古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ969

安定期に入ってから李知愛大尉は休日には実家に帰るようにしている。韓国では2005年から官公庁や多くの企業では週休2日制が導入されているため宿舎で2日も1人で過ごすよりは気持ちが落ち着くのだ。夫の岡倉はアフガニスタンから帰国して以降、ペルシャ語を活かしてイラクの核開発問題を担当しているらしい。それでも「出産予定日の初夏には帰ってきて欲しい」と言うのは妻よりも生まれてくる子供の母親としての願いだった。
「ジアエ、チベットで大変な事件が起こったな」土曜日の昼、マタニティ姿で居間に入ってきた娘に父はいきなり重大な話題を持ち出した。ジアエも職場で3月10日にチベットで始まった抗議運動のニュースは見ているが、やはり佛教徒の話題なのでクリスチャンとしてはあまり興味を示さず、詳細は知らないままだった。一方の父は休日の朝から居間に陣取り、新聞とテレビの両方から時事問題を仕入れているからニュースの前に字幕を読んだようだ。
「チベットでは3月10日が民族蜂起記念日だから市民が中国の支配に抗議する運動をやっていたんでしょう」ジアエが答えたところでテレビがイギリス発のニュース映像を流し始めた。
「僧侶が暴力を奮うなんて驚きだな」父は僧衣を着た男たちが拳大の石を拾って店舗に投げつけている場面で先ず驚いた。しかし、ジアエは返事をせずに画面に見入っている。
「今度は店を破壊し始めたぞ。下手な同時通訳などはいらん。英語の解説を流せ」暴徒たちがウィンドウを叩き割り始めたところから記者は格闘技の中継のように興奮した声で説明を加え出した。それに韓国語の同時通訳が重なっているのだが、英語を理解する者にとっては雑音にしか聞こえない。ジアエも同感なのでリモコンで音声を切り替えた。
「僧侶がここまでやるのか。佛教の僧侶は刃物を突きつけられれば手を合わせて首を差し出すように教えられているはずだがな」父も教師として韓国民を2分するクリスチャンと佛教徒の生徒を教えているため佛教の倫理や教義についても研究しているのだ(これは日本の法然上人の教えだが)。テレビではそんな素人でも疑問を感じるような状況が繰り広げられている。そこに母が入ってきた。どうやら昼食の支度にジアエを誘いに来たらしいのだが、2人が熱心に見ているニュースに興味を持ってジアエの隣りに腰を下ろした。
「ここからは残酷なシーンになりますから子供や妊婦、気の弱い方は視聴を避けて下さい」ここで画面が一度止まり、アナウンサーが注意喚起した。母は当然のようにジアエが視線を反らすことを確認したが軍人の職務としての必要から注視したままだった。
「我が国でも佛教の僧侶は抗議活動を起こすことが多いけど、あそこまで暴力的ではないわね」遅くなった昼食を始めると母がニュースの感想を述べた。ただし、食事中に相応しい話題ではない。
「どうも違和感がある。あれはどう見ても熟練した軍人の戦闘行動だ」「確かにリーダーの指揮を受けて一斉に行動しているのは軍事訓練の基本通りだわ」父も若い頃、兵役の経験があり、国民皆兵の訓練も受けてきたためジアエと同様の疑問を感じているようだ。
「それにアナウンサーの実況が台本を読んでいるみたいだった。次に何が起こるのか前もって判っていたわ」これは父がリモコンで同時通訳を消して生の英語を聞いて感じたことだ。通常の実況では次の展開に移った時、その状況を判断するため一瞬の間が入る。ところが台本を読んでいれば同時進行で言葉を続けることができる。今回はまさにそれだった。
「と言うことはこの暴動は・・・」「うん、政治的な策略の臭いがするな」「そうね、チベット佛教を貶めるための」母のまとめに父娘が結論を出した。
「でも我が国ではキリスト教と佛教の対立に利用されるんでしょうね」食事が終わったところでジアエが韓国内での反応に対する見解を述べた。
「そうだな。クリスチャンとしてはアフガニスタンでの集団拉致事件で政府の制止を無視して出発したことを手厳しく批判されているから佛教の失態は願ったり叶ったりだろう。ここぞとばかりに佛教を非難する宣伝を始めるぞ」キリスト教に対する批判的な意見を聞いて父以上に敬虔な信者である母は不満そうな顔をした。
「そんな風に国内事情でしか見ないから我が国は国際情勢を見誤るのよ」父に同調してジアエ=李知愛大尉まで自国の批判を始めたため、熱烈な愛国者でもある母は黙って出て行ってしまった。
「貴方のお父さんの意見が聞きたいね」ジアエはお腹の子供に話しかけながら片付けを始めた。
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  1. 2017/10/07(土) 10:17:26|
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