古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ973

その日のうちに工藤は報告のためワシントンの日本大使館に井上将補を訪ねた。前任の野中将補の頃には自衛隊が外交問題に関与することを嫌う外務官僚たちの敵意に配慮してペンタゴン内で会うことが多かったが、外務省では世代交代が進み、湾岸戦争を契機として自衛隊を海外で活動させることの必要性を学んだ同志のような雰囲気さえ感じられるようになっている。
「閣下、ウィクリー・ジャパンの工藤編集長が来られています」最近は防衛駐在官の副官(=秘書)のような扱いになっている在外公館警備官の1尉は顔なじみの工藤を気軽に案内した。廊下で待っている工藤も通りがかる外務省の役人たちに愛想よく会釈している。
「失礼します」しかし、警備官が開けているドアに入って頭を下げると上げた顔は一変していた。それを見て井上将補は来訪の用件の重大性、深刻さを察して表情を引き締めた。
「できれば音楽をお願いします」工藤は盗聴を妨害するための音楽を流すことを要求した。これも異例なことだ。井上将補は立ち上がるとソファー・セットの手前のサイドボードへ行き、CDプレイヤーのスイッチを押し、グスターヴ・ホルストの組曲「惑星」が流れ始めた。
「村田達郎2佐が死亡しました」「事故か」「いいえ、殺害されたようです」工藤が本名と官職を使ったことで井上将補は倉田の任務が終了したことを理解した。組曲「惑星」の1曲目は「火星・戦争をもたらす者」で、その「ダダダ・ダンダン・ダダダ・ダン」と言う5拍子の連続が村田2佐の死を感性で訴えてくる。当然のことながら井上将補は倉田をMI6の要請でチベットに派遣することの報告を受けているが、その調査対象であるBCCは今朝もチベットでの暴動の様子を独占報道しており、その内容は新華社通信のような中国共産党の宣伝媒体になっていた。これだけあからさまな報道規制を強いている以上、現地ではアメリカなど他のマスコミの取材を排除し、住民には苛烈な弾圧が繰り広げられているであろうことは想像に難くなかった。
「村田2佐が最後に送ってきた動画がインターネットに掲載されています」「ウチ宛てに送ってきたのか」「いいえ、今のところ投稿者は不明ですが、杉本に調査を命じています」井上将補は人間コンピューターにしては珍しく状況判断を誤っている。「インターネットに投稿されている」との報告で第3者の手に渡ったことを察知するべきであり、仮に工藤たちの事務所に送られていれば組織保全のために一般公開することはできず別の方法を講じたであろう。
工藤はブレザーの胸ポケットから金属製の名刺入れを取り出すと防護=自動破壊機能を解除してから小型ディスクを渡し、その間に井上将補は愛用のパソコンを作動させた。
「これは倉庫のようだな」「背の高い棚が並んでいるところを見ると書庫でしょう」井上将補は自分の席でパソコンを見ているが工藤は何度も繰り返し見ている動画なので場面は想像がつく。
「この狭い書庫にこれだけの人数を押し込まれてガスを噴射されれば忽ち窒息するな」「噴射音を分析したところ重迫撃砲弾型のガス弾が4個のようです」「重迫型と言えば天安門で使用したタイプだろう。あれはガスの量が半端じゃあないから事実上のガス室だぞ」井上将補は今まで見せたことがない怒りの赤い閃光を目に走らせた。
「それにしても村田2佐の姿や声は入っていないが、何を根拠に本人の物だと判断したのか」「最初の部分に低く呻き声が入っていまして、それで判明しました」「やはり運命共同体の戦友には理屈を超えた直感が働くのかも知れないな」井上将補の口からこのような神懸かった言葉を聞くとは思っていなかった。やはり人間コンピューターであってコンピューター人間ではないようだ。
「村田2佐のパスポートと身分証明書は日系アメリカ人の山岳写真家であるテツロー・クラタ、倉田哲郎なんだね」「はい、携帯電話の登録も同様の名義になっています」「それではチベットで死んだのは日系アメリカ人の倉田哲郎と言うことで万全を期す。ただし、中国側の動きの直前を遮る形で手を打ち、決して先走らないことだ」この動画の状況から見て倉田はチベットの僧院に潜入していて僧侶たちの大量殺害に巻き込まれたようだ。であるならばパスポートや身分証明書は持ち込んでいないと見るのが常識である。携帯電話を発見されても本体の登録番号からアメリカで所有者を特定することはかなり困難な作業になるだろう。
工藤の報告が終わると井上将補は再び動画をさせた。いつもはこのような時間の浪費はしないはずだ。
「村田2佐が形見を託した相手を中国よりも早く発見して保護しなければならないな」思いがけない言葉に驚いている工藤の前で井上将補はパソコンの画面に向かって手を合わせ深く頭を下げた。
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  1. 2017/10/11(水) 09:51:31|
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