古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月11日・博多祇園山笠と静岡茶の祖・弁円(べんねん)が遷化した。

元寇の前年である弘安3(1280)年の10月11日(太陰暦)に博多祇園山笠と静岡茶の祖である聖一(しょういち)国師・円爾弁円(えんにべんねん)さまが遷化しました。弁円さまは出家後の道号を円爾、僧名は弁円としていましたが、朝廷で教化した時、天皇から道号で呼ばれてからは円爾とだけ名乗るようになり、それからは弁円の名を用いなくなったので正確には聖一国師・円爾と呼ぶべきかも知れません。
弁円さまは建仁2(1202)年に現在の静岡市葵区で生まれ、当時は寺だった久能山で奈良佛教の倶舎論と天台教学を修め、18歳で天台宗の円城寺で得度を受け、東大寺で受戒しています。天台宗でも比叡山には伝教大師・最澄さまが創始した(生前には実現しなかったものの)日本独自の大乗菩薩戒の戒壇がありますが、これは佛教としての正式な戒律を継承したことにならず、海外に出るためには東大寺と筑前・太宰府の観世音寺、下野の薬師寺の佛戒を受けなければならないのです。その後、宋から来日していた多くの禅僧が鎌倉幕府の庇護を受けて中国直伝の臨済禅が宣揚していた関東へ移り、ここでの修行を経て宋に渡り、允可・嗣法を受けて帰国しました。この時、上陸の地である博多に承天寺を建立し、ここで従持していたことが博多祇園山笠につながるのです。
当時、大陸との窓口であった博多では度々疫病が流行していて有効な治療法がないため住民たちも困り果てていました。そこで相談を受けた弁円さまは施餓鬼棚(盂蘭盆会の施餓鬼法要の時に屋外でうごめいている餓鬼に施す供物などを載せる台)を住民に担がせ、その上に立って水を撒きながら疫病退散の祈祷を行ったのです。これが現在の「曳山(ひきやま)」を担いで疾走する「舁き手(かきて)」に気合いを入れ、体温を下げるために「力水(ちからみず)」をかける風習になりました。
こうして京都の祇園祭の山鋒と同じように疫病退散の宗教儀礼として継承されたのですが、豊臣秀吉の時代になって焼け野原になっていた博多に再建のための自治組織として「流(ながれ)」が設置されると、華美に飾るようになった施餓鬼棚を「山(やま)」と呼び、それを披露しながら練り歩く博多的な発展を遂げていきました。ところが江戸時代に入った貞享4(1687)年に順番に回るはずの「山」を「舁き手」が休憩中に他の「流」が追い抜く事件が起こり、これを切っ掛けに「流」対抗で「山」の速さを競う現在の博多祇園山笠が始まったのです。博多祇園山笠は何時の間にか櫛田神社の祭礼になってしまいましたが、それでも承天寺でも「飾り山(競走用の『曳山』と違って派手に装飾した山)」の奉納が勤められていることで祭礼としての意義を保っています。
余談ながら春日時代に「舁き手」への掛け声「おっしょい」が「弁円和尚」に由来しているのかを各「流」の親分(本職のヤクザ屋さんだった)たちに訊いたのですが「判らない」とのことでした。
弁円さまは博多を去ると京都で東福寺を創建し、臨済宗の高僧として活躍しますが、その一方で東大寺の大勧進職に就任し、さらに真言宗、天台宗とも交流を保つなど臨済禅を日本の佛教界に認めさせ、定着させることに大きく貢献しました。
晩年は静岡へ戻り、鎌倉臨済禅とは一定の距離を保ちつつ独自の禅風を広めたのですが、同時に宋から持ち帰った茶の栽培を勧め、現在の静岡茶の始祖とされています。このため静岡市では弁円さまの太陽暦の誕生日である11月1日を「静岡市お茶の日」に指定しています。
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  1. 2017/10/10(火) 09:43:14|
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