古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ958

3月10日が迫るとラサ市内では不穏な動きが際立ってきた。異様に屈強な若い僧侶が急増し、僧侶たちが集会を行っている場所を遠巻きにして発言者を注視しているのだ。
その頃になると倉田も宮志玲を通じて入手した僧衣を着て僧院内で「民族蜂起記念日」の抗議運動を指導している僧侶に接触し始めていた。勿論、志玲にここまで協力させるためには連夜のように激しく抱いて快楽に溺れさせ、男根の注射で薬漬けにしている。
「老師、共産党が今回の抗議活動を黙認しているのは謀略の可能性が高まっています。自制して下さい」「それは手遅れだ。猊下が御存命のうちに帰還していただくのは我々だけでなく、チベット民族の悲願なのだ。この機会を逃すわけにはいかない」普段は静かな僧院内には興奮した若い僧侶たちが溢れている。彼らは10日の朝にラサ市内の大通りに集まって独立に向けたデモ行進を計画しており、それをBJF(イギリス報道陣連盟)が中継して世界に配信する手筈になっているらしい。
「仮に我々が暴力で弾圧されてもBJFによってマハトマ・ガンジーの無抵抗不服従の再現として紹介されるんだ。それが独立への推進力になるのならこの身を傷つけられることを厭う者などはいない」指導者も自分の言葉に酔っている。チベットの僧侶たちは真摯な信仰と現世の苦悩の狭間で日常を送っているため、そこに投じられた一石の波紋は他に影響する物がない分、激しく増幅して躊躇することなく行動に移してしまうのかも知れない。
「そこまでBCCを信用して良いのですか。イギリスのマスコミの株が中国人によって買い進められていて報道に対する介入が問題になっているのです」これは夕食やホテルのバーでの世間話としてジェームズから聞いたイギリスの国内事情だ。しかし、指導者は唇を歪めて予想外の反応をした。
「尊公(僧侶の敬称)はそのような遠い俗世の話を何処で聞いてきたんだ」僧侶は世俗とのしがらみを一切断って佛道に身命を投げ入れなければならない。ヨーロッパの事情を知っていること自体が社会への執着に他ならず、僧侶として不信感を抱かれても仕方ない。倉田は今、ここで本当の身分を明かして自制を強く求めるべきか、それとも僧侶の1人として活動の中で事態を見極めるべきか迷ったが後者を選んだ。
「街で拾った外国の雑誌で読みました。英語は出家前にインド人から習いました」「そうかね。それでは世俗との関係を断つと言う最初の佛戒も保てていないことになるぞ。この事態が収まったならもう一度、やり直しだな」「はい、老師」倉田が合掌して退出すると外で場違いな殺気を漂わしている若い僧侶が鋭い眼光を投げかけてきた。

ジェームズはBJFの記者と中国共産党の政治局員の接点を追っている。すでに両者が会っている現場写真は撮影しているが、会話の内容までは確認できていない。そして何よりも市内の緊張感が増すに従ってホテル内の警戒も強化されて倉田との情報交換が不可能になっていることが活動の大きな障害になっていた。
「これは・・・」軍用車両を追って市街地の裏通りを歩いていると中国人の商店の倉庫から話し声が聞こえてきた。その内容は軍隊用語だ。かつては階級がなく役職だけで部隊を編成していた中国人民解放軍も現在では階級制度を採用しており、相手を呼ぶ時には姓の下に階級をつけるようになっている。倉庫の中の会話でもそれが飛び交っているのだ。
「林4軍士長、これでどうですか」「馬鹿、この布の巻き方が違う」どうやら人民解放軍の下士官と兵が着替えているらしい。
「朱上士、靴下を脱がんか」「えーッ、素足では冷たいですよ」「それがアイツらの服装だから我慢しろ」「全く時代遅れな生活をやってやがって」この会話で中の様子が掴めてきた。その確証を得るためジェームズは姿を隠し、望遠レンズで倉庫の入り口を狙った。
やがて倉庫の扉が開き、1名の僧侶が顔を出すと裏通りに人がいないのを確認して中に声をかけた。すると十数名の僧侶が姿を現した。
チベット佛教では特別な理由がない限り托鉢は行わないが、3月10日の「チベット民族蜂起記念日」での抗議運動の周知のために現在は多くの僧侶たちが街中で市民の施しを受け、参加を呼び掛けている。それに紛れ込めば僧院へも立ち入ることは容易だろう。それにしても人民解放軍は兵士に僧侶の紛争を起こさせてどうしようと言うのか。答えは判っているが認めるのが怖くなった。
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  1. 2017/09/26(火) 09:25:43|
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