古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ970

僧院が封鎖されて1週間、食糧は必要に足りない程度が与えられているが、それ以上に過酷な取り調べが始まっている。それは取り調べと言うよりも棄教を迫る拷問だった。僧侶は各居室から無作為に連れ出され、帰って来た時には倒れるように床に入り、多くはそのまま意識を失っている。
「大学時代、遠藤周作先生の『沈黙』を読んだっけなァ」倉田の宿舎に指定されている僧堂の裏手でヒマーラヤの峰を仰ぎながら日本語で独り言を呟いた。英語版の「沈黙」はカソリック教徒と交際している島村(=岡倉)にやってしまったが、今は日本語の方を読みたくなった。
「痛か、痛か、踏み絵を踏んだ足は痛かよ」倉田は「沈黙」の後半で転んでしまった(=棄教した)切支丹が叫ぶ言葉を真似して見た。しかし、ここでの棄教は踏み絵を踏まさせられる訳ではなく、僧院を退去して市民に対する佛教批判を行うことを誓約するらしい。
「その前に俺はチベット語が下手なことを怪しまれてそちらの拷問を受けることになるな」これは我が身に降りかかるであろう災難だが、妙に他人事のように思える。中国の拷問の残酷さは映画「西太后」でも見たが、その前に命を絶った方が幸せかも知れない。実際、取り調べを受けた僧侶が何人も体調急変で運び出されて戻ってこないのだ。
「それにしてもこのまま殺されるとなると俺は倉田・・・いやチベット僧として死ぬんだな。チベットには戒名はないみたいだからツェリンのままかな」アメリカの工藤の下に集まっている情報要員は本名を名乗っていない。倉田も本名の語感を残した偽名だ。今回はチベット僧に化けた時に丁度目にした現地人の名前を借用している。それがツェリンだった。ちなみにツェリンとは「長寿」を意味する言葉なので今となっては皮肉な選択になった。

とうとう倉田の順番がやってきた。僧院の中でも狭い部屋を選んで取調室の体裁を整え、そこに尋問と記録担当の警察官が2名、それにチベット語への通訳が1名いる。したがって僧侶でありながら狭い机を挟んで椅子に座っていた。
「お前の名前は」「ツェリン」「ツェリンだそうです」倉田としては尋問の警察官が話す北京語の方が理解できるのだが、チベット僧を演じるためには判らない振りをしなければならない。その一方で説明を強いられればチベット語ができないことが判ってしまう。その狭間で悩みながら回答することになった。
「お前はあの暴動に参加したな」「いいえ」「それでは暴動が起きた時間はどこにいた」「どうした、言えないのか」「いいえ」「ならば言え」「ウォ・フィ・ヴァオチン・シェンモォ(我会保持沈黙=黙秘します)」追い込まれた倉田は北京語で「黙秘」を宣言した。それを聞いた3人は一瞬、呆気に取られた後、顔を見合せて苦笑いをした。

高齢者=長老を除く僧侶たちの取り調べが終わった翌日、屈強な警察官たちが僧堂に踏み込んできた。
「お前だ」「お前だ」指揮官らしい警察官は若い警察官を指示して連行する者を指名していく。それは日頃の雑談でも過激な反中国的発言を口にしていた者ばかりだった。どうやら中国民族の生活習慣である密告がこの僧院でも行われたらしい。
「お前だ」指揮官の指示を受け、いきなり巨体の警察官が倉田の肩を掴んだ。チベット語ができない倉田は雑談には参加していなかった。それを誤魔化すため日本で学んだ坐禅を組んで時間を過ごしていた。それなのに反抗的不満分子の中に加えられることは納得できない。しかし、ここは中国共産党が支配する中華人民共和国の一部になっているチベットなのだ。
倉田を含む僧侶たちは経蔵の中に押し込まれた。経蔵に保管してあった経典は運び出され、壁の両側には空になった本棚が立っているだけの狭い空間に、立ったまま身動きができない状態になった。
するとそこへ数発のガス弾が投げ込まれた。その金属製の弾から鼻を突くガスが音を立てて噴き出している。どうやら催涙ガスらしい。
「これは拷問なのか・・・」倉田が考えていると周囲の僧侶たちが激しく咳き込み、やがて苦しそうにもがき出した。経蔵の窓は本棚の上の高い所にしかなく充満しているガスはすぐに人間の身長を超えた。つまり窒息し始めたのだ。倉田は本棚に足をかけて上り、小さな窓を確認した。するとガラス窓には目張りがしてある。最早これまでだ。
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  1. 2017/10/08(日) 08:57:14|
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