古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月15日・ナチス・ドイツのゲーリング国家元帥が服毒自死した。

1946年の明日10月15日にナチス・ドイツのナンバー2であったヘルマン・ヴェルヘルム・ゲーリング国家元帥(ドイツ軍としての最高位)が刑務所内の独房で服毒自死しました。
ゲーリング国家元帥は1893年に外交官の息子として生まれ、7歳の時からは母親の愛人であった大地主の居城で生活するようになり、上流階級の富豪としての日常の中で育ちました。12歳で幼年士官学校に入校しますが、これはわがまま放題に育った息子の性格を矯正するため父親が決めたのだと言われています。ゲーリングくんも素直で真摯な理想的な軍人になって21歳で歩兵連隊に配属されました。その年に第1次世界大戦が勃発すると陸軍少尉として部隊を指揮しますが健康を害して後送されると創設されたばかりの陸軍航空隊に転換して観測員として飛行機(まだ航空機と呼べるレベルではなかった)に搭乗することになりました。そうして1年の経験を積んだ上で戦闘機の操縦員として空中戦に加わるとエース・パイロットとして知られるようになり、勲功章を授与されます。さらにドイツ空軍最強のレッド・バロン=リヒトホーフェン大隊の指揮官になり、エース・パイロットたちを率いて多くの軍功をあげましたがドイツの敗戦で終わりました。
戦後は右翼団体に参加したものの共産主義がドイツ社会に蔓延したことで北欧に逃れて曲技パイロットとして人気を博しました。28歳で帰国するとミュンヘン大学に入学したのですが、翌年にヒトラーの演説を聞いて魅了されてしまい、即座にナチスに入党すると英雄として知名度から重宝がられ、突撃隊の指揮官に任じられたのです。この時の出会いについてヒトラー総統は「素晴らしい!勲功章を受章した戦場の英雄だ。これ以上の宣伝材料はない。おまけに彼は金持ちで私は金の心配をしないで済むようになるんだ」と語っています。しかし、翌年に起こしたミュンヘン蜂起で銃弾を腰に受けてオーストリアに逃亡しますが、その摘出施術の時に注射されたモルヒネで中毒症状を起こしてしまい、これが後年の過食と肥満につながることになりました。34歳の時に政治犯の釈放が決まるとようやく帰国して、翌年の選挙で当選したため国会議員として政治の表舞台に立ち、後はナチス党=ヒトラー総統の躍進に歩調を合わせて最高権力者の最側近としての地位に登りつめたのです。
第2次世界大戦前夜にはベルサイユ条約で禁止されていた空軍の再建に着手し、航続距離は短いが爆撃精度に優れる急降下爆撃機や中型爆撃機を中心とする開発と製造を推進したため地続きのポーランドやフランスへの侵攻では陸軍の援護として実力を発揮したものの英国へのバトル・オブ・ブリテンでは航続距離や爆弾搭載量の能力不足を露呈することになりました。
戦争末期、自死を決意したヒトラー総統が「ゲーリング国家元帥を後継者に指名した」との情報を聞くと先走って「国家権力を自分に譲るのか」と言う確認の電報を打ったため、これをボルマン官房長官が「ゲーリングが反逆を起こした」と讒言したことで解任されてしまったのです。
結局、デーニッツ海軍元帥が大統領になって降服に関する手続きが開始されますが、ゲーリング国家元帥は単独でアイゼンハワー元帥と面談しようと自分からアメリカ軍を探しに出て避難民の渋滞に巻き込まれているところを拘束され、ニュルンベルク裁判で死刑の判決を受けました。
ゲーリング国家元帥は死刑が確定してからは「軍人としての銃殺刑」を要請していましたが却下されており、執行の前日であるこの日に妻と最期の面会をした際、「連合軍は私を吊るすことはできない」と予告しており、就寝後に奥歯に仕込んだ青酸カリのアンプルを噛み砕いての自死でした。
ゲーリング国家元帥は単純で猪突猛進な空軍パイロットとしてのレベルを超えられなかったようで、惚れたヒトラー総統一筋にあくまでも忠誠を尽した結果の大罪と死だったようです。
スポンサーサイト
  1. 2017/10/14(土) 08:55:47|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ977 | ホーム | 振り向けばイエスタディ976>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4203-3f744a64
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)