを巻いて毛糸の手袋をはめたチベット僧だった。どうやら昨日、通訳を使って声をかけた托鉢中の僧侶の1人らしい。本当は直接話したいのだが、尾行に察知されると面倒になるため辞書を引いて単語を見せる形で対話を始めた。
「貴方はBJFと関係しているんですか」辞書を見せながらも一緒に覗いている僧侶にだけ聞こえる声量で質問する。すると僧侶も事情を理解したようで辞書に見入るような演技を始め、辞書を開きながら小声で質問に答えた。
「今年は北京オリンピックが開催されるから中国共産党も海外からの批判を恐れて手を出せない。だから私たちがチベット民族蜂起記念日に抗議行動を起こせば貴方たちBJFが世界に向けて発信してくれることになっているでしょう」「そうでした。しかし、その情報が中国共産党に漏れている可能性があります。あまり早計な行動は危険です」倉田の助言に僧侶はうなずきながら手を合わせて対話を終えた。背後の尾行が動画撮影しながら近づいてきたのに気がついたようだ。
「オン×××」僧侶は手を合わせると短く唱えた。この「オン」はマントラ(=真言)から変化した漢字の「南無」に当たる言葉だ。倉田も手を合わせると実家の浄土真宗式に「ナマンダーブ」と唱えた。これで尾行には佛教に関する質疑応答だったように見えたはずだ(だと良いが)。

昼食を取りにホテルへ戻り、再び外出するためフロントに行くと昨日の女性通訳・宮志玲(ピン・ジィリン)が待っていた。志玲は倉田の顔を見ると嬉しそうに手を振り、駆け寄ってきた。
「昨日は有り難うございました。これは昨日のお金で買いました。ずっと欲しかったんです」通訳はそう言いながら防寒ジャンバーの前を開け、首に巻いている洒落た色の長いマフラーを見せた。
「ふーん、よく似合うね。素敵だよ。だけどワザワザそれを見せに来たのか」若い女性と親しげに話していると英語しかできないアメリカ人の役柄を忘れて得意の中国語で話しそうになる。それに寸前で気がついて英語に徹した。
「実はお礼に仕事ではなく個人的に市内を案内させていただこうと思いまして」「それじゃあデートじゃあないか」倉田の返事に志玲はハシャイダようには笑ってうなずいた。そのあまりにも無邪気な態度の向こうにハニー・トラップが控えているのかと思うと倉田の背中にはヒマラヤの冷気が流れ込んだかのように寒さが走る。しかし、それに対抗するための準備はしてあった。
「ジィリン、どこへ連れて行ってくれるんだ」ホテルを出ると志玲は現代の若者らしい積極性とアジア人女性としての恥じらいを織り交ぜながら案内し始めたが、まだ行き先は言っていない。
「貴方が関心を持っている史跡です。貴方もカメラを持っていないから仕事ではないんでしょう」「うん、今日はただの観光客、ジィリンの少し年を取った恋人かな」倉田の返事に志玲は嬉しそうな歩調で先に立って歩き出した。やはり中国の田舎では日本のように人前でも平気で腕を組んだり、肩を抱いたりするようなことはしないようだ。
途中でオート・リクシャーを拾って倉田は昨日。托鉢僧たちに出会った寺の門前街に案内された。
あ・宮志玲イメージ画像
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  1. 2017/09/23(土) 08:40:01|
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