古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月10日・明治の日本を描いた風刺画家・ビゴーの命日

1927年の明日10月10日に明治15(1882)年から明治32(1899)年までの長期間にわたって滞在して、鋭い視線と卓越した描写力で日本を描いた風刺画家のジョルジュ・ビゴーさんがフランスで亡くなりました。
ビゴーさんは1860年に官吏の父と名門家庭の令嬢で画家だった母の間にパリで生まれました。母の影響で幼い頃から絵を描き始め、少年になるとスケッチ・ブックを持って街を歩き回っては事件写真のような絵をものしていたようです。12歳でパリの名門美術学校であるエコール・デ・ボザールに入学しますが、8歳の時に父が亡くなっていたため4年間で退学して挿絵画家として家計を助けることになりました。そんな中、1878年のパリ万博で浮世絵を見たことで日本に強く憧れるようになり、フランスに留学した帝国陸軍首脳と日本の陸軍士官学校に派遣されたフランス人教官の人脈で来日して長く活躍することになったのです。
野僧の時代は中学校や高校の社会・歴史の教科書には日清戦争前後の国際情勢を描いたビゴーさんの風刺画が載っており、それは「川に釣り糸を垂れて朝鮮と言う魚を狙っている日本人と中国人、そして橋の上から釣った魚を奪おうと待ち構えているロシア人」と言う日清戦争前の作品や「ロシア人が焼いている栗を日本人に奪わそうとけしかけているイギリス人とそれを後ろで眺めているアメリカ人」と言う三国干渉・日英同盟締結後の作品などでした。前者の日本人は和服に下駄履き、月代を剃って刀を差し、苦み走った顔をしているのに対して中国人は中国服で辮髪(べんぱつ)、しゃがんで無表情、ロシア人は髭面で軍服姿、欲望を隠そうともせず涎を垂らして虎視眈眈と狙っていると言う3者の国民性を巧みに表現していて、川の中の朝鮮魚は上目使いに両者の様子を窺っていながらロシアには気づいていないところも絶妙でした。後者は髭面で薄笑いを浮かべているロシア人を前に日本人は小柄な少年が西洋式の軍服を着ていて緊張した顔をしながら紳士を気取るイギリス人に背中を押されて危険を承知で立ち向かおうとしていて、それをアメリカ人が同情しながらも他人事として冷笑していると言うものでした、
日清戦争は朝鮮王朝内の「日本に倣って近代化を進めるべきだ」と言う改革派の若手と「これまで通り宗主国・清朝の下で伝統を堅持していけば良い」と言う守旧派の対立から生起し、守旧派が清朝に派兵を求めたため呼応するように日本も出兵して朝鮮半島から中国東北地区を舞台に戦闘を繰り広げたのでした。その意味では日本人は戦意丸出し、中国人はあまりやる気がないのは当然で、朝鮮が両者の背後でロシアが狙っていることに気づいていなかったのも事実でしょう。日露戦争前夜は日清戦争の勝利によってようやく欧米に近代的文明国の一員として認められた日本を軍服を着た少年として描き、その高揚感と緊張を表情で描き出していました。イギリス人にとっては極東でのロシアの権益が拡大することを阻止したいものの陸路からシベリア鉄道で兵力を派遣できるロシアに対抗するにはインドや中東の部隊を転用しなければならず、独立の気運が芽生えている時期だっただけにそれは避けたい。このため東洋の小国に過ぎない日本を一人前扱いすることでその気にさせて試してみた。この時点のアメリカは関心はあるけれど介入する気はなく(後に講和を仲介してくれましたが)、日本が痛い目に遭うことを同情しながら冷笑を浮かべていたのでしょう。
ビゴーさんが日本人の妻と離婚してまで帰国した理由は条約改定によって治外法権を喪失すると表現の自由が制約される可能性を危惧していたからだと言われています。これだけ日本人の本質を見極めてていた人物の危惧なのですから、昭和に入ってからの言論封殺の予兆を感じていたのかも知れません。
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  1. 2017/10/09(月) 08:48:57|
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