古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ964

その日のうちにラサ市内の3つの大僧院は警官隊によって完全に封鎖された。チベットの僧院では僧侶たちが托鉢して回るタイやミャンマーとは違い、スリランカやブータンと同じく近隣の信者たちが食事や必要品を持ち込んで供養する。このため僧侶たちは僧院内で禅定(ぜんじょう=坐禅)や観経(かんぎょう=経典の読書)に専念して時間を過ごすことができるのだが、周囲と遮断されれば修行生活そのものが崩壊してしまう。
境内や回廊にはガス弾発射銃を持った警察官が配置され、日頃、起居している僧堂に押し込まれた僧侶たちを監視している。その間にも捜査官たちは経蔵に保管されているチベット民族の宝物・遺産とも言うべき経典まで証拠品として乱暴に運び出しており、それを制止した僧侶が暴行を受けた上で逮捕・連行された。
「断食かァ、釋尊は断食の苦行を止めて禅定に入って悟りを開かれたんだろう」「スジャータから乳粥の供養を受けられてな」自分の居場所で禅定をしながら1人が口を開くと別の者が即座に返事をした。南方佛教では食料が傷む前に食べるようにしているため1日1食が基本だ。だから空腹には慣れているのだが、その1食がなければ流石に堪えてくる。それを紛らわすために口数が増えるのは修行の長短・難易に関係ないらしい。それにしても人民解放軍がチベットに侵攻してきて以来、過酷な弾圧を受け続けてきたにも関わらず僧侶たちにはそれほど深刻な危機感がないようだ。
「日本の友人に聞いたんだが、あちらの真言宗では『即身成佛』と言って修行の完成として生き埋めにされて食を絶ち、そのまま死んでしまう者がいるらしいぞ」「真言宗は日本の佛教でも我々に近い真剣な信仰を守っている宗門だろう。少しやり過ぎだな」日本で一般的な鎌倉佛教の各宗派は戒律が異なるため海外では佛教とは認められていないのだが、真言宗は古くからチベット佛教と交流を持ち、現在もダライ・ラマ14世猊下への支援も積極的に行っている。僧侶の中には旅行者としてチベットを訪れ、僧院を見学する者もあるが、やはり中国政府による監視下では心ゆくまで交流を深めることはできないのだ。
「そろそろ晩課(ばんか=夕方の勤行)の時間だな。法塔(はっとう=本堂)へ行こう」僧堂内には時計がないのだが、窓から射し込んでいる日の光の位置で時間を察したベテランの僧侶が声をかけ、他の僧侶たちも顔を見わせて立ち上がった。
「歓鐘(業務用の鐘)が鳴らないな」「それも禁じられているんだろう」通常の生活の形に戻れば気分も僧侶に返る。僧侶たちは妙に高揚感を噛み締めながら僧堂から出ようとした。すると外の石廊下を巡回してきた警察官の足音が立ち止まった。
「ビィズイ(閉嘴=黙れ)」警察官はゴム弾発射銃で板製の扉を打ち、叱責してきた。
「フィ タァオ ファオンジャン(回到房間=部屋へ帰れ)」回廊の向こうでは厳しく叱責する声が聞こえてくる。警官隊は僧院の宗教施設としての機能まで停止させようとしているのかも知れない。そのような暴挙も他人事のように素通りさせるのが僧侶たちの感覚だった。

富士山頂並みの海抜にあるラサ市内は夕方から急激に気温が下がる。広場で鉄製の檻に入れられた民衆たちも身体を寄せ合って暖を取るようになってきた。
こう言う状況になると男女の肉体の構造の違いは野外での活動の適否の証明になってくる。尿意をもよせば男性は檻の端から外に向かって放尿することができるが、女性は尻を突き出しても足元を汚さざるを得ない。大便は自分の手で受けて投げるしかないが、その手を拭く紙や洗う水がない。このため周囲には異臭が充満し始めている。
すると1台の小型消防車が檻の前に横付けして、助手席から監視を担当している警察官が下りた。
「今から水をまいてやるから汚物を洗え」警察官は北京語で一方的に説明すると運転席から下りた消防士に放水を始めるように促した。消防士は後部のタンクのスイッチを押してポンプを作動させると車載式のノズルから檻に向って放水を始めた。冷え込みが始まっている空気の中での放水は身体を破壊するように叩きのめす。女性が上げた悲鳴、男性が叫んだ罵声も顎の震えがかき消し、ただ母親に抱かれた子供の泣き声だけが残った。
これからラサ市には零下まで気温が下げる。ずぶ濡れになった衣類が奪う体温を防ぐ手段は何もない。そう覚った人々は手を合わせ、祈りを唱え始め、それが合唱になって夕空に響いていった。
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  1. 2017/10/02(月) 10:03:45|
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