古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ972

涙が枯れるまで泣いたジェニファーは愛するパートナーの遺志を受け継ぐための行動を開始した。動画を世界に向けて発信するためにはインターネットに投稿するのが早道だ。大手マスコミに売り込んでも画像の信憑性や撮影者の身元、投稿者が入手した経緯などの審査に手間取り、かえって大株主の中国系移民=華僑に情報が流れる危険性があることはパートナーの徹郎に日頃から聞かされていた。何よりジェニファー自身も夫婦同然のパートナーでありながら徹郎の本名は聞かされておらず「浦田徹郎と呼べ」としか言われていないのだ。
「インターネットの動画サイトなら・・・」ジェニファーはアフリカ系女性向けファッション雑誌の編集者であり日常業務でインターネットを利用しているが、動画の投稿となると初めての経験だ。それでも動画をパソコンに取り込み、画面に字幕を挿入した上でディスクにコピーすると窓から早朝の光りが差し始めていた。

「工藤さん、これは倉田さんの映像ではないですか」インターネットの投稿サイトを確認していた杉本が驚きの声を上げた。工藤と松本が立ち上がって画面を見ると薄暗い画面に紅い布をまとった男性たちが折り重なって倒れている光景に「シュー」と言うガスの噴出音だけが流れている動画だった。その男性たちは全員が短髪で(剃っていないため髪が生えた)、手を合わせながら倒れている者も多いので南方佛教の僧侶たちと判断した。
「どうして倉田の動画だと考えるんだね」「ここでは判りませんが、録画し終えてから再生してお見せします。何よりも『今、チベットで行われている事実』と言う字幕が入っています」杉本の説明に工藤はうなずきながら動画に視線を戻した。すると数十秒に1回の間隔で杉本が言った字幕が流れている。しかし、動画には何の変化もなく身動きしない男性たちがガスによって死亡していることだけを雄弁に語っていた。
「動画の最初の部分に呻き声が入っていて、それが倉田さんの声のようなんです」10分近くの録画を終え、杉本は予告をしてから再生した。すると動画の冒頭には男性の苦しげな呻き声が低く入っている。それは言葉ではなく荒い息遣いのようだが、聞きなれた者には判る倉田の声だった。やがて深い溜め息のような音がしてガスの噴出音以外は何も聞こえなくなった。人間は死亡すると肺の空気が抜けて最期の溜め息をつくと言う。この時、倉田は死んだのだ。
「何てことだ。ナチのホロコーストでもあるまいにガス室で殺されるなんて・・・」「僧侶たちに化けて情報収集していたんだな。それはあまりにも無謀だ」松本と杉本の胸には倉田を失った悲しみと怒りが交錯しているようで泣きながら声を荒げている。工藤はそんな2人の姿を無表情に眺めていたが言葉が途切れたところで口を開いた。
「倉田のような死は自衛隊の対外情報収集が始まった頃には日常茶飯事だった。インドシナ紛争の戦況を確認するために陸軍中野学校出身者たちがホーチミンの組織に潜入して殺されている。ベトナム戦争でもアメリカ軍の依頼を受けて軍事境界線を越えていたのは我々の先輩たちだ。君たちもその覚悟を持って任務を遂行しているんだろう」「はい」「・・・」松本は即答したが杉本は顔を強張らせてうなずいただけだった。ここに岡倉がいればどのような反応をするのかを知りたいところだが、今はイランの核開発に対するアメリカ軍の動きを探るためペンタゴンに詰めている。
「むしろ私が心配しているのはこの動画を投稿した人物に中国側からの危害が及ばないかだ。仮にそれが事件になれば倉田との関係が発覚し、我々の活動にまでマスコミが関与してくる危険性も否定はできない」つまり工藤は倉田が最後の成果を託した人物の安全を考えているのではなく、その結果、生じる自分たちの活動への影響を危惧しているようだ。この乾き切った状況判断が対外情報収集=諜報と言う職務を指揮する上での必須条件なのだろう。
「この動画サイトへの投稿者の個人情報は外部からは確認できません。ただし、在アメリカ中国系移民は株主として内部から影響力を行使してきますから御指摘の危険性は十分にあるでしょう」「倉田さんのパスポートや身分証明書が中国当局の手に渡ればアメリカ国内でも調査が始まります。何よりも動画を撮影していた携帯電話は遺体と一緒にありますから、送信履歴で投稿者の氏名と連絡先は知られる、むしろすでに知られていると考えるべきです」冷静になった2人の意見は適切だった。工藤は安堵したように表情を緩めたが目元には涙が光っていた。
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  1. 2017/10/10(火) 09:41:45|
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